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あさかぜさんは見た

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05/10

Mon

2010

出版と言論と正しきと

ツイッターでの非公式アカウントであるけれど、集英社インターナショナルの「中の人」が面白いことを言っていたので、部外者だけれどつい参加してしまいました。
「職権」って言葉を書いていたから「中の人=部長」って勝手に名づけてしまいますが、流してしまうのももったいないので、勝手ながら個人的にこのブログでまとめさせてもらいます。
とぅぎゃざーっていうタイムラインをまとめるツールもあるのですが、少々解説が必要なので、こちらにします。

部長さん=青

私=緑

その他の人=紫

と色分けしていきます。
@マークは他者の返信に使っているタイムライン。

その事件は5月8日あたりから起こった。
なんて書くと大げさだけれど、8日が書店・出版社事情が出てくるタイムライン返信が多くなってくる。

「刷り部数や大坂屋(アマゾン取次)への納本部数はシビアな」か。大手さんのシビアさはどの程度なんだろ

@基本的に今はどこも同じでしょう。わがまま言って搬入部数を増やしても、返品率が上がれば自分のクビをしめるわけですから。

@結局、返品増は取次さん、書店さんに迷惑をかけることですから、今のご時世、版元の都合など通用しませぬ。

@ちなみに小生は超零細版元にもおりましたし、中堅版元の経験もありますので、「今は大手も中小も同じ」論は実感的なものです。

たとえば弊社は関連会社ですが、10年ほど前までは「どうしてもこれはお願いします」といえば、販売さんの提示する初刷部数にある程度の積み増しができました。「かりに失敗しても、それは私たちの責任ということですので」という話で了解を得られましたが、今はそういう理屈は通用しません。


なるほど。増刷については、体力・ノウハウのある大手さんの攻勢の仕方は違うなぁと思っていたのですが、よくよく考えると、これも中小でも戦略の立て方次第ですね

@書店さんにとっては売り場スペースは一定なのに、出版点数だけがむやみに増えていますから、版元など関係なく、「今、売れる本を」ということを優先にする傾向は以前よりもいっそう強いのではないでしょうか。

@そうですね。読者からしてみれば、出版社名よりも内容が重要ですしね

@これは私の持論なんですが、他社は景気がよくって、商売が上手に見えるものなのです(笑) 書籍についていえば、一点一点にかけられる予算などはそう変わるものではないのですから(取引条件に差はあれど)、やはり情熱とアイデアだと思います。

@情熱とアイデア! 激しく同意ですw 物事がうまくいかない時には隣の芝生がものすごく青く見えてしまいますw 心意気(?)で仕事を引き受けてくれる人も少なくはないので、大手・中小で物事を捉えるのは、編集者としては思考停止ですね

@実際のところ、編集について言えば考え方とか仕事の進め方はそんなに変わるものではないですしね。著者との関係も会社の看板ではなく、担当者の情熱ですから。それに大きな組織のほうがどうしても書類仕事は増えますから・・・^^; 小回りの利くのがいいです。

@確かに。看板があれば多少有利な面もありますが、結局は「人」によるところが大きいですね。どんな仕事でもそうだとは思いますが。大手だと分業になる点が、中小だと少人数でこなさくてはならないこともあるので、そこが「小回りの利く」という利点だと思っています

@編集者は会社という母屋を借りている、個人事業主かなと思いながら仕事をしているのですが、それを忘れてジェラシーを感じてしまうことがよくありますw すみません


@いえいえ、おたがいに頑張って参りましょう。っていうか、私はそろそろ隠居したい! 楽をさせてくれ! 出版界は諸君らに任せて、小生だけトンズラしたいところだがそれもままならぬ^^;

@Amazonの帳合は、二に移ってますよー。注文品のみが阪ですね。中堅版元にいた経験上、規模が大きい程、送品と返品のアンバランスに苦労してますね

@長年の販売&制作経験がお役に立てば。分かりづらい帳合やら正味や歩戻しetc 他の業界ではあり得ない商慣習満載(笑)


@ただでさえ取引条件とかが初刷と注文品で違うとかややこしいうえに、このごろは書店さんによっても取引条件が違ったりするそうで、ますます複雑怪奇みたいですね~

@最近は責任販売なんてキーワードがiPad並にもてはやされてますからねー。でも、取引条件が違うのは昔からあって、最近、やっとFOCUSされた感じですね。

@昔は「本音」と「建前」の使い分けがしっかりあったけれど、今はそんなきれい事言っていられない!という感じなのでしょうか?^^;

@そうですねー。それどころじゃない!って云うのが現実です。でも、これだけ小売りにパワーがない業種も珍しい

まあ、結局、半世紀以上も同じ枠組み(委託再販制)を続けたことが、業界全体の活力を失わせましたね。それは間違いないことです。

さっきの再販制の話で補足すれば、それでも半世紀、出版業界が続いてきたのは出版社が許認可事業ではなく、また初期投資も必要ないので(業界秩序の中での、という制限つきながら)自由な参入ができたからであろう。しかし、そうしたメリットよりも今は積もり積もったデメリットのほうが大きくなった。

まあ、そういうわけで書籍出版に関して言えば、大手も中小も零細も基本的にはそんなに変わらないと思います。なのに、出版論議では大手ばかりが悪役というのも・・・その大手と呼ばれる会社の周辺にいる者としては、ちょっと疑問に思いますよ。スケープゴートという言葉も思い浮かびます。

再販制に関して言えば、私などは15年くらい前から「こりゃあ、いつまでも続くわけはないよな。明日にでもなくなってしまっても不思議ではない」と思っていたものです。しかし、それが15年も曲がりなりにも維持されているのは、正直びっくりもします。

私にかぎらず、それは出版界にいる人間ならば誰でも感じることではないでしょうか。

実際、すでに再販制はメリットよりもデメリットが見過ごせないほど大きくなっていて、そうそう長く維持できるものではないという認識は、書店、取次、出版社、すべてが共有しているものだと思います。

すでにCDへのメディア移行にともなって、再販商品であったレコードは事実上、定価販売ではなくなってしまいました。これもまた、時代の趨勢と言うべきでしょう。

では、いったいなぜ、いまだに再販価格制度が維持されているのでしょうか。その答えは簡単です。出版界ではない、別の業界が、猛烈なキャンペーンを繰り広げて、この制度を維持すべく努力を続けてきたからです。


@再販が無くなったら日記、手帳、六法など賞味期限がはっきりしてる商品を十分な数仕入れてくれる書店がありますか?

@賞味期限がはっきりしている生鮮食品だって、扱ってくれる店はあります。

ですから、これは出版業界内部での大手vs中小といった、小さな構図で語るのは問題の所在を曖昧にしてしまうことになると思います。

@生鮮食品も最後は豚のえさになるわけですから、本も──言いたくはないですが──リサイクルに回せばいいだけではないですか。また売れ残りのロスが多いのならば、受発注や流通のシステムを改善することを考えるべきです。


@あ、すいません再販無くなったら半額シールもありなのか。う~ん。

@欧米の書店ではそうですよね。まあ、今でも再販対象ではない本はそうやって投げ売りされていますが。

@ぜひともヨーロッパやアメリカの書籍流通の実態を研究なさることをお薦めします。ハードカバーとペーパーバックでは流通チャンネルが違うことなど、いろいろ勉強になります。

というわけで、「大手出版社が悪い!一ツ橋だ!音羽だ!」とおっしゃるのも自由ですが、どうせならばぜひ大手町とか築地方面にも目を向けて、視野の広い議論を要望しますよ。 

私自身の個人的かつ無責任な感想をいえば、出版社はどこも「再販制はもういつ終わってもおかしくないよね」という覚悟を──少なくとも上の人たち、心ある人たちは──思っていると思います。しかし、それを言い出さないのはなぜかというと、それは大手町や築地あたりの人たちが血相を変えるからです。

私などは無責任に「さっさと手切れをすればいいのに」と思うのですが、長年のおつきあいもあるし、何より「あちらさま」は言論機関だから、というのもあるのかもしれません。大人の事情、なんですかねぇ。


※大手町は読売新聞本社。築地は朝日新聞本社。

@そもそも年度版みたいに「情報の鮮度が命」のものこそ、電子出版に移行したほうがいいんじゃないですかね。そのほうが在庫リスクは減らせるわけですから、いいチャンスだと思いますよ。

※ずっとタイムラインをリアルタイムで追っていて「ふむふむ」と思いながら見ていた。

確かに「生もの」と、時間の流れに耐えうる「残すべき本」は分けたほうがいい。「生もの」に近い情報ほど電子化するべきなのでは。「生もの」が大量に本屋に流れてきたおかげで何も知らない人は判断能力を失い、知っている人は「鮮度が落ちた本」の腐臭に嘆きだした。市場原理とは別のシステムが必要。

※何も知らない人って本屋に行くと、どこからとっかかっていいかわからない。だからミーハーになっていくし、昔からきちんと本を読んでいた人って、一過性の流行でどんどん類似品が大量に流れては消えていく質の薄い本の内容に呆れていたという実態がある。アマゾンレビュー見ればわかるものね。

みなさん新聞をこの頃読まないからあまり実感はないでしょうが、新聞社は恒例のようにすごく広い記事スペースをとって「再販価格維持キャンペーン」を行なっています。定価販売がなくなれば文化が滅びるというのは新聞社さんのお考えのようです。出版社はそこまで大げさには考えていません。

でも私の個人的感想を書けば、定価販売がなくて滅びるのは文化ではなくて新聞社ではないかとも思いますね。

Twitterには新聞社のアカウントもたくさんあることでしょうから、ぜひともいい機会なのでどんどん議論に参加してくださると日本のためになると思います。


※いわゆる「再販制度」といわれるもの。
詳しくはWikipedia「再販売価格維持」へ。
新聞や本が値崩れ起こさないのは、このため。
でも実際本が書店で値崩れ起こしたらブックオフ滅びるけどね。
この話は新聞関係者ではほとんどタブー。まず論じたところでどうにもならない体質があるのは確か。でもツイッターという新聞以上のメディアツールとなりうるシステムができてしまうと、紙媒体での新聞が滅びるのは時間の問題かとも思うけれど、問題は恐らくY新聞社のナベさんが老衰死したとしても「再販制度」は何者かが強固に残そうとするのではないかという個人的な懸念がある。その理由は後で。

※ついでに新聞社や出版社の強固な事情なんて最近ようやく知ってきていた程度だから他の人がどのように言うのか見る程度の気持ちだった。で、会話の流れを追っていたら、大手は余裕があって、情報量も金もあるから~みたいなツイートを見つけたので、独り言。

確かに企画とか展開するときに金がとか体力がとか言うことから論じるのは知恵のない証拠なんだよね。そういう人間って節約しようとしないから金がルーズに流れていく。問題はそこにはなくて、がっちりと固められた体制に新興組織が入り込もうとすると邪魔が入るのが一番健全ではない証拠なんだよね。

※そのタイムラインはこちらに掲載しないけれどでかければいいってものじゃない。小さいなら小さいなりのやり方があって、大きなところではできない小回りの利くメリットや、ゲリラ戦が展開できる。ほとんど実験場。人は自分で集める。頭は自分で鍛える。それができなきゃ初めから大きなところに就職すればいいんだもの。体質に苦痛を感じるなら出るべきだしね。

文芸にかぎらず書籍の人たちは「俺たちの仕事は単年度決算じゃ分からないんだよ!100年単位で見てくれたら黒字になるんだよ」というぐあいに思っているのですね(虚勢とも言う)。でも、実際、単年度で考えるんだったら、出版なんてリスキーな仕事はしないほうがいいですよ。

まあでも、やはり稼ぎ頭の人のほうが元気があるのは事実でしょうね^^;

集英社なんかですと、やはり少年ジャンプの編集部にたま~に行くことがあると、もうなんかすごい熱気ですよね。ことに若手の人たちからは「俺が社員全員の給料を稼いでるんだよ!」的なオーラを感じますね。これは皮肉でも、ひがみでもなく、素直に。

「バクマン。」はもう読むたびに「ひょえ~!!」「こういうことだったのか!」とか、リアルに感動し、びっくりしますし、等身大に書かれていると思います。こういう世界が、自分の職場の目と鼻の先に実在するのが信じられないほどでもあるのですが。

若い人でも、みんな一国一城の主って顔をしていますね。やはり、そこにはプレッシャーと恍惚が両方ともにあると思います。

そういう意味では戦国大名のようでもあるし、ヤクザの若頭のようでもある。「修羅場を踏んできてるな」、「お主、やるな」という感じですね(笑)

いや~、全員が全員、熱血だとこれも困りますよ。どっかに「はぐれ雲」みたいな人がいてくれないと・・・組織も、自動車のハンドルと同じで、ある程度の「遊び」がないといけないと思います。


@冷静のなかに情熱はもっていたいと思います。

まあ、ちょっと斜めから言えば、「バクマン。」の作者の人たちは、ああいう形でジャンプ編集部の若手を煽っているのかもですね(笑)。でも、そういう関係がまた素敵だなぁと思います。

「バクマン。」は「これだけ真剣に若手の漫画家は仕事をしてるんだぞ。分かってるのか?」という、果たし状のような意味もあると思いますね。

もう広告収入を当て込んで雑誌を作る時代は終わったようにも思います。やはり読者がいなくては、という当然のことに回帰していますね。


※と、ここで「読者」と出たので思わず反応してしまった。

@本を売り出したら不特定多数の人間に売るわけだから私たちって「読者」という表現を泣く泣く使いますけど、本当は「読者」なんて他人行儀に言えるほどの存在じゃないんですよね。数値化したらそりゃ理論化できますが泣いている人もいれば笑う人もいる。忘れちゃいけない。

@私は先輩から同じことを教わりました。抽象的な「読者」なんかを考えていたら頭がおかしくなる。自分の恋人、友人、家族が喜んで読んでくれるものは何かを考えろ。自分の実感で分かる範囲内でいいから、そこで企画を考えろ。

@私はその先輩の境地にもいまだ達していないので、編集するときには「ああ、こういう本があったら、俺は興奮して読むだろう。仕事を投げ出しても読みたくなるだろう」ということだけにすがって生きています。


※ここで「すがって生きています」という表現が妙に引っかかって、放っておけなくなってしまった。140文字なので伝えたいことも制限されるけれど、少し返信してみようという直感的なものが働く。「すがって生きています」の底に何があるのか。今までの流れを無視してやりだしてしまう。

@私は「五感」だと思ってます。例えるなら色々なものを食べ「これはおいしい!」と思い自分で料理して再現してみるような感覚を鍛え上げるのと似ていると考えています。どうしたらまずくなるか、おいしくなるか。慣れるとアレンジもきく。食材・人との対話。

※私たちは現代社会の中で自然的な生活から逆行した身体反応をして生きている。本来なら五感から脳へと情報が蓄積されるはずが、身体的な情報を手に入れる前に、あらゆるメディアから「現象」だけを学んで、身体的な情報に置き換えようとしている。これは原始的な生活が身体から脳へと情報がいくとすると、現代人は脳から身体へと情報を置き換えようとしている。しかも五感情報が欠落しているので当然「想像の範囲」でしかない。その五感情報を元に他者の感覚へと置き換えようとするが、それも正確にはなしえない。「あなたと私は違うから」という当然の原理が働く。それならもっと多くの人が感じているようなものを理解するには?とにかく「知ろうとする」しか手段が残されなくなる。このことが「五感」だけでは伝わらないとは思っていたけれど、ちょっと根気強く伝えようとなぜか思った。

@最終的に自分の舌を信じるということですね。それは正しい方法論だと思います。

@つまり世間に転がっているリクツではなく、自分の中にある尺度だけを頼りにするということですから。


※ここで、妙な「違和感」を感じる。「この人、本音を話したがっているけど、本音を出してないな」と。

@作者は常に傷つかないといけない。まずいものをすすんで食べる。人に食べさせ「あんたは料理の才能がない」と罵倒されても次を作る。舌だけ肥えたらただの「批評家」になってしまう。「再現してみる」ことでしか自分の立場を主張できないと思います。

※比喩なので伝わりにくいところもあるだろうが、人によって味覚が違う。嫌いなものだってあるし好きなものも隔たるかもしれない。たとえばその味の組み合わせを多く知り、再現する能力を持つことによって、限りなく相手の「好きな味」に近づくこともできる。何をしたら「まずい料理」「おいしい料理」になるのか。それは食べているだけではわからない。カレーのルーがなくて、自分で最初から作って「誰もがおいしいと思うカレーの味」に近づけるには試行錯誤が必要だし、自分でまずいものも口にしないといけない。「ああ、この組み合わせはまずいな」と。

※部長さんが横尾忠則さんのツイートをリツイートする。芸術のことに関してだ。「感性」のことを言っている。つまりは「感性」に「知識」「教養」は関係ない、ということ。まあ、「身体的知識」つまりは「五感」の蓄積された情報が必要になるけれど。身体から脳への情報の蓄積だ。脳から身体への情報変換は邪魔になるだけだ。

@結局、大事なのは我欲であり、私欲であり、情念なのです。世のため、人のためにモノを作っているのではない。自分が作りたいから作っているだけである。そこのところだけはゆるがせにしないでやればいいと思います。変な公徳心は要りません。

※まだ「違和感」が残る。「建前」とも言えない、妙に部長さんが持っている「理想」と「現実」とは離れたような言葉だと感じる。

@少し違うものを感じている気がします。ある意味「執念」みたいなものがないと出版作業を維持するのは難しい。夢と現実が入り混じり言語表現難しいですが、その両者を近づけるのが「恋人への情熱・口説き」みたいな、「人への対話・好奇心」だと思うのです。

※理想と現実は常に乖離している。だから人は常に「ダブルスタンダード」を持つ。きっと部長さんも持っているだろうから、この「矛盾」を解決するにはどうすればよいのか、という基本的なことを訴えている。当然、わかりきったことだと思う。

@でも、まああなたと結婚したから幸せになれるとは限りませんよね。相手は迷惑かもしれない(笑) そういう迷惑を知りつつも口説かざるを得ないとしたら、それはやはり私欲であると私は思います。

@まさにそれです。夫婦生活は「私欲」だけじゃやっていけない。関係を維持して互いが何を考えているか常にコミュニケーションしないと、だいたい破綻していってしまう。恋人関係を維持するのも一緒です。口説いて落としたらおしまいなんて男のエゴでしょう。

※私は「経過に満ち溢れたもの」のほうを大事にするので、その「経過」で互いの「思い出」になるようなものが残せたら、きっと将来思い出して元気になれると思うけど、ここでの議論はそれではなくて、もっと部長さんが考えている「本音」のところに興味があった。だって、最初は迷惑でも幸せな結婚をしましたなんて例はあるのだもの。部長さんの言葉に乗ったらこれ以降は完全な「言葉遊び」になった。

@あ、断わっておきますが、「そのときの私は相手を幸せにできると思ったんだ」というリクツでは正当化できませんよ(笑) やはり相手のことを真剣に思うのならば、自分のごとき不完全な人間が相手の人生に介入しないほうがいいというのが誠実さだと思うからです。

@でも、そんな誠実さなんか「糞食らえ」ですけどね!


※ちょっとずつ「本音」が出てくる。

@そうでしょうね。それを言ってしまったら今までのタイムラインが覆っちゃいますからね。矛盾を抱えながらどうしようもなくもがき苦しんでいるのが、どことなく伝わってきます。

※例えば「自分は非力だからこの仕事に従事する資格なんてないんだ」なんて言い出したら、世の中のすべてのことって成り立たなくなる。だって誰だって「不完全」なところから始まり「完成を目指しつつも不完全で終わる」のが人間なんだもの。だからこそ逆に人間って協力していこうね、努力しないとね、なんて意識や知恵が生まれたりする。

@結婚すると、子どもを産むかどうかという現実に直面します。これこそまさに親のエゴ。赤ん坊は、こんな世の中に生まれたいなんて頼んでいませんよ。そういうことです。きれい事ではないです。私利私欲です。生きていることは誰かに迷惑をかけることです。

※ここらへんから部長さんのタイムラインがちょっとうまく流れてこなくなる。

@その話を展開してもよいのでしょうか?(笑)「生」本来の宿命たる「業」はあります。生きることは罪です。生きていくこともそうでしょう。だから人間って「アイロニーの力」ってやつを原動力にするところがある。罪だから、生きていってやるって。

@私たちの「対話の原点」も、本来たるその「人間の苦しみ」みたいなところに根ざしているところがある。その上で表現しなければいけない、伝えなければいけないという気持ちも生まれたりする。出版もまたその根から派生しているように思いますよ。


※例えば宗教があって人間は罪を重ねていると言う。だったら直線的なことを言えば宗教って人間に「死ね」って言えばいいわけだよね。でも人間はそうしないのがわかっている。だから逆に「生きていることの利点」をうまく使って「この世界で罪を浄化する」なの「よい行いをすれば天国に」などと言う。相手が辛そうにしているから「一緒に苦しみましょう」ではなく「私ががんばらないと」という気持ちが生まれたりする。人間が害悪なら滅びればいい。生きることはすでに「わかっているけどやめられない」っていう皮肉に満ち溢れている。生きていくことも「心がいうこと利かなかった」みたいなことが多々起こる。そういうことって自分の中で思っている限りは誰も理解しない。だから私たちってあらゆる手段を使って表現をしようと試みる。ゆえに苦しむこともある。これもまた矛盾だ。こういう一連のことがアイロニーだよね。でもやらなきゃいけないんだ、という気持ち。その気持ちは「情熱」に比例する。

@まあ、それでも「きれいごと」を追求したいというのであれば、止めません。それもまたあなたのエゴがもたらす覚悟ですからね。そこに大いなる矛盾があります。結婚したらコミュニケーションをして恋愛関係を維持しなければ「いけない」なんてルールはない。

@人間に原罪があるのだったら、精進なんて意味がない。どうせ煩悩からは離れられないのだか、享楽的に生きていたほうが効率的で、ストイックに生きるのは無駄な努力です。それでも「正しい生き方」を目指したい? それはあなたの「勝手」ですから止めません。

@こういう議論は哲学史や神学論を少しでもかじっていたら、いくらでもできます。あなたは作家ですから、自前の頭で考えたいのでしょうが、しかし、悪くいえば古くからよくある話です。


※ここらへん、完全な「フェイク」だと思った。「本音」から話をそらすために言葉遊びを仕掛けようとしている、と。一見道理を説いているようなのだけど、この言葉は人間本来の感覚からそれている。だってね、例えば恋愛関係を維持しなければいけないルールはないけれど、両者の関係が壊れたら「心に痛み」を伴うでしょ。享楽的に生きようとしても無神経ではいられない良心を健全であれば持ち合わせているし、無神経になることによって自分が犠牲にしなきゃいけないことも出てくる。ストイックに生きるのは無駄な努力だとわかっていても、私たちって「誰かを守りたい」と思い始めた瞬間から自分の今までの生き方を省みようとすることがある。これが五感情報を正しく持ち合わせている人間の心の正常な動きだと考えている。しかし、こういうことさえも「綺麗事」になってしまうのは、それを「阻害する何か」があるからだよね。

@よくある話ですが、もっと身近な感覚として友達とか家族とか恋人とかに対して「あなたのことが大事」って伝えるために私たちって悩んでて、自分の環境と相反するとき矛盾として生まれてくる。その対立を繋ぎ合わせるための「対話・情念」を言いたかった。

※理想とすべきことはあるし、そんなことはわかりきっていることだろうと思う。でも「環境」や「立場」が理想と相反するとき、ここで初めて「ダブルスタンダード」が出てくる。例えば自分の理想とする行いをしなければいけないのに、それを行えば仕事を失い家族が犠牲になるという環境や立場があったとしたらどうするか。自分の孤独・生活・環境の維持を考えるかもしれない。組織の中にいるときは組織に従い理想を殺し、組織の外にいるときは他者に理想を説く。そういう状態に陥ることは誰でも社会人なら経験していることと思う。私の言っていることが限りなく「綺麗事」なのは重々承知していた。

@うん、それはよく分かるんです。だからあなたが間違っているとは言いません。私だって「誰かとつながっている」という実感を欲しています。

@でも、みんながあなたのようにストイックになれるわけではないし、なろうとして挫折した人も(私も含めて)たくさんいるんです。あるいは絶望感、孤独感を心の底から感じている人もいます。

@そのような孤独な、絶望的な経験をした人に対して、何を言うのか。何が言えるのか。何も言わないほうがいいのか。それをこれからあなたに考えていただきたいなぁと思います。


※ついに「本音」が出た。健全な考え方をしていて、正しいことを行おうとした時に立ちはだかる「環境」や「立場」っていうものを、このツイートに見事に凝縮している。しかも部長さんは気がついているのかわからないけれど、まさにこれこそ「健全な考え方を持った新聞関係者の本音」でもあるんじゃないかな?見事に自分でそれを代弁してしまった。最初から続いていた一連のツイートの着地点がここにあったわけです。正直ちょっと前あたりから目頭がうるうるしてたまらなかった。自分ではちょっと慮るには余りある苦悩と矛盾を背負ってもがいているのだろうなということは見え隠れしだしていたけれど、この苦悩を少しだけ知るとともに「思った以上に強固な体制がある」のだということはハッキリとわかった。

@それは最初から答えは決まっている。私は伝える。言う。反応を見る。だから作者は罵倒されようと傷つこうとその作業を続けるのです。そして傷を背負って文章を書く。だから「血で書く」と書いたのです。それが小説家の覚悟なんです。

※作家というのは、ある意味冷酷非道なところがある。相手が傷つくのがわかっていてあえて真実を暴く。「カポーティ」という映画があったのだけれど、あれを見た時に「作家の宿命」というものを見た。書く、残す、そのためにあえて真実を追究する。まともな神経だったら、相手の苦悩や苦しみや、時には憎しみを受けて正常ではいられなくなる。でもやらなきゃいけない。でもなぜやらなきゃいけないのか。自分でもわからないものに突き動かされる。直感的にそれを残しておかなければいけないと思う。ある意味それが「正しいことだ」と思っていなければ、まともな神経でいられない。しかし本当に正しいことなのかという葛藤も作り終わってからも付きまとう。人間に答えが確実に用意されていたら苦悩も存在しない。その「行動することで生まれる苦悩」さえも、また新しい行為によって補おうとする。他人の傷を知るにはひどく残酷な作業を伴う。わからないからといって何もしないわけにはいかない。「まずいこと」をしながら、「うまいもの」を見つけていく。その繰り返しで流れていく血で、文章というものは出来上がる。その行為が「環境」や「立場」に制御されずにできたとしたら、徐々に正しい形に近づくことができるかもしれない。しかし現実は強固な体制の中にあって、人は体制の中の組織の一員として働き、そしてさらに組織の体制の中でもがき苦しむ。よって個々人が「正しき」に向かって練磨することなく、巨大な体制に飲まれ、組み込まれていく。そこでは「綺麗事」は「ただの苦痛」でしかない。

@たとえば、目の前で恋人や家族を憎悪によって殺された人。そういう人の気持ちは私たちには永遠に分からないでしょう。でも、「分からないから何も書かない」のは誠実なこととは言えないと思います。

※身を張って行動するという覚悟がないと、その憎しみを背負うような覚悟がないと、人の本当の気持ちなんて知りようがない。何もしないでいればそのうち流されていく。忘れ去り、誰も気にしなくなる。「悪意」だと感じたこともそのうち消えてなくなる。むしろそれでいいのだと思うことすらある。そうやって自分の中の「正しき」は消えていく。この部長さんのツイートは「良心への警鐘」でもある。






さて、めぐりめぐってきたようだけど「新聞社」に話を戻す。
「再販制度」というものが妙に引っかかる。
ここから話すことはただの推測に過ぎない。狂人の妄想に付き合う気がなければ読むのはやめて欲しい。
価格の自由化が行われれば一体何が起こるかということについて考えていた。価格の上下が出ることによって人々の中に心理的な新聞社への偏見が生まれる。あっちが上だ、こっちが下だ。そのような偏見が生まれると、新聞社の主張も軽く扱われたりする場合が出てくる。賢い人は今でこそ新聞を読まなくなってきているけれど、まだまだメディアの力は大きい。
これ、ちょっと妙な理屈に聞こえるだろうけど、私が未知行く人から10円もらってその価値があるというのと全世界から10億の価値があると認められているということを一緒に出したらわかってもらえると思う。
今は価値観が崩れたとしても今まではなんとか保ってきたわけだ。
そこで「なぜ、言論の重みを対極に位置させその価値を同じにしバランスを量る必要性があるのか」という疑問が生まれる。
ずっと小説のネタとして考えていたことがあって、いつか書けたら書こうと思っていたのだけど、仕組みは以下のとおり。

Aが犯罪を犯す。
取材する記者はAを追っていくうちにBが関与していて、どうやらそのBが真犯人っぽく、だんだん証拠が固まりBに行き着く。
しかしBがAを自発的に動かすように間接的にシナリオを組んでいたCなる存在がいて、本当の真相にはたどり着けないままで終わる。

という構想。

ここ数ヶ月ツイッターの政治関係の発言をしている人たちを追っていて妙な感覚を持っている。「浅い」という感覚だ。誰も真相には近づいていない。まるで「反新聞」を唱えていて、逆説として新聞の論調に流されている。起こることもすべて直接事件を起こした人間からではなく、あくまで体験した人の炙り出しに過ぎない。当然国家機密には誰も触れられないし、闇の動きがどうなっているかなんて、いかなるジャーナリストのツイートからも見えてこない。

もし二極に特化させることによって、国民に自由に選ばせ、対立構造を作り、あたかも民主主義の気分を味わえるその設定こそを「劇場」と見立てたとしたら、我々が失うものは「ナショナリズム」ではないだろうか。新聞はただの「エンターテイメント」を伝えるための道具でしかない。
つまりいつまでも左右に振られるだけで「真ん中」がない。「空洞化」が起こり「ナショナリズム」は崩壊する。形骸化されたものだけが虚しく残っていく。
そして、我々は21世紀を迎えた。
もし「形骸化」をもくろむ人間の存在があったとしたら、計画は見事に効果を発揮している。

万が一にも左右の言論を代表する新聞社の資本を享受している人間・組織がいたとしたら…?
それが本当の黒幕になる。
そして万が一それがいたとして、金の流れを掴んだとしたら、私は「消される」だろうね…
そこに「再販制度」を維持させることによってピンハネのようなことをしている存在がいるのではないか。
だとしたら現在の大手新聞社の支配者が交代したとしても「再販制度」は維持されるのではないか…?

なんて、小説家らしい誇大妄想を展開してみた。
酒でも飲んで寝ようか。
長々と読んでくれてありがとうございました。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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