私も批判癖がございまして、結構中途半端なものはケッチョンケッチョンにし、自分のものでさえ反吐が出そうなことが多々あります。私の作品の場合ほぼ全てなんですがね。
何度もやめようかなと思った時期がありましたが、ここまで来るともうやめるも何もない、というね。
この話はだいぶ前に書いた記憶がありますが、もはや「古女房と別れる気持ち」と表現しております。
創作から離れてしまうと、人間として生きていく価値を完全に見失うと思いますよ。
さて、今まで、といっても今回の今までというのは、10年ほど様々な試みをしようとやってまいりましたが、ほとんど誰からも相手にされない、なおかつ大抵は酷い評価を受けながらここまでやってまいりました。
自分では才能があると思っていたし、沢山書きたいものもあるし、と私の話は置いといて、表現や創作における続ける秘訣って何なのかなっていつも考えます。
人から褒められたから、あの時あの人が励ましてくれたから、とか色々あたたかいエピソードを聞くことがあるんですが、本当にそれで長く続けられるのかな? と個人的には疑問に思います。
長年っていうのは、思っているよりも結構しんどくて挑戦すればするほど理不尽な目に合う。
というのもテストで点数取るみたいな、しっかりしたものなんてなく、努力は数字や結果にそのまま反映されないというところが心理的理不尽さを常々味わうことになり、その理不尽さに心が蝕まれていくのですな。
なので私は「当時の情熱はどこへ行ったんだろう」ととても不思議に思うほど数多くの人が消えていくのを見てきました。
5年、10年、20年とか、そういうレベルで続けられる人が少ないし、そこまで執着する意味が人生上失われるという理由が大きいのでしょう。
とても健全な考え方だと思います。
創作や表現に携わる際の「希望」ってなんだろうっていつも思います。
人から認められることなんだろうか。もしそれで喜んでいる人がいれば、というかそれを創作や表現の源泉とするには、きついと考えています。
なんで?って、だって芸術の本質は「自然」であって、究極的にはその先にある「宇宙」であるから、自分っていうのは、なんか違う。物凄く理由としては違和感がある。
つまり、例えば役者だったら人間、動物に対する興味。
表現だったら存在するあらゆるものへの興味。
これらの好奇心によって新しい視点や発見が養われるのであって、褒められて嬉しかったとか、応援してくれるからうんたらっていうのは、やっぱりそれだけじゃ視点も感性も養われませんものね。
そんなこんなで「好き」ってなんだろうなって思います。
でも人って面白いなって思う時があります。
そして恐ろしいほど因果なものだなと。
遠回りでも全て自分がしたことは受け取っていますからね。
そこが恐ろしいところでもあり、楽しいところでもある。
長い年月経て返ってくると当人でさえ自分の因果に気がつきません。
でもそれは確かに自分がふりまいた因果なんです。
なんといっても創作・表現に携わっている者なら、それを心底おもしれぇぇぇ! ってどこかで思っていないと続けられない。
自分の不幸って全部自分のせいだって思ったら楽しくなりませんか?
そういう風にいったん開き直りにも近い感覚で受け入れちゃうと、幸福になるのも全部自分のせいだって思えるようになるんですから。
次の作品のテーマができた。表現の方法が一つ増えた。
それなら確実に引き出しが増えるわけですよね。
これを生かさずしてなんとする。生かさないまま死ぬのは嫌だ。
飽くなき表現への渇望と好奇心。
わくわくしてくるなら、もう立派に才能ありますよ。
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