ご縁ございまして、というか、亡くなった祖母の家をまるまる引き継ぐことになりまして、北広島市民になり、そしてネット開通という、もう初めてを奪ったかのような、もう、アレな気分でございまして、嘘ですけど、ひとまず以前と同じような状態に戻りました。
北広島というと、広島県にも2005年から北広島町ができておりまして(ツイッターで教えてもらいました)同じ地名が存在することになるのですが、こちらは北広島市でございます。
何故広島の名を語るのかと言うと、開拓民の方が広島県から来たので、そうなっておるのですな。
ちょうど新千歳空港と札幌の中間あたりにある札幌のベッドタウンなのです。
札幌の人口195万人あたりに対し、北広島市は6万人にも満たない都市。・・・っていうか、田舎どす。
スーパーは夜9時で閉まっちゃうし、遊ぶ場所もないし、どうやら酒場で話を聞いていると遊ぶ場所は札幌じゃなくて新札幌という、これまたちょっと微妙な都市とも田舎とも言えない札幌と北広島(市を省略します)の中間にある場所の名前が出てくる。
こちらの人たちにとって札幌は「遠い場所」という感覚が根付いているようでございます。
今ここは野球チームの「ファイターズ誘致」の問題で揺れ動いておりますが、スポーツあまり興味ないので熱弁ふるってくれる方の言葉を素直に受け取るしかない状態でございます。
さあ、祖母の導きあってか「文芸北広島」という不定期に出している文芸雑誌があるのです。
まずそこで活躍し、FM局もあるというので、ラジオもやっていこうかなと思っているのですが、さてさてラジオの番組どうやって作っていこうかなと今模索中。
仕事止めるとか言いながら、結局調理師の免許とって、技術がないのも馬鹿らしいのでバイトをしながらキッチンの仕事をして、都合が合うならば上の専門調理師をも目指していこうかなと考えてもおります。
以前にも書いたかもしれませんが、人生ってある程度ぼやっとしているとレールが敷かれているのかもしれません。
もし両親の味覚が多様で、新しい料理や新しくも美味しいものに敏感ならば、私は絶対に料理の道を目指していたと思います。
だけれどそうじゃなかった。
恨んではいないんです。
ただ結果論として、もう修正の効かない歪んだ魂と愛情の両極端のものをいただき、小説を生涯書き続けることになりました。
芸術家表現家はこういう何か鬱屈したものを持っていなければ、そうはならないと強い持論を持っています。
分岐点はあったのです。
詳細は省きますが母親が死んでいたら、こうはならなかった。自分も死んでいたでしょう。小樽付近の海に冬場歩いて出て行っていた。
芸術家として満たされるべき条件は、ほぼ全て満たされつつあります。
そして後は、ほどよい暇さえあれば目的を完遂できるところまで来ました。
宗教を信仰しているわけではないのですが、もう何年も前から「どう考えても自分は神の手の平にいる」と思っておりました。
少しずつやってきたこと、降りかかってきたことが集約されつつある。
東京中心主義の馬鹿げた構図を根っこから引っくり返すために、この地で活動していきたいと思います。
我あるところに、芸術あり。
雨垂れ石を穿つ。
自分はこれで充分だ。
札幌市民でなくなることは寂しかったけれど、マツコロボに1000万かけたというニュースを見て、チラチラチラチラ「このお金が芸術家支援のための資金になったら」って今でも思うので、もう未練はなくなりました。
サヨナラサッポロ。
北広島市民になります。
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