自分の経験上、過去の自分を考えても、それを考慮して他人を見ても、やはり何かを守ろうとするとか大事なものがない人というのは踏ん張ろうとしないし、すぐに自暴自棄になったりする。
ストレス耐性っていうのは努力でしか養えないし、いまだに何かあれば夜の街にふらふら出て酒びたりになる自分にとって、全部捨てるまでにはいかないけれど、やはり昔はすぐに諦めていたり、何かを捨てていたり。
今は抱えきれない分は捨てようと身の回りはシンプルでありたいなと考え出してきている。
あまり力がないから、やはり影響を及ぼせる範囲も決まっているのだ。
さて、守るものって何だろう。
普通の人は「面体」のようなものだろうか。
社会で生きていくために恥ずかしくないように、とか、会社を首にならないように、とかだろうか。
自分はもう恥も外聞もなくなってきているので、守るものといったら、作品の質、だろうか。
それを高めようとするということ。
最近は中国の友達も多くなってきたので、今まで生まれたことはなかった、日本語をきちんと学習しないと間違ったことを教えることになるんだよなーなどと考え出すようになってきた。
ロシアに旅行に行こうと持ち出されてもいるので、ロシア語を少しずつやりつつ、ロシア人から日本とは何かなんて聞かれた時、自分はどう答えるんだろう、とか。
大切なものがないってことは、それは自分すらも大事ではないってことだ。
結構極端ではなく例えば自分を傷つけているようで、他人を傷つけていることに気がつかないのだから、他人は自分とは関係ない、自分は自分だけのものだ、と確かにその通りなのだけど、よく考えてみたら、好きでいてくれる人も自分を傷つけることによって傷つけているという事実にも対し投げやりになってしまうのだから、そりゃあ自暴自棄になりやすくもなる。
守るって事は自分の足で立たなきゃいけない。
誰かが守ってくれるはずだとか、こうなるはずだとか、そういう淡い期待の中に人生を置いているうちは、どこかに依存的な考えが生まれてくる。
そうじゃなくて、こうしてやろう、という強い意志であり、意志に対する精神力であり、忍耐と闘争のたまものとして、ようやく「守ってやれる」ということができる。
人はそんなに多くのものを守れない。
だから分際を知らない者も必ず破滅する。
そして自分の能力の問題においては、何処にも他人はいない。自分一人しかいない。
自分一人守れて、ようやく次の人が守れるようになるんだ。
自暴自棄になりやすい人は、他人が好きでいてくれても疑いの目を向ける。
嘘なんじゃないかとか、裏切るんじゃないかとか、不安に苛まされている。
それは他人の言葉でどうにかなるもんじゃない。
どんな言葉をかけようと、その場しのぎの気休めにしかならない。
これは私の長年の経験からも言えるし、他人を必至に言葉で何とかしようと思ってもやはり駄目だった。
だから自分で何とかするしかないんだ。
強くなって、自分で自分に勝っていくしかない。
そうやって他人から与えられるのを待つ人間になるのではなく、自分から色々なものを与えられるような強い人間になっていくんだ。
期待は自己陶酔的なところがあって、希望は常に現実の先にある。
自己陶酔は身の破滅を導きやすいし、努力のない希望は絶望を導く。
守るものはどうやって探すか。
今までずっと内向きだったものを外に向けてみる。
自分から与えていこうと試みていくことで、発想が自分から他者に向かう。
この他者感覚こそ私にとっては解決へのヒントを与えてくれた。
大事な事は常に現実と自らの心の内との対話にこそ生まれてくる。
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