心が病んでいる、酷い脆さを持っている。
こういう類の人へ可能性や考え方を示唆する言葉、または励ましなども含め、非常に危険なことかもしれない、と思った。
言葉の解釈に関しては基本はその人次第だけれど、「相手の解釈の範疇」を含めていくと、まさに「発言者の責任を」と詰め寄られたらできるものではない。
時折こういうジレンマに悩まされるけれど、これからも幾度となく考える問題ではあるから、よく心に留めておこうと思う。
ただ「発言者の真意はどこにあるのか」と言葉の意味を限定されそうな時、限定してしまってはかえって伝わらないことがある。
限定することでカバーしていたところがなくなってしまい、どんどん曲解されていくということはよくあるからだ。
ここらへんは、意図するところを確実に伝えたり、誤魔化したりする政治家の言葉遣いとはまったく状況が違ってくるのですね。
小説家の言葉遣いとは何か、いやいや、今自分が使っている言葉の技術はいかなるものなのか、きちんと意識した上で使う必要がある。
さもなければ、自分の意図しないところで勝手に言葉が暴走し、本人が考えていたこととはまったく違ったものが返されるからだ。
しかしここに関しては投げかけてみないとわからない、という問題もあり、言葉を発しないものより発したものの方が、はるかに危ないし脆い。
きちんと相手が意図したものを発することのできる人間は、ほとんどいない。
そこは私も相手に「他意がない」ものを「深読み」するのでよくわかる。
それはどうしても自分の中に深いネガティブな感情が眠っていて、それが勝手に刺激されることで相手の「なんでもない発言」も「わざと言ったんじゃないか」と勘ぐるようになってしまう。
しかし正直言って、ここまで来るとたいていは「不健全」なんですね。心が。
自分の中の負の渦巻きに知らず知らずのうちに集中していて、そこに落とし込まれ妙なものに変換される。
たとえば「頑張ってね」が「頑張ってるのに酷い」となり「頑張らなくていい」が「私なりに頑張ってるんだけど」となる。
簡単に言えばこうだけど、相手の環境性格心理的立ち居地すべて理解した上で発言するのは最も好ましいけれど、これは「カウンセラー」の役割であって、通常そこまで相手に耳を傾けひたすら話を聞くというのは、まず考えられない。
この手の接し方が必要な人がいるのもよくわかるし、昔は私も相当病んでいたので、話すよりもひたすら聞いて頷いてほしいというタイプであったので、心理状況はわからないまでもないが、今になってわかるけど、話しかけられて「こういうこともあんだよね」と言った時「え?何それ。それ私に言ったんだよね。プライベートなメッセージってもっと考えてからいいなよ。私のこと何も知らないのに」と言われるのは、自分のほうが礼を欠いている点はあるとはいえ、ちょっと辛い。
独り言にも近いことを言うことがあるのが、この「心に脆さを抱えた人」の特徴でもあると思う。
いやね、一通り自分が経験すると、どうしてなのかな、わかるけどミスをする。
自分がそこから少しずつ出てきて、出てきたノリで話す。
結局篭ってても「自分のノリで話す」し、そこから出てきても同じってことは成長してないのだろうけど、もっと言葉を選ぶ、言葉を熟慮してから放つ、ということを反省しながらやっていかないと、つまらないところで足元をすくわれたり、傷つけられたり、その逆もあるわけですね。
小説家はどうしても内面にすっと入っていくような言葉遣いをするし、精度が低ければただ掻き乱しておしまいという不毛なことにもなりかねない。
むしろ不毛にすることのほうが多いかもしれない。
そういうことを何度と繰り返しながら、はっとゼロ地点に立ち戻って、もう一度最初からやり直して、少しずつ言葉の使い方を知るのかもしれないな、と思った次第。
言葉は人の心を司る。
だからこそ大事にしていかなければいけないし、言葉がどのような心理的変化を与えるのか未知数なだけに言葉と心のことは、常に常に考えていかなければいけないことだなと思いました。
本当に、小説家として歩んでいくために大変なものを抱えていくのだなと改めて気が引き締まりました。
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