自分が悪いのだけれど、久しぶりに怒りを感じる言動を受けた。
怒るって感情あまりなかっただけに、ある意味新鮮。
怒りを燃え上がらせると、虚しさと悲しみも一緒に同居するようになるのだな。
お金が流通している中でお金ではないもので物を交換する難しさと、お金で取引している中でお金ではないもので取引しようとした時に、どのように見られるかというのが実感としてよくわかった。
ただ、ここらへんは本人の価値観と本音が一番に出るところかもしれない。
価値観を共有できない人間とは取引ができないし、理解されることもないだろう。
人って少しでも相手のことを尊敬していたら軽んじるような発言なんて出ないだろうし、配慮も出てくるとは思う。
通常怒りを覚えると自分のことが客観的に見れなくなる。
やられたことばかり考えて一日中でも繰り返しては腹立たしく思ってしまう。
自分が何故そのことを言われたかとかは考えずに被害を受けた、相手が悪いとばかり繰り返しイメージして憎しみを積み重ねていくのですね。
かつては憎しみに支配されていた時期があったので、よくわかるのです。
今でも刺激されれば湧き上がってくるので、消えていくかどうかもわからないけれど、きちんとプライドを持って、その誇りのことを考えていると、他者のプライドも尊重できると思うのだけどな。
そうではないのだろうか。
言った本人っていうのはだいたい気がつかないのだよね。
どれだけ人を傷つけたとか、私もよくあったので、知らないうちに嫌われていたとかありました。
よく考えれば心当たりがあるけれど、その時は軽い気持ちで言ってしまう。
そして重大かつ修復不可能な溝を作って関係が途切れてしまう。
特に相手を軽んじていたり、自分の立場を勘違いしていると言い易いような感じはします。
だいたい軽口叩かれるのは妙に自分を誇っていて、やたらと、理解が得られない=たいしたことない、みたいな考え方をするタイプでしたよ。
私もそうだったから、そこらへんの感情の動きは手に取るようにわかるんだなこれが。
目の色が変わるのですよ。
急に冷めるというか、瞳の奥に感情がふっとうごめく。
その時「ああ、この人こういう価値観軽蔑しているんだな」ってすぐわかる。
互いが互いの価値観受け入れて、共存してそして新しい価値観をつむぎだしていくというのは理想だけれど、そんな理想的な社会はほとんど実現されたためしがないと、どこかで読んだ気がするけれど、自分の場合にも照らし合わせてみると、なかなか違う価値観を理解するには相手が立っている状況、そして背景までもじっくり理解していかないと、とてもじゃないけれど理解はしきれない。
それだけ時間がかかるし難しいし、最初に拒否反応など出てしまうと、またそれが大きな壁となって、最悪の場合衝突となって、状況が悪化してしまうこともある。
ちなみに、私は憎しみを執念に変えて生きているところもある。
のし上がって華麗なる復讐をしてやろうと思っている。
それは彼らがとても手の届かない場所にまで這い上がり、彼らから学んだ反面性から世界を作り直すということだ。
つまりは「俺のほうが正しい」という証拠を、この世界に残す。
そうでもしなきゃ首くくるしかないものね。
生きている価値がない。
自分を徹底的に叩き壊して作り直さなければいけないほど難しいことだけれど、不可能なことではない。
人間、自分の信じている世界だけが正しい世界ではないのだということを理解するのが、一番難しいことなのかもしれない。
理解するには、怒りの負の力を、とことん正の力に変えていく力量が絶対に必要になる。
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