どうやら、考えているようで考えていない人間の顕著な例は「問題を鵜呑みにする人間は思考停止」と思い込んでいて、それを回避しようとしながらも、自分の慣れ親しんでいる最も身近な例に置き換えて物事を限りなく悪い方向へと持っていくということだとわかった。
実は一個人を潰しにかかるのは結構簡単なことだと気がついた。
その個人が潰れるかどうかは別として潰そうと行動することは簡単だ、ということだ。
その逆として、生かすのは難しい。
例えば力をあまり持っていない子供を大人が殺すのは簡単だ。
しかし育て上げようとしたら大変な時間と労力がかかる。
人間は成長するために莫大な労力と時間を費やすのだ。
そして、当然現代社会で生きていく限りは金が必要になる。
「考えられない」というのは、いかなることだろう。
私は「解は数学のように導き出される」とでも言わんとばかりの「~しなければ~にならない」という考え方であると思う。
それをどこかで「これはひとつの考え方で」というのではなくて、その途中の計算式が間違っているから「正解=解」が導かれないのだ、と堂々と言ってのける人間は視野が狭いとも言い換えられるだろうが、完全に思考が停止している。
もしくは望んでいる解がないので、それは間違いだとか。
解が導き出しづらくなることは広い範囲をくくればくくるほど言えることだ。
たとえば狭い範囲ならば、ある程度のことは言える。
解が既に決まっていて、その解までの道筋のパターンを辿らなければ、解までたどり着けない場合においては「~にならなかったのは~しなかったせいだ」と言える。
こういうことは「技術論」のようなものにおいては充分通じることなのだ。
しかし世の中のことや人そのものについては「解」はない。
だから「神が死に絶えない」のだ。
つまり、人によってあらゆる「正解」が乱立し、その「正解」への信奉がいかに強いかで「正解」が決まる。
この日本という国は「機械化」を進めてきた。
労働者は会社のために尽くし、社会はシステム化・合理化され、システムから外れることは社会的な死というリスクを賭けないとダメなほどシビアで、一度脱落すると這い上がることは難しい。
それだけに思考はよりシステムに準じ、複雑化しているようで簡略化され、新しいシステムに対しては思考がアップデートされないまま処理落ち、最悪の場合フリーズしてしまうという具合だ。
その裏でせっせと人を殺していっている。
「誰かの金」のために。
この10年間の間に統計だけでも働き盛りの人間が単純計算して15万人以上自殺している。
よく「経済の低迷」のせいだという。
「雇用がないからだ」と。
学問的な裏づけや研究から様々なことを言い立てる学者の論説に「経済が悪いせいだ」と思い込む。
本当にそうだろうか。
ある人が「小泉から自己責任論が~」と言っていた。
その時やはり「本当にそうだろうか」と直感的に思った。
少なくとも私が育ってきた中で「小泉首相」が誕生するはるか前から「自己責任論」のような考え方はあったし、ひしひしと感じて育ってきた。
周囲から責められもしたし、人格否定もされた。
「一人前」という考え方に言葉を置き換えただけではないだろうか。
根拠や論拠を並べ立てて、さもそうであるかのように言う。
偉い先生たちが、社会的に地位の高い人たちが、こういう理由ですと示してくれる。
そこで「本当にそうなんですか?」と疑問を差し挟むと無知で愚かのように見られる。
学もない地位もない人間が何を馬鹿なことを、と見下される。
そして相手にもされない。
日本はもうだいぶ昔から、学のある地位のある誰かが「こうですよ」と言う前から物事はある程度決まっていた。
人を大事にせず、発想を大事にせず、理念を大事にせず、数字で見える「富」というものを大事にした。
そしてその「富」を独占しようと欲が膨らみ、分配する方法すらも考えず「金を使えば社会は裕福になる」という単純明快な理屈で欲望を増大させてきた。
人も資源も理念も消費し、そしてあらゆるものを消費し続ける体質の裏で何が育っていたかを今回の地震で垣間見た。
自分さえよければ一番いいからこそ「自己責任」なのではないだろうかと勘ぐってしまう。
昔レストランで働いていた頃のことを思い出した。
食後の紅茶の種類がたくさんあり、紅茶によって淹れ方がまったく違う。
私はその時入りたてで茶葉もよくわからず間違ってしまうとホールチーフが来て説教を始めた。
その説教は10分以上にも及び、食事を終えた家族連れのお客が紅茶が来ないのでそわそわしだしていた。
それなのに失敗の原因を責め、紅茶の淹れ方がいかになってないかを言い続け、そしてそれが終わってからようやく紅茶を持っていった。
待たされたお客がどのような反応をしていたかは見えなかったけれど、説教途中でだいぶそわそわして厨房の方をちらちら見ていたので、あまり気分はよくなかったと思う。
そのレストランはフランチャイズのようなファミリーレストランとは違って、きちんとしたコースで出すレストランだった。
それだけにホールチーフの行動には驚いてしまった。
そこは上下関係が絶対で逆らえない雰囲気が強く、結局違和感を持っても言えず仕舞いだった。
今までの日本は、こんな状況に似ていたのではないだろうか。
表では立派に装っていても、裏ではちぐはぐなことをやっている。
もっともらしさの裏で、失っているものは大きかった。
たとえば「この世界の理屈は間違っている。日本はグローバルスタンダードよりも大事なものを持つべきなのだ」と反逆する人間がいたとしても面白いだろうに。
人のやることには「過ち」はあっても、「絶対正しいこと」などない。
だからこそ自然と同じように種をまかなければ枯れ果てて豊かな森は失われてしまう。
あらゆるものを育む自然がなくなってしまう。
自分が育つことばかりを考えては、自然の中のように、結局は自分が育っていく環境を阻害することになる。
会社のために家族まで犠牲にしなければならない労働は幸福だろうか。
稼いだ後、芽吹こうとしているものを育てない富は豊かだろうか。
物事の成否が学や地位によって揺さぶられることは理念を生むだろうか。
思考停止の罠は、いつでもすぐそこにある。
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