※酔っ払いながら書いています。
ずっと携帯電話をいじっている。
アプリやワンセグ、着歌などなど旧世代からいきなり今の携帯に躍り出た自分には、なぜか懐かしさばかりがあふれる。
例えばアプリ。
自分はちょっと違ったゲーム遍歴をたどった。
普通はファミコン、スーパーファミコンと任天堂ハードをたどるところが、ファミコン、ディスクシステム、PCエンジン、PCエンジンCDROM2とたどってきた。任天堂からNECへといった。
家庭用ハードはそれで終わる。
得に当時としてはCDから直接音楽や音声を読み込み「声が出る」というCDロムロムは自分にとって他を圧倒するものだった。
現在のプレイステーションやXボックスの能力に追いつこうと映像に力をいれ、映像に見劣りしないような音楽を作ろうとするように、なんとかスーパーファミコンよりちょっと背伸びしたようなCDロムロムはそのCD音質に合わせようと今から見たら子供だましのようなアニメやドット絵を駆使して演出をしていた。
色々な話を見た。
得に今でも印象に残っているのは「バベル」「ソードマスター」
糞ゲーと呼ばれる、面白くもないゲームと評価されていたが、自分にとっては今でも印象に残っている。
「バベル」は男と女の主人公がいた。
世界は時空の壁と呼ばれる雲のようなものに徐々に飲み込まれ、収縮し、いずれバベルの世界そのものが滅びてしまう。
人体の体にはある程度の機械が適応できるほどの文明で、腕などが機械の人間がいるが、それでも銃や戦車などの現代の主力武器があり、ラピュタに出てくるようなロボットを巨大化させたようなものを作るには突出した帝国のような国しか作れなかった。
アガメムノンという太古から存在する機械の船があり、そこへと行こうとするのだけれど、男の主人公のヒロインの機械の女の人、男の主人公と一緒に旅をする女の主人公、サブキャラを取り巻くキャラ。
みんな感情むき出しの子供のような茶番劇だけれど、「どうせ世界は滅びるんだよ!」という意識が蔓延するすべての人の憤りの中、「地球」という幻の星があり、機械の女に「私はその星のことをデータとして知っているだけ」ということを教えられ、主人公は崩れゆこうとする世界に対してあらがい、仲間が次々と犠牲になり、かつて仲間だった人間が、世界の崩壊に耐えられず、裏切りの果て死んだりする中、すべての犠牲の中アガメムノンの中で目的地を「地球」と言うと、次の瞬間、どこか違う近代の街の中にいて、「今までのは幻だったのか」と戸惑う中、とある喫茶店に迷い込むと死んだ人間も含めて登場キャラがみんないる。
「遅かったじゃないか」「ずっと待ちくたびれてたぞ」「おねえちゃーん。おにいちゃんがきたよー」
そんな声の中主人公の男に抱きつく機械だったはずの女。
上空にはアガメムノンガ浮いている。
簡単に説明するとそんな話だった。
「ソードマスター」は残虐な主人公と、プリーストの女がいて、冒険の果てに主人公は魔王を倒すのだが、主人公が魔王と人間の間に生まれた子供だとやがてばれる。
自愛に満ちたプリーストと残虐な主人公とは馬が最初は合わないが、やがて女は男のことを理解していく。
これはうろ覚えなのだが、エンディングの時に女と寝る主人公が苦労をかけた女に対して血の涙を流すのだけれど、次の朝主人公は消える。
女は主人公を探そうとするのだけれど孤児の子供にいつもどおり振舞う。
その時涙を堪えながら孤児を抱きしめると、女の名前を呼び孤児がこう言う。
「おかあちゃんの匂いがする」
そこで女は泣き崩れ、エンディングの中でかつて目の色が赤かった主人公が別の目の色で出てくる。
その孤児のセリフだけははっきりと覚えている。
「リンダキューブ」
世界が滅びることが決まっていて、動物をつがいで集めて箱舟とともに惑星を脱出するゲーム。
シナリオA
なぜかリンダの母が父の体に取り込まれていて、最後までなぜ父が狂い残虐非道な行為をしたのか明かされないとか。
シナリオB
博士が死んだ娘に執着してケンにサチコという死んだ娘を科学の力で復活させロボットにし、「サチコ!サチコ!サチコはどうだ!」と迫り、リンダの代わりにさせようとする執念とか。
青野武さんの名演技が光った。
シナリオC
AやBで死んだキャラたちが仲良くまとまっている。
当時としては画期的なゲームのシナリオだったし、敵として現れるモンスターを捕獲するために追いかり、捕獲した動物で装備などを作るなど斬新過ぎるアイディアだった。
「バスティール」ジャズがよかった。
「バスティール2」いかれてる最後の悪の元凶に「それでもこの人が好きなの」と一緒に死ぬ女が印象的だった。
だって子供だよ?
子供がジャズとか人間の狂気とか極限状態とかをシナリオで体験するわけですよ。
正直今のゲームは、ほとんど当時のアイディアの上乗せにしか感じない。
アプリも当時やっていたゲームがあって懐かしさを覚えた。
得に今のアプリゲームは当時のゲームとあまりかわりがない。
ゲームばかりの話しになったのはゲームっ子だったのでアプリをしながら色々と思い出したのだけれど、サイトの作りも10年ほど前にiモードが出てきた頃とあまり変化がない。
懐かしい掲示板サイトもまだ存在していた。
そこに出入りする年齢層が幅広くなったというのが少し変わった点だとは思うけれど、人とのつながりを求めて寂しさを抱えて人がサイトに出入りするところはまったく変わってない。
なんら、10年前と変わらない姿がそこにある。
これはずっとそうなのだろうか。
なぜなのだろうか。
結局技術が進歩しても変わってないものがある。
日本人が抱えている現実のような気もする。
そして思い出したこともある。
暗闇の中で必死に携帯電話をいじりながら「携帯依存症」にも似た感覚で妙な陶酔感と、苛立ちと、人とのつながりを求め必死に掲示板に書き込みをし、自己アピールをする自分。
思い出した。
この携帯に必死に向かう閉鎖的な感覚。
ここしかないんだという閉鎖的な思考回路。
その世界にしがみつくしかなかった自分の世界への麻痺。
無気力と諦観の狭間でぼんやりと携帯電話の画面へ向かっていた自分。
パケット代だけで五万を超えていた頃。
電話代でさらに三万。
ただ孤独とストレスに耐え切れなかった。
誰も理解してくれない感覚の中で自分の話を聞いてくれる人がいる慰め。
すべてが懐かしい。
懐かしすぎて、イライラしてきて酒を飲んでしまった。
技術は進歩しても、人間は何一つ進歩してなかった。
何も変わってはいなかった。
思わず、この文章を書きながら苦笑している自分がいる。
正直、日本人の「精神」は、この10年以上停滞したままだ。
はっきりわかったよ。
[2回]
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