経済っていうのは数字の感覚が大事だっていうことはわかる。
これは普通に生活している人なら生活する金より稼ぐ金が下回ってはいけない。
それは国家でも会社でも同じことがいえる。
自分のような技術を取り扱うことをやっていると、ある程度身につくまで金も時間もかかることが切実にわかる。
芸をゼロから仕込んでものになるまで何とかするということを「事業」として捉えれば、恐ろしいほどバカな話だ。
採算度外視だし、100万人いたら1万人も残らず、そして1000人しか食えず、その上位100人ほどしか残っていけず、さらにその中の1人しか裕福になれない。
こういうバカな世界に初期投資からすると言ったら「頭でもおかしいのか」と常識的には考えるだろう。
基本的に「新しいものを作る」ことは、それだけ労力がかかるということだ。
そして事業として成功する保証がないものを積み重ねていかないといけない。
金回りが悪くなると、育てるほうに金をかけるよりも生き残るほうや生活をしていくほうに重点が置かれる。
しかし「新しいもの」を少しでも作っていくよう労力を割かないと、いずれ選択肢が限りなく少なくなり、最後には何かの拍子になくなってしまう。
確証のあるものは過去にしかないが、過去にあるものが未来の確証になるかといったらそうではない。
だから過去にだけ頼っていては未来の選択肢が少なくなる。
物を作るということは、山ほどの無駄の積み重ねでもある。
その中からようやく使えるような芽が出てきて、さらにそれを懸命に育てると、ようやく「良い」ものになる機会を得る。
物づくりは数字で見れば青ざめるほどくだらないことである。
数字的に見れば、やる「価値」すらないものである。
だから物を創ろうとする人間と、そうでない人間との間には分かり合えない絶対的な溝がある。
採算の取れないものを山ほどやるという行為に軽蔑と嘲笑のまなざしすら覚えるだろう。
それは「数字」を見ていればよくわかることだ。
そして自分で「数字」を扱えばよくわかることだ。
当然余力がなくては新しいものを作っていくことはできない。
しかし悲しいかな。
金で潤っている時ほど欲望のために使いたくなる。
欲望の代償は「ただちには」請求されない。
忘れた頃にやってくるものだ。
小説を書いていてよく思う。
状態を表すだけだったら、これほど多様な表現は必要ないだろう。
結果だけにこだわるなら、あれほど長い枚数を重ねる必要がないだろう。
しかし人は多種多様な表現の中で自分の好みのものを探し出し愛読する。
なぜなのだろうな、と考える。
それは「言葉」という「道具」が、いかに「自分の精神を満足させるか」という点に比重が置かれているからだと思う。
小説を結末だけ読む人はいない。
過程がいかなるものかを楽しんでいる。
結末だけ読むのなら、状況描写だけでいい。
同じように結果だけにこだわるのなら、その結果を生み出すものは何でもいい。
当然最短で出せてコストがかからなくて、利益の高いものがいい。
機械みたいに動いていけばいいだけの話だ。
新しいものを作っていくということは、無駄の中から経験を積み重ねるということでもある。
その経験の中から塵のような次に繋がるものを拾い上げて生かしていく。
そんな途方もないことの積み重ねだ。
ところで「無駄」とは何であろうか。
金にならないことは「無駄」なのであろうか。
役に立たないことは「無駄」なのであろうか。
だから毎年3万人もの「無駄」が、この国から排除されているのだろう。
少なくとも自分が「有益だ」と思っていたら、生き残っていると私は思うのだが。
新しいものを作るということは、未来の可能性を広げるということだ。
たとえそれが結果的に使えないものであったとしても、作ること自体はやめない。
希望があると信じているからだ。
「数字上の無駄」を指摘する人間は、そこだけにこだわっていればいい。
私は今「茹で蛙」のことを考えるよりも「茹で蛙の料理」のことを少しずつ考え出している。
小説も、そのほうが売れるだろうから。
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