http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20090314/1237015289
携帯小説の「恋空」をあげて、スリム化した日本語が成功するコミュニケーション空間が存在する現実と、莫大な情報時代に対応するための日本語の変化の行く先を考える必要性がある書いていた。
文学が目の前にある現実を無視しちゃいかんってことですね。
あ、上記のは平野啓一郎のブログです。
私のブログなんて口述式だから、文章そのものが肥満すぎていけないのだけれど、彼の書いていることを読んではっと気がつかされた。
それまで携帯小説なんて嫌悪の対象でしかなかったし、気がついたからと言って、そこに介入したいわけでもないのですが、売れている携帯小説を厳密に見るならば、
「今まさに彼、彼女らの欲しいシチュエーションしか存在しない」
という、合理化…これをスリムと言っていいのかどうかわからないが、いらないものはいらない、欲しいものだけ書く、そういう物語なんだということがわかる。
まさに「余分なものが排除された小説」であることがわかるし、考えなくても欲しい場面だけ思い浮かべればストーリーが頭の中で繋がっていくという、「忙しい人にはぴったり」の小説であったり、「学業で疲れたり人間関係で疲れてあれこれ自分のことで悩むことから解放される」小説でもあるわけだ。
なにかにつけて自分たちの理想空間や希望する作用を具現化してくれる情報が手っ取り早く欲しいところに、携帯小説なるものができてきた。
と、考えると、納得できるような気もする。
くどくど読んでいて、自分の好みのものが来るまで待ちきれないのですよ、若い読者は。
自分のことをこの際棚に上げるが、かの世代たちが書く、めちゃくちゃな日本語がそのまま文化として残さなければならないかと言ったら、「NO」に決まっている。
しかしひとつの示唆として、もう厚ぼったい日本語表現では情報化社会に対応できないし、情報化社会で育った人間が好まない日本語であることもまた事実だろう。
余計なものはいらない。
欲しい情報しか取り入れない。
これはウェブを使う人の当然の作用であって、またそこに存在する小説も、即効性があって、リズムの早いものが好まれる。
くどくどと余計なものを書く小説なんてウェブ空間では好まれるはずがない。
少なくとも情報化時代に対応するための新しい日本語体を開発するのも、また小説家の仕事のような気がしますが、言葉を削って情報すらも削れるようなら意味がない。
常々思うことなのだけれど、豊かな精神性というのは豊かな言語性にかかっている気がしているのだが、自然が破壊された、人工的なものがあふれている、自然性を放棄した人工的な感覚で日本語感覚を養う。
ここらへんの個人の精神性にまつまる言語性と情報化社会に対応するための言語性とは、一致を示せるのであろうか、という問題がありそうですけど、どうなんでしょうね?平野さん。
あ、情報処理と、国語で別々に教えればいい。
なるほどその通りですね。
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