二十歳の知り合いがいるのだけれど、その子は短大生。
今度卒業で保育士を目指していたという。
保育士の資格を取得するには実習が必要で、二回目ぐらいの実習の時は東北の震災が起こった後だったらしい。
そこで実習を決める担当官から「あなた震災起こったとき、きちんと全員の子供の命を守るために体張って動ける?」という類のことを言われたらしい。
いや、もう少し意地の悪い質問で、私もはっきりと「できます」とは言えないような質問だった。
つまり「口では言えても実効段階になったときに100%できるとは保証できない内容」の質問。
その子は日常生活にはまったく支障がないほどの軽度の障害があるのだが、その質問に答えられず実習は弾かれたらしい。
他の先生からは「訴えてもいい」と言われたらしく、私も「完全な差別だね」と言ったのだけど、その子は別の方法で挑戦するみたい。
日本人は頑張る人間、障害を乗り越えたとか、時には障害者そのものを美談で飾るくせに、こうした意地の悪いことが行われている。
風当たりが健常者とは同じではないことは、ところどころから聞いていたけれど、実際知っている人がこのような差別的な扱いを受けると苛立ちを隠せない。
その子は十以上年上の私よりもよく考えていて頭の回転もよい。
すぐ説教したくなってべらべら余計なことを言ってしまうが「そんなことはわかっている」と言う。
たまにこちらが子供のような気持ちになって面食らう。
その子とはまったく事例が違うが、
保育士採用試験:全盲女性「受験させて」大阪市が門前払いリンク先の記事のように全盲の保育士の例もあるし人類はヘレン・ケラーという偉大な実例も持っている。
しかしそれらのことは結局「美談」として語られるだけで、隅々にまで浸透し一般化しているわけではない。
話がちょっと変わるが、例えば健常者でも宗教観の問題は職場で対応できる姿勢があるのか。
イスラム教信者とキリスト教信者の職場での扱いは同じでよいのか。
こういうことすらも日本人は知らない。
今回のこの子の問題も、日本人のこういった無教養さからくる差別だと言っていい。
なにせ軽度の障害など、ほとんど健常者と変わらないのだから。
例えばこれが片腕片足がなくとも同じことだと思う。
きちんと試験に合格できる頭と能力と強い想いがある。
健常者と比べて「あれはできないだろう、これは支障が出るに違いない」とか、どれだけ見下せばよいのか。
ヘレン・ケラーのwikiに以下の文があった。
その一方で、彼女を快く思わない者も少なくなく、日本の重光葵の手記『巣鴨日記』(『文藝春秋』1952年8月号掲載)によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、彼女のニュースが耳に入ってきた際、彼女のことを「あれは盲目を売り物にして居るんだよ!」とこき下ろしている者もいた。このことに関して重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判すると同時に、見解の偏狭さを嘆いている。
差別は言葉から来るものではないと私は考えている。
「比較と哀れみから湧き上がる微かな優越感」から来るものだと考える。
自分や自分と類似したものが作り出す集団だけが世界や社会の基準ではないのだということを、その性根に叩き込むのが「教養」というやつではないのか。
外国人ホワイトカラーから見れば日本の職場は「ブラック」ばかりらしい。
わかるような気がする。
家族のことを優先できない、違法なサービス残業がある、会議が簡潔に終わらない、意思決定のプロセスが複雑、有休はお飾り、独自の職場ルールがあり法律より優先されるなどなど、守られるべきものが人によって崩されている職場など優秀な人ならば嫌がるだろう。
まだまだ「差別大国日本」なのだ。
余計なお世話なのだろうが、その子には頑張ってほしいし、私も久しぶりに連絡が来て少し励まされた。
ここは見てはいないのだが、ひとつの祈りを込めて。
その青春の全力こそ、次世代の糧になる。
応援しております。
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