去年から今年にかけて色々見てきた中で、人間はどのようにして自分自身の整合性というものを保っているのだろうとふと疑問が浮かんだ。
オンラインゲームの世界の中に飛び込んだり、恋愛関係における人の繋がり方を見ていたり、バーチャルリアリティーとリアル(現実:バーチャルリアリティー空間では現実世界でのことを「リアル」と呼んで分ける)の中で違和感を持つこともあった。
人の「悩み」とは何か。
成長しているようでしていない人間の特徴は記憶の整合性に重点を置いているように思う。
これは「記憶の安定性」を保つために、新しいことや変化があったとしてもそこに適応して成長するよりも「自分自身の居場所を確保」するために記憶上に存在する過去の自分に執着して世界を自分の望む状況に変えようとする。
これは「変えている」というよりも「自分の望む状況を集めている」と言った方が正しい。
だから批判をしていても批判した内容は他者に即してではなくあくまで自分を中心としての力点のほうが強い。
自分では変化させたように感じるだろうが自分の過去の容認なので個人としては変化していないし、同じトラブルを繰り返したりする。
これは過去の記憶の連続線上に存在していて極めて直線的な記憶(変化していない個人)の中で自分の安定性を確保する作業だ。
人は、どうやら自分の記憶の整合性を保つため時間の中で連続している記憶を確認するたびに、自分の世界を維持しているらしい。
これは「記憶の関連付け」にも繋がる。
思想信条があって、ひとつのオブジェを見る・感じることで思い起こされる過去の記憶の連鎖によってアイデンティティーを保っているのではないのだろうかということだ。
だから同じ物を目の前にしても感じ方が違う。
井上陽水という歌手がいるが、その人は毎年のようにツアーで休むことなくライブをしていた。
しかしある日ホテルで目覚めた時、自分がどこにいるのか一瞬わからなくなり、これではいけないと感じ、ライブを控えるようになったという。
今考えると面白い示唆のようにも感じてくる。
この話の中では場所による記憶が毎日変わっている。
目覚める風景が似通っていても、目覚めている場所は違っているので、類似した風景を見た時に、過去の記憶と関連付けようとしても違ったものが引き出され、混乱する。
昨日の記憶を思い起こそうとして四日前の記憶が引き出され、自分の現在の居場所を記憶の中で喪失するということだ。
ハリーポッターの主役のダニエル・ラドクリフも役にのめりこみすぎるあまり自分が何者だかわからなくなった時期があったという。
思春期の時期とかぶったので余計に「個の整合性」が保てず混乱したように思う。
連続した記憶のアイデンティティーの中にハリーポッターという別の人格の記憶が入り込むことによって、ダニエル・ラドクリフという人間本来の記憶の連続性が保ちづらくなっていたということだ。
またバーチャルリアリティーの世界の中で長く時間を過ごしている人は、少しずつ力点がバーチャルに置かれ、リアルと理屈が摩り替えられていくということに何の違和感も持たないという現象が起こり、少々驚いたこともあった。
力点の置かれる過去の記憶がリアルよりもバーチャル側に置かれることによって整合性が摩り替わっていくということだ。
これはバーチャル世界のみならずリアルの世界でも常に情報が与えられ続け個人の感覚の中で整合性が取れれば、その世界への力点が強まっていく。
「記憶に錯覚を起こす」
この世界はほとんど嘘で成り立っている。
もしそう言われたとしても誰も信じないだろう。
たとえばバーチャル世界しか知らない人間が「現実」があるのだと言っても信じない。
なぜならば人は世界の真実の基準の書き換えを自分の記憶の整合性を保つために行い難いためだ。
これはもう「マトリクス」という映画の中で既にやっているが。
話の一つの考え方として時間上に存在している連続した記憶を板状に考えると、この板状の記憶が少しでも組み替えられることがあったら混乱して人は世界における自分と世界そのものの整合性を保てなくなるだろう。
人は望む世界を心の中に抱いている。
苦痛を経験して得るものがそれ以上に大きくなければ望む世界の中には苦痛は存在しないし、現実が何かを見つめることはできないし理解することも不可能だろう。
常に代価の大きいものに力点を置いていく。
この代価への欲求が個への執着を促がし、いずれは堕落を引き起こす要因にもなっているのは皮肉だが、良い方に考えるならば「希望」も個人を離れた世界への代価の中に存在している。
成長しない人間は悩んでも結局安定した自分に戻っていく。
変化するために悩んでいるのではなく、変化しないために悩んでいるのだ。
つまり記憶の安定性の維持や自分という主体の望んでいる状況を集めるための努力をしているといっていい。
記憶の安定性は極めて限定された空間における錯覚の中にしか存在しないから生み出すのではなく、あるものを集めるしかなくなる。
この逆が変化のための悩みであって、想像上にのみ存在している。
他者とのよりよい関係は数多くの経験から得られる豊かな想像力の中で培われるものと言っても過言ではない。
さらにその未来ともなればなおさらだろう。
新しい変化を望む時、人は必ず自分というものから離れないと見えてこない。
自分ひとりで成り立つ力などあり得ないという現実感の元に先を見なければ最後は成功しないからだ。
両者の記憶の関連付けは、オブジェによってなされるのではないだろうか。
それは自分が考えている整合性を何かを見る・感じることによって常に維持させている。
時としてオブジェのために変化するのではなく、整合性のためにオブジェを集めるということにも摩り替わったりする。
世界は人々の消極・積極的記憶の混在によって維持されている。
新しい変化を周囲に望もうとする時、安定を望む意識が反発するだろうし、安定だけを維持させようとすると、変化への意識が反抗心をもって衝突していくだろう。
人の悩みはこの中に凝縮されているように感じるのだ。
人類の社会にとって有益なのは変化しないことだ。
しかし生物・遺伝子にとって有益なのは変化(適応)していくことだ。
人は生まれた時から矛盾を抱えている。
宇宙を含めた現実は常に変化している。
記憶を持ち、社会を作ろうと考えたからこそ、整合性を保つために世界を限定し、記憶の連続性を維持させる必要性があった。
だから昨日の記憶を覆される存在に疑いを持ち、整合性を保てない違和感のある存在を無意識に排除しようと試みている。
過去に危機しか持たないのであれば、良いにしろ悪いにしろ変化を望むだろう。
これが根に近い、生物本来の姿であるように感じている。
今は、もしこの記憶が遺伝子にも影響を与えるとしたら、などとちらと思ったりしている。
今回はここらで止めておこうと思う。
[3回]
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