先日NHKのニュースで出たことを知り、完成版とのことで第四章が追加されて40年ぶりにお目見えとのことで急いで書店に行き購入した。この本を最初に読んだのは確か20代後半だったような気がする。
題名からは、なんか動物ものだから、ほのぼのしてる童話か何かじゃないか? だなんて思っていたら違いました。悟りの書みたくなってる。
というのもジョナサンは「飛行」や「スピード」をひたすら追求するカモメになっていく。一つ芸を追及することによって単に「生きる」ことに必要な「餌をとり生活していく」という次元からはるかに別の価値観を得ていくことになるのだが、それだけにカモメの群れから追放されてしまう。
その一芸を追求するという行為の先に肉体をも超えて行き開眼する様は「これはいかにすれば悟りを得られるのか」を書いた小説なのではないかと、当時は思っていた。一つの世界を純粋に練り上げ純度を高め、目で物を見るのではなく、世界と一体となった心の目で時空を見渡す。確かにここまでいってしまうとそれは「カモメ」とは呼べない存在になってしまう。
ニュースでも言っていたが、肝心の第四章は、第三章で終わっていれば「ああめでたしめでたし」という印象しか持たなかったものが、ジョナサンがいなくなり神格化され、行為から思考へ切り替わり、思考のために思考を練り上げ、思考を植えつけるための約束事やしたきりまで出始めるという、ニュースでは「堕落」と言っていたが所謂「現実不在の堕落思考の様相」が描かれている。
ほとんど全ての言葉というのは「行為」を中心にし、体の中のリアリティを通して発信されているはずだ。さもなければ、個人にとってそれは単なる「情報」でしかなく、体験談でも得た知恵でもなんでもないのだ。知識を得て体験もせぬまま情報レベルでそのまま井戸端で噂話をするかのように語る人間はたくさんいるが、常に情報のオリジナルであり続けることは難しい。
何故なら現代は情報が溢れていて、さも体験したかのように緻密に脳内に情報を蓄積することができるからだ。だから、我々は知らないことでさえ情報を共有して知った気になっている。
そして情報を我々が確かに身近なものとして共有している、現実のものであるとするにはシンボルが必要になる。何か象徴的な形となるものが必要になってくるのだ。だから我々が思考を停止させる時必ずキーワードで話し出す。そのキーワードが何を示すのか、というのは、象徴物に印象付けられたイメージや先入観からしか考えられなくなる。
そして行為は歪められ、思考は堕落していくのだ。
これは別段難しい話ではないのだ。行為によって出しかオリジナルの情報は手に入れられない。知識は知恵にならないし、情報が真実かどうかも確かめることはできないのだ。世界を見つめることは、歪んだ心を捨て去り自由を得る必要がある。心の中からしがらみを取り去る必要があるが、いかに自由になったとしても自由になろうとしても、しがらみや群れを求めだすのが人なのかもしれない。
この小説は多様な捉え方がある。経済には「神の見えざる手」があるというが、人間社会にも荒む時期や栄光の時期が繰り返されている。それはきっと個人の利益を考える人間の腐敗であったり、はたまたその腐敗に対する反発的な意思で利益を考えたりの繰り返しなのかもしれないとも考えさせられる。
しかし我々の社会がどうあれば健全でありうるか、という議論はしばしば「行為」によって変えられるのではなく「情報」によってのみ歪められることが多々出てきている。
第三章までの話は40年前。高度成長期の終わり頃で、その時期には第四章は時代に似つかわしくなかったとニュースで言っていた気がする。そして今になって第四章が追加されたわけだ。
これは何の運命か何の因果か。あの頃二十歳で読んだとしても、もうその人は60ぐらいになっているはずだ。その人たちは何かを感じるのか、もしくはそういう長老たちよりもむしろ、今の若者にこそ再度問いかけているのではないのか。
文章も簡単で一読の価値はある。ぜひお勧めしたい。
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