そもそも自己責任論ってどこから言われるようになったのだろう。
昔からあったようにも思うし、少なくとも親の世代がそうだったので、私が生まれる前からあったのかもしれない。
それが時代が大きく変化してきて、対応しきれずに人同士の衝突を起こしていると考えるのが素直な見方なのではないだろうか。
私は正直、この「自己責任論」がよくわからない。
これを追求してしまうと、現在の日本社会の困窮はまさに我々の選択の末に起こっていること。
その上で「選択したものが責任を負うべき」を厳密に考えるのならば、この社会の責任は上の世代の責任なのに、「自分たちが大きく誤っていました」という声はあまり聞かない。
そして「自己責任論」を持ち出す最も顕著な特徴は「彼らが悪い(おしまい)」だ。
つまり悪いものがあったとしても現状に沿った形で打開策を考えるのではなくて、問題そのものを切り捨ててしまう。
酷い場合は知識で問題説明をし、そして終了する。
それ以上何かがあるわけではない。
私はこの姿勢こそ、今の酷い状態を引き起こしているのではないのかと勘ぐってしまう。
つまり問題があっても、それを共有できずに最後まで他人事として扱う。
自分は自分の生活として成り立たせたいので、「シェア(共有)する」という意識がまったく育たない。
だから自分の身に切実に降りかかった時にしか問題として捉えない。
なぜだろう。
いかに高尚なことを言おうと、もっともらしいことを言おうと、たとえば私が外国にいたとしたら「日本人って社会を共有せずに私物化しているのだね」としか見えない。
悪いものがある。
それは自己責任。
おしまい。
それではただの「個人主義」しか育たない。
そして改善もされず末期状態になり、文句を言う。
そして毎回言うだけで終わる。
「だから言っただろ。お前たちがやらないからだ」と。
永遠にこの手のやり取りを馬鹿みたく続けるのだろうか。
どこかで断ち切ろうと思わないのだろうか。
自分たちの次の世代に少しでもよい社会とよい精神を残そうとは思わないのだろうか。
こういう憤りを持っても、この日本では通用しない理屈なのかな。
一日一声、たった一人だけ、気軽に声をかけたり、ほめたりするだけでも充分なのに。
「分かち与えよう」という精神が育たないのはどうしてなのだろう。
こういう社会を選んだから?
だからといってこのままでずっといかなければならないということにはならない。
知識があっても知恵がないようでは困るし、知恵を生かす勇気がないようでは、人情がない。
人情が薄いと「薄情」という。
「薄情」な社会を作って、まともに社会が維持できるとでも思うのだろうか。
必ず人が人を利用しあう社会ができあがる。
殺伐として、人を容易に信用できない社会ができてしまう。
そういう社会にしたいのだろうか。
私には、今の大人たちが何を考えているのかよくわからない。
そして、本当に薄情な社会を選び取りたいのなら、もうこの手の問題を考えて、解決策を模索していくのはやめようと思う。
だって、必要ないものね。
必要とされていないものを無理に組み込もうとすることはない。
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