実は年齢が30ちょいなのですが、今回自分入れて9人集まった中では最年少でした。
参加してみて「なぜ老人は孤立化するのか」という問題なので、やはり現場の意見・問題点がたくさん出てきて、自分場違いだったかなという印象を拭い去ることはできなかった。
感想から率直に書くと「違和感」が非常にある座談会でした。
今回出席した人は30代ケースワーカーとして地方行政現場の立場から。60代生協職員、60代コンサルタント業務、30代便利屋社長、40代無縁感じている方、など幅広く出席していました。
あまりにも緊張しすぎて胃が痛くなったし、疲れ果ててしまって、放心状態で帰って来たのですが、今回の札幌座談会での内容は全国どこでも類似した議論がなされているのだろうなと感じました。
行政の限界、財源の問題、法律の問題、思想の問題、人的不足、日本的システムの問題、NPO等の実際の活動、活動における問題点。
それでですね、何が違和感があったかというと、「無縁化する老人たち」がすべて同じくくりにされているということです。
つまり「無縁化」には様々な理由があり、その上でカテゴライズされなければいけない。
そしてようやく分類された「原因」によって、各分類別に問題を掘り下げることができると思うのです。
前回の記事ではアンケートに答えましたけれど、質問項目がアンケートに沿ったものでした。
当然みなさん活動されている方たちばかりですから言いたいことはたくさんある。
思想的な背景もわかっていらっしゃるけれど、さらにそこで強烈な違和感。
「この人たち、若者と接してないな」という印象。
私は作家活動をしているから「心の動き」というものに非常に興味があるのだけれど、「この先どんな時代が待っているのか」ということがよく考えられた意見もまったくなかった。
我々はどんな未来を迎えようとしているのか。
ちょっと前までは「十年ひと昔」とは言いましたが、今は「五年ひと昔」のレベルで次々と目まぐるしく時代が変わる。
「時代が変わる」ということは、当然「まったく違った価値観を持った人間が繰り上がってくる」ということなのです。
その上で若い社長さんが興味深いことを言っていた。
「電球を取り替えてくれと呼ばれることもあった。電球の取り付け方を聞く友達もいないのかと疑問に思った」
とか、
「面接に来ると言っても、半分は来ない。中には親と来るケースも」
というお話。
「いくら考えても地盤がないとはがれる」とも言っていた。
きっとこの「地盤」の意味、説明しないと理解できないと思う。
あとは40代の方。
東京で20年ほど仕事をして帰ってきたら地元の縁や親戚縁者の付き合いはさっぱりなくなって自分が孤立化していたということ。
たとえ今議論していたとしても、現在定年を迎える年代は平均年齢で計算すると、あと20年も生きなければいけない。
その間にリタイアメントだけで本当に補える問題になってくるのか。
20年後には高齢者率30%、40年後には40%を迎えるという統計が内閣府の「高齢社会白書」にまとめられている。
まさにリタイアメントたちが生きている時代に大きく時代背景が変わっていく。
現在は貯金を充分に持っている人たちがいるけれど、これからはお金がないようなギリギリの人たちが増える。
バブルが終わった世代が来る。
いくら人的なカバーをしようと人数的に追いつかない。
お金も追いつかない。
ギリギリの生活資金で生活のみにお金がいき、情報を得られない高齢者たちが増えていく。
こういう方たちが想像を絶する膨れ上がり方をするということは、いかなる社会になるのかという想像がまったくなされていない。
これはどうしてなのだろう。
現在の理想がたとえ実現可能な段階まで来たとしても、既に時代が変化している。
変化した時代にプランが立ち往生する。
そういうことの繰り返しを永遠にやりたいのだろうか。
今回集まった人たちは「声を出す人」です。
私は大きく分類して三種類の人間がいると考えています。
1「声を出したくて、積極的に出し、なんらかの社会参加をしようと試みているもの・しようと考えているもの」
2「言いたいことはあるが、消極的で社会参加は何かの事情でできないもの」
3「言いたいことが別になく、社会参加にもあまり興味を示さない消極性の高いもの」
問題は2番目までギリギリわかるでしょう。
それでは3番目の人たちは?どうすればよいのでしょう。
行旅死亡人のデータベースを見ると凄まじい。
所持金は千円二千円のレベル。
ギリギリどころか限界のレベルで生活していることがよくわかる。
そういう人たちが無縁仏になる実態がデータベースからもよくわかる。
村のようなところならまだネットワークが広げられる。
これが都市部だと一気に様相が変わります。
つまりその土地で育った人ではない人が数多く移り住んでくる。
何かの拍子にまた移動し、実態がつかめなくなる。
都市部での所在不明の老人たちは、おそらく「その土地に根が張れない人」なのでしょう。
NPO等の活動というのは当然「そこにどういう人がいるか」が把握できてこそ展開できる。
東京の直葬率3割というのだから、札幌でも10年後にこの状態が来る。
短期・長期ではまったく違うので分けなければいけないと今回の意見ではありましたが、本当に短期でやるなら「予算配分」をいじるしか方法はない。
しかしあの某有名県知事でさえ、「県知事という役職では限界がある」と言われた。
ということは「予算配分」をいじることは不可能だと判断せざるを得ない。
そうなると必然的に「長期的」なプランしか成り立たなくなるわけです。
情報網の整理、コミュニティーの開拓、これらのことって何年もかかるし継続的で莫大な努力が必要なのです。
これ私が作家活動しているから、コミュニティーがないところにコミュニティーを作る大変さっていうのがよくわかるのですよ。
それに人的な活動というものは「対面」が絶対条件になる。
どうにも人間の活動は「外に出て成りたつもの」と考える高年齢の方が非常に多いけれど、「一歩も外に出なくてお金が稼げる時代」が今ここにある。
つまり「人と関わらなくても生活できる」という時代背景の中で、どうやって部屋の中にこもった人と交流を持っていくのか。
この「こもった人たち」が将来無縁化する時代はもうすぐ来る。
それに先ほどの社長さんの話にもあったように「若い世代」が繰り上がってくる。
リタイアメントだけではカバーしきれない問題があるし、やはりリタイアメントだけで問題を自主的に解決するということは「世代間の断絶」が生まれる可能性もある。
そうなってしまってはいくらやろうと「元の木阿弥」になる。
当然恒久的に時代に対応できるよいプランなどないことはわかるし、時代を推測して立てていくプランが必要になってくる。
私たちは貨幣で成り立つ「共有空間」というものを数多く作ってきたし、個人がある基準において評価される社会というものを作り出し、「個人」というものが特化できるようにしてきた一方で貨幣がなくて成り立つ「共有空間」や個人と個人における「共有」を作ることを疎かにしてきた。
私は生きていないから断定はできないけれど、資料を読む限りでは昔の日本は「市井」のような存在はあって、貨幣が特になくとも「人情」というもので成り立つ社会があった。
しかし今の社会には「現代版市井」の存在は乏しすぎるし、特化した個人を解体できるようなメリットを伴う空間はまったくできていない。
すべて「善意」を信じて成り立つ空間であって、そこに参加するのが面倒な人を動かすだけの魅力が感じられない。
現代人は本当に必要に迫られたり、経済的・個人的なメリットを感じないとなかなか動かないという特性を持っていたりする。
現在無縁化が深刻化している東京都は立派な都市部だ。
それも世界を見ても例がないような超人口密集地域。
大阪のベラベラしゃべってノリツッコミの激しい子供たちのやりとりを見ていると「無縁なんて程遠いなこの人たちは」とは思ったけれど、東京の人たちの特性は「声を出さず、思っていることを溜め込む」という側面がある。
それで爆発したら初めてアンケートなどに書くという。
ここでも「対面」を嫌う傾向があるのはよく見て取れる。
こういう人たちとコミュニケーション空間を作っていかなければいけないという時代がすぐに訪れるのですよ。
今回の議題は「今現在どうなっているか」だけであって、まだこれからなのだろうけれど「どうなっていくか」を含んだ議論ではまったくなかった。
それが抜けた状態で「どうしていかなければいけないか」を話し合っていて、本当によい方向に向かうのか。
しかしその中にも絶対にヒントはある。
例えば今日大通りで食のフェスタのようなものがやっていたけれど、最近大通りではこの手のイベントが多い。
北海道には食があるので、この食を通じてまず参加型のコミュニティーを作ることは可能だ。
地域に何が眠っているのかということを掘り起こさなければ解決策も出ては来ないだろう。
具体的な解決策はそれらを持ち寄ることが大事だが、もっと先に徹底的にやらなければいけないのは「無縁化」までの詳細な流れを炙りだす事。
これをしなければすべてのことはただの「活動報告」で終わってしまう。
今日は現場で活動している人や普段その上で思っている人たちがたくさん意見していたけれど、私は40代の今目の前にいる「無縁」の真っ只中にいる方の「本音」というものを辛抱強く聞いていかなければいけないのではないか。
そのポツリポツリと出てくる本音の中で言葉をひとつひとつ拾い上げ、そこに想像力を働かせていかなければいけないのではないか、と感じた。
今回私が口を出すことは明らかに場違いであったし、ある程度言えたことは「発信が多すぎて受け取る側の整備がされてない。情報を探すだけでも大変。(極めて狭い範囲の)地域新聞などの必要性が求められる」ということだけ。
他の事は「現在の問題」ではないので、もう胃がキリキリと痛み手が震えそうになる中で現場の人たちの話を聞いていて今日は終了した。
目覚まし時計と龍馬伝のハンカチもらいました。
わーい。
ああ、胃が痛い。
外に出たらいきなり顔が白塗りで目のところが星のペイント。
「なにこれ聖飢魔Ⅱ?」と思ったらやっぱりそうだった。
閣下が札幌に降臨されておられました。
ファン、あのペイントでコンサート会場まで来てることに驚きを禁じえず。
なんかあまりにも座談会に参加してモヤモヤしすぎて自棄酒飲んで帰りました。
惰弱な精神でございます。
うう。
得るものはかなり大きかったかな。
今月末にはどんな意見出るのだろうな。
追記:
私は社会が健全な「社会性」というものを保つには、まったく違った価値観が隔絶された状態でそこにあるのではなく、認め共存できるような幅広い交流と教養が必要になると考えています。
教育の問題もあるでしょう。
個人の雇用の問題もあるでしょう。
個人の価値観と会社の価値観の問題もあるでしょう。
その価値観の中で壁ができる。
絶対的に正しいことでもそれが実行されない。
つまり、どんなに正しいことを訴えても最後にそれを阻害するのは「人の心」であるということ、それを実行していこうとするのも「人の心」であること、と考えております。
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