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あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

10/04

Mon

2010

NHK 無縁社会 札幌座談会感想

実は年齢が30ちょいなのですが、今回自分入れて9人集まった中では最年少でした。
参加してみて「なぜ老人は孤立化するのか」という問題なので、やはり現場の意見・問題点がたくさん出てきて、自分場違いだったかなという印象を拭い去ることはできなかった。

感想から率直に書くと「違和感」が非常にある座談会でした。

今回出席した人は30代ケースワーカーとして地方行政現場の立場から。60代生協職員、60代コンサルタント業務、30代便利屋社長、40代無縁感じている方、など幅広く出席していました。

あまりにも緊張しすぎて胃が痛くなったし、疲れ果ててしまって、放心状態で帰って来たのですが、今回の札幌座談会での内容は全国どこでも類似した議論がなされているのだろうなと感じました。

行政の限界、財源の問題、法律の問題、思想の問題、人的不足、日本的システムの問題、NPO等の実際の活動、活動における問題点。

それでですね、何が違和感があったかというと、「無縁化する老人たち」がすべて同じくくりにされているということです。
つまり「無縁化」には様々な理由があり、その上でカテゴライズされなければいけない。
そしてようやく分類された「原因」によって、各分類別に問題を掘り下げることができると思うのです。

前回の記事ではアンケートに答えましたけれど、質問項目がアンケートに沿ったものでした。

当然みなさん活動されている方たちばかりですから言いたいことはたくさんある。
思想的な背景もわかっていらっしゃるけれど、さらにそこで強烈な違和感。

「この人たち、若者と接してないな」という印象。

私は作家活動をしているから「心の動き」というものに非常に興味があるのだけれど、「この先どんな時代が待っているのか」ということがよく考えられた意見もまったくなかった。
我々はどんな未来を迎えようとしているのか。
ちょっと前までは「十年ひと昔」とは言いましたが、今は「五年ひと昔」のレベルで次々と目まぐるしく時代が変わる。

「時代が変わる」ということは、当然「まったく違った価値観を持った人間が繰り上がってくる」ということなのです。
その上で若い社長さんが興味深いことを言っていた。
「電球を取り替えてくれと呼ばれることもあった。電球の取り付け方を聞く友達もいないのかと疑問に思った」
とか、
「面接に来ると言っても、半分は来ない。中には親と来るケースも」
というお話。
「いくら考えても地盤がないとはがれる」とも言っていた。
きっとこの「地盤」の意味、説明しないと理解できないと思う。

あとは40代の方。
東京で20年ほど仕事をして帰ってきたら地元の縁や親戚縁者の付き合いはさっぱりなくなって自分が孤立化していたということ。

たとえ今議論していたとしても、現在定年を迎える年代は平均年齢で計算すると、あと20年も生きなければいけない。
その間にリタイアメントだけで本当に補える問題になってくるのか。
20年後には高齢者率30%、40年後には40%を迎えるという統計が内閣府の「高齢社会白書」にまとめられている。

まさにリタイアメントたちが生きている時代に大きく時代背景が変わっていく。
現在は貯金を充分に持っている人たちがいるけれど、これからはお金がないようなギリギリの人たちが増える。
バブルが終わった世代が来る。
いくら人的なカバーをしようと人数的に追いつかない。
お金も追いつかない。
ギリギリの生活資金で生活のみにお金がいき、情報を得られない高齢者たちが増えていく。
こういう方たちが想像を絶する膨れ上がり方をするということは、いかなる社会になるのかという想像がまったくなされていない。
これはどうしてなのだろう。
現在の理想がたとえ実現可能な段階まで来たとしても、既に時代が変化している。
変化した時代にプランが立ち往生する。
そういうことの繰り返しを永遠にやりたいのだろうか。

今回集まった人たちは「声を出す人」です。
私は大きく分類して三種類の人間がいると考えています。
1「声を出したくて、積極的に出し、なんらかの社会参加をしようと試みているもの・しようと考えているもの」
2「言いたいことはあるが、消極的で社会参加は何かの事情でできないもの」
3「言いたいことが別になく、社会参加にもあまり興味を示さない消極性の高いもの」

問題は2番目までギリギリわかるでしょう。
それでは3番目の人たちは?どうすればよいのでしょう。
行旅死亡人のデータベースを見ると凄まじい。
所持金は千円二千円のレベル。
ギリギリどころか限界のレベルで生活していることがよくわかる。
そういう人たちが無縁仏になる実態がデータベースからもよくわかる。

村のようなところならまだネットワークが広げられる。
これが都市部だと一気に様相が変わります。
つまりその土地で育った人ではない人が数多く移り住んでくる。
何かの拍子にまた移動し、実態がつかめなくなる。
都市部での所在不明の老人たちは、おそらく「その土地に根が張れない人」なのでしょう。
NPO等の活動というのは当然「そこにどういう人がいるか」が把握できてこそ展開できる。
東京の直葬率3割というのだから、札幌でも10年後にこの状態が来る。

短期・長期ではまったく違うので分けなければいけないと今回の意見ではありましたが、本当に短期でやるなら「予算配分」をいじるしか方法はない。
しかしあの某有名県知事でさえ、「県知事という役職では限界がある」と言われた。
ということは「予算配分」をいじることは不可能だと判断せざるを得ない。
そうなると必然的に「長期的」なプランしか成り立たなくなるわけです。

情報網の整理、コミュニティーの開拓、これらのことって何年もかかるし継続的で莫大な努力が必要なのです。
これ私が作家活動しているから、コミュニティーがないところにコミュニティーを作る大変さっていうのがよくわかるのですよ。

それに人的な活動というものは「対面」が絶対条件になる。
どうにも人間の活動は「外に出て成りたつもの」と考える高年齢の方が非常に多いけれど、「一歩も外に出なくてお金が稼げる時代」が今ここにある。
つまり「人と関わらなくても生活できる」という時代背景の中で、どうやって部屋の中にこもった人と交流を持っていくのか。
この「こもった人たち」が将来無縁化する時代はもうすぐ来る。

それに先ほどの社長さんの話にもあったように「若い世代」が繰り上がってくる。
リタイアメントだけではカバーしきれない問題があるし、やはりリタイアメントだけで問題を自主的に解決するということは「世代間の断絶」が生まれる可能性もある。
そうなってしまってはいくらやろうと「元の木阿弥」になる。

当然恒久的に時代に対応できるよいプランなどないことはわかるし、時代を推測して立てていくプランが必要になってくる。

私たちは貨幣で成り立つ「共有空間」というものを数多く作ってきたし、個人がある基準において評価される社会というものを作り出し、「個人」というものが特化できるようにしてきた一方で貨幣がなくて成り立つ「共有空間」や個人と個人における「共有」を作ることを疎かにしてきた。
私は生きていないから断定はできないけれど、資料を読む限りでは昔の日本は「市井」のような存在はあって、貨幣が特になくとも「人情」というもので成り立つ社会があった。
しかし今の社会には「現代版市井」の存在は乏しすぎるし、特化した個人を解体できるようなメリットを伴う空間はまったくできていない。
すべて「善意」を信じて成り立つ空間であって、そこに参加するのが面倒な人を動かすだけの魅力が感じられない。
現代人は本当に必要に迫られたり、経済的・個人的なメリットを感じないとなかなか動かないという特性を持っていたりする。

現在無縁化が深刻化している東京都は立派な都市部だ。
それも世界を見ても例がないような超人口密集地域。
大阪のベラベラしゃべってノリツッコミの激しい子供たちのやりとりを見ていると「無縁なんて程遠いなこの人たちは」とは思ったけれど、東京の人たちの特性は「声を出さず、思っていることを溜め込む」という側面がある。
それで爆発したら初めてアンケートなどに書くという。
ここでも「対面」を嫌う傾向があるのはよく見て取れる。
こういう人たちとコミュニケーション空間を作っていかなければいけないという時代がすぐに訪れるのですよ。

今回の議題は「今現在どうなっているか」だけであって、まだこれからなのだろうけれど「どうなっていくか」を含んだ議論ではまったくなかった。
それが抜けた状態で「どうしていかなければいけないか」を話し合っていて、本当によい方向に向かうのか。

しかしその中にも絶対にヒントはある。
例えば今日大通りで食のフェスタのようなものがやっていたけれど、最近大通りではこの手のイベントが多い。
北海道には食があるので、この食を通じてまず参加型のコミュニティーを作ることは可能だ。
地域に何が眠っているのかということを掘り起こさなければ解決策も出ては来ないだろう。
具体的な解決策はそれらを持ち寄ることが大事だが、もっと先に徹底的にやらなければいけないのは「無縁化」までの詳細な流れを炙りだす事。
これをしなければすべてのことはただの「活動報告」で終わってしまう。

今日は現場で活動している人や普段その上で思っている人たちがたくさん意見していたけれど、私は40代の今目の前にいる「無縁」の真っ只中にいる方の「本音」というものを辛抱強く聞いていかなければいけないのではないか。
そのポツリポツリと出てくる本音の中で言葉をひとつひとつ拾い上げ、そこに想像力を働かせていかなければいけないのではないか、と感じた。
今回私が口を出すことは明らかに場違いであったし、ある程度言えたことは「発信が多すぎて受け取る側の整備がされてない。情報を探すだけでも大変。(極めて狭い範囲の)地域新聞などの必要性が求められる」ということだけ。
他の事は「現在の問題」ではないので、もう胃がキリキリと痛み手が震えそうになる中で現場の人たちの話を聞いていて今日は終了した。

目覚まし時計と龍馬伝のハンカチもらいました。
わーい。
ああ、胃が痛い。

外に出たらいきなり顔が白塗りで目のところが星のペイント。
「なにこれ聖飢魔Ⅱ?」と思ったらやっぱりそうだった。
閣下が札幌に降臨されておられました。
ファン、あのペイントでコンサート会場まで来てることに驚きを禁じえず。

なんかあまりにも座談会に参加してモヤモヤしすぎて自棄酒飲んで帰りました。
惰弱な精神でございます。
うう。
得るものはかなり大きかったかな。
今月末にはどんな意見出るのだろうな。


追記:
私は社会が健全な「社会性」というものを保つには、まったく違った価値観が隔絶された状態でそこにあるのではなく、認め共存できるような幅広い交流と教養が必要になると考えています。
教育の問題もあるでしょう。
個人の雇用の問題もあるでしょう。
個人の価値観と会社の価値観の問題もあるでしょう。
その価値観の中で壁ができる。
絶対的に正しいことでもそれが実行されない。
つまり、どんなに正しいことを訴えても最後にそれを阻害するのは「人の心」であるということ、それを実行していこうとするのも「人の心」であること、と考えております。

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10/01

Fri

2010

NHK 無縁社会 アンケート

アンケートに答えた内容を転載。

Q.1
次々と明らかになっている高齢者の所在不明。あなたはどう思いますか?また、どうしてこの問題が起こったと思いますか?

1) 家族関係の変化
2) 地域のつながりの希薄化
3) 個人主義の行き過ぎ
4) 行政のサポート不足
5) 高齢者自身の貧困
6) 支える側の経済的事情
7) その他

A.1
1、の場合、既に家族がいないという場合もあります。いるのにも関わらず所在不明となるのは元々家族の間に何かのコミュニケーション不全があったと考えられるのが自然です。その延長線上で高齢者が孤立化することになり、子供たちは面倒なことを背負いたくないとも考えているのではないでしょうか。

2、の場合、地域が発信するものが少なかったりする。どういったコミュニティーが形成されているのか、そもそもコミュニティーそのものが存在するのか。流れて引っ越してきた場合、それらの情報を得る手段があるのかどうかは大きなポイントになるかと思います。これらの情報が得られなければ、その地域で何をしてよいのかもわからず孤立します。

3、の場合、個人主義の行き過ぎを非難するつもりは毛頭ございません。しかしこれ「ばかり」に力点が置かれ、個人と個人が隔絶される原因を作っているのなら大きな問題となります。つまり人間個人の力量や個人へのサービス、それらの恩恵を努力の成果において受けられるようになるのは大事なことですが、他者に向かってお前がそうなっているのは努力が足りなかったからだとか、きちんとやらなかったせいだ、とか言うのは、自らが社会で正当な評価を得られるシステムの中で生きているからこそ錯覚することであり、当然人間の生きようとすることへの機会は彼らが主張するようなものだけではなく、多様にあってこそ健全で柔軟性のある社会だと考えるので、もし何かが円滑に運ばずに滞っており、利益活動に貢献できない人間を社会の厄介者と見なすようであれば、個人主義の行き過ぎというよりも、既に現代病と言っても差し支えない社会性の欠如だと考えております。子の手の排他的思想が、個人主義の行き過ぎに当たるかどうかはわかりませんが、ある集団を支配するひとつの意識となって、孤独な高齢者など他人事と考えることもあります。当然、他人事ですからかまいたくもないですね。

4、の場合、予算が確保できないこと、人手の不足、法整備不足など色々と要因はあるかもしれませんが、ここらへんについてはあまり詳しくないので差し控えさせていただきます。

5、の場合、たとえばカード会社などの内情が少々こちらにも漏れてきますが、ギフトカードなどを買う老人が増えています。また支払いを年金でまかなっており、今度の法改正により限度額が一気になくなり焦げ付くケースも頻発しているようです。行旅死亡人のリストを見ると所持金が千円を切っているなど、相当過酷な内情がわかります。この社会は様々なサービスを受けるにも、まずお金があって成り立つようなものがほとんどですから、体が不自由になると車も使わなければいけなくなるかもしれません。それよりも明日の食費のために残りのお金を取っておくことを真っ先に考えるのではないでしょうか。よって、外になかなか出て行くこともなく、孤立していくことが考えられます。

6、の場合、私は一人っ子なので思うところがあるのですが、もし親が体を崩して介護しなければいけなくなった場合、やはり躊躇します。仕事と両立していけるだろうか、これが正社員だったら余計に考えるでしょう。介護に付きっ切りになったとして仕事がまた得られるだろうか。このご時勢一度仕事をやめたらあとがないかもしれない。そういうことは考え、自分の人生と親の命を天秤にかけて悩むかもしれません。もし自分の人生を少しでも安定させるほうを選ぶのならば親のことは涙を飲んで見捨てるかもしれません。

7、の場合、日本人には「他人に迷惑をかけたくない」という気持ちが現在の高齢者たちには強く、精神風土として他者に頼ることを嫌う傾向があります。自分のことは自分でという行動がやがて行き詰まり、孤立化を招き、誰も所在がわからなくなるということもあると思います。これは個人主義というよりも、他人の世話になることが申し訳ない、または他人のお世話になっても何もお返しすることができないという、ある一種の後ろめたさのような気持ちなのだと私は推測しています。




Q.2
あなたは、高齢者が孤立(無縁化)していると感じたことがありますか?
ご自身の経験や見聞きしたケースについて、高齢者、現役世代、あなたの立場から具体的にお書きください。

A.2
身近にいる高齢者で祖母がおります。
祖母は50代から水泳を習い始め、70過ぎほどまでコーチをやっていた元気はつらつの体でした。
しかし、メニエール、パーキンソンと病気を患い、現在は体も満足に動かすことができず要介護2を受けております。
前は近所交流がよく、周囲の人たちも窓から見える障子が少し開いていれば元気、そうでなければ何かあった、という具合に知らせることができ、毎日近所の人たちが見に来てくれたものでした。
またその地域には文芸誌もあり、短歌の投稿など文化活動を通しても活発に交流していましたが、文字も満足にかけず、体も動かずで、その土地を離れ、母がすぐにいける距離、札幌のマンションに引っ越してきました。
ヘルパーや介護士の方など週に何度か来ていただいてはおりますが、前のように近所の方と交流することはなくなってしまい、話し相手も少なくなってきたことから、急速に衰えを見せております。
また祖父も生きていた頃は急に脳梗塞で倒れ、半身不随となり呆けも進んできたことから祖父の妹がずっと付きっ切りで介護しておりましたが、これは幸運な例で、もし姉妹・兄妹いなかったらと考えるとどうなっていたかわかりません。
病院もずっと入院できるわけではなかったので、何かと苦労していたようでした。
ちょっとした違いで孤立するかしないか、すれすれのような気がします。



Q.3
高齢者の孤立(無縁化)を防ぐには、何が必要だと思いますか?
また、誰もが社会から取り残されないためにどうすればいいのか、アイデアがあればお書きください。

1) 家族の絆の復活
2) 地域での見守り強化
3) NPOなどの活動支援
4) 行政サポートの充実
5) 友人・知人など個人のネットワークづくり
6) その他

A.3
すべてです。いずれか一点に力を集中させるのではなく、すべてのネットワークが絡み合い、何かがもしダメになっても他の部分でサポートできる地域づくりが大事になるかと考えています。
その上で社会貢献することで「経済的なデメリット」や「行為における理不尽さ」が残ってしまっては、非常にネットワークの広がりが滞るとは思っています。
今まで「~だから」という理由で作っていた壁を壊して、自由に混ぜてみるような思い切った発想も必要になってくるかと考えています。

家族という問題につきましては、非常にデリケートな問題をはらんでいて、介入が難しい場合があります。
そのために教育、これは学校組織ではなく、昔でいう「私塾」のような場所、これが個人の本屋でも地域ボランティアが集まる何かの集会場所でもよいのですが、子供や大人が精神的孤独に陥っても、どこかでカバーできる組織を地域で作っておくことは大事に思います。

また、組織体が常に発信手段を得ていて、地域の人たちが常にその情報を得られるように発信受信のネットワークをきちんと作っておくことも大事だと考えています。



Q.4
最後に、高齢者の孤立(無縁化)について思うこと、日頃から感じている不安など、自由にお書きください。

A.4
私は一人っ子です。
私に子供ができなければ私の家はこれでおしまいです。
もし親が倒れた時、私は常に自分を優先させるか親を優先させるかで天秤にかけなければいけません。
白状のようですが今の社会で豊かな老後が保障されているとは到底思えません。
都会の人間は隣人のことを詳しく知らないし、老後になると新しい人脈もできずらくなります。
常に生きている限りは「新しい人脈ができるような場」が得られることが一番望ましいのですが、趣味も何もなければやはり孤立するだろうし、自分から早めに外に外に出て行かなければ黙っていても閉塞的になっていくのは目に見えています。
潤沢な資金がある人は結構ですが、もしなかった場合生活のことばかりに頭が働き正常な理性で物事を柔軟に考えることなど私は不可能だと思うのです。
そういう老人たちと現役で頭がフル回転している人たちとの思考回路はまったく違うということ。
経済活動に直接参加できなくなったリタイアメントの窮状は「利益がない」から関わらないのか。
問題は高齢者の孤立にあるのではなく、私たちが常日頃人と相対している、その心持の延長線上にあの孤立した老人の姿があるのではないか。

「誰かと誰かが繋がる理由」が、人間らしい自然的なものであって欲しいと願っています。
人の心を救うのは金でもシステムでもなく、人の心だと思っています。

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09/29

Wed

2010

NHKスペシャル 無縁社会 番組スタッフからの電話

今晩また電話がかかってくるようなのですが、その時に追記に書いておきます。

と、いきなりなんのことだか、わからないかと思いますが、題名の通り電話が来たのです。
まだ開催できる人数に達するかどうかわからないのですが、もし開催できるようであればNHK札幌で無縁社会について座談会をしませんか、と。

ツイッターを見ると応募することになっているようですが、自分は番組ご意見募集のコーナーから、自分のブログのURLを貼り付けて「意見ブログに書いてしまいました」と送ったのが、わざわざ来て読んでくれたようです。
http://asakaze.blog.shinobi.jp/Entry/550/

ちょっと偏見かもしれないけれど、民法ではここまで熱心にやらないと思ったと同時に、今回のこの特集におけるNHKスタッフの並々ならぬ熱意というものが同時に感じられた。
私自身も、いきなりこういう突拍子もない電話が来ると、わくわくするし緊張するし、自分が何をしゃべれるやらと不安やらで久しぶりに、いつもとは違った気持ちでいます。
勉強しなきゃいけないなとか、下調べもなしにしゃべれないとか、もういてもたってもいられない。

札幌では、どのようなことになっているのか、この都市に生きている人たちがどのような危機感を持って生活しているのか、というのが聞けるいいチャンスだし、自分もそこで思ったことをしゃべれたらしゃべってこようかと思います。

ふと最近感じたことがあります。
それは「経済がよくなれば、このような事態も少なくなるのではないか」という意見が結構あるということです。
このことを真に受けて肯定し、さらに逆側から言えば「お金が前提で成り立つ社会」というものを構築しすぎた末路が「無縁社会」ということなのではないかと考えるのです。
すると、たとえ経済的に回復したとしても、元に戻るだけで問題の「大元」となるものは取り去れないままになってしまいます。

私は都会育ちなのでよく村の構造はわからないのですが、少なくとも都市に生きる人間として隣人や他人のことなんてどうでもいいと思っているふしがある。
密接に関係しなければ繋がりあうこともないし、余計なことを詮索されずに済む。

それに「他人と関わる」ということについて、自分にメリットがなければとことん面倒だと思うところがある。
ボランティアなんて見返りもないし、「ただ働き」だと思う人もいる。

こういう考え方は自分の行動を「経済活動」ないし「利益行動」に直結して考えている。
そして「利益」や「貨幣」というもので成り立つ社会やサービス、コミュニケーションに至るまで、強固に構築してきた。
当然お金が潤沢に流れ、人々にいきわたっているうちはそれでよかった。
しかしいったん、「貨幣」という血流が止まったとき、経済活動と同時に人間関係までもが停止してしまう。
まず、この状態に問題があると考えるのが一点。
つまりは金というものに傾倒しすぎたあまり、その基盤が揺らいだ時に「絆」まで揺らいでしまうのは、「金」前提で成り立っている絆であり、自分なりの言葉で言うならば、その程度の薄っぺらい絆を構築することに邁進していたということになる。

色々考えがどんどん出てきて、何から整理すればいいのかわからなくなるほど混乱する。
本当ならこんな深刻すぎる問題、考えたくもない。
でも実際誰もが同じような考えに至る可能性はあって、自分が窮したときに「助けてください」と言っても、誰一人助けてくれないかもしれないという不安を強く抱えている。
それだけ、隣人ですら何者かわからないし他人だという都市社会に住んでいる。
干渉しすぎるし過ぎないというのが問題ではない。
しかし個々人が「繋がらなければいけない」という理由を失っている。
これは人が人に向かう前提としての根本的な心構えを既に失っていると考えてもよいのではないのか。
「国のせいで」という人もいる。
しかし国というのはシステムを作り出しシステムを遵守するために機能していく。
実際の我々の生活は「国」ではなく、もっと小さな単位だ。
個人に寄りかかることが負担でも、もう少し大きな「集団」や「組織」、そう肩肘張らなくとも「コミュニティー」というものがあれば、そこがクッションになる可能性だって高い。
が、その活動すらもか細い。

私たちが社会を作るうえで「個人」という単位を信じすぎた結果、会社や家族という繋がりをなくした時、「孤立」と直結した。
これが第二点。

他にも色々考えることはありそうだが、今回はここまででご勘弁。
脈絡もなく文章が滅茶苦茶かもしれないけれど、自分なりにちょっと搾り出してみた。

あとは、昭和を育った人たちの多くには「他人に迷惑をかけてはいけない」という価値観があり「自己責任」の感覚が強く、その観念も「孤立」に繋がっているのではないかという推測などがある。

これはもう、芋づる式に、かつ様々なものが絡まって出てきそう。
ここまで他人事のように放置してきて、いざ我が身の番かもしれないとようやく考え出した人たちにも憤りを覚えそう。
でもそれは単なる八つ当たり。
やめておこう。

今日の夜どんな電話が来るやら。


追記:
札幌座談会決定したそうです。
10月3日、行ってまいります。

都合により、10月2日まで非公開にしてました。
色々配慮があるんですね。

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02/01

Mon

2010

NHKスペシャル 無縁社会 ~“無縁死” 3万2千人の衝撃~

追記:解説(わからない方へ&おさらい)

先進国の中ではとりわけ自殺率の高い日本の自殺者の中に、近年「身元不明」とみられる自殺者が多くなってきている。
また「孤独死」を迎える人の中には、孤立した人間関係の下にあった人のみあらず、「家族」「親族」がいながらも「無縁死」を迎え、「無縁仏」になっているという実態が明らかになってきた。
「行旅死亡人」と呼ばれ、官報で死因や身体的特徴、遺留品などを記し遺族を探す。
「地縁」「血縁」すらも切れ、最後には「無縁死」を迎える背景には何があるのか。
また雇用の不安定さが経済的不安定さを生む中、会社を失うとともに「社縁」を失い孤立する人もいた。
仕事のみに生き、家庭を持たなかった人、家庭を失った人。
独り身でいる人が無縁死への危機感を覚え、死後のことを話し合う生前予約をする人が増え、それに対応する組織も近年急増している。
また、「無縁死」に自治体が対応できない状態に「特殊清掃業」と呼ばれる死後の身辺整理、埋葬を行うNPO法人、組織もあり需要が高まってきている。
「無縁死」の事態を直視し、現代社会に生きる人に何が起こっているのかを浮き彫りにする。


~~~以下、本文~~~

何から書いたらいいのか…書きあぐねている。
1時間見ながら色々な思いがぶわっと出てきた。
無縁仏になる死者数年間3万2千人。孤独死や自殺者も含める。
一年間取材をしていたというから、企画の段階も含めて、ちょうど私が「新・人間失格」を書こうと決心して書き始めた時期と似通っている。

東京に行ったとき、少なくとも感じたものは、無関心さを装った人々の姿だった。
人が多すぎてまるで雑多に見えてくる。
人ごみの中を行くのは、まるで障害物を避けているような感覚になる。
深夜新宿で酔いすぎて大の字で倒れている男性のすぐ横を多くの人たちが通り過ぎる。
自分は助けようと思うよりも、関ったことでトラブルに巻き込まれたらどうしようという思いが先立った。
特に新宿の路地裏など、見知らぬ人の雰囲気が少し怖い。
今住んでいる札幌ではちょっと感じられないような空気がある。

複雑なエネルギーが折り重なって出来上がっている都会。
無関心なようで関心を惹き、関心を惹いているようで距離を取っている。
ある意味「ドライな関係を維持している」と言ったところだろうか。
何か、言葉にできない妙な感触を受けた。
言葉にできることと言ったら「目を輝かせている人が少ない」ということだろうか(ギラつかせている人はいた)。
東京に息づく人の集合した力は凄まじいものがあるけれど、電車の中や行きかう人々、路上で主張する人たちの瞳の奥に垣間見える、ある一種の「諦観」が見えた。
個性があるようで情報に飲まれ、主張があるようでパフォーマンスに過ぎない。
その中で様々なものが練磨されていて、排他され、再集合している。
あの町には鬱憤や欲望が渦巻いている。
そして孤独を抱えながら互いに無関心を装っている。
それを感じた。
ある意味矛盾が多く、ある意味ストレートでひねくれている。

自分が太宰治の原作「人間失格」を現代版にリメイクしようと決心したのも、直感的に肌で感じた、人々の妙な温度だった。

この無縁社会でやっていた大きな問題点は「家族」「兄弟」「親戚」がいるにも関らず「無縁仏」になるという実態だった。
「無縁死が嫌なら支援しあえばいいじゃない」ってツイッターで囁いていた人がいたけれど、じゃあ私は逆に聞きたい。
「何を支援しあうのですか?」と。
故郷に帰りたくても帰れない。人とのつながりが徐々になくなっていく。
たとえば東京であれば「地元民」じゃない人が多かったりする。
それにこれからは「お金がない中高年」も増えていく。
「支援」って何をするのですか?
孤独じゃないように地域コミュニティーを作る?連絡しあう?
私たちは自分で思っている以上に隣人を信用していない。番組では子供が老人の孤独を救った例があったけれど、中年が子供に性犯罪を起こしたとしても子供が中年を狙って金品を強奪しても、金がないばかりに多くのトラブルが起きたとしても、私たちは同じように他人を見ることができますか?
それに身体的な事情を抱えた人だっている。
我々は本音で語り合うほどぶつかり合っていない。
我々は自分には関係ないやっかい事は避けて生きているでしょう?
悪いことばかり考えて、行動することを妨げることほど愚かなことはないけれど、言いたいことは「すぐにコミュニティーや支援システムを適応できるほど我々は常日頃から信頼関係を築いているのか」ということです。
システムに飼いならされている現代人のこと、「支援しあいましょう」と言いながら互いに支援を待ち続けるというこっけいな状態が起こりうることも充分考えられる。
私はそもそも、その最初の人間関係を作る「家庭」から崩壊しているとは思うのだが…崩壊、というよりも「孤立」と表現したほうが正しいか。
意外に目の前の見える問題にばかり気をとられていたら、問題が発生している根本にたどり着けないかもしれない。
原点はどこにあるのか、という問いはこれからもなされ続けなければいけない。
そのためには、多くの人の苦痛に満ちた声にひとつひとつ耳を傾けるという途方もなく根気のいる作業をしなければいけない。


番組の中で出てきた「特殊清掃人」のブログをずっと見ていた。
妙に凝り固まった考え方の人がコメント欄にわいていて、ここにURLを載せると、それを助長させてしまうのではないかと心配なのだが、大事なことを訴えているのでぜひ載せたい。

http://blog.goo.ne.jp/tokushuseisou
特殊清掃「戦う男たち」

我々の孤独を救うのは、我々の中に流れている、この血の熱さだけだと思う。
思いやりとは一言に言うけれども、本当に人を思いやるということは、「自分の血肉を差し出す」ことにも似ていると考えている。
その痛みを感じたくないのなら、距離を取ったほうがいいし、関らないほうがいいのだ。
死を間近にしている人のブログを読むと、生きていることの幸福を感じる。
人も本来ここまで高度な知恵を持っていなければ、他の肉食獣に追い立てられ、食われる運命にあったはず。
そうではないからと言って、正直人間だって明日の運命すらわからない。
人の一番の特色のひとつに、言語で感情を構成し、主張を伝達できる点がある。
それはある意味罪を意識させ、後悔を重ねさせることだろう。
すべては当人の「自己責任」の問題かもしれないが、他者は当人と接する時、この「罪」とも接する強さを持たなければいけない。

我々は仕事をして何を得ているのだろう。
お金を払いあって何を得ているのだろう。

生きていくための仕事。
生きていくためのお金。

単純にそう考える時に、末路として待っている無縁死。

先ほどの「支援」のこと、「ならば震災の起こった神戸では大規模コミュニティーができていて今も密接に連絡を取り合っているはず」と思い、震災体験者に電話したが「生活が戻ったら各々の生活に戻っていって特に密接に関っているってわけでもないよ?」とのこと。
15年たって「都会」が戻っているようだった。
実際には他の地域には違う何かが残っているかもしれないが、それは現地に行かなければわからないだろう。

人は何に慣らされていき、何を忘れて生きられるのか。
年老いた時に気がつく非情な現実に、人間社会そのものの欠陥を見るのか、それとも「こうなったのもしょうがないことだ」と思うのか。
私だって、「無縁社会」の実態を他人事としては見られない。
自分もこうなる可能性を充分含んでいる。
都市構成のありかた、地域社会のありかた、目の前に見えるすべてが我々に無関係ではない。

「心の本音」だけが、最後の切実な訴えになる。
それを面と向かって言いづらい関係で、我々は「うまくやっている」と思い日々を生きている。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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