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あさかぜさんは見た

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07/15

Fri

2011



社会派ミステリーとして、何度もリメイクされ映像化されている松本清張の代表作である。
初版が1960年だから、私の親が生まれた年と言ってもいいくらいの開きがあるだけに古さが浮かぶだろうが、そうでもない。
すらすらと読みやすい文章から、携帯電話もインターネットもなかった時代の忍耐力がうかがえる。
自分としては今西刑事が俳句を読むのだけれど、下手でもつづっていく俳句の登場がもう少しあると当時の風景がありありと浮かんだのではないかと思う。
これを読んでいくつか思ったことがある。
当時としては当たり前の風景が今となっては貴重な資料となりえる、ということである。
だからこそ、方言や今となっては見られなくなった病気のことなど、しっかりと記述しておくことで、その当時の風土や風景がいかなるものだったのかが伺えるのだ。
このことは年代が経ってみないとわからないことではある。
いくつか、ちょっと強引なところもあるが当時のトリックとしては斬新極まりない。
とある機械についても、ヨーロッパでフーリガン対策か何かで用いていたが結構大型、車の上につけていて50mくらい先の人にあてていたから大きいのだろうが、やはり結構な威力を出すには大きな装置が必要になっていた。
昔はどうだったのだろうね。
ただ、松本清張の短編などを読むにあたり、主人公の推理や勘が超人的に冴えている、もしくは執拗に考え抜くところは、作者本人の勘の鋭さ、疑問の持ち方がありありと反映されている。
後半になって、神が降りてきたように事件を述べていく。
ここら辺の文学性の欠如は解説でもちゃんと書いてある。
社会派ミステリーと呼ばれるようになったのも、いわゆる差別となった病気のことや、今の日本でもそうだけれど出世に傷がつくことを恐れる日本人の出世意識が強く出てきているからだ。
経歴に傷がつくのを日本人は恐れているし、経歴に傷がついている権力者を日本人はあまり認めたがらない風潮は強くある。
だいたい大人になると他人の優しさを多少冷めて受け止めてしまう感覚になっていくところ、とても寂しいことではある。
特に過去に対して深い傷があったりすると、人間を根本的に信用していないし、信じられないし、だいたい信用したら裏切られるという、なんとも蟻地獄のような目にあうのは、別に小説だけの話ではないのだ。

ところで方言が最初のトリックになっているところ、方言について考えさせられる。
これから方言ってどうなっていくのだろう、と。
多少は残っているが、この小説が書かれた状況からはだいぶ薄まってきていて、聞き取れないような方言を話す人は若い人ではいなくなってきている。
「私でもおじいちゃんおばあちゃん何言っているかわからない」というのだから、方言もまた資料上の記録にしか残っていかないのではないか、という時代の流れを感じながら小説を読んでいた。
前半戦汗水垂らして地道に動いていく今西刑事や周辺人物の人間味が、後半になって薄まっていき、前半の生き生きとした人間模様のあり方が多少薄味になっているところ、書き方の難しさを教訓として突きつけられる作品でもある。
また長編になればなるほど作者本人が仕掛けたトリックに振り回され、大きな欠陥を生むことになることなど、まるで犯罪者が整合性を取ろうとして逆に不自然になってしまうという創作ならではの難しさもこの本には存在している。

芸術家や批評家が出てくるけれど、これらの存在は内省することで客観性を保っていないと本当に独善的な世界を積み上げて、そこに固執し続けなければならないという事態を招く。
男の人は、本当に力の上下関係に弱い悲しい生き物なのかもしれない。

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07/15

Fri

2011

だいたいこういうニッチな世界、これは演劇とか芸術とか、そういう偏狭な世界に入っていく人たちに言えると思うが、専門的になればなるほど、技術的に高まってくれば高まってくるほど、理解が深まれば深まるほど視野が狭くなるという側面がある。

私は文学をやっている身分であり、文学を目指す以上は、やがて病的なことも言うようになるのかもしれないが、やたらと「若い作品」を「自分の知っている限りの最高峰」と比較して「まだこの基準には達していない」とするのは、どの世界でもありがちなことだ。
当然私もそういうモノサシでもってやることがある。

そもそも「文学とは何か」という議論において、私の答えは明確であくまで「人間が生き生きと描かれているリアリティ」を示すものとするが、これは人の感覚によって大きく尺度が違うので、もっと客観的に示せるものはないのかと言われると難しいところがある。
そもそも人間、接したことのない他人のことを描かれても理解できないことは多々ある。
その「接したことのない人の心情」を慮ってみるのも、小説を読む楽しさなのかなと思う。
だが、例えば快楽殺人犯の思考回路でもって世界を分析した本を書いたとしても、恐らく誰も理解できないどころか、焼き捨てられるようなレベルと判断されるだろう。
ここでの読者における「人間らしさ」とは「共感」に他ならない。
必ずしも「人間らしさ」は「共感を担保」するものではない。

それ以前に芸術作品である限りは他人の感性における多数の同意を得るものが常に優れたものであるとは言えないところが、なんともこの世界の難しさでもある。
他人の感性を投影して値段をつけるというのが芸術世界の根本にあるために、「売れる」ということを意識しただけでたちまち個性が消えて下卑てくる。
芸術性とお金。
この二つの側面で揺れ動いてきた芸術家は多いとは思う。
芸術家は病的なだけに自分と他人の境界線を必死に埋めていく作業を生涯にわたってしていかなければならない。
それだけ、やくざな商売だし因果なものなのだ。
そして人気も関わってくるだけに「生もの」としての性質も強い。
新人であろうと大御所であろうと、この世界にいる限りは生涯戦わなければならない宿命である。

ところで、テレビで一番有名な文学賞は直木賞・芥川賞であるが、いつも審査員たちの偏狭振りが面白く腹立たしいことがある。
だいたいどの賞の選評でも言えることだが作家が他人の作品を批判すると、必ず自分の立ち位置からものを言ってこき下ろすということをやりだす。
自分も例外ではない。
それは必ずしも相手の狙うところの延長線上でものを言うわけではないので、時として作者本人にとっては迷惑この上ないことも珍しくない。
それは一所にこもって文学などという狭い世界を極めようとするあまり、思考回路や視野の狭さを自ら招いているのだという失態に気がつかなくなったほど病気にかかってしまったという証でもある。
つまり好意的に言えば「文学を愛している」のだ。
その熱愛振りといったら、好みの女のスタイルや性格を最初から最後まで語りつくさなければ満足がいかず、自ら愛している女性を酒の席に連れてきて「どうだ、この女は最高だろう」と舐めるように再度見逃した部分を語り、挙句の果てには「お前もこんな女を愛さなきゃいかん」としてやったりの満足顔で肩を叩いてくる、というぐらい底知れぬものがあると言ったらよくわかっていただけるだろうか。
これは「マニア」の世界にも同様のことが言えると思う。

この「病気」にかかった人たちが上位を占めるのが偏狭な世界の逃れられぬ宿命であるために、新しい風潮が評価されにくいというデメリットを含んでいる。
そもそも文学は時代に生きる人間を反映しなくては「現代の作品」とは言えないわけであり、別に経済小説であろうと量子コンピューターの世界であろうと宇宙理論であろうと人間世界と密接に関わり、その人間世界を鋭く切り取っていれば文学であると私は思う。
それがデフォルメされた世界でもなんでも、ひとつの真実を強烈に切り裂いているのなら、作品としての評価は充分に下すべきであるというのが持論だ。
ところが「文学が」「人間が」などと言って自分の慣れ親しんだものを尺度に、自分が新しい時代の風潮や理論を知らないばかりに、壇上の上で滑稽な踊りを見せびらかすという一人エンターテイメントをやりがちなのが「病気にかかった人たち」である。
私もその宿命から逃れられないことから自らのことを「永遠のピエロ」と呼ぶことにしている。

この病気は風邪のように放置しておくとこじらして悪化する可能性が高い。
だからこそ日々の予防や心構えが大事になってくる。
健全な魂は健全な肉体に宿るというが、健全な肉体作りは体を動かさないことには出来上がらない。
体を動かすということはより多くの人や見たこともないものに触れ合うということだ。

もし、この記事をお読みの方が私以外の「病気の人」に出会ってしまったら、芸術家の因果な宿命たるこの病的な心理作用のことを思い出して許してやって欲しい。
愛ゆえの、歪みであると言えるのだから。

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07/07

Thu

2011

児童ポルノの一斉摘発

前にHP運営していた時に掲示板を設置していて、そこに業者がここぞとばかりエッチな画像を貼り付けて出会い系サイトのURLを貼り付けていった。
もうそのHPも使っていなかったので放置してずっと見ていたけれど、結構しつこい。

児童ポルノを所持している人を検挙したみたいだけど、不思議なのはどうして所持している人を逮捕して、製造者を叩かないのだろう。
持っている人よりも作っている人のほうが確実に犯罪だと思うのだが。

例えば所持って掲示板に貼り付けられるとか、メールで送りつけられる。
そして画像保存、及びプログラムによる自動保存など、こういうのも「所持」になるのかな。
今回は公衆送信が対象みたいだけど、将来はどうなるかわからない。

ちょっと前の映画で「マイノリティ・リポート」という映画があった。
トム・クルーズが「犯罪予防局」のエリート職員。
この「犯罪予防局」はプリコグと呼ばれる「予知能力者」によって予知された未来の犯罪を未然に防ぐという目的がある。
それでプリコグは「ほとんど」予知を外さない。

ここで一番問題になるのは「実際にはまだ行われていないが、未来には確実に起こるであろう犯罪を取り締まる」というのが問題になった。
つまり「1%でも外れてたら冤罪じゃないのか」ということだ。
もっと言えば「実行されてない犯罪は刑罰の対象に成りえるか」ということ。
当然「実行」というのは「物理行使」のことを言う。

映画の世界では犯罪はほぼ撲滅され平和な世界が築かれていた。
しかしそこに捜査員のコリン・ファレルが調べに来る。
「システムは完璧だとしても、いつも間違うのは人だ」と。
常にシステムは運用者によって歪められていく。
これは絶対的な優位性を持つ限り避けられないことだ。
なぜなら、人間は欲望の生き物であって、自分のよかれと思うものが実現される状況にあれば際限なく行っていこうとするものだから。

ところで、いつから社会は人の精神にまで踏み込んで規制するようになったのだろう。
欲望の制御は非常に難しく、江戸時代にも春画の規制があったそうな。
でも庶民の間では相変わらず流行った。
規制をしても、結局は地下に潜るだけで、見た目上の対処ができるだけで事実上は何一つ変わらない。

私は常々思うことがある。
例えばナイフを持ったとしても殺意を持ったものが全員殺人を行うわけではない。
例えば児童ポルノを見た人が全員興味を持つわけではない。
むしろこれらのことは逆に嫌悪感を持つ人のほうが多い。
殺人を行う人は人の大事さを見失った人だし、児童ポルノを持つ人は精神的に幼さやもしくは青少年時代に戻りたい願望を強く持っているのかもしれない。
いくら規制しようと、これらの人はゼロになることはない。
殺人への快感を持った人を矯正するのは難しいし、やはり児童ポルノへの性的興奮を持った人を矯正するのは難しいと私は思う。
だからこそ、この手の規制を強化するよりも大事なのは、この手の人間を作らないための人間への寛容さなのではないかと思う。

小説を書いていてよく思う。
人間の自然な心理として、自分の行動や思いの邪魔をする壁は、できることなら排除したい。
やられる方は、その壁が狭まれば狭まるほどストレスは溜まり、最後にはなんらかの過剰な行動に出る。
何度となく繰り返され、歴史的データが溜まり検証作業へと入っていく。
データだけ見ていると、見失うものがたくさんある。
犯罪数は減っていても、犯罪を起こすような鬱憤を持った人は倍以上に増えているとかね。

頭の中だけで考えると、社会は真っ白になることができるのだ、これこそ理想の社会。
などと思い浮かべることが可能だが現実の人間は限りなくグレーだ。
真っ黒にもなれないし真っ白にもなれない。
真っ白になれる人は稀だし、当然真っ黒も稀だ。
世の中がマザー・テレサであふれ返ったことはないし、切り裂きジャックであふれ返ったこともない。
欲望にぐらんぐらんと揺さぶられ、どうしようもなく自分を制御できずに盲目的になることも珍しくない。
健全な社会とは、自他のグレーさを肝要に受け止め、「予防」という観点を、憎しみや怒りや欲望によってではなく、「教育」そのものに置くべきではないのかと思う。

私はこれから先、児童ポルノを好む人は増えると思うところがある。
というのは、詳しく見ているわけではないが、どうにも「大人の女性と対等に付き合えず、年下の制御しやすい子を特に好む」というのは少々精神的に幼いものがある。
精神的な幼さは人と人との多様性を知らないか学んでないか拒否しているところがある。
都市化が進むにつれて自分と関わる人間を制御できるようになってくるだろうから、おそらく精神が練磨されないまま大人になっていく。
なので、増えるのではないかなと思っている。

昔の話で校長先生にずっと世話になっていてお風呂に入ったりしてじっとしているだけでいいと体を洗われたり着替えをさせられたりと、肉体関係は一切無しで大事にされたという話を聞いたことがあるが、ここまでいくと性的嗜好よりも美術品扱いに近いものを感じる。
まあ、そういう人も世の中にはいるのですな。

憎しみを持っても殺さない。
児童ポルノを見ても別に興奮しない。
そういう大人を育てる社会が一番健全ですよ。

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07/06

Wed

2011

神経が張っている

何かが起こる前触れなのか、恐ろしいほど目が冴えて眠れない。
今も3時間ぐらい寝て目覚めて、とりあえず朝ごはん食べたところ。
いつもは6時間ぐらい眠れる。

今言葉にできない感覚に襲われている。
というのも、来そうな予感がする。
それも早めに。
手紙でも送ってプッシュしとくかな。

松本大臣事件でツイッターであれやこれやとつぶやかれていたけれど、お金持っている上の人たちはもっと凄いのがいて、あのくらい序の口みたい。
私はトラウマがあって、あの手の言動は苦手。
私もこれからどこまでやれるのかわからないけれど、いずれはアメリカに渡って出版事情や能力をいかにして育て、またはスカウトしていくのかという事情などを学びたい。

最近量子論やタイムトラベラーのジョン・タイターが言った「世界線」という考え方をマーフィーの法則や、成功法則の理屈と絡めて薄々感じるようになっている。
私の突破口になったのは「世界線」という考え方。

通常小説ではタイムパラドックスといって、例えば私が過去に行って私の両親を殺した時、私は死なないのはおかしいと言う。
これは「世界は時間の一本軸の上に常に築かれている」というのが通常の人間の感性の捉え方で世界線の考え方はタイムパラドックスは常に起きず、変化を与えた瞬間から世界線が分岐するということらしい。
だから一本ではなく無数の束状になって世界は存在しているということにもなる。
これは量子論の考え方「シュレディンガーの猫」にも基づいてくるのだけれど、私はここに独自の考え方を入れて小説を書いた。
起こりえる可能性の範囲をひとつの板としてそれが時間という連続した板で繋がっているという考え方。
その板のずれが人間の運命であるのではないかと考えた。

そして世界線の考え方から言えば人間が行い得るすべての行動は他の世界線で行われているため、性善説も性悪説もないというのだ。
ではこの世界線や運命、潜在意識などと絡めてくると、人間は違う運命へ徐々に移行できるということでもある。
思い描いている自分自身の未来を実現させるための、世界へのアプローチの仕方は実感として掴んでいるわけではないけれど、何かを薄々感じている。
今まで背負ってきた運命とは確実に違うところに行こうとしている。
これは感じる。

そしてもうひとつ言える。
こっぴどいところからようやく出たー!・・・と根拠もなくうきうきしている。

私がその場に立つにはいくつかの条件をクリアする必要があった。
もう書いてしまおうと思う。
起こってもいないことだけどクリアした条件は書いておこう。

まず母親の生存、父親との和解、自らの憎しみとの和解、才能への絶対的自己信奉、ストレスコントロール。
最後にもう一つ達成しなければいけない。
才能への信用。
その後は才能での説得が可能になるため、だいぶ楽になる。

もし芥川賞まで行けたら、30年以内のノーベル文学賞受賞を宣言しようと思う。
30年。
還暦過ぎてます。
どんな老人になるのだろう。

こうしてわけのわからない膨大な文面も、将来の自分への手紙になると考えると楽しい。

体力つけて健康に過ごしてください。
いつまでも若々しく。
体が資本。
運動を心がけてお野菜とって水もいっぱい飲んでね。

と、還暦のパーティーでバカ騒ぎしている自分に言ってみる。

酒飲み過ぎるなよ!

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07/05

Tue

2011

小説家を目指す人の救いがたい病

うーん。
時々小説家を目指す人の中でネットで意見交換している人がいるけれど、最近ようやくわかってきたことがある。

例えば小説家と一言に言っても、大衆小説、純文学、ライトノベルと大きく書き方が異なる。
大衆小説は文章としての面白みやストーリーとしての構成のうまさなどが重要視され、純文学は人間の内面を深く抉り取っていくような人間洞察に優れた素質と奇抜な構成力が必要になり、ライトノベルは破天荒な空想の面白みのみを特に重要視する。

それで、特にこの三つの意見と考え方がごちゃごちゃになって区別もされてない状態になっている。
私の考えは文学とは人間を見つめるもの、というよりこれからの芸術は都市化社会の中で失われていく人間的感覚をきちんと刻むことがひとつの芸術が存在しえる理由となると思っているので、あくまで人間に寄り添って、というのが主軸にある。
だから立場から見てしまって、相手の望むものから大きくそれる意見を出すことも多々ある。

ネットでは自分の望んでいるものを実現させるために、自分の意見と似通った人を集めて自分の作品を肯定していく傾向があり、違った立場の人は違った立場で意見を押し付けてくるという、成熟してくればしてくるほど「要塞化」と「拠点攻撃」がなされ、最後の勝利者は他の意見が入りづらいように完全に周囲を同意権の人で固めて堅固な要塞を作る。
「要塞化」っていうのは、自分の思想を同じタイプの意見や人間構成で固めてしまうことね。
「拠点攻撃」は「要塞化」されようとしているものを、自分の価値観から崩そうとする人「小説はそうじゃない」とか言うのがそう。

この二つの攻防によって、偏狭な自らの世界観を誇示するというのが、よくあるパターンであります。

それで毎年懸命に文学賞に書いては送る人がいます。
文学賞の性質も調べないで、名前や好きな作家がそこから出ているからとか、文章よりもむしろ憧れに近いもので送るのですね。
「私もあの作家みたいになりたい」
「自分の作った文章が世に認められたい」
そして年間何十人も新人が生まれては一割も残っていかない悲惨な結末が待っているのですが、どうしても諦めない人がいる。

新人賞を受賞するまで諦めない人たちがいるのです。
ここら辺の心理は芥川龍之介の「芋粥」に滅茶苦茶近いものがあると思うのですが、食べたことがないばかりに憧れや妄想の中で膨らんでいく「芋粥」をぜひ食べてみたいのだとあれこれ思い巡らすのですね。
新人賞に応募している限りは、この話の結末までたどり着けないので、永遠に思い巡らしている状態なのですが、実は一番この状態が楽しいのではないかと。
だからやめないんじゃないかと。
そう思うわけですね。

で、これが救いがたい病であって、この病にかかった限りは、一生を費やしてもやり続けるかもしれない。
ある意味、幸福なのではないかと思うこともあります。

私も最近気がついたことがありますが、この手の人たち、自分もそうでしたが、とにかく「研究不足」なんですね。
小説は読まない、人間は観察しない、ヒット作に憧れ劣化を作る。
大衆小説における罪と純文学における罪とライトノベルにおける罪を平気でやってのけてしまう。
そのくせ、自分の作風に迎合する人間を集めてくるという、本当に救いがたいのは、自らの罪を数の力や慰めで浄化させようとするわけです。
しかしその「過程」は大事なわけです。
気がつけばいいだけで。
気がつかないから「罪」なのです。

これから先の時代、電子書籍なるものが出てきて、罪人どもが地獄釜で沸き立つようにボコボコと煮え立ち沸き立ち溢れてくるわけですね。
そして自分と似たような人間がわんさかいると安心しつつ免罪符を得ていくという、目も当てられない阿鼻叫喚の状態が渦巻いていくわけです。
そして河原で自分の作品を石のように積み上げては、大きな鬼、その名も「新人賞」という鬼に蹴り崩されるわけです。

さて、かと言っても、これからの時代新人賞や文学賞だけが文学の純度を測るモノサシではなくなるわけです。
彼らの業界も古く、依然として旧体質のまま。
温故知新どころか、温故・・・知新してみたけど温故という状態であります。
旧体質の構造を崩すには、古い人間の頭が一新される必要があります。
当然電子書籍にだって未来はある。
そう、誰にだって未来はあると、誰でも作家の時代が訪れて錯覚するわけです。
そしてさらに罪が加速するわけですね。

私が編集者や出版社の人間だったらダメなものは落としたい。
進歩ない勉強しない愚痴ばかり、挙句の果てには出版社のせいにする読者のせいにするという、私も堂々とやっていた救いがたい状態の自称なんちゃって作家をこの世から一掃してやりたいと鬼のごとく切り捨ててやりたい。
・・・おそらく、救いがたい状態が蔓延してくれば、こういうこと考える人はたくさん出てくると思います。
結局「ブランド力」をつけるための作業なのですね。

だいたい作家は作ることばかり考えていて、あちらさんの状態は知らない。
それでもいいのかもしれませんが、いかに自分の思想や作品がまだまだ眉唾であるかを知るには「学ぶ」ことでしかわからないわけであります。
もし本気で作家を目指したいのなら学ぶことなくして前進はありません。
「芋粥」を脱出できないのはどうしてだろうと、ふと考えた今日この頃。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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