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あさかぜさんは見た

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07/27

Wed

2011

電子「書籍」という「呪縛」

新しいテクノロジーが生まれた時、人はその道具といかに対峙すればよいのか迫られることは今に始まったことではない。
大昔であれば突拍子もない発明は人々の生活から置き去りにされ、長い年月を経て「既に~を発明していた者がいた!」と教科書に載るだろうが、ウェブテクノロジーも次々と進化している中、一体「テクノロジーとは何か」を自分たちの生活から見つめて、いまいち理解し切れていないのが日本の「出版業界」のようだ。

そもそも彼らは電子書籍と騒ぎ立てるが一向に昔のしがらみから、垢抜けて出ることはできない。
というのもあらゆる記事を読むにあたり彼ら業界人は「本」というものにこだわりすぎていることが見て取れる。
そもそも日本語の「電子書籍」という名前も既に間違いだったのではないかという気がしてこないまでもない。
つまり発想の方法があくまで「紙の本」と「電子の本」という対比でしか見ておらず、「電子書籍」を「コンテンツ」とか「ツール」という認識に改めることがないのだ。

これは「著作物に対する権利関係」、もっと言えば法律の事まで言わなければいけないだろうが、今回はそろそろ「電子書籍」を「紙の本」と比較すること事態が根本的な過ちであるということをハッキリ言いたい訳である。

当然現在電子書籍に関わろうとしている人たちは「かつて紙の本で育った人たち」だ。
だから「携帯でストーリーを読む」ということもないし、「青春時代の友達・恋人のやり取りを手の平サイズの端末で済ませる経験」もなかった。
だからこそ「離れているノスタルジックな時間」や「忍耐力」や「孤独な時間を思索に当てる」という豊かな時間を持っていた世代と、これからの世代は感覚がかけ離れている。
そして「古きよき時代を思い浮かべる世代」からは「若者にとって読書とは何か」という視点で新しいツールが語られることはない。
ここに落とし穴があるということにすらも気がつかない。

例えばこの記事を例に挙げよう。

電子書籍が紙に負ける5つのポイント(WIRED.jp)

ここには5つの理由が挙げられている。

1)読了へのプレッシャーがない。
2)購入した本を1カ所にまとめられない。
3)思考を助ける「余白への書き込み」ができない。
4)位置づけとしては使い捨てなのに、価格がそうなっていない。
5)インテリア・デザインにならない。

ぱっと見ただけでも「紙の本はこれだけ優れている」という点から電子書籍を見ているに過ぎないが、電子書籍を「コンテンツ」とか「ツール」だと思えば別にこの考えはどうでもよくなる。
そして感覚を携帯世代に合わせてみよう。

1、携帯世代には読了へのプレッシャーよりも、別の目的がある。
つまり一昔前に帯で流行ったが「泣ける」「感動」を入れると売れるなど、本は小説であろうと「目的別」によって売れていると見たほうがよい。
だからこそ自分が望んでいないものへの抵抗感が強く、また「目的」に沿って買っているということは既に「コミュニケーションツール」であって「感情の共有」が最終的な目的となっている。
「ビジネス書」を買いに来た人が「感動の純愛小説」なんてものには目もくれないのと一緒だ。
本屋での偶然の出会いを期待しているのは本に慣れ親しんだ玄人であって、年間5冊も読まない人は「偶然の出会い」よりも「目的のものがあって本を買う」ことが言える。

2、必要ない。
これはプログラムの問題であり、きちんと整理できるようにユーザーのニーズに応えればいいだけの話だ。
しかしだいたいプライベート端末、携帯の中に入っているデータと言えば「人にはおおっぴらには言えないもの」だったりする。
少し話がずれるが、私の男友達は携帯の中にいやらしい動画がたくさんストックしてあって、確実に「何が好きか」がハッキリとわかる。
その友達も同じで趣味の違いがハッキリわかったと言っていた。
日本の電子書籍市場のほとんどの内訳はBLとエロ漫画だったりするわけだし、個人の好みに沿ったものしか買っていかないわけだから、「一箇所にまとめる」のは「中への透明性がはっきりでる検索」などで充分だろう。
問題は書店とは違って中身が不透明であるため、買う前の問題が山積みとなっているわけで、買った後の問題などプログラムの問題でしかないということ。

3、もし必要だとすれば作ればいいだけの話だが、あまり必要だと思えない。
勉強するために余白を使う、文章を共有するために手書きのメモをアップロードできるようにする、などといった技術はこれから出てくるだろう。
その答えはソーシャルネットワーキングの会社やアップルらへんがやってくれるのではないか。
懸念するほどでもない。
私は逆に本に書き込みをするのが嫌いで、発想はすべて別の紙かパソコンなどに保存している。
というのも本に書き込みをすると、その時の発想でまた再度本を読んでしまい、新しい発想で本を読めなくなるからだ。
昔の人はよく本に書き込みをするが、今の世代が「書き込み」をするとしたら「他の人がどう考えているのか」という点を引き出したい目的が強いように思う。
これは本の内容によって違ってくるため、書き込みを必要とする勉強目的の本は今までの発送を買えて「コンテンツ・アプリケーション」として売り出す必要がある。
つまり、ゲームとして。
本の文章のままのコンテンツだとしても、例えばマーキング機能をつける。
ペンタッチ機能で線引きした場所が書籍内から取り出せ、メモを書ける。
また引用メモからの逆引き・関連検索などもできるようにする。
一語関連検索、ひとつの単語に反応してコンテンツ内の関連文章一挙閲覧など。
そうなれば「ツール」としての利便性は高くなる。

4、価格に関してはインターネットのコンテンツそのものが「無料化」に向かっているため、紙の本を売るように高い金を取ろうとすると、たちまち抵抗感が出てくることは否めない。
お金を払ってコンテンツを楽しむという発想すら薄れてくるだろうことも充分考えられる。
日本で一番現実的なのは「ファンサイト」のような「月額課金」がやりやすいのではないかと思うが、その仕組みをどうするかは一概には言えないので省く。
しかし今までの料金形態は確実に崩してまったく異次元の発想から新しい料金携帯を作る必要がある。
しかもユーザーが「お金を払っている」となるべく意識させない誘導の仕方が大変望ましい。

5、コンテンツは共有し、コミュニケーションツールとしての機能が強く、インテリアとしての機能は「コアなファン」以外は望まない。
つまり、どの業界でも「グッズ」を「インテリア」として扱っているのは「それが大好きな人」でしかない。
アニメであろうと音楽であろうと本であろうと、どんな業界でもグッズを「インテリア意識」にまで高めているのは、惚れ込んでいる人しかいないのだ。
あまり興味のない人にそんなものを望んでも拒否反応を起こすだけである。
つまらない音楽や本はさっさと捨ててしまうし、本当に好きだったら「探してまで買おうとする」ぐらいの熱意が湧き上がるものだ。
しかしそれは「グッズ」という機能を果たすものだけである。
「コンテンツ」となれば、目的は「趣味」と「感覚」の「共有」である。
「同じ事を思っている仲間がこれだけいる。楽しい」というコミュニティー空間を作るための「手段」なのである。
また自分の「楽しみ」を満たしてくれる「ツール」としての機能なのである。
だからこそ「グッズ機能」は「共有化」や「興奮・惚れ込み」の後に出てくる「コアなファン層」に望むべきであって、最初からコア向けの発想をしてはいけないのである。


いかがであろうか。
この5つだけとっても、これだけ「本」というものとはかけ離れていることがおわかりいただけると思う。
正直に言って「書籍」というネーミング自体が業界に呪いをかけ、その呪いの中で電子空間であろうとも「本」という幻想を見ているに過ぎないのだ。
「電子書籍」は本ではなく「コンテンツ」です。
日本の電子書籍の夜明けは、私の子供世代になりそうな予感はしている。

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07/26

Tue

2011

いえね、かゆくはなかったのですけど、足の皮がむけてくることがここ2,3年くらいあり、治りそうもないので足以外の皮膚の事も気になり行ってきましたのですよ。
皮膚科に。
足は左足のみなんですけどね。
それで前に友達にも言ったら「それって水虫だよ。移るよ。家族全員に迷惑かかるよ」とあたかもバイキンマンのように言うのでなんだか心配になり、色々話していたらその人もかつて水虫にかかったことがあり足に酢を浸して1時間くらいやって3ヶ月続ければ治った、というので今日やってみたのです。
黒酢で。
そしたらね、足から酢の臭いがする。
心なしか待合室で待っているときにも酢の臭いがする。
つけたのは左足だけなので、左足だけから。
皮膚科は平日なのに人多く席も全部埋まっている。
しかし周囲の人は「この人左足から酸っぱい臭いがしている」だなんて誰も思わない。
もう男の体から酸っぱい臭いがするっていうのは、もう「オヤジ臭」なわけですよ。
横に座っていた女性の方、席から4分の1ほどずれて遠ざかる。
これは臭っているんじゃないかと自らに疑いをかけたくなる。
「いやいや、まだそこまで俺の体臭はきつくないんだ、左足から酢の臭いがしているだけなんだ。酢に朝つけたから」
なんて言おうものなら、足の強烈な臭いを必死に誤魔化すためにまくし立てているようにしか見えないので、ひたすら黙っていました。
そして先生に見てもらう時、皮を採取して顕微鏡で見ますとのことでピンセット持って足に先生近づくわけですが、何もこちらから言ってないのに「酢使いました?」と突っ込まれ、「え、あ、はい。今日の朝使いました」と苦笑いしながら言うと「酢で水虫治るというのは俗説」とはっきりとおっしゃいましたよ。
えー!?
騙された?
俺友達に騙されたの?
え?じゃあ友達って水虫別の理由で治った?
と自分の事よりも人の事が気になっておりましたが、皮膚片を見てもらった結果「水虫です」と言われました。
左足だけ。
薬もらって「薬あげますから毎日一回塗ってください。2,3ヶ月で治りますから。酢使わなくていいですから」と先生ニヤリとする。
そっか、水虫って簡単に治せるんだね。
頑張ります。
というか、かつでその俗説を信じ何人ものつわものが酢の臭いを足からぷんぷんさせながら病院に来たんじゃないのか、とも思った。
今日は札幌も暑く、左足から酢の臭いを風に散らしながら颯爽と帰りましたよ。
夏だけに酢のさわやかな臭いが・・・ないない。
ということで、今日は左足から酢の臭いが一日中しています。
決してこれは「足の臭い」ではなくて「足につけた酢の臭い」ですから。

ちなみに同じ石鹸で水虫は移るかと聞いたら移りませんとのこと。
マットとかがダメなんだね。
菌が繁殖しやすいところ。

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07/25

Mon

2011

ファッション感覚で入れる人が最近いるようで、私の知っている友達も何人か入れている。
だけど刺青は消しても痕が残ることから「一生もの」である。
それで、だいたい安易に入れる人は「一生もの」っていうのが、どれくらいのことかわかっていない人が多いようだ。

というのも例えば20代、25ぐらいに入れたとして、20年ぐらいたち50近くになってきた時も、本当にそれが必要かと問われれば、どうやら揺らぐ人が結構いるらしく、結局は入れなければよかったなと後悔するらしい。
そりゃそうだろうな、とは思う。
若い時は肌が張っていて、見栄えもよいけれど、年をとってくればよほどの手入れをしていないと皮がたるんでくる。
見るに耐えないし、銭湯や温泉で50ぐらいの人が刺青入れて入っていくという将来の自分を少しでも想像したことがあるのかなと思ったりする。
自分が生きてきた2倍もの時間をさらに生きて、価値観が変わらないのだとしたらよっぽどの人だろうし、老人になっても残ってもよいだなんて若い頃は考えられないのだろうが、「一生もの」というのは簡単に考えているほど軽くはない。

昔は刺青はヤクザ者というイメージがあったが、「タトゥー」というカジュアル表現になり、デザインも綺麗なものが出てきただけに若気の至りで入れる人がいて、やっぱりその時は「アクセサリーを身につける」感覚でしかなく、万が一にも特定の何かを指し示すタトゥーなんて入れてしまい、一生それを背負えるかと言ったら、ほとんどNOの場合が多い。
その時は熱を入れて「一生~を大事にする」という誓いを天地天命にかけたりするが、一生っていうのは文字通り人生のすべてをかける、死ぬまでかける、ということなのだ。

50にもなって子供っぽいものを見せ付けられるのは、あまりいい気分ではないし、50にもなって大人になりきれていないとしたら、むしろ見ているほうが虚しさを感じる。
人間は長い時間生きていれば価値観は変わるものです。
人間は学ぶ生き物だから。

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07/25

Mon

2011

「キモイ」「ウザイ」「ウケル」の世代

今までそういう言葉をバシバシ言う人たちに出会ったことがあまりなかっただけに、認識を改めなければならないと感じた。
今まで少なくとも私の知っている後輩ぐらい、つまり二年ぐらいの下の間の知り合いはそんな軽々しい言葉を他人に扱うことはあまりなかったが、もう1980年生まれからは、環境によってはしっかり身についていたのですね。

たとえば「キモイ」「ウザイ」「シネ」は暴力表現に他ならないけれど、彼らにとっては挨拶のごとくカジュアルな表現だ。
だから「何お前、ホントウザイし、死んで欲しい」なんて言っても、言った本人にとってはそれほど重い言葉ではない。
言語表現の重みがなくなってしまったのはどうしてだろうという疑問は浮かぶけれど、事実軽々しく放たれ、そして言った本人は言ったことすら覚えていないほどなのだから、会話の中に自然と暴力表現が入っていく環境で既に育っていたのだと思うしかない。

これは育ってくる環境によって言葉遣いも大きく変わってくるし、言葉遣いが変われば言葉一つ一つに対する重みもまったく違ってくる。
「ウケル」も自分とは違ったところで使われたりするので驚く。
全然笑えないところでも「ウケル」と言って笑っている。
感覚が違うのだろう。
こういう言語感覚の認識の違いは少なくとも1985年生まれあたりからだろうと思っていただけに、少々ショックだ。
良いか悪いかと言われれば、当然このような、あまり品が良くなく、無闇に人を傷つけるような表現は重く受け止めて発して欲しいとは思うが、それは個人的な考えであって彼らにとってはまさに「ウザイ」考えでしか過ぎない。
というか自分もブログでやっていたのだから、うーむ、どこで認識が変わったのだろうと振り返ってみると、やっぱり自分という立場を少し見直して相手から見た自分を意識してからだろうか。
少しずつ気がつくようになった。
なぜそれを意識するようになったかと言うと、自分は文章を書いているし、こうして日記に誰でも見れるような状態で書いているから、自然とこれを見た人がどういうことを考えるかを自然と予測して書いていくようになったのですね。
心に余裕ができてからだと思う。
でも通常生活していれば、そんなことは微塵も考えないだろうし、周囲の環境が自分と同じもので取り囲まれているのだから内省する必要性にも迫られない。
つまりはそのままで充分通じる世界がすぐそこにあって、それこそ「日常」なのだ。

これから小説家として、彼らの言語感覚を理解しないと、現実を捉えることなど到底不可能だし、否定ばかりしていてもますます現実から乖離するだけだ。
それだけにもう数年違えば「ニュージェネレーション」なのだと考えを改めて、そしてそのことを徹底して頭に叩き込まなければ「自分はこうして気がついてきたから、こいつもこの年ぐらいならこうなるだろう」だなんて希望的観測で捉えたり、逆に希望的観測との差異に驚いて衝撃を受けたり見下したりすることになるだろう。
少々面食らったけれど、しょうがないことでもある。
言って聞かせたところで直るようなものではないようにも思う。
なぜなら、彼らは同じ世代で固まり、同じ意見の者と固まり、そして「何故変えなければいけないのか」という疑問を当然持ち、「変えたほうが逆に不自然じゃん」という結論に達するであろうからだ。
これが古代から脈々と受け継がれてきた「最近の若い者は~」というやつなのだ。
理想を言えばきりはないし、諦めで言うわけでもない。
尊敬すべき大人があまりいなくなったせいなのではないかと推測はあとを絶たない。
しょうがないことなのだと、これもひとつの時代の流れなのかもと、感じた現実に対して素直に受け止めるしかないように思いながらも、「ああきっと、自分が感じている違和感は1960年生まれの人たちは同じように自分の世代に感じているのだろうな」と思うわけであり、ある意味子供はしっかり育てないといくらでも将来が危うくなることも同時に感じたわけであります。
その危うさとは暴力表現がカジュアルになったり、逆にまったくそうではないものが暴力表現となったり、言葉を勝手に押し付けられる状態になるからだ。

自分たちの愛したものは変質していく。
しかし軸がなくなってしまっては、いずれは帰るところもなくなってしまうのではないかなと考えたりする。
今を生きることは大事だ。
命を燃焼させて今を作っていく。
しかし、その今の後に残っていく過去というものを、彼らは考えることがあるのだろうか、それとも今だけなのか、と小説家として解決するべき問題は山積している。

最近は自分より若い人たちに教えてもらうことがたくさんあって、いささか自分の器の小ささをとことん感じているところである。

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07/24

Sun

2011

少し整理ができたので書く。
先日腹が立ったのは店長から「乞食」と言われたことで一気に吐き気がしてきたのですな。
一年ちょっとぐらい顔見知りの親しい店員から2杯奢ってもらい(4杯目)、そして2度目に会った客(中年のおじ様)に店長が「じゃあ一杯いただきます」と言った時、そのお客と話が乗り酔いの勢いもあって調子に乗り「じゃあ(飲んでいる店員からの2杯目の分)俺もいただきます」と言った時に言われた(つまり店員からの2杯目は、奢りを店員からおじさまへシフトさせた)。
その前には(同じ日)確実にこちらに非がない状態で私への蔑みとも取れるような発言を私が出会った初めての人に言っただけに、少々苛立っていて、「乞食」発言が最後の留めになった。

よく考えてみれば確かにみすぼらしいかもしれない。
その奢ってくれた店員には書いた文章などを渡したりしていたし、書いた文を買ってもらったりしていたけれど、そういうやり取りは店長からしてみれば理解できないことのようだ。
2度目とは言え、おじさまにも馴れ馴れしすぎた。

人からどう見られているかを意識しすぎることはないだろうが、不用意に不愉快にさせる必要もまたない。
これからもっと厳しいことが起こることが容易に想像できるだけに、人と接するときは最大限の敬意を払いながら進んでいかなければ、こうして何日も別の感情にエネルギーを割かれ、そして精神的に疲れて使うべき場所に全力で力を使えないという本末転倒な状態に陥ることだって充分にありうる。

そして今まで無様でみすぼらしいことは百も承知していたが、そろそろ自分がどうやって生きてきたのか、今までの人生とは何だったのか、ゆっくりと整理するべき場所へ来ている。
日本を出ることも視野に入れているだけに、日本人として、現地の人から見ての外国人として、確実に磨かれきったところがなければ通用しない。
変態だろうと頭がおかしいだろうと最低だろうと何を言われてもいいが、せめて自分が作り出すものだけは確実に磨かれたものでなければいけない。
それを生み出すには別のところに感情や精神を大きく吸い込まれるわけにはいかない。

今回はとてもよい勉強をさせてもらった。
まだもやもやとした怒りとも悲しみとも虚しさとも不安とも蔑みとも言えるような感情が広がっていこうとしているが、いつまでも子供でいることは許されない。
これから、世に出て行くのだから「美しくあること」というのも考えないとね。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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