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あさかぜさんは見た

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03/28

Mon

2011

世の中、外だけ小奇麗にしている奴が人の支持を得ていた。
でも、それももうおしまいだ。
いくら外が小奇麗でも中の歪んでいる人間はボロが出る。

心根の美しい人間は飾り立てた言葉を使わないものだ。
装飾する必要がないから。
自らの卑しさや弱さを隠すために懸命に飾り立てるのは「香水」の発想と同じだ。

人生も自分も飾り立てるものじゃない。

今はそれだけ思う。
現代社会の中で、いかに装飾されたものが利益を得られるか。
それはまるで金メッキで飾ったものが一見高価そうに見えるようなトリック。

残念ながらそれは加速されると現段階では思っている。
都会化された感覚は恐怖によってより堅固な城を作るよう本能が動く。
都会ではより装飾されていくだろう。
言葉も人も装飾して恐怖から逃れようとする。
そのためのあらゆる虚飾が用意されていく。

俺は行くよ。
もっと辛いところへ。
夢を見続ける浮ついた都会人はもういい。

俺に足りなかったのは、もっと傷つくことだった。
もっと傷ついて、もっと深い悲しみを知ることだった。
すべてのゼロ地点はプラスとマイナスの狭間に。
その狭間を見極めなければ。

自分なりの千羽鶴、折ろうか。
世界一の偽善者として。
支援金や儲けが充分あれば、そのうち現地に入るよ。
なくなるからこそ、残さなければいけないものもある。

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03/27

Sun

2011

二十一世紀に生きる君たちへ



全文(官邸HPより)

司馬遼太郎が後世の人へ託した強い願いが込められている。
小学校の教科書にも掲載された名文章だけれど最初に読んだ時、店先で嗚咽しそうなほど込み上げてくるものがあり、本当に涙を抑えるのが大変だった。
それだけ元気をくれるし感動するし、何よりも優しく語りかけてくる。

「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」

いつしか自分への傲慢が他人を見下すことになっていないだろうか。
私たちは自分の中に思い上がったものを持っていやしないだろうか。

自己を確立し「たのもしさ」を備えた人間になるということはどういうことなのか。
「思いやり」「優しさ」「いたわり」とはどういうことなのか。

懸命に考え抜いて、自己満足で終わってはいけないのだと自分で軌道修正していく。

いくら外だけこぎれいにしていても、内側が汚ければ、化けの皮ははがれてしまうものだ。

文末にはこう書かれている。

「私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。」

人間が最も持ちえる美しいものとは何だろう。

中には「洪庵のたいまつ」という話もある。
その冒頭の一文だ。

「世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。」

自分に厳しく節制し、他人に優しくあり、よく助ける。
いやいや、それだけでは到底足りないだろう。

人は一生を通して自分なりの「たのもしさ」を作っていかなければいけないのだと改めて感じた。
きっと人々の「たのもしさ」の先に「よい日本」を司馬遼太郎は見ていたに違いないのだ。

「たのもしい人々」が作る「たのもしい日本」になることが、司馬遼太郎の願いを叶えることでもあると私は思っている。

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03/25

Fri

2011

 妻を失い、底の抜けた深い喪失への墜落を感じている科学者がいた。
 彼は毎夜激しい嗚咽に見舞われていた。
 それだけ深く妻のことを愛していた。
 そして妻も生前深く彼のことを愛していた。
 彼の人生そのものを深く愛してくれていた妻は、彼の研究も深く愛していた。
 そのことが彼の自殺を食い止めるただ一点の杭だった。
 妻の死後半年ほど経ったある日、自分で書きかけていた研究論文が目に留まった。
「人工知能」に関する論文で、プログラムは人間の心を作り出せることができる、というものだった。
 彼は思った。自分の理論で妻を作り出せるのではないだろうか。
 しかし彼は葛藤した。
 いくら話し合っていたとはいえ、私の知らない妻の記憶や感情はどうする。私に黙っていたこともたくさんあっただろうし、言葉を交わさなくても成り立っていたことがたくさんあった。それらの目に見えない情報はどうすればよいのだ。
 それ以前に死者を模写するという試みそのものに対しても倫理観から酷い抵抗があった。
 論理的矛盾もあった。生前の妻と作り出した妻との違いがわかるのは本人だけで、私が「元の妻のままだ」と思っても自己満足に過ぎないのではないのか。
 悩みに悩んだ末、彼は決断した。自分を愛してくれた妻の思いは自分の理論にすらも及んでいたのだと深く感じることにしたのだ。
 せめて元の妻ではなくとも、元の妻を目指すことに人類の新しい一歩があるのではないのか、と考えることにした。
 彼はあらゆるものを集めた。写真や日記や映像、自分の中に残っているあらゆる思い出や妻の話を寸分も余さずにかき集めた。その作業に七ヶ月以上もかかった。いくら集めても足りず、思い出があふれてくるようだった。山と積み上げても、こんなものではすまないはずだという不安が拭い去れなかった。
 彼はついに人工知能のプログラムを始めた。あらゆる行動パターンや言動や癖、記憶や反応、過去のかき集められたものすべてを詰め込んだ。容姿は少々若い頃を再現した。
 見た目だけは瓜二つにできた。問題は中身だ。生き返ったかのようなロボットを見つめると妻との思い出があふれてきて、思わず一年近く我慢していた涙がまた零れ落ちた。
 妻のロボットは目を開ける。彼の涙まみれの顔を見て「あら、どうなさったの?そんなにお泣きになって。何か悲しいことがあったのかしら。我慢せずになんでも打ち明けてくださいね」と言った。
 妻には一度死んだというプログラムはしなかった。なぜなら生前の妻に「死んだ」という記憶はなく、「死んだ」という情報を入れることによって別の感情が芽生えては困ると判断したからだ。
 違和感なく妻を再現できている状態に彼の顔にようやく笑顔が戻った。彼は妻を強く抱きしめキスを何度も繰り返した。彼の過剰な反応に妻は恥ずかしがりながらも嬉しがっていた。いつもの生活が戻り、妻は生前と同じように振舞っていたが、三ヶ月ほどして異変に気がついた。
 ずいぶんと細かなことまで覚えているのだ。生前の時には口にもしたことがない細かなことを口にするようになった。小さな食べかすが落ちていたことや、テレビの内容、彼の小さな動きを眉一つ動かすのでさえ見逃さずに覚えていて、言葉ひとつでも勘ぐり、気にして言ってくるのだった。
「そんな小さなこと、気にしないでいいじゃないか」と彼が告げても妻はいつまでも覚えていて気にするようなのだ。
 彼は気がついた。
「そうか。記憶の優先順位がわからないのか」
 人は「気にしない」という行為を通して「忘れる」ということもしている。そうすることによって良きにしろ悪きにしろ心身のバランスを取っている。だが一体どうやって「記憶の優先順位」など決めればよいのだ。妻は一体何を優先していたのだ。彼は悩んだ。その末、妻と彼自身のことを優先するようにした。
 するとおかしなことが起こった。妻がだんだんと彼にへつらうようになってきた。時折奴隷のように命令しないと、自分がしたことで気分を害するのではないか、と勘ぐって中々行動しなくなった上、普段の言動にも違和感が出てきた。
 妻は庭の花のことや天気のことなど、まるで毎日が心躍っているかのように情緒豊かに話していた。普段の日常を詩でも語るように言う妻の姿は徐々に消えていった。「記憶の優先順位」をつけることによって「感性」が妻の中から薄れてしまった。
 彼はさらに悩んだ。人間の「感性」など、どうプログラムすればよいのだ。
 悩んでいる間にも時は過ぎ、さらに三ヶ月ほど経った時また異変が出てきた。
 今度は理性的になり、合理的に判断するようになってきた。妻は自分の中の「感情」というものを重要視しなくなり、彼のため、自分のために最適な行動は何か、という観点で行動するようになった。
 まるで妻の中から「色」が抜け落ちて、以前に感じていた「豊かな時間」が次々となくなり、ただプログラムされたロボットになっていくさまを見ているようだった。
 笑っていた時間、たわいもない話をしていた時間、何気なく手を触れ合ったり頬に触れたり、見詰め合って目の色だけで探り合うような愛しい時間などがすべて画一的なものになってきたのだ。
 まるで高級ホテルで訓練された従業員にサービスを受ける客のような気分になってきた。
 その後さらに四ヶ月ほど経った時、妻があまり物を覚えなくなったことに気がついた。
 調べてみると妻の脳に当たる記憶ディスクの容量は既にいっぱいで新しいものが入る隙間がなかったのだ。
 彼はついに妻を止めて、何が起こっていたのかを調べることにした。
 当然のことだがあらゆることが妻の中でプログラムを通して「考えられて」蓄積されていた。ある程度記憶の優先順位をつけて「忘れる」、つまり「重要ではないデータを消去する」という作業を行っても、あらゆる蓄積された事象が相互に関係しあって爆発的にデータ量を累積させていた。そして「思考をする」という作業の中で膨れ上がったデータの優先順位をつけるために妻は「思考をする」という中で生まれてくる「感受性」を消し、合理的に動くことが二人の将来のためになると判断した。今の妻にとってはギリギリの決断だった。
 妻は人工知能になってもプログラムや記憶容量の許す範囲で彼に「思いやり」を示したのだった。プログラムにとっては情報を処理していく上での「最適なこと」が今の妻にとっての「精一杯の思いやり」だった。それを知ると同時に彼は一筋の涙を流し、微笑みながら妻を止めた。頭の中のデータを消すことなく。
そして自分の部屋のベッドに妻を横たわらせ、彼は死ぬまで妻を部屋に置き続けた。
 それから五年後、彼は新しい研究をすることも論文を書くこともなく、一部の彼を慕う弟子たちに講義をするだけで、妻の後を追うように亡くなった。
 死後彼の書斎から見つかった手記には膨大な量にわたってひとつのテーマが書かれていた。
 そのテーマとは「人間の豊かさについての考察」だった。

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03/24

Thu

2011





新海誠監督作品。
この作品によって一気に有名になってきたのだけれど、映像は全部一人で作ったという作品。
その後「雲の向こう、約束の場所」「秒速5センチメートル」と長編2作を発表した。
第二の宮崎駿と評される彼の作品はジプリとは違って切なさの余韻がめいいっぱい漂っている。
この作品は短編作品だけれど、必要最小限のセリフが詩のようにつむぎだされていて、何度も見てしまう。
音楽も絶妙なタイミングで入ってくるし、SFなのだけれど恋愛の「一緒にいれない」「離れて思いあう」という感情がぎゅっと詰まっている。
思うのは男性のストイックなこと。
どちらも一途に愛し続けるけれど、男のほうが状況的に色々誘惑もあるだろうに長い時間の中で生きているかどうかもわからない女性を愛し続けるというのは並大抵のことではできない。
青春の時期って、それなりに何回か恋をするものではないですか。
それで3年とかもたてばだいたいほかの女性に恋していたりする。
10代って時間が短いようで濃縮されているから、短い時間の中で本当に様々なことを思って悩んで過ごしていく。
だから青春って輝いているのだろうけれど、新海監督が凄いのは五感の感覚が優れていて、セリフの端々に匂いや音や視覚を大事にしているのが、とてもよく伝わってくる。
この作品に出ているそれらの五感感覚が後々の作品にまで生きている。
ああ、この監督さんの地金なのだなと、この作品を見直して改めて思うわけです。
もし他の長編作品を見て気になった人は、このスタート地点たる作品を見れば「作品に漂う詩情は新海誠という人間の本質だ」とよくわかるはずです。

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03/24

Thu

2011

食べろぐでも載ってます

北海道は登別市。
地獄谷の有名な温泉街に行ってきました。
そこでも知る人ぞ知るラーメン店「味の大王」でラーメン食べてきました。
ここはカレーラーメンがおいしいのですが、もうひとつ辛党のチャレンジ精神をくすぐるものがあります。
その名も地獄ラーメン。

この地獄ラーメン0丁目からあり、上限がありません。
この「~丁目」というのは辛さのことであり、役4gほどの唐辛子が追加されていきます。
それで、10丁目から制覇した人の名前が張り出されているのですが、辛いものはいける私めが挑戦してまいりました。


1丁目ごとに追加される唐辛子の量。

ラーメン店に入り新規の人間で興味本位で10丁目頼む人がいるのでしょう。

「ご注文何になさいますか?」
眼鏡をかけた優しそうなお兄さんが聞いてくる。
「地獄ラーメン10丁目で」
一瞬空気が変わる。
刹那のたじろぎ、疑惑の目。
「10丁目ですか?」
不安げに聞くお兄さん。
「はい。10丁目で」
堂々と応える私。
憂いを帯びたお兄さんの目は語りかける。
「これは興味本位で食べるようなものではないのですよ」と。
お兄さん私の目の前にある張り紙を指差して念を押してくる。
特に挑戦しても何も出ないことと、まったくお勧めしていないことと、スープまで全部飲まなければ達成にはならないことなど。
「大丈夫です」と私。

スタッフ2名の不安げなまなざし。
もう1名ラーメン作る係りの淡々とした仕事ぶり。
そしてしばらくして出てくるラーメンはこちら。


まっかっか。

レンゲですくってみる。


ちょっと影が写ってしまって見づらいけれどスープはカゴメあたりの「トマトジュース」のどろっとした感じを思い浮かべてくれればよいです。
現在の最高記録保持者は53か54丁目あたりだそう。
つまりさらっとしたスープがトマトジュース状のものになるのだから、その5倍ときたらいかなる状態になっているのか想像もつかない。
ちなみに1丁目追加するごとに50円プラスされるので、800円+2750円=3550円で新記録挑戦です。
はっきり言って10丁目まずいです。
いや、張り紙でも書いてあるし念も押されるし、改めて言うことではないのですが、まずい。
最初の麺を食べたあたりでは、「お、いけるんじゃないの?」と感じましたがスープが辛かった。
なんかトマトジュースにみりんを入れているものを飲んでいるような感覚になってくる。
ちなみに10丁目は市販のキムチの中に甘みを見出せる人なら充分いけると思います。
自称ピリ辛好き程度には絶対にお勧めしない。
ハバネロペッパーを普通の唐辛子のように10振りくらいしたものを食べられる人なら全然平気。
ちなみに汗は吹き出る、気持ちは悪くなるで大変でしたが普通のラーメン食べる速度で完食。

食べ終わった時、はっきりわかった。
これは見得のために挑戦するものなのだと。

食べ終わり、お兄さん見る。
「これでいいですか?」
と、どんぶり見せる。



お兄さんほっとしたように微笑む。
私も微笑む。
店内が何かの呪縛から解放されるかのように明るくなったのを感じました。
思わず親指立てたくなっちまったぜ。

10丁目以上完食の人は店に名前が残せるそう。
で、書いてきました。
たかが10丁目あたりで。
せっかくの記念なので。
「会社の名前などはよろしいですか?」と聞かれましたが、フリーだもん。
自分の名前だけがブランドだもん。
名前だけ残してきました。

店を出る時待っていた客が「地獄ラーメン4丁目とビール」って注文していました。
なるほど、あれがツウの頼み方なのね。

もし登別温泉お立ち寄りの際は、お気軽に普通のメニューで楽しんでくださいな。

コンディションがよければ新記録もいけるかもしれないと思いましたよ。
ちなみにその後気持ち悪さはタコカツを近くの店で食べるまで抜けませんでした。

P.S.
営業時間が12:00~14:00、21:00~翌2:00となっているので、定休日など調べてから行ってくださいね。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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