検索エンジンで来た人書評はこちらの方です。朝吹真理子さんからのメッセ―ジをお届けします(「婦人公論」より)
『読者の方ひとりひとりが抱いた読後感がすべてです。作品を自由に読んでいただければうれしいです。書く時にはイメージの連なりを大切にしています。書き手個人の体験や嗜好といった、べとついたものを徹底的に排して、浮かんだイメージだけを言葉に写し取る、その作業の繰返しです。』
…というコメントをいただきました。
ありがとうございます。
もしこの作者コメントを読んでいたとしたら、私は逆に腹がたってあの作品を読めなかったでしょうね。
正直に申し上げて詩を書いている人の中には、やはりこういうこと思うんです。
私もそうでした。
そしてその先にあるものは結構自己満足だったりするのです。
作者が何を目指しているのかは現段階では定かではないし、このコメントを覆す作品を書くかもしれないので現段階での私も思いを勝手に書いているのですが、このコメントを紹介していただけたということは好きな作品だったのでしょうね。
なので、感情を抑え抑え書かせてもらいます。
私はこういう感覚が日本語における詩情というものをダメにしたんじゃないのかなと考えてます。
「詩」という言葉は作品紹介の時に聴いたものであって本人が言っている言葉ではないので、周囲が勝手に意図して付け足していることだとは思います。
なので、詩情というものも作品の中から排除すると、自分と他人というものを混同しているのではないでしょうか。
このコメントを真に受けると、作品として視点が常にすっと凝縮されていくように一点にのみ集まっていくというのは当然ですし、全体としての雰囲気や力配分が均一化され、人間の世界ではなく、風のような上下左右もない空間世界、情感世界になるのは明らかに作者が意図した帰結でしょう。
なので、私が書いた感想は作者のコメントに厳密に照らし合わせるのなら間違いであることは明白です。
その視点ではコメントを紹介していただいた意図はまったく間違っていません。
しかし「伝える」ということと「言葉を使う」ということの因果において、とても達観しているとは感じられないし、因果から逃れられる力を持っている作品ではないと判断しました。
もしこの線で書くのだとしたら既に設定からして間違ってますしね。
この2つの因果から作り手が逃れられるとしたら世界でもトップクラスの実力を持った人でしょう。
世界の文学関係者が注目しだします。
つまり言葉を使うものとして「言葉の因果」そのものから逃れられているのだとしたら、彼女に対して褒めちぎることしか方法はないし、早くノーベル賞とってくれないかなって思います。
読者は読者の立場で作品を読みます。
好きでいいんです。
貶された部分があったとして、作者の真意がこの人わかってないなとか、このヤローふざけたといいやがってとか、そういう気持ちを持つのもいいんです。
私は作者の立場から作者を見る。
これから日本語はどんどん変化していくでしょう。
時代の常です。
そして村上春樹よりも彼女のような文体を選び取っていく可能性は否定できないところがあります。
都市化が進み、情報化の中に埋もれる個が、一体何を見出していくのか。
個から逃れ、より個人よりも集団レベルで上下もなく均一化していくことを選び取るのならば、彼女の文体は完全に未来型であり、そして個の薄れた人たちに最も好まれる作品として見直される時期も来るでしょう。
「ここには作者の選び抜いた言葉だけが揚げられていて、読み手の無責任な口出しを許さない。」山田詠美
当然ですね。
作りこまれた情感世界の中に他人が入り込むことなんてできないのですから。
また「抽象画」ということ言っている人がいます。
視点のところでも物に随分視点がいっていることを書きましたが、確かに絵画的な手法であるともいえます。
その点では優れている。
まず視覚の段階で人が物を認識できるのは「光」があるからなのは最もなことですが、それ以外に重要な要素があります。
「影」です。
このような「陰陽」の関係はどれほど排除しようと無視できない。
それすらも「徹底排除」しているのだと作者が思い込んでいるのだとしたら、書き手としての視点として物足りなさを感じてしまうのです。
排除したときにかかってくる「負荷」は何でしょう。
そのことを彼女がどこかで書いているのなら教えてください。
これを完全に見抜いているのだとしたら、ただ私は作者の手の平で踊っているに過ぎないただのサルですから笑ってやってください。
最後に繰り返しになりますが「言葉を使う」という、そのものにかかってくる因果を見事に逃れている達観した作品ならば、褒めちぎっていたと思いますよ。
P.S.
ここからは詩のことです。
べとついた感覚を徹底排除するという感覚はよくわかります。
それは少しでもこういうものを入れると自分の中のイメージや感情がかき乱され、作品に亀裂が出てくる。
空気の入った茶碗のように、心という竈の中で焼き上げるときに音を立てて砕け散るのです。
しかしここには他人との戦いがない。
自分との戦いなのです。
でもこれは「小説」ですよね。
なんのために「小説」ってあるのでしょう。
書き手によって答えは様々だし、時代によって変化していくでしょう。
そしてその答えを私が強要することは大変愚かではありますが、言葉を使うことの原点は何だろうと私はいつも考える。
言葉を使うって何でしょう。
いくら技術が練磨されようと、そこを勘違いしてはいけないのではないのかなと思います。
そして詩はこの世界に存在しているあらゆる「自然」を認識することですが、彼女の感覚からは非常に「都会的な自然」しか感じない。
でも、きっとこの「都会的な自然」と「生の自然」の区別がつかないくらい現代人は感覚を失っている。
私が主張することもやがて時代とともに滅びていくでしょう。
そういう運命を背負いながら、私は私の立場で物事を考えたいと思っています。
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