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あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

03/02

Wed

2011

勘違いのコンプレックス

人間は、長くその環境や思想に浸っていると、あたかも類似したものがそれに浸っているのではないだろうか、ということを錯覚しだす。
たとえば、人間に裏切られ続けた人は、他人の善意を信じることはできないし、人間は人間を利用するために動くものだと思い込むものだ。
そのようにして、自分の長年浸ってきた経験則と周囲の環境により、自分が強く思っていることを、他人にまで当てはめてしまう。
これは別段不思議なことではなく、誰しも大なり小なりやっていることだ。

しかし、誰しもやっているといっても、互いに大きな壁を作っているのは、この「感覚」や「環境」や「思想」や「経験」の差異であり、これにより互いの理解を困難にするだけではなく、両者が一方的に相手に対し自分の考えや思想や経験を当てはめてしまうということもやりがちだ。
文字で書くと難解そうに見えるが、意識していないだけで普通にやっている。
お宅の会社にも一人や二人、「自分のやり方は正しいんだ」と仕事のやり方を押し付けてくる上司がいるはずだ。

さて、最も衝突を起こしやすく、最も他人に理解されない行為とは、自分が長年浸ってきたものを「私はこうで~」と自分の立場として語るのではなく「お前は~だから」と自分の思想や経験を相手に重ね合わせて物事を言うことだ。
それは当然「あんたの世界じゃ正しかったかもしれないけど、こっちの世界は違うし」となる。
若者と老人の衝突だって、異文化の衝突だって、子供同士の衝突だって、似たような原理を元にして発生している。

人が最も勘違いするのは「私とあなたの感覚は一緒だ」と思い込むことだ。
そしてその大前提は往々にして間違っているにも関わらず、人が最も気がつきにくい盲点であると言っていい。
これは自分の感覚が常に主体的に存在するため、他者の感覚まで慮ることが、なかなか難しいし、大きな精神力と想像力を必要とするためだ。
感情や感覚は常に自分を元に発信されていく。
これは言葉で書かなくても誰にとっても当たり前のことだろう。
だからこそ自分から常に「出している」状態を逆転させて「引き込む」状態にすることはエネルギーの方向性が逆ゆえに難しい。
常に発信しかできない人間にいきなり「他人のことを考えろ」というのは無理な話だろう。
まったく逆の力なのだから。

よく小説やテレビなどで知ることも多いだろうが、相手側の立場に立つまでの経緯には傷を伴うことが多い。
傷ついて当事者の立場に気がつき、ようやく考え始め、理解を深めていく。
しかしその前に気がつく方法はないのだろうか。

人は自己主張が酷く強い時、必ずその思想背景に何かを持っている。
それは仲間であったり家庭環境であったり経験であったり、一言で言うならその思想を得るまでの「環境」があり「人生」があった。
そしてそのエネルギーたるや、他人と会話するために使われているのではなく「自分の理屈を証明するための証拠集め」か「自分そのものを認めて欲しい」という欲求がある。
それだけ、自分では意識していない憤りの力が、他者に対してのエネルギーとなって向けられていくのだ。
アイデンティティを否定されてきた、もしくは卑屈さを感じてきた可能性も否定できない。
つまり「コンプレックス」を潜ませている。
人は、他者に埋め込まれた情報を、自己抑制を超えて他者に対して表現することはまれではない。
アイデンティティを大事にされてこなかった人間は、他人のアイデンティティを大事にはしない。
大事にした瞬間、「自分は大事にされなかったのになぜこいつを大事にしなければならないのか」という嫉妬の意識メカニズムが働く。
このように、よくよく注意しなければ自分がされた負のエネルギーを他者に対して発散することになる。

問題はそのような「コンプレックス」を持っていた場合、「あなたは間違っている」では通用しない。
余計に反発をあおるということになる。
まず相手の過去に想像力をめぐらし、相手のアイデンティティの傷をある程度認めなければ、互いの理解は前進しない。
それは過去をほじくりだすことではなく、そっと慮る。
私は小説を書くという視点から人を見る時、「この人はどうしてこうするのだ」ではなく「何がこの人にこうさせているのだろう」ということを忘れない。
つまり主体性があり、意思があり、そしてすべては自己に集約されるのではなく、どのような力が与えられ、どんな環境で過ごし、どのような価値観がこの人間を動かしているのだろう、と考えるのだ。
酷い言い方をすればその人間を一個の独立した存在として見るのではなく、あらゆる力の集合体として見る。
そう考えると、相手の感覚を事細かに分別していくことができる。

たとえば、「40代前半」「男」「高校からの長年の平社員生活」「上司の強烈な圧力」「同僚に時折(仕事のためと称し)暴言」「家庭環境、妻に冷遇、娘2人」「趣味は特になし」「インターネット使用、入りびたり」というキーワードがあったとしたら、この男性は仕事や家庭に対する強烈なフラストレーションという力の昇華の仕方を暴力で補っていて、家庭環境がうまくいっていないということは元々の家族に何かあり、たとえばマザコンであるとか、紳士的な礼儀が同僚に対してもできないのだから当然家庭に対してもできず、娘2人からは嫌われている可能性もあるとか、それらの生活の原因を作ったのは、彼が性的に特殊な願望を持っていて女性に対して理想があるのではないかとか、会社での冷遇に対しても同僚への暴言を見ると自分の処遇は不服でありもっと上の役職が適任であると考えているとか。
可能性の話ではあるが、考えられないことではない。
これらを一言でまとめると「自分の存在が認められていない」ということになる。

男性でも他人の格言名言を使い、あたかも自分を大きく見せかけようとする人がいる。
これもやはり「自分の存在が認められていない」という「コンプレックス」をどこかで持っている。
自分の現実的な姿である小さな自分というものを肯定することに大きな不安を持っている。
それを、数多くの言葉で誤魔化しているのだ。
そして「不安」を持っているから他人との「共有」を強要してくる。

「コンプレックス」は負の感情さえ持たなければ悪いものではない。
前向きに捉えて克服していこうとすれば役に立つ。
それには自分自身の本当の大きさに、いや、本当の小ささに気がつく必要性がある。
しかしそのコンプレックスを他人にまで押し付けるとなると衝突していく。
他人が押し付けてきた場合、私たちはその人間に深く干渉する覚悟が無い限りは適当に褒めて、程よい距離を保つのがベストだろう。
つまり、相手の人生に深く干渉する覚悟がないのなら、「負のコンプレックス」とは付き合わないほうが賢明なのだ。
少しでも否定を加えればコンプレックスを助長させることになる。

他人は大きく見て、自分は小さく見る。
人間は、他者との間に絶対的な溝がある。
その溝は大きな「コンプレックス」として立ちはだかることが多々ある。
しかし、だからこそ、我々は違う能力を持つ人同士尊敬しあえるのだ。
それを自己のレベルで前向きに克服していくことにこそ、人間の希望がある。
それは「同じだ」ということではない。
「違い」を前向きに認めていくことだ。
それが「成長」という謙虚な気持ちにも繋がっていくと思うのだ。
自分の人生に対して、各々の人間が賢明であらんことを切に願う。

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02/28

Mon

2011

「良い作品だと売れる」の時代は終わった

これは電子書籍やコンテンツに関してだけれど、確かに内容が大事に越したことはない。
でもよく考えたら、漫画の読み方をちょっと観察していると、コンビニや書店で立ち読みする。
もしくはキヨスクで買って電車の中で読んで捨てる。
結構この手のパターンって多いのではないのかなと思う。

今まではネットなんてそれほど活発ではなかったから「よい作品は売れる」という理屈は通じたけれど、今だと「よい作品は無料で探す」という時代になった。
そして値段がかかるのなら、値段のかからない良いもので時間を潰すという選択肢が出てきたのだ。
つまり、売ろうとすればするほどお客が逃げていくという悪循環になる。
私だって、なるべくは購入したいけれど、損した気持ちになるような、くだらない作品にはお金を払いたくない。
このことは、もちろん自分の作品にも当てはまるので、本当にこれからの時代苦労するなと思ってしまう。
でも八方塞ではない。

私は前々から「参加型コンテンツ」にしか活路は見出せないのではないかと考えている。
人って芸術作品にお金を払う時って本当に感動したときだと思う。
特にそれが肌身に切実に迫ってくると「思い入れ」というのが出てくる。
ちょっとやそっと「良い」程度では売れないし、売れるはずもない。
いかに思い入れや、その思い入れを引き出せるかというところにすべての戦略がかかってくる。

たとえば今まで書籍は「パッケージ商品」だった。
つまり買ったら、それで独立しすべて完結する。
その延長線上に映画化、そしてグッズ化といった商品戦略があったが、そもそも一番最初のコンテンツの「パッケージ」の概念すら古くなってきている印象だ。
じゃあ、ちょっと「パッケージ」という箱に入っている概念をぶっ壊して考えてみると新しいアイディアが生まれはしないだろうか。

たとえばひとつのコンテンツとしてパッケージとなっている。
しかしもっと他の話の追加とか、映像ダウンロードサービスとか、主題歌セットとか、ラジオでしゃべる、朗読サービス、ソーシャル系が流行るのなら、みんなの意見、好きな文章を集めて紹介して、もりあげていくイベントプランナーのような発想。
そこに思い入れが発生しそうなら、その思い入れをどんどん引き出してこなければ、他の並んでいるだけの商品とまったく一緒だ。
興味を引く、という煽りサービスはもうあこぎだし冷ややかな目でしか見られない。
他の並んでいる商品と一緒になるという事は最初のほうに書いた「無料の良い商品に流れる」か「自分の好きな信用の置ける作品」しか絶対買わなくなる。
これって消費者心理としては当たり前のこと。
そこに文句つけるほうがちょっとおかしいし、「電子書籍・音楽などは売れない」と嘆いている人たちのほとんどは昔の業界の業務を知り尽くしていてそれを忘れられない人たちが言っているんじゃないのかな。

私たちって作り手もそうだけど、創っておしまいだった。
創って並べて宣伝しておしまい。
それが「売る」ということだと思い込んでいた。
でもそれはそもそもの間違いだったし、創るってことを勘違いしていた。
本当に創るって言うのは「思いを残し、創っていくこと」なんじゃないのか。

「仏作って魂入れず」

今の作り手、そしてそこに関わり嘆いている人たちは、この言葉がぴったり当てはまるように感じる。
「パッケージを売る」から考え方をシフトさせれば、本当に多様なアイディアが浮かんでくるよ。
人を集めることができるだけでも、それはイベントになるし、換金化ができてくる。
もう、古い考え捨てちゃいなよ。

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02/27

Sun

2011

悪い癖なのか、いや、その悪い癖が良い物を見れたのだから、まるっきし悪癖も捨てたものではないかなと肯定してみる。
私はストレスが溜まると過食や酒に走る傾向があり、昨日むしゃくしゃしていて家ではどうしても抑えきれず飲みに出かけた。
いつも早めに寝ていたし生活リズムを正そうとしていたけれど、乱れてしまった。
しかし昨日の出来事は、そんな細かなことなどどうでもいいと思わせてくれるほど、すっとした。
本当に良いものを見た。

で、そんなにもったいぶるなと、思ってるでしょ。
この題名の一万日目、何の日にちだと思いますか?

実は誕生してから一万日目、ということなんですね。
飲み屋の店員の女の子の彼氏がそわそわしながらケーキを持ってきて「これ、お願いします」という。
出された彼女のためのケーキのチョコプレートには「10000日め おめでとう」の文字。
2人は結婚を視野に入れて付き合っているもの同士。
彼女そのことをまったく知らず、目の前のケーキを見て初めて気がついたという。

ネットではこのような粋なこと読んだことはあっても、実際目の前でやられると心を打たれるものがある。
「本当にやるやつがいるんだ」と。
男性は24。女性は27。
年下の彼氏だが、しっかりしている。
こういう細かな心遣いや思いやりができるのだから、ちょっとぐらい大雑把になったとしてもうまくできると思う。

何よりもこの男性に非常に心打たれたのは、そのプレゼントに対し「俺がやったんだ。どうだ」と気持ちを押し付けるのではなく、「喜んでくれるのかな。心配だな」と不安がっていたところ。
今は勤務中なので直接「どう?」なんて聞かない。
あとで聞くまで不安をずっと胸にもっている。いじらしいではありませんか。
これが少しでも押し付けられた感情だったらここまで感動しなかった。
なんとも、相手のことをここまで思いやれるなんて、できすぎた好青年だと感動した。
ケーキもみんなで切り分けて、私もおいしくいただきましたよ。

「いや、これはいやらしいわ。ダメだ。俺、女だったらお前と結婚するわ」
って言ったら、
「いや、僕彼女いますので」
と断られた。
男性店員は「俺、抱かれてもいい」と言ってた。
そうだよね、こういう情にあふれる人間なんて昨今珍しい。
こういう男は絶対離しちゃいけないし、こういう若さゆえにわーっと浮き上がって物事をするのではなく、思いやりながら冷静に、そして淡々と相手の気持ちを慮るという素晴らしい若者が、この日本でもいるのだと思うと、今まで人に対してどうしても裏側から見て批判的になったり警戒していたギスギスしていた自分の心も晴れ渡り、スキップしだすのではないかと思うほど嬉しくなった。

すがすがしい、それは見事に冴え渡った空のような男であった。

思い出しただけで、ほっこりした溜め息が出てくる。
私もよいものを見させていただいて、ちょっとした宝物になりました。
どうもありがとう。

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02/25

Fri

2011



第144回芥川賞受賞作品。
ということで、一方の朝吹真理子とは違い、やたらとテレビに西村賢太の名前が出てくるし、ネットで共感する人多数、のような報道のされ方もするので、さていかなるものかと今更ながら読んでみました。

…久しぶりにぞっとする文章だった。
こりゃ凄いわ、というのが第一印象。
これをまともに読んだら本当にこっちまで鬱屈してきそうだし、一人の人間として見たら吐き気もすれば、こちらが持っている負の感情をあおられるようで読めない。
私は芥川賞受賞に対して「ああ、芥川賞ってまともだったんだ」とこれを読んで思った。
つまりいい意味で「ぞっと」させられた。

ある意味日本版「ファイトクラブ」のような男性的な暴力性を感じたし、「火の鳥鳳凰編」の我王を彷彿とさせられた。
というのは、この話は私小説とはあるが、作者の側から見れば当然「日記」ではない。
だから破天荒な人生を送ったからといって、この手の小説が書けるかといったらそうではなく、当然文才も必要だし、一歩引いて自らを事細かに観察する他人の視点がなければ書けるものではない。
通常人間は自分をモチーフにする時、必ずどこかで美化するが、これにはない。
ある意味達観した境地がある。
よく読めばこの話が一本の時間軸にいる「自分」というものをばらばらにして意図的に編集されているのがよくわかるし、主人公にいたってはデフォルメした後にさらに戯画化されているのがよくわかる。
つまり題材は自分でも、その自分をいかに切り貼りしていけば、この手の人物像を戯画化できるのかという意図された小説だということがよくわかる。
それだけにここまで圧倒的な筆力でガツンガツンと掘り込んでいく、力任せの掘り込み方は、そう他の作家が簡単に持てるものではない。
それは自分自身のリアリティというものを戯画化しているからに他ならないからだ。

当然個人の立場から見ればこんな男とは友達にはなりたくない。
扱いに困るし劣等感に触れれば怒るし、卑屈を感じさせる対比があれば不機嫌になるし、このような人間が心底友達だと思えるのは自分よりやや酷い生活を送っているか、まったく同じような劣等感を持った憎しみと怒りと卑屈さの塊のような同種の人間とだけだ。
男性でさえこの手の人種は嫌な感じがするのに、女性が読んだら心底男性不信になると思う。

この負のエネルギーたるや半端なく「美しいものをぶっ壊してやりたい」という昇華されぬ暴力性がとにかく生々しい。
そりゃあ男性だから自慰もすれば、アイドルかなんかの写真を見てしたり、劣等感があれば卑屈なエネルギーを爆発させて高飛車な女を犯し、顔に射精でもしたくなる、という妄想は一度はあるんじゃないのかなと思うがどうだろう。
映画の「ファイトクラブ」を見たときも感じたが、男性には得も知れぬ暴力性というものがあって、それを現代風に昇華している。
それが「仕事のできる」ことであったり「出世」だったり、何かを通しての「名誉」だったりする。
やたらと男性がそういうところにこだわったりするのは野生時代の狩猟本能を現代風に変化させているからだという説がある。
だから獲得していく充足感がないと、とことん腐っていくし、腐ったものに昇華されぬ暴力性が乗っかり余計にたちの悪いものになる。
女とよくしている男友達に嫉妬したり、何かと比べて俺だってこうなってもいいんじゃないかと勘違いしたり、うまくいかないことに苛立ちを覚えそれを抑えることなく他者にぶつけたり、となるわけだ。

また我王を思い出したのは、このダーティーヒーローは生きていこうとすればするほど、自らの過去が因果となって降りかかり、逃れようもない災難をこうむっていくという、結局は最後まで愛されぬ実力者になっていくのではないかと思ったからだ。
実際我王は鼻の薬を塗って懸命に愛してくれた女性を疑心暗鬼から切り捨ててしまう。
その後の話は結構有名なのでここでは割愛する。

等身大の人間として読むと嫌悪感を催すのは当たり前。
でも、一歩引いて見ると、小さな、まことに小さな人間の、自らの痛みに耐え切れずのた打ち回り周囲を傷つけることしかできないこっけいな話ではないか。

この本、後半にもう一編ある。
『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』という川端康成賞候補になった時の話だけれど、この作者としての劣等感、よくわかる。
「俺のほうが実力があるのに、なんでこんなやつが」という「俺だって頑張っているし、こいつはただ運がいいだけじゃないか」というね、この手のね、嫉妬心ね。
よくわかりますよ。ええ。
この手の嫉妬心を本当に臭ってくるようなものに乗せて書いてくるという、えげつないセンス。
いやあ、凄いものを読ませていただきました。


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02/24

Thu

2011

「想像力がなくなってきている」
そう10年近く前に書いてあったのは、ウェブの本だった。
文章で説明するよりも、写真をつけたほうが反応がよい。
その他にも具体的なイメージ(写真・動画)を提示するほうが、説明するよりも圧倒的に反応が違うそうだ。
アパレル関係のものや品物だけならわかるが本来文章で語られていたものまでもイメージ化されているということだった。
当時、思い当たり節があり、強烈にこの文面だけを覚えている。

文章も、よりイメージ化しやすく、考えない文章のほうが反応がいいことはここ数年やってきてみて実感しているところだ。
そしてこれからも、その流れは加速していくだろうことと思う。
実は本離れとは言われているが、現代人のテキスト消費量はむしろ増えていると見たほうがいい。
そしてそのテキストは若者の場合は個人間で膨大にやり取りされ、大人になるにつれて仕事関連など、ビジネスや人生に関わることが多くなってきていることと思う。

大人も子供も、自分たちのテキストを消費することで精一杯で、作りこまれた文章に慣れ親しむ時間的余裕を割くことができなくなってきているのではないかと思う。
文章より、漫画のほうがずっと楽だし、文章は時間がかかる。
特に信用のない無名の人間の文章が売れるということは、日本では現段階では考えづらい。
そしてこれから消費者層が2極化していくであろう中で、日常の時間に忙殺される低所得者層とある程度お金を持ち時間的余裕がある富裕者層が、それぞれどのように時間を使っていくのかというのをいまいち図りかねている。
このことはこれから社会がよい方向へ向かえば変わるかもしれないが、どうもこれだけ大人しいとこのまま行くのではないかとも思っている。

さて、子供でも手軽に読めて、かつ大人になったら考えなければならないテーマでも書こうとは努めているが、問題はその文章の組み立て方だ。

たとえばこう。

香苗は彼の言葉を聞いてティースプーンを落とした。
上品そうな白いティーカップに当たったティースプーンはキーンと広がるような無機質な音を頭の中へ轟かせ、いつまでも反響しているようであった。
ミルクを混ぜかけていた紅茶は色を変えて回るのを止めようとしている。
香苗は立ち上がり、肩を震わせ、刺すように一目彼を見て、そして笑った。
そして、店を出た。
街を行く人の顔が、皆同じに見えた。


香苗は彼の言葉を聞いて、とたんに悲しみがあふれてくるようだった。
ぐっとこらえた喉元は震え、あふれた悲しみで頭が痛くなるようだった。
香苗は痛みが少し治まると立ち上がり、理不尽さに肩を震わせ、怒りすらも覚えるほどだったが、にらむのを止め、こんなやつに泣いてなどやるものかと笑いかけて店を出た。
もう彼とはおしまいなんだなと思った。


同じことを書いているし、むしろ情報をたくさん含んでいるのは最初の文のほうなのに、反応がいいのは後の文。
作り手としては反応がいいのにこしたことはないけれど、この手の圧倒的な反応の違いに少し悲しさを覚えることはある。
文脈の多さを圧倒的に多くするには最初の文章技術を畳み掛けるように配置していったほうが、大変効果的だが、反応が薄いんじゃ書いていて意味があるのかなと疑りたくもなる。

より直接的な文章が好まれており、そして時間がなく隙間で読むにはイメージしやすいほうが読むほうにとっては頭を働かせずにすみ、都合がよいということだ。
これは想像力を働かせる時間が少なくなってきていることもあげられるが、大人に関しては頭を働かせられないほど疲れてきている、というのもひとつあげられるとは思う。

心中複雑ではあるが、作者としてはこの現代的な流れとどう折り合いをつけるかが一番の問題だ。
しかし作者として一番注意しなければならないのは、媚びだしたらたちまち滅びの道を歩むということだ。
これは芸の道に関してはだいたいそうなる。
たとえば和菓子などは昔のレシピどおりには作っていない。
少しずつ現代風に変えてきているが、もちろん大事なところは変えない。
その見た目の芸術性であったり、使っている技術であったり、そこへの心意気であったりする。

ようは技術職に携わる人間、特に芸事は「粋」であることを失っては続けられないのかなと思うのだ。
芸事における「粋」さとは「洗練されていくもの」にあると私は考えている。
心技体。
これらの技術は一生完成することはない。
だからこそ死ぬまで精進なのだが、この手の「粋」さが多くの文脈を作っていくのかなとも思っている。
折り合いをつけて技術を消し去るようでは本末転倒だ。

元々小説はニッチ産業。
いつか満足できるものが出来上がればと思うが、道のりは相当遠いようだ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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