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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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01/06

Thu

2011

見えた!やるべきことが!

遅まきながらあけましておめでとうございます。
新年始まって初めてのブログ。
また新たな年になり、うまく眠れない日々が続いていました。
おみくじも今年を暗示し、あらゆる占いも言っていることが重なっております。
道ははっきりと示されているだけにもう5日も経ってしまったことにあたふたしてしまいます。
睡眠が深くなく、浅いようで起きていても強烈な眠気のようなだるさにずっと悩まされていたし、眠ってもすぐに目が覚めてしまうような状態でした。
今年は「まずは肩書きを作って仕事をしやすくする」という作家として最も大事な世間上のスタートラインに立つという目標を中心にしながら邁進するつもりですが、心の中でどうしてももんもんとするものがあり、あれやこれやと、振り切れぬ悩みの霧をまとっておりました。

そこで先ほど偶然にも、

http://blog.livedoor.jp/ftakahiro/
京都を遊ぶ社長のblog

2010年10月25日の「一点突破の重要性」という日記を読んで、「あっ!」とわかった。

以前受賞のデビューからずっと追っていた作家さんを見ていて、商業誌や新聞紙にもどんどん進出していて躍進しているのに、文章はどんどんのっぺりとした当たり障りのないものになっていっていた。
受賞時にあった刺々しいものがまったくなくなってきているのを感じて、心底がっかりしていた。
自分もあれやこれやと他人に気を使うあまり、迷って、自分が持っている長所にまで疑問を持ち出し、進むにも恐ろしく躊躇があった。

そこで上記の日記を読んで思った。
「満遍なく受けようとしたら自滅する」と。
結局自分が見ていた作家のように「別にその作家じゃなくても他の人も似たようなのができるじゃん」というところに落ち込んでしまっては存在意義を失う。
作家なんだもの、最初からおかしくてちょうどいいんだ。
自分の長所は何か、それをとことん伸ばして誰よりも尖ってやることが一番大事なんだ。
そうすることで、ようやく存在するだけの価値が生まれる。

今現在足りないと思っていて、身につかなくてやきもきしていることがたくさんあり、焦りもハンパない。
自分の理想としているレベルと、現在のレベルのギャップに、ひどい空回り感を隠しきれない。
見えているのに道のりが長すぎる。
あれもこれも重なってしまって身動きができないほど頭が硬直しているのがよくわかる。
そういう自分から脱却したいと意味もなく足掻いて集中力を欠いている。

萎縮するのではなく、どんどん尖らなければならない。
萎縮していったらもはや後は残されていない。
作家としての存在価値を失うだけだ。
その尖ったものを中心にしてあらゆるものを吸収していけばいい。

想像だけだといくらでも人間の妄想って肥大していくものなんですね。
自分はここまでできるとか、物理的、能力的、現実での限界をどんどん無視して肥大し、現実とのギャップがわからなくなる。
経験がないというのはこれだけ酷い状態を生み出す。
頭だけで考えるというのは、人間をダメにしやすい。
他人の限界もわからなくなるし「当然こうだろ」みたいな、頭ごなしの考えしかできなくなる。
そういうのは作家としてもう現実感がないし、文章にも成長が見られなくなる。

あらゆる行動というのは「選択肢を可能な限り広げる」ためにあるべきであって、退路を断つためにあるわけじゃない。
だからこそ、自分にしかできないことを探し、誰でもできるようなことはまず二の次にしないといけない。
まずはここからやろう。
「何を守りたいか」ではなく「何を育てたいか」が一番大事なのだ。

ということで、今年一年よろしくお願いします。

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12/28

Tue

2010

去年から今年にかけて色々見てきた中で、人間はどのようにして自分自身の整合性というものを保っているのだろうとふと疑問が浮かんだ。
オンラインゲームの世界の中に飛び込んだり、恋愛関係における人の繋がり方を見ていたり、バーチャルリアリティーとリアル(現実:バーチャルリアリティー空間では現実世界でのことを「リアル」と呼んで分ける)の中で違和感を持つこともあった。

人の「悩み」とは何か。
成長しているようでしていない人間の特徴は記憶の整合性に重点を置いているように思う。
これは「記憶の安定性」を保つために、新しいことや変化があったとしてもそこに適応して成長するよりも「自分自身の居場所を確保」するために記憶上に存在する過去の自分に執着して世界を自分の望む状況に変えようとする。
これは「変えている」というよりも「自分の望む状況を集めている」と言った方が正しい。
だから批判をしていても批判した内容は他者に即してではなくあくまで自分を中心としての力点のほうが強い。
自分では変化させたように感じるだろうが自分の過去の容認なので個人としては変化していないし、同じトラブルを繰り返したりする。
これは過去の記憶の連続線上に存在していて極めて直線的な記憶(変化していない個人)の中で自分の安定性を確保する作業だ。

人は、どうやら自分の記憶の整合性を保つため時間の中で連続している記憶を確認するたびに、自分の世界を維持しているらしい。
これは「記憶の関連付け」にも繋がる。
思想信条があって、ひとつのオブジェを見る・感じることで思い起こされる過去の記憶の連鎖によってアイデンティティーを保っているのではないのだろうかということだ。
だから同じ物を目の前にしても感じ方が違う。

井上陽水という歌手がいるが、その人は毎年のようにツアーで休むことなくライブをしていた。
しかしある日ホテルで目覚めた時、自分がどこにいるのか一瞬わからなくなり、これではいけないと感じ、ライブを控えるようになったという。
今考えると面白い示唆のようにも感じてくる。
この話の中では場所による記憶が毎日変わっている。
目覚める風景が似通っていても、目覚めている場所は違っているので、類似した風景を見た時に、過去の記憶と関連付けようとしても違ったものが引き出され、混乱する。
昨日の記憶を思い起こそうとして四日前の記憶が引き出され、自分の現在の居場所を記憶の中で喪失するということだ。

ハリーポッターの主役のダニエル・ラドクリフも役にのめりこみすぎるあまり自分が何者だかわからなくなった時期があったという。
思春期の時期とかぶったので余計に「個の整合性」が保てず混乱したように思う。
連続した記憶のアイデンティティーの中にハリーポッターという別の人格の記憶が入り込むことによって、ダニエル・ラドクリフという人間本来の記憶の連続性が保ちづらくなっていたということだ。

またバーチャルリアリティーの世界の中で長く時間を過ごしている人は、少しずつ力点がバーチャルに置かれ、リアルと理屈が摩り替えられていくということに何の違和感も持たないという現象が起こり、少々驚いたこともあった。
力点の置かれる過去の記憶がリアルよりもバーチャル側に置かれることによって整合性が摩り替わっていくということだ。
これはバーチャル世界のみならずリアルの世界でも常に情報が与えられ続け個人の感覚の中で整合性が取れれば、その世界への力点が強まっていく。

「記憶に錯覚を起こす」

この世界はほとんど嘘で成り立っている。
もしそう言われたとしても誰も信じないだろう。
たとえばバーチャル世界しか知らない人間が「現実」があるのだと言っても信じない。
なぜならば人は世界の真実の基準の書き換えを自分の記憶の整合性を保つために行い難いためだ。
これはもう「マトリクス」という映画の中で既にやっているが。

話の一つの考え方として時間上に存在している連続した記憶を板状に考えると、この板状の記憶が少しでも組み替えられることがあったら混乱して人は世界における自分と世界そのものの整合性を保てなくなるだろう。

人は望む世界を心の中に抱いている。
苦痛を経験して得るものがそれ以上に大きくなければ望む世界の中には苦痛は存在しないし、現実が何かを見つめることはできないし理解することも不可能だろう。
常に代価の大きいものに力点を置いていく。
この代価への欲求が個への執着を促がし、いずれは堕落を引き起こす要因にもなっているのは皮肉だが、良い方に考えるならば「希望」も個人を離れた世界への代価の中に存在している。

成長しない人間は悩んでも結局安定した自分に戻っていく。
変化するために悩んでいるのではなく、変化しないために悩んでいるのだ。
つまり記憶の安定性の維持や自分という主体の望んでいる状況を集めるための努力をしているといっていい。
記憶の安定性は極めて限定された空間における錯覚の中にしか存在しないから生み出すのではなく、あるものを集めるしかなくなる。

この逆が変化のための悩みであって、想像上にのみ存在している。
他者とのよりよい関係は数多くの経験から得られる豊かな想像力の中で培われるものと言っても過言ではない。
さらにその未来ともなればなおさらだろう。
新しい変化を望む時、人は必ず自分というものから離れないと見えてこない。
自分ひとりで成り立つ力などあり得ないという現実感の元に先を見なければ最後は成功しないからだ。

両者の記憶の関連付けは、オブジェによってなされるのではないだろうか。
それは自分が考えている整合性を何かを見る・感じることによって常に維持させている。
時としてオブジェのために変化するのではなく、整合性のためにオブジェを集めるということにも摩り替わったりする。

世界は人々の消極・積極的記憶の混在によって維持されている。
新しい変化を周囲に望もうとする時、安定を望む意識が反発するだろうし、安定だけを維持させようとすると、変化への意識が反抗心をもって衝突していくだろう。
人の悩みはこの中に凝縮されているように感じるのだ。

人類の社会にとって有益なのは変化しないことだ。
しかし生物・遺伝子にとって有益なのは変化(適応)していくことだ。
人は生まれた時から矛盾を抱えている。
宇宙を含めた現実は常に変化している。
記憶を持ち、社会を作ろうと考えたからこそ、整合性を保つために世界を限定し、記憶の連続性を維持させる必要性があった。
だから昨日の記憶を覆される存在に疑いを持ち、整合性を保てない違和感のある存在を無意識に排除しようと試みている。
過去に危機しか持たないのであれば、良いにしろ悪いにしろ変化を望むだろう。

これが根に近い、生物本来の姿であるように感じている。
今は、もしこの記憶が遺伝子にも影響を与えるとしたら、などとちらと思ったりしている。
今回はここらで止めておこうと思う。

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12/23

Thu

2010




実は当時はガンダムよりマクロス派だったので、リアルタイムではガンダムは見ていませんでした。
だいぶ過ぎてからガンダムというのを真面目に見るようになった経緯があるのですが、あまり詳しいというほどではない。

最近朗読をするのに、色々参考にしている。
それで一応これからやる方針としては詩なのだけれど「言葉」というものは感情によって強弱をつけて脚色するけれど、言葉の硬さと柔らかさをのみ表現したほうが詩の朗読にはあっているのではないかと考えた。

たとえば、「怒り」なら「硬質」と見なし抑え気味に。
「嬉しい」なら「軟質」と見なし豊かに。
という具合にやっていこうかと。
来年の話になります。

それで動画なんですが凄いですね。
内容はまだしも声に、演説そのものに迫力があって説得力がある。
こんな説得力のある演説をする政治家が出てきたら投票しちゃうよ。
やっぱり政治家っていうのは国民の前で政治をやるのだという気迫を伝えるためにもよい意味で演じきらなければいけないのですね。

自分は表現という視点から最近色々なものを見ているけれど、こちらで作らずに感情移入させるにはどうすればよいのかと考えている。
一種のナレーションのような力の抜き方がいいのかも。

しかし逆にこんな風に腹から力出している人間を飲み込んでいくような迫力もそのうち身につけていきたい。
そうすることでまた新しい感覚が手に入るだろうと思っている。
何度聞いても凄みがあるな銀河万丈さん。

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12/20

Mon

2010

茨城・JR取手駅 バス襲撃事件

「現代人」
http://p.booklog.jp/book/6538


生い立ちの情報や本人供述が少ないことから推測でしか成り立たないけれど、最近この手の「鬱憤」を持った人間が起こす事件が多いと思う。
実際には臆病で前へと出られない人間が溜めに溜めて一気に爆発させるというケースだ。
例えて言うのなら密閉された容器の中にどす黒い水を注ぎ込んでいって、最後には注ぎきれなくなり容器が壊れてしまうという状態。

「人生を、終わらせたかった」という供述などしているという。
何か、物凄く思い当たる節があり、こうして書こうと思うのだが、結局「新・人間失格」やこの「現代人」にも書いていることは「本人が認識できていない暴力性やフラストレーションの表出の仕方」だ。

私はずっとこのことを感じながら小説に書いているわけだけれど、本人以外は認めたくもないことだけれど、本人そのものの存在価値が認められない、または認められることへの本人意識と周囲認識のギャップや矛盾によって、本人の結論として無意識が「暴力を受けている(阻害されている)」というフラストレーションを溜めていくために、死にたいのではなく「消えたい」と思ったり、溜まったフラストレーションが発散されないことによって内面的な暴力性が高まってくるということはあると考えている。

かく言う私もふっと無気力になったり通行人・身内に対してひどく暴力的な衝動を持ったりすることを認識したりする。
人間は自分だけの意識ではどうにも自分の心を律しきれない。
あらゆる影響を受けながら「自分はここにいても良いのだ」という認識を確認しながら生きていっているのではないかと考えている。

その一種の「存在確認の積み上げ」がどこかかしこで崩されたり崩れていったりすると「どうして自分はここにいなければいけないのだろう」という無意識の疑問や不信がやがて意識レベルにまで表出してくる、というのが私の考え方だ。
人間は自己存在確認をしながら未来に対して希望を持っていくことで、人生というものを開けさせているのではないかと。

この手の犯罪は簡単に言うところの「認められないことへの反逆」だが、今の日本の社会ではこの手の感情は「甘え」や「本人努力が足りない」など、あらゆる意味を含めて「本人能力の欠如」を指摘するに留まる。
そして第二・第三の事件が起きても「また自分勝手で努力もしない人間が犯罪を起こした」としか認識されず、堂々巡りの状態を何度も繰り返している。
結局社会そのものが、この手の人間を無視という暴力性によって片付けているという側面がある。
だからこそ相手が「特定の誰か」ではなく「社会」という「不特定多数」なのではないかと考える。
「社会」というあるようで厳密には特定できないようなあいまいな空気に対してどうしようもなくなってしまう。

私はいつも小説を書くときに「個人の認識の範囲」を意識する。
この手の人間がどのように周囲の「世界」を見ているのか。
それは今までの経験・思想にもよるし教養の量にもよるし想像性・感性の高さにもよるし、それらのものを受け取る心の器はどれほどなのかと考える。
だからこそ個人個人が感じている「世界」というものは違うのだが、特に日本人はこの世界観が「一緒なのだ」と思い込んでいるのではないだろうか。
そして他人との世界観のずれというのを極端に恐れ、互いの世界観を隠して表面上で合わせたり、本音で交換し合うことは稀だ。
大人の社会に出れば余計にそうなると思う。

思想の上では日本人は多様性を認めているようで画一化の方向へと向かっている。
保守的なのである。

日本の年間自殺者数は未だに3万人を切らない。
そしてこの数字は「統計上」で算出される数字であり当然統計という基準から漏れている多くの人たちがいる。
実際にはこの数字よりも多いのだ。

統計だけでも出ている数字で40歳代までの自殺者は年間1万人を越えている。
単純には換算できないが、これが労働者、何らかの生産行為を行っていたとしたら、毎年働き盛りの人間をこれだけ失っていることになる。
特に日本人は「日本がダメだったら海外に行こう」とか「労働がないなら自分で作り出そう」なんていう発想はなかなか浮かばない、もしくは発想が実現しづらい社会環境があるから精神的に追い込まれる。
それも、保守的ゆえだ。
なにせ20歳から40歳までの死因の第一位が自殺という国なのだから、そろそろ自分たちの異常な状態に気がついても良いのだと思うのだが、未だに余裕が生まれない。
次は我が身かもしれないという危機感もあるのではないだろうか。
それに他人にまで悠長に手が回せるほど現代人には余裕がない。

自殺の話になったが、自殺も他人に対する傷害も同じ「暴力」だと考えている。
破壊衝動の究極的な行き着く先だ。
つまり自分も含めた「人間」という存在に対するありがたみや価値を軽んじている(重く認識するまで積み上げられていない)から、暴力的な衝動を実行段階にまで上らせてしまうのではないのか、と思うことがあるのだ。
今回は殺意を否認しているらしいので、まだフラストレーションとしては弱かったのかもしれない。

日本社会では「社会に馴染めない人間を否定」するという方法で社会に所属できる可能性のある人間を「処理」していっている。
これは現代日本の社会システムを維持させるための日本人なりの合理性なのだと思うこともある。
命すら現在の社会を維持させるための「必要経費」であり「物」なのだ。
「人材」と言う「物」である。
だからこの手の犯罪が起きても「排除」するだけで「処理済」としか片付けられない。
会社でも使えない。
社会にすら馴染めない。
使えない人材は破棄する。
それだけだ。
その手の行為を繰り返している。

何故繰り返すのか、と思うところがある。
自分なりには個人レベルでのフラストレーションの爆発に至るまでの形成過程はなんとなく見えている。
じゃあ、もっと大きなレベルで、何故個人が、社会思想が、個人を追い込むのか。

それは私の直感としてこの国の金の流れを完全に洗い出せれば浮き彫りになるのではないかと思っている。
金には常に「思念」が宿る。
どのような使われ方をされるかで、金の価値や社会が変わっていく。

最後になるが私たちができることは他人に対する思いやりを忘れないことである。
せせこましく他人に接すれば、それだけ社会が悪化するのだ。
私たちは社会で「金銭」以外にも「心の通貨」を持っていることを忘れてはいけない。

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12/19

Sun

2010

齋藤智裕「KAGEROU」騒ぎ

次々と増えていくアマゾンの酷評レビューにそろそろ完全に飽きてきたところで、いつもはスルーするこの手のミーハー騒ぎに思ったことを書こうと思う。
というのは、芸能人などほとんど興味がなかったが先日の金曜日「とくダネ」の番組内で齋藤智裕氏が小倉智昭氏のインタビューに答えていた内容に対して大きな疑問を感じると同時に「表現」ということにたいして考えさせられたからだ。

正直なところポプラ社の「書店責任販売制」という売り方ひとつ取っても、今回の大賞作品がロングランでは売れないということを見越しているのではないか、と勘ぐっても充分だし、今回本の売り方に対してひとつの短期決戦型の策略が完全に当たっていたことは否めない事実だ。
その上で本来本に興味を持っていなかった層に対しても充分知らしめただろうし、本に対して見識を持っている人たちに対しても知らしめたことになる。
両者とも思うところがあるのなら、今度は次に繋がるために行動に移すだけだ。

今回のポプラ社の受賞騒ぎに対して、少なからず私も面白くない感情は持ったものの、自分の実力のなさを棚上げして、あれこれと言うのが嫌だったので黙っていた。
しかし受賞金額の辞退などの行動を追っていっても不可解な点はある。
たとえば私が辞退するとして、内容に対してもバッシングが来るのが軽々と予想できるのであれば、私は印税で手元に残った金額の半分を後の作家育成のために寄付する。
そうすることでバッシングを行っている連中を完璧に抑え込むと同時に自分の主張の正当性を確保し、これ以上のバッシングは悪意のあるものでしかないと立証するためである。

ただ、よく作者の人生や背景をそのまま作品の評価に結び付けようとする動きがあるが、これは大変ナンセンスだと感じると同時に、分けて考えるべきだと忠告したいことでもある。
我々は物品を買うのに、その会社のことや創業者などのことを調べるのは極めてまれである。
通常その物品が良いか悪いかで判断して購入を決める。
本というのも例外ではなく、作者がどうあっても内容の良し悪し、もっと言えば作者が死んでも内容においては高く評価されるのが本当の価値であると考えている。
「価値」というものが、そのまま値段にはなっておらず、「価値」の代価が得られるようなシステムは確立されていない。
もうこの点においては滅茶苦茶な状態すらもあるほどだ。

今回あまりにも前評判が悪かったので、きちんと読んでから本の感想を書こうとも思ったが、面倒くさくなってやめた。
26歳となれば、まだまだ先は長いし今までの2倍生きたとしても52歳という、作家としては油の乗った時期に突入する。
今回のバッシングがより創作的なものに繋がるのならば、決して無駄ではなく、むしろ大きな財産となる。
こういう経験はなかなかできないものであるから、この先の自身のためにも貴重な体験だ。
絶対に生かすべきだ。

表現というものは、全身全霊を使うものと考えている。
この受賞に対して嫉妬や失望を禁じえない作家を目指す多くの諸君に対して感じるのは、それすらも創作に生かしきれないのなら、創作の現場において戦っていけるだけの才能は既に持っていないのだから、今すぐにでも諦めよ、ということだ。
それだけ自分を含めた「人間」というものを生かせなくて、何が作家になりたい、作家を目指しています、だと逆に冷ややかな気持ちを覚える。
現代日本では夢や希望が企業に食い物にされる可能性が高いのだから、自分があらゆる才能に対して貪欲でなく、現状に甘んじ生ぬるい価値観でいつまでも殻に引きこもっているだけの了見の狭さならば、食い物にされて当然だと思わなければいけない。
この悲惨な現状をぶち破るには、ぶち破れるだけの大きな才能が必要なのだ。
表現に携わるものなら、最後血の一滴すらも表現という狂気にも近い行動に生かすべきである。
それが表現だ。

ということを踏まえて、インタビューの感想なのだが、日本語に対してコンプレックスがある、小学校の時に死にたいと思ったほどの人種差別などのいじめにあった、目を潤ませながら話していた。
齋藤智裕氏の生い立ちや主観はよく伝わってきたものの、それを越えてくる「客観性」というのが見えてこなかった。
あくまで話の内容は「彼の話」であり、「彼が見てきた多くのもの」ではなく、その点で違和感を覚えたのだった。
例えば「俺は凄い」と言ったとする。
しかしその凄さは「他人が認めて」初めて「凄い」と認識される。
自分で言っているに留まっているうちは他人にとっては「主観」だとしか認められず多くの場合「独りよがり」だとしか捉えられないだろう。
作品における客観性、または自分の話す内容においての客観性をある程度出すには自分がいじめにあった、他にも自殺する人が多いと聞く、そして命のことをテーマにしようと思った、というのならば彼が調べてきた「自分以外の数多くの命に対する悲痛さ」の話、もしくはその片鱗すら感じられても良いはずだ。
それなのに彼の話は最後まで「自分の話」であって「自分以外の話を含んだ語り」は出てこなかったのだ。
言うなれば「彼の悲しみ」が「他の悲しみ」と同レベルで扱われている。
先ほどの例を戻すならば自分が凄いと思っているものが他にとっての凄いと同じレベルで扱われているのだ。
そんな思いを抱いたインタビュー内容だったし、さらに追い討ちをかけたのは「他の表現にも挑戦するし時期が来たら発表する」と彼が言ったことだった。

この発言を受けてさすがに「え?」と声を上げそうになったほどだった。
あらゆる表現方法を学び、表現とは何かを自分で模索するのは構わないし、これからもあらゆることに挑戦するのは止めるべきではないが、さすがにそれを言うには、あまりにも早すぎるし、当然「表現とは何か」も広く浅くでは見えてこようはずもないだろうし、ある程度各分野における「表現」を噛み締めず他の分野に移れば、その分野で頑張ってきた人に「この人はまた他のところに行くのではないか」と不信感を持たれてもしょうがないし、周囲の目も一気に変わる可能性だってある。
現状だってそうなのだからこれ以上逆撫でしないほうがよいに決まっているのに、なぜある程度の作品を出してからではなく、一作書いてすぐに「他の表現」の話をするのか、はなはだ疑問であった。
それも作品を書くための一つの手段として捉えているのならばよいのだが、どうにも目論見が伝わってこない。
ただ「自分がしたい」という思いが前に出すぎているのだ。

「表現」とは「誰かに伝わって」こそなのに、これでは彼の「表現」という行為が本当に独りよがりの苦しみに終わってしまう可能性すら高くなる。
それは本人にとっても不本意だしファンにとっても喜ばしくはないだろう。
本を書くというのは、確かに片手間でもできる。
しかし「表現をする」という行為は片手間ではできない。
自分の感性がどこにあるのかを探らなければいけないし、自分が持っている全てを美醜問わずさらけ出さなければいけない。
そしてようやく「自分が表現すべきもの」が見えてくる。

私も所詮自分の主観に従って述べているに過ぎないのかもしれないという迷いすらも充分にあるが「表現」は個人にとって重いものであると同時に他者にとっても同じくらい重いものであると受け止め自分なりに余さず掬い上げるのが「表現」という行為の根本にあると考えているのだ。
他の人間の命の重みを理解せずして、命の重みを自分の主観で語るのは通常は歓迎されない。
これがわからないうちは、いつまでだっても子供でしかない。
このことに関しては本当に表現に携わるものなら一生悩んでいかなければいけない。
バッシングを受けようと嫌がらせを受けようと、這いずってでも進んでいかなければ、自分の主張を曲げることと直結する。
それでは何のために「表現」を目指そうとしたのか、その意義すらも見失うことになるだろう。

これは、当然彼だけの話ではない。
すべての「表現」というものに携わりたいと思っている人たちに、よく考えて欲しいことでもある。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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