次々と増えていくアマゾンの酷評レビューにそろそろ完全に飽きてきたところで、いつもはスルーするこの手のミーハー騒ぎに思ったことを書こうと思う。
というのは、芸能人などほとんど興味がなかったが先日の金曜日「とくダネ」の番組内で齋藤智裕氏が小倉智昭氏のインタビューに答えていた内容に対して大きな疑問を感じると同時に「表現」ということにたいして考えさせられたからだ。
正直なところポプラ社の「書店責任販売制」という売り方ひとつ取っても、今回の大賞作品がロングランでは売れないということを見越しているのではないか、と勘ぐっても充分だし、今回本の売り方に対してひとつの短期決戦型の策略が完全に当たっていたことは否めない事実だ。
その上で本来本に興味を持っていなかった層に対しても充分知らしめただろうし、本に対して見識を持っている人たちに対しても知らしめたことになる。
両者とも思うところがあるのなら、今度は次に繋がるために行動に移すだけだ。
今回のポプラ社の受賞騒ぎに対して、少なからず私も面白くない感情は持ったものの、自分の実力のなさを棚上げして、あれこれと言うのが嫌だったので黙っていた。
しかし受賞金額の辞退などの行動を追っていっても不可解な点はある。
たとえば私が辞退するとして、内容に対してもバッシングが来るのが軽々と予想できるのであれば、私は印税で手元に残った金額の半分を後の作家育成のために寄付する。
そうすることでバッシングを行っている連中を完璧に抑え込むと同時に自分の主張の正当性を確保し、これ以上のバッシングは悪意のあるものでしかないと立証するためである。
ただ、よく作者の人生や背景をそのまま作品の評価に結び付けようとする動きがあるが、これは大変ナンセンスだと感じると同時に、分けて考えるべきだと忠告したいことでもある。
我々は物品を買うのに、その会社のことや創業者などのことを調べるのは極めてまれである。
通常その物品が良いか悪いかで判断して購入を決める。
本というのも例外ではなく、作者がどうあっても内容の良し悪し、もっと言えば作者が死んでも内容においては高く評価されるのが本当の価値であると考えている。
「価値」というものが、そのまま値段にはなっておらず、「価値」の代価が得られるようなシステムは確立されていない。
もうこの点においては滅茶苦茶な状態すらもあるほどだ。
今回あまりにも前評判が悪かったので、きちんと読んでから本の感想を書こうとも思ったが、面倒くさくなってやめた。
26歳となれば、まだまだ先は長いし今までの2倍生きたとしても52歳という、作家としては油の乗った時期に突入する。
今回のバッシングがより創作的なものに繋がるのならば、決して無駄ではなく、むしろ大きな財産となる。
こういう経験はなかなかできないものであるから、この先の自身のためにも貴重な体験だ。
絶対に生かすべきだ。
表現というものは、全身全霊を使うものと考えている。
この受賞に対して嫉妬や失望を禁じえない作家を目指す多くの諸君に対して感じるのは、それすらも創作に生かしきれないのなら、創作の現場において戦っていけるだけの才能は既に持っていないのだから、今すぐにでも諦めよ、ということだ。
それだけ自分を含めた「人間」というものを生かせなくて、何が作家になりたい、作家を目指しています、だと逆に冷ややかな気持ちを覚える。
現代日本では夢や希望が企業に食い物にされる可能性が高いのだから、自分があらゆる才能に対して貪欲でなく、現状に甘んじ生ぬるい価値観でいつまでも殻に引きこもっているだけの了見の狭さならば、食い物にされて当然だと思わなければいけない。
この悲惨な現状をぶち破るには、ぶち破れるだけの大きな才能が必要なのだ。
表現に携わるものなら、最後血の一滴すらも表現という狂気にも近い行動に生かすべきである。
それが表現だ。
ということを踏まえて、インタビューの感想なのだが、日本語に対してコンプレックスがある、小学校の時に死にたいと思ったほどの人種差別などのいじめにあった、目を潤ませながら話していた。
齋藤智裕氏の生い立ちや主観はよく伝わってきたものの、それを越えてくる「客観性」というのが見えてこなかった。
あくまで話の内容は「彼の話」であり、「彼が見てきた多くのもの」ではなく、その点で違和感を覚えたのだった。
例えば「俺は凄い」と言ったとする。
しかしその凄さは「他人が認めて」初めて「凄い」と認識される。
自分で言っているに留まっているうちは他人にとっては「主観」だとしか認められず多くの場合「独りよがり」だとしか捉えられないだろう。
作品における客観性、または自分の話す内容においての客観性をある程度出すには自分がいじめにあった、他にも自殺する人が多いと聞く、そして命のことをテーマにしようと思った、というのならば彼が調べてきた「自分以外の数多くの命に対する悲痛さ」の話、もしくはその片鱗すら感じられても良いはずだ。
それなのに彼の話は最後まで「自分の話」であって「自分以外の話を含んだ語り」は出てこなかったのだ。
言うなれば「彼の悲しみ」が「他の悲しみ」と同レベルで扱われている。
先ほどの例を戻すならば自分が凄いと思っているものが他にとっての凄いと同じレベルで扱われているのだ。
そんな思いを抱いたインタビュー内容だったし、さらに追い討ちをかけたのは「他の表現にも挑戦するし時期が来たら発表する」と彼が言ったことだった。
この発言を受けてさすがに「え?」と声を上げそうになったほどだった。
あらゆる表現方法を学び、表現とは何かを自分で模索するのは構わないし、これからもあらゆることに挑戦するのは止めるべきではないが、さすがにそれを言うには、あまりにも早すぎるし、当然「表現とは何か」も広く浅くでは見えてこようはずもないだろうし、ある程度各分野における「表現」を噛み締めず他の分野に移れば、その分野で頑張ってきた人に「この人はまた他のところに行くのではないか」と不信感を持たれてもしょうがないし、周囲の目も一気に変わる可能性だってある。
現状だってそうなのだからこれ以上逆撫でしないほうがよいに決まっているのに、なぜある程度の作品を出してからではなく、一作書いてすぐに「他の表現」の話をするのか、はなはだ疑問であった。
それも作品を書くための一つの手段として捉えているのならばよいのだが、どうにも目論見が伝わってこない。
ただ「自分がしたい」という思いが前に出すぎているのだ。
「表現」とは「誰かに伝わって」こそなのに、これでは彼の「表現」という行為が本当に独りよがりの苦しみに終わってしまう可能性すら高くなる。
それは本人にとっても不本意だしファンにとっても喜ばしくはないだろう。
本を書くというのは、確かに片手間でもできる。
しかし「表現をする」という行為は片手間ではできない。
自分の感性がどこにあるのかを探らなければいけないし、自分が持っている全てを美醜問わずさらけ出さなければいけない。
そしてようやく「自分が表現すべきもの」が見えてくる。
私も所詮自分の主観に従って述べているに過ぎないのかもしれないという迷いすらも充分にあるが「表現」は個人にとって重いものであると同時に他者にとっても同じくらい重いものであると受け止め自分なりに余さず掬い上げるのが「表現」という行為の根本にあると考えているのだ。
他の人間の命の重みを理解せずして、命の重みを自分の主観で語るのは通常は歓迎されない。
これがわからないうちは、いつまでだっても子供でしかない。
このことに関しては本当に表現に携わるものなら一生悩んでいかなければいけない。
バッシングを受けようと嫌がらせを受けようと、這いずってでも進んでいかなければ、自分の主張を曲げることと直結する。
それでは何のために「表現」を目指そうとしたのか、その意義すらも見失うことになるだろう。
これは、当然彼だけの話ではない。
すべての「表現」というものに携わりたいと思っている人たちに、よく考えて欲しいことでもある。
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