忍者ブログ

あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

11/25

Mon

2024

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

10/18

Mon

2010







光の加減や見る角度によって、花はこれだけ違ってくる。

拍手[2回]

PR

10/17

Sun

2010

まず〔まづ〕【▽先ず】

[副]

1 はじめに。最初に。「―下ごしらえをして、その後料理する」

2 とりあえず。ともかく。何はともあれ。「これで―一安心だ」「―一休みしよう」

3 ある程度の確信をもって判断や見通しを述べるときに用いる。おおよそ。多分。「この調子だと―大丈夫だろう」「―助かるまい」

4 (下に否定的な表現を伴って)どうにも。いかにも。


Yahoo辞書から引っ張ってきました。
まず、という意味ですね。

ツイッターを使っていて結構引っかかることがある。
それは人々がどのように言葉を拾って解釈しているか、ということだ。

以前に、

民俗学ではまず文献を読むなというのが基本原則らしい。なるほど、作家も似たようなものだな。本当に小説を書きたいなら小説は読むな。人とひたすら接し、人々の気持ちを一つ一つ知っていけ。これが本物の作家の大原則。…となったら生存している作家の中で残るのは誰だろう。

というツイートをしたら、

民俗学ではまず文献を読むなというのが基本原則らしい。

という意味が強く残ったのか、これを拾われ「文献を読まずにできる学問なんてあるの??」という文面が飛んできた。
あえて拾わなかったけれど、その他の人たちも「文献を読むな」という部分だけ強調して意味を拾ってきている。
しかも前線で活動している学者さんや研究者さんがやっていたのでさらに驚いたわけです。

これは自分が書いた文章そのものが悪いのですが、正確には「文献に頼るな」というのが正しい文面。
「頼るな」と「まず読むな」では、相当意味合いが違うし伝わる状況も天と地ほどの違いがあるけれど、それでも「まず」が入っていることで「まったく読まない」ということとはイコールにはならない可能性は多分に残している。
…と、私は思っていたのだけれど、読んだ人はどう思うだろう。

まず、という言葉を意味もなく飾りのように使っていますか?
それとも3の意味合いで使うことがほとんどでしょうか。
同じ言葉でも前後の言葉から意味が違ってくるのが文章の不思議な感覚的魅力ですが私たちって自分の感覚に合うような言葉を選んで多用しているところがある。

文章家だからなるべく正確な文面を探し出すことを第一としなければならないし、特にこの場合は本に書いてあることだから自己解釈で捻じ曲げては論外だが、ひとつ気がついたことは「人は弱い言葉を添えても、強い言葉に引っ張られて頭の中に残すのだな」と思ったものだった。
私は小説家だから、人の中で起こる「言葉を捉えるときのあいまいな意味の揺れ」を探って書く。
文章は書いているけれど、小説家は「感覚を与える」ことを第一とするので、論文における正確な意味合いの文章を作る技術とはまったく違う。

以前にもよくこの言葉の解釈で「?」と思ったことがあった。
それはその人が、たとえば「まず」の意味を3の意味でしか捉えてなくて、相手に向かって「違います」と堂々と言っていたことだ。
実際に調べれば3以外の意味があり、相手側が書いてある文面で間違ってはいないのに、その人は3の意味しか知らないから相手に向かって皮肉交じりのことを言う。

こういうことが短い文章上の中で多発している。
その上で争いになることも少なくはない。
言葉の解釈の中で起こる個々人の多様なぶれというのは、当然起こり得るものだが、現代人気質とでもいうのだろうか、相手の言葉の意味や価値観を強制しようとする行為はネットを問わず現実空間でも多々起こっている。

どうしてだろう。

明らかに訓練ができていないということもあるが、言葉の中に多様な感覚や意味のブレがあるということの気構えができていないのではないだろうか。
この「気構え」というのは「興味の範囲」が著しく個人の中で完結しているということだ。
だから他人が持っている感覚に興味がわかない。
気がついても入り込めない。
と、ここまで来ると訓練ができてないということに戻るのだろうが。

個人は感覚の中で生きている。
言葉を持つ前の出発点は感覚である。
それが集団を形成するひとつの鍵になっても、集団としての特性を現すには隔たりすぎている。
しかしその集合感覚こそ、集団であることは間違いない。
先ほどのツイートの内容は結局言葉というのは、感覚を基点としているからこそ、人の感覚を知り、そこから文章なりを編み出していかないといけないということだ。
私は民俗学のことなど知らなかったが、小説家のこのような感覚から照らし合わせれば、民俗学というのも同じように文字から探り当てるのではなく、人の息吹を体の中に叩き込まなければいけないのだ、というのはよくわかる。

だからこそ小説家も他人の感覚をどんどん吸収した上で、他者の著作なりを改めて読んで、より多様な感覚でもって体に叩き込まなければならない。
それでこそ、小説が息をし始めるものだと思っている。

言葉というのは大事だ。
今の若い世代はどんどんボキャブラリーを失って感覚的に伝えるようになってきているが、言葉は感覚を表現するのにまず役立つ。
現在の国語の試験のように答えが決まっているわけではなくて、「まず」のように色々な意味を含んでいる。
感覚だけがあって、言葉にできないと、誰かに気持ちを伝えるときに言葉以外の行為になってしまう。
まず言葉は自分の感覚を解釈するために使用される。
その上で伝えられるわけだ。

もっと高度になると他人の感覚を解釈するために使われる。
技術的なことやシステム的なことを言葉にするとどうしても「説明」が多用されることになるから、言葉の意味も他者との中で限定していき、その意味のブレが極めて小さいのが好ましい。
この説明の技術と、日常会話の技術、つまり言葉の使い方は違う。
説明は意味のぶれを狭めるのに対して、日常会話や対話というものは意味のぶれを楽しむところがある。
この意味のぶれを受け入れて、違った形でやりとりするのが他人と交流する上でとても大事なことだ。

しかしその「交流の前提」すらも成り立たなかったら少々困ることだろう。
先ほどの例のように「まず」がAさんにとっては1の意味、Bさんにとって3の意味で押し通し譲らない会話が永遠と続けば喧嘩になることは当たり前なのである。
大げさな例に見えるかもしれないが、実は大げさではなく結構やっていることなのです。
最近「無縁社会」の座談会に出席したけれど「無縁」の意味や内容や感覚でさえ一致していない。
現在はみんなばらばらになって、手探りで見えるものを追っている状態。

言葉には「文字」と「口頭」があるが、どちらにも感覚を根底としている。
言葉を解釈することは感覚を解釈することでもある。
その中にある本人だけが抱えている微妙な感覚は言葉にできないことがほとんどだ。
言葉を解釈する上で一番大事なのは「自分がその言葉について知っている意味とは違う可能性もある」ということを、きちんと頭の片隅にでも置いているのかということでもあると考えている。

自分の中で意味を限定すると、人は数多くのものを見失いがちなのである。


元ネタ

拍手[1回]

10/08

Fri

2010

NHK 無縁社会 札幌座談会追記

言いたいことはたくさんある。
感情が先走り、色々なことが積み重なり、個人的にはいっぱいいっぱいですが、「みんなで集まって話し合う場を設けてくれたのだから、そのことに感謝しないといけないよ」と言われ、はっと自分の思い上がりに気がついた。
この言葉をくれた、画面の前のあなた、ありがとう。
あなたのような人に出会えてよかったと思っています。
そして連絡をくださった番組ディレクターOさん、ありがとうございます。
ようやく気持ちも落ち着いてきたので追記を書こうかと。

前の記事で40代の男性のことを少し書いた。
最初から最後まで険しく悲痛に満ち溢れた顔だった。
私はあの人がそこにいてくれただけで、よかった。
私は精神的に完全にダメだった時期があったから、あの人の気持ちも少しはわかるような気がした。
来るだけで、勇気がいる。
そして、現場で活動している実際の意見や言葉の前に、酷くコメントし辛いという悲しい気持ちもよくわかる。
何を感じているのか、何を自分に対して思っているのか、その顔を見せてくれただけでわかるような気がした。

私だって無職みたいなものだから社会的に控えめで消極的な立場に置かれているのだという感覚はよくわかる。
この記事はきっと見ていないとは思うけれど、この場を借りて千歳からわざわざ座談会にまで来ていただいて、本当にありがとうございました。

時代が変わる、と前回の記事で書いた。
これは現在の若者が繰り上がってくるということだ。
今の若者は携帯電話が主なネットワーク手段になっている。
これで非常に速いスピードでネットワークを広げていく。
しかしそれは強く切れない絆ではなく、誰が切れても大丈夫なように保険をかけておくようなものだ。
だから深い付き合いよりも浅く広くという構図になっている。
一度に会話などに意味を一気に込めるのではなく、たわいもない言葉を重ね頻度を上げることによってコミュニケーションをはかっていくのが特徴だ。
つまり深い話は逆に重い。
説教なんてしようものなら、ほぼ絶交になる。
他の人で代替すればよいからだ。
これが「保険」の意味になる。

縦構造があまりにもしっかりしすぎていることに息苦しさと苦痛を感じた人たちは横の連帯を強めていった。
シェアハウスに見られるような、「独りにはなりたくないが、かといって過度な干渉は避けたい」という気持ちを持った人たちが増えている。
この横構造の連帯感というのは、板状のようなもので格子状のものよりもろく、また世代ごとに取り替えられるという欠点を持つ。
つまり壊れやすい板が他の板と交わることなくエレベーター式にあがっては消えていくという図式。

現在のシステムについても同じようなことが言えるのではないか。
つまりシステムが世代ごと、時代ごとに通用しなくなり上から押さえつけられることに強い抵抗感を示している。
蜘蛛の子を散らしたように個が広がりだしている。

システムというのは組んだ途端内側と外側に分かれていく。
システムの恩恵を受ける人とそうでない人に分かれる。
システムは万能ではないし時代の変化によって老朽化していく。
現代人はどうしてもシステムに支配されている社会に住んでいるのでシステムから人を考え出す。
本来ならば逆でなければいけない。
つまり人が動きシステムが自然とでき、できたシステムが人の動きによって次々にアップデートされていく。
これが健全な社会だ。

座談会が終わり、少し他の人と話していた中で面白い話が出てきた。

「世間師(しょけんし)」という存在がいる。

簡単に説明すると、この存在は自分の足で広く見聞を広げ情報をもたらすもののことを言うそうだ。
なるほど、現代社会ではネットや新聞など自分の足を使わなくても何が起こっているか情報を得られるが、それらがなかった時代においては外部の情報をもたらす人間の重要性というものがあった。
これは例えば村社会に自分が住んでいることを考えれば容易に想像がつくと思う。
そうして外の世界を知り、新しい情報により人々が住んでいるコミュニティーが変化していく。
しかしその新しい情報により変化を求めない組織は閉鎖性を強くしていくしか道はなくなる。

日本には二つの歴史があるという。
これは日本ではなくとも歴史や文化を大事にしている国ならば当然あるものだと思う。
一つは「記録による歴史」と、もう一つは「記憶による歴史」だ。
このことは識字率のことも関係してくるが、そもそもの日本には「記憶による歴史」が強くあったはずなのだ。
これは「口頭伝承」の類のものだ。
私はこの話を聞いてピンと来るところがある。
私は文章を書いている。
文章というのは自分だけでどうにかできるような問題ではない。
当然先人たちの技術を吸収しながらオリジナリティーを出していくしか方法はなくなる。
過去や周囲の人間を無視しては成り立ちようがないのだ。
文章には性格が出る。
どうしても「本人の癖」「息遣い」「思想」が基盤となって文章上に現れてくる。
それはいわゆる「個人」である。
口頭伝承に関しても、たとえば婆ちゃん爺ちゃんが話をする時伝説や言い伝えや技術や注意だけの話で終わるわけがない。
そこに「個人」というものが大きく関与して伝えられるわけだ。
つまり、ここに「個の伝承」がある。
そして話を伝えられる人々が集まったりすることもあるので横の連帯感がある。

一方、現代都市社会は経済活動を前提に成り立っている。
ここには「記憶」というものに、一切価値を置かない。
この社会で重要視されるのは経済活動を成り立たせる「行為」であり「技術」だ。
その軸があって、周辺に思いがある。
経済の内容的軸が変われば人の思いも変わるし個人を捨てても支障をきたさない。
経済活動が成り立つことが大前提になるからだ。
いわゆるこの点に強く着目すると現代都市社会というシステムを成り立たせるには「記憶」というものを削り落とし経済を成り立たせる「技術」と「行為」に特化させれば成り立つ。
よって「個人の記憶の継承」などに、なんら価値はない。
経済活動前提で成り立つのだから「老い」そのものにも価値はない。

無縁無縁と今騒いでいるが、「個人の記憶の継承」に価値をおかない社会の根底に何があるかというと実は「民族性の希薄さ」なのだ。
つまり「日本人」となるべき人間は経済都市システムの中に入れれば誰でもいいわけだし、日本人の民族性よりも貨幣経済活動のほうが重要視されている。
ここには日本人はいても日本民族は残らない。
「記憶の歴史の断絶」がどこで起こったのか現代人ですら理解していないから「記録の歴史」から日本人を捉えようとする。
特に東京都は地元から離れてきている人が多い。
知らない人ばかりが多い中、貨幣に力点が置かれ、都会に特化した価値観で人々は構成される。
そこに「個人の記憶」など入りようもないのだ。
グローバル、グローバルというが高度経済都市は民族性を捨ててフラット化していく運命にあるのだろう。
だが、人はそうはいかない。
失われていくものに寂しさを感じるし、生まれ育った「よいもの」が失われていく喪失感はどこかで感じている。
その感触が、人を動かしているようにも感じる。

人は自分を語るという行為を通じて、自分を表現しようとし、自分の存在を確認する欲求があると私は思っている。
自分を語ることに価値を置かれない社会において、その場が次々と奪われている。
アップデートがなされるとしたら、それは「経済的な理由」があってなされる。
そこに「個」の本当の価値があるのか。
経済的な貢献ができなくなった途端、「個」はそこからはじき出される。
これは当たり前の帰結なのではないか、と考える。

私たちがこの先「記憶の歴史」というものと、都市社会システムとを、どう共存させていくのか、それともやはり記憶には一切価値を置かない社会を作り上げていくのか、私たち一人一人がよく考えて未来を選んでいかなくてはいけない。
個と個を繋ぎ合わせるには、「記憶の共有」が必要なのだのだから。

拍手[2回]

10/04

Mon

2010

NHK 無縁社会 札幌座談会感想

実は年齢が30ちょいなのですが、今回自分入れて9人集まった中では最年少でした。
参加してみて「なぜ老人は孤立化するのか」という問題なので、やはり現場の意見・問題点がたくさん出てきて、自分場違いだったかなという印象を拭い去ることはできなかった。

感想から率直に書くと「違和感」が非常にある座談会でした。

今回出席した人は30代ケースワーカーとして地方行政現場の立場から。60代生協職員、60代コンサルタント業務、30代便利屋社長、40代無縁感じている方、など幅広く出席していました。

あまりにも緊張しすぎて胃が痛くなったし、疲れ果ててしまって、放心状態で帰って来たのですが、今回の札幌座談会での内容は全国どこでも類似した議論がなされているのだろうなと感じました。

行政の限界、財源の問題、法律の問題、思想の問題、人的不足、日本的システムの問題、NPO等の実際の活動、活動における問題点。

それでですね、何が違和感があったかというと、「無縁化する老人たち」がすべて同じくくりにされているということです。
つまり「無縁化」には様々な理由があり、その上でカテゴライズされなければいけない。
そしてようやく分類された「原因」によって、各分類別に問題を掘り下げることができると思うのです。

前回の記事ではアンケートに答えましたけれど、質問項目がアンケートに沿ったものでした。

当然みなさん活動されている方たちばかりですから言いたいことはたくさんある。
思想的な背景もわかっていらっしゃるけれど、さらにそこで強烈な違和感。

「この人たち、若者と接してないな」という印象。

私は作家活動をしているから「心の動き」というものに非常に興味があるのだけれど、「この先どんな時代が待っているのか」ということがよく考えられた意見もまったくなかった。
我々はどんな未来を迎えようとしているのか。
ちょっと前までは「十年ひと昔」とは言いましたが、今は「五年ひと昔」のレベルで次々と目まぐるしく時代が変わる。

「時代が変わる」ということは、当然「まったく違った価値観を持った人間が繰り上がってくる」ということなのです。
その上で若い社長さんが興味深いことを言っていた。
「電球を取り替えてくれと呼ばれることもあった。電球の取り付け方を聞く友達もいないのかと疑問に思った」
とか、
「面接に来ると言っても、半分は来ない。中には親と来るケースも」
というお話。
「いくら考えても地盤がないとはがれる」とも言っていた。
きっとこの「地盤」の意味、説明しないと理解できないと思う。

あとは40代の方。
東京で20年ほど仕事をして帰ってきたら地元の縁や親戚縁者の付き合いはさっぱりなくなって自分が孤立化していたということ。

たとえ今議論していたとしても、現在定年を迎える年代は平均年齢で計算すると、あと20年も生きなければいけない。
その間にリタイアメントだけで本当に補える問題になってくるのか。
20年後には高齢者率30%、40年後には40%を迎えるという統計が内閣府の「高齢社会白書」にまとめられている。

まさにリタイアメントたちが生きている時代に大きく時代背景が変わっていく。
現在は貯金を充分に持っている人たちがいるけれど、これからはお金がないようなギリギリの人たちが増える。
バブルが終わった世代が来る。
いくら人的なカバーをしようと人数的に追いつかない。
お金も追いつかない。
ギリギリの生活資金で生活のみにお金がいき、情報を得られない高齢者たちが増えていく。
こういう方たちが想像を絶する膨れ上がり方をするということは、いかなる社会になるのかという想像がまったくなされていない。
これはどうしてなのだろう。
現在の理想がたとえ実現可能な段階まで来たとしても、既に時代が変化している。
変化した時代にプランが立ち往生する。
そういうことの繰り返しを永遠にやりたいのだろうか。

今回集まった人たちは「声を出す人」です。
私は大きく分類して三種類の人間がいると考えています。
1「声を出したくて、積極的に出し、なんらかの社会参加をしようと試みているもの・しようと考えているもの」
2「言いたいことはあるが、消極的で社会参加は何かの事情でできないもの」
3「言いたいことが別になく、社会参加にもあまり興味を示さない消極性の高いもの」

問題は2番目までギリギリわかるでしょう。
それでは3番目の人たちは?どうすればよいのでしょう。
行旅死亡人のデータベースを見ると凄まじい。
所持金は千円二千円のレベル。
ギリギリどころか限界のレベルで生活していることがよくわかる。
そういう人たちが無縁仏になる実態がデータベースからもよくわかる。

村のようなところならまだネットワークが広げられる。
これが都市部だと一気に様相が変わります。
つまりその土地で育った人ではない人が数多く移り住んでくる。
何かの拍子にまた移動し、実態がつかめなくなる。
都市部での所在不明の老人たちは、おそらく「その土地に根が張れない人」なのでしょう。
NPO等の活動というのは当然「そこにどういう人がいるか」が把握できてこそ展開できる。
東京の直葬率3割というのだから、札幌でも10年後にこの状態が来る。

短期・長期ではまったく違うので分けなければいけないと今回の意見ではありましたが、本当に短期でやるなら「予算配分」をいじるしか方法はない。
しかしあの某有名県知事でさえ、「県知事という役職では限界がある」と言われた。
ということは「予算配分」をいじることは不可能だと判断せざるを得ない。
そうなると必然的に「長期的」なプランしか成り立たなくなるわけです。

情報網の整理、コミュニティーの開拓、これらのことって何年もかかるし継続的で莫大な努力が必要なのです。
これ私が作家活動しているから、コミュニティーがないところにコミュニティーを作る大変さっていうのがよくわかるのですよ。

それに人的な活動というものは「対面」が絶対条件になる。
どうにも人間の活動は「外に出て成りたつもの」と考える高年齢の方が非常に多いけれど、「一歩も外に出なくてお金が稼げる時代」が今ここにある。
つまり「人と関わらなくても生活できる」という時代背景の中で、どうやって部屋の中にこもった人と交流を持っていくのか。
この「こもった人たち」が将来無縁化する時代はもうすぐ来る。

それに先ほどの社長さんの話にもあったように「若い世代」が繰り上がってくる。
リタイアメントだけではカバーしきれない問題があるし、やはりリタイアメントだけで問題を自主的に解決するということは「世代間の断絶」が生まれる可能性もある。
そうなってしまってはいくらやろうと「元の木阿弥」になる。

当然恒久的に時代に対応できるよいプランなどないことはわかるし、時代を推測して立てていくプランが必要になってくる。

私たちは貨幣で成り立つ「共有空間」というものを数多く作ってきたし、個人がある基準において評価される社会というものを作り出し、「個人」というものが特化できるようにしてきた一方で貨幣がなくて成り立つ「共有空間」や個人と個人における「共有」を作ることを疎かにしてきた。
私は生きていないから断定はできないけれど、資料を読む限りでは昔の日本は「市井」のような存在はあって、貨幣が特になくとも「人情」というもので成り立つ社会があった。
しかし今の社会には「現代版市井」の存在は乏しすぎるし、特化した個人を解体できるようなメリットを伴う空間はまったくできていない。
すべて「善意」を信じて成り立つ空間であって、そこに参加するのが面倒な人を動かすだけの魅力が感じられない。
現代人は本当に必要に迫られたり、経済的・個人的なメリットを感じないとなかなか動かないという特性を持っていたりする。

現在無縁化が深刻化している東京都は立派な都市部だ。
それも世界を見ても例がないような超人口密集地域。
大阪のベラベラしゃべってノリツッコミの激しい子供たちのやりとりを見ていると「無縁なんて程遠いなこの人たちは」とは思ったけれど、東京の人たちの特性は「声を出さず、思っていることを溜め込む」という側面がある。
それで爆発したら初めてアンケートなどに書くという。
ここでも「対面」を嫌う傾向があるのはよく見て取れる。
こういう人たちとコミュニケーション空間を作っていかなければいけないという時代がすぐに訪れるのですよ。

今回の議題は「今現在どうなっているか」だけであって、まだこれからなのだろうけれど「どうなっていくか」を含んだ議論ではまったくなかった。
それが抜けた状態で「どうしていかなければいけないか」を話し合っていて、本当によい方向に向かうのか。

しかしその中にも絶対にヒントはある。
例えば今日大通りで食のフェスタのようなものがやっていたけれど、最近大通りではこの手のイベントが多い。
北海道には食があるので、この食を通じてまず参加型のコミュニティーを作ることは可能だ。
地域に何が眠っているのかということを掘り起こさなければ解決策も出ては来ないだろう。
具体的な解決策はそれらを持ち寄ることが大事だが、もっと先に徹底的にやらなければいけないのは「無縁化」までの詳細な流れを炙りだす事。
これをしなければすべてのことはただの「活動報告」で終わってしまう。

今日は現場で活動している人や普段その上で思っている人たちがたくさん意見していたけれど、私は40代の今目の前にいる「無縁」の真っ只中にいる方の「本音」というものを辛抱強く聞いていかなければいけないのではないか。
そのポツリポツリと出てくる本音の中で言葉をひとつひとつ拾い上げ、そこに想像力を働かせていかなければいけないのではないか、と感じた。
今回私が口を出すことは明らかに場違いであったし、ある程度言えたことは「発信が多すぎて受け取る側の整備がされてない。情報を探すだけでも大変。(極めて狭い範囲の)地域新聞などの必要性が求められる」ということだけ。
他の事は「現在の問題」ではないので、もう胃がキリキリと痛み手が震えそうになる中で現場の人たちの話を聞いていて今日は終了した。

目覚まし時計と龍馬伝のハンカチもらいました。
わーい。
ああ、胃が痛い。

外に出たらいきなり顔が白塗りで目のところが星のペイント。
「なにこれ聖飢魔Ⅱ?」と思ったらやっぱりそうだった。
閣下が札幌に降臨されておられました。
ファン、あのペイントでコンサート会場まで来てることに驚きを禁じえず。

なんかあまりにも座談会に参加してモヤモヤしすぎて自棄酒飲んで帰りました。
惰弱な精神でございます。
うう。
得るものはかなり大きかったかな。
今月末にはどんな意見出るのだろうな。


追記:
私は社会が健全な「社会性」というものを保つには、まったく違った価値観が隔絶された状態でそこにあるのではなく、認め共存できるような幅広い交流と教養が必要になると考えています。
教育の問題もあるでしょう。
個人の雇用の問題もあるでしょう。
個人の価値観と会社の価値観の問題もあるでしょう。
その価値観の中で壁ができる。
絶対的に正しいことでもそれが実行されない。
つまり、どんなに正しいことを訴えても最後にそれを阻害するのは「人の心」であるということ、それを実行していこうとするのも「人の心」であること、と考えております。

拍手[2回]

10/01

Fri

2010

NHK 無縁社会 アンケート

アンケートに答えた内容を転載。

Q.1
次々と明らかになっている高齢者の所在不明。あなたはどう思いますか?また、どうしてこの問題が起こったと思いますか?

1) 家族関係の変化
2) 地域のつながりの希薄化
3) 個人主義の行き過ぎ
4) 行政のサポート不足
5) 高齢者自身の貧困
6) 支える側の経済的事情
7) その他

A.1
1、の場合、既に家族がいないという場合もあります。いるのにも関わらず所在不明となるのは元々家族の間に何かのコミュニケーション不全があったと考えられるのが自然です。その延長線上で高齢者が孤立化することになり、子供たちは面倒なことを背負いたくないとも考えているのではないでしょうか。

2、の場合、地域が発信するものが少なかったりする。どういったコミュニティーが形成されているのか、そもそもコミュニティーそのものが存在するのか。流れて引っ越してきた場合、それらの情報を得る手段があるのかどうかは大きなポイントになるかと思います。これらの情報が得られなければ、その地域で何をしてよいのかもわからず孤立します。

3、の場合、個人主義の行き過ぎを非難するつもりは毛頭ございません。しかしこれ「ばかり」に力点が置かれ、個人と個人が隔絶される原因を作っているのなら大きな問題となります。つまり人間個人の力量や個人へのサービス、それらの恩恵を努力の成果において受けられるようになるのは大事なことですが、他者に向かってお前がそうなっているのは努力が足りなかったからだとか、きちんとやらなかったせいだ、とか言うのは、自らが社会で正当な評価を得られるシステムの中で生きているからこそ錯覚することであり、当然人間の生きようとすることへの機会は彼らが主張するようなものだけではなく、多様にあってこそ健全で柔軟性のある社会だと考えるので、もし何かが円滑に運ばずに滞っており、利益活動に貢献できない人間を社会の厄介者と見なすようであれば、個人主義の行き過ぎというよりも、既に現代病と言っても差し支えない社会性の欠如だと考えております。子の手の排他的思想が、個人主義の行き過ぎに当たるかどうかはわかりませんが、ある集団を支配するひとつの意識となって、孤独な高齢者など他人事と考えることもあります。当然、他人事ですからかまいたくもないですね。

4、の場合、予算が確保できないこと、人手の不足、法整備不足など色々と要因はあるかもしれませんが、ここらへんについてはあまり詳しくないので差し控えさせていただきます。

5、の場合、たとえばカード会社などの内情が少々こちらにも漏れてきますが、ギフトカードなどを買う老人が増えています。また支払いを年金でまかなっており、今度の法改正により限度額が一気になくなり焦げ付くケースも頻発しているようです。行旅死亡人のリストを見ると所持金が千円を切っているなど、相当過酷な内情がわかります。この社会は様々なサービスを受けるにも、まずお金があって成り立つようなものがほとんどですから、体が不自由になると車も使わなければいけなくなるかもしれません。それよりも明日の食費のために残りのお金を取っておくことを真っ先に考えるのではないでしょうか。よって、外になかなか出て行くこともなく、孤立していくことが考えられます。

6、の場合、私は一人っ子なので思うところがあるのですが、もし親が体を崩して介護しなければいけなくなった場合、やはり躊躇します。仕事と両立していけるだろうか、これが正社員だったら余計に考えるでしょう。介護に付きっ切りになったとして仕事がまた得られるだろうか。このご時勢一度仕事をやめたらあとがないかもしれない。そういうことは考え、自分の人生と親の命を天秤にかけて悩むかもしれません。もし自分の人生を少しでも安定させるほうを選ぶのならば親のことは涙を飲んで見捨てるかもしれません。

7、の場合、日本人には「他人に迷惑をかけたくない」という気持ちが現在の高齢者たちには強く、精神風土として他者に頼ることを嫌う傾向があります。自分のことは自分でという行動がやがて行き詰まり、孤立化を招き、誰も所在がわからなくなるということもあると思います。これは個人主義というよりも、他人の世話になることが申し訳ない、または他人のお世話になっても何もお返しすることができないという、ある一種の後ろめたさのような気持ちなのだと私は推測しています。




Q.2
あなたは、高齢者が孤立(無縁化)していると感じたことがありますか?
ご自身の経験や見聞きしたケースについて、高齢者、現役世代、あなたの立場から具体的にお書きください。

A.2
身近にいる高齢者で祖母がおります。
祖母は50代から水泳を習い始め、70過ぎほどまでコーチをやっていた元気はつらつの体でした。
しかし、メニエール、パーキンソンと病気を患い、現在は体も満足に動かすことができず要介護2を受けております。
前は近所交流がよく、周囲の人たちも窓から見える障子が少し開いていれば元気、そうでなければ何かあった、という具合に知らせることができ、毎日近所の人たちが見に来てくれたものでした。
またその地域には文芸誌もあり、短歌の投稿など文化活動を通しても活発に交流していましたが、文字も満足にかけず、体も動かずで、その土地を離れ、母がすぐにいける距離、札幌のマンションに引っ越してきました。
ヘルパーや介護士の方など週に何度か来ていただいてはおりますが、前のように近所の方と交流することはなくなってしまい、話し相手も少なくなってきたことから、急速に衰えを見せております。
また祖父も生きていた頃は急に脳梗塞で倒れ、半身不随となり呆けも進んできたことから祖父の妹がずっと付きっ切りで介護しておりましたが、これは幸運な例で、もし姉妹・兄妹いなかったらと考えるとどうなっていたかわかりません。
病院もずっと入院できるわけではなかったので、何かと苦労していたようでした。
ちょっとした違いで孤立するかしないか、すれすれのような気がします。



Q.3
高齢者の孤立(無縁化)を防ぐには、何が必要だと思いますか?
また、誰もが社会から取り残されないためにどうすればいいのか、アイデアがあればお書きください。

1) 家族の絆の復活
2) 地域での見守り強化
3) NPOなどの活動支援
4) 行政サポートの充実
5) 友人・知人など個人のネットワークづくり
6) その他

A.3
すべてです。いずれか一点に力を集中させるのではなく、すべてのネットワークが絡み合い、何かがもしダメになっても他の部分でサポートできる地域づくりが大事になるかと考えています。
その上で社会貢献することで「経済的なデメリット」や「行為における理不尽さ」が残ってしまっては、非常にネットワークの広がりが滞るとは思っています。
今まで「~だから」という理由で作っていた壁を壊して、自由に混ぜてみるような思い切った発想も必要になってくるかと考えています。

家族という問題につきましては、非常にデリケートな問題をはらんでいて、介入が難しい場合があります。
そのために教育、これは学校組織ではなく、昔でいう「私塾」のような場所、これが個人の本屋でも地域ボランティアが集まる何かの集会場所でもよいのですが、子供や大人が精神的孤独に陥っても、どこかでカバーできる組織を地域で作っておくことは大事に思います。

また、組織体が常に発信手段を得ていて、地域の人たちが常にその情報を得られるように発信受信のネットワークをきちんと作っておくことも大事だと考えています。



Q.4
最後に、高齢者の孤立(無縁化)について思うこと、日頃から感じている不安など、自由にお書きください。

A.4
私は一人っ子です。
私に子供ができなければ私の家はこれでおしまいです。
もし親が倒れた時、私は常に自分を優先させるか親を優先させるかで天秤にかけなければいけません。
白状のようですが今の社会で豊かな老後が保障されているとは到底思えません。
都会の人間は隣人のことを詳しく知らないし、老後になると新しい人脈もできずらくなります。
常に生きている限りは「新しい人脈ができるような場」が得られることが一番望ましいのですが、趣味も何もなければやはり孤立するだろうし、自分から早めに外に外に出て行かなければ黙っていても閉塞的になっていくのは目に見えています。
潤沢な資金がある人は結構ですが、もしなかった場合生活のことばかりに頭が働き正常な理性で物事を柔軟に考えることなど私は不可能だと思うのです。
そういう老人たちと現役で頭がフル回転している人たちとの思考回路はまったく違うということ。
経済活動に直接参加できなくなったリタイアメントの窮状は「利益がない」から関わらないのか。
問題は高齢者の孤立にあるのではなく、私たちが常日頃人と相対している、その心持の延長線上にあの孤立した老人の姿があるのではないか。

「誰かと誰かが繋がる理由」が、人間らしい自然的なものであって欲しいと願っています。
人の心を救うのは金でもシステムでもなく、人の心だと思っています。

拍手[1回]

フリーエリア

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]