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あさかぜさんは見た

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Tue

2024

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09/19

Wed

2007

よく最近、意味不明の理由で人を傷つける人がいますが、その気持ちがわかる?一人です。
何か神経が毎日張り詰めすぎていて、そして未来に何も希望や発展的人生を見出せなくなって、毎日単調でピンと張った心持でいると、何かに八つ当たりしたくなります。
物でもよいのですが、「ああ、破壊してやった」と手ごたえのあるものがよいです。
破壊した後はとても気持ちのいいものです。
だいたいストレスっていうのは人からもらうもので、自己中心的な破壊衝動によりストレスを発散するのですが、たいていは重度の甘えがあります。
甘えというよりも、むしろ極度の想像力の欠如と言ったほうがいいかもしれません。

想像力というのはとても大事で、己を未知の世界に対して進ませるきっかけにもなります。
ひとつの原動力として想像力は欠かせないのですが、その想像力が貧困だということは、つまり他人に与えてもらってばかりで自分で考えたり、自分で想像したりする力が著しくないと言ってもいいかもしれません。
また、その力は張り詰めた神経ではなかなか豊かな想像性を発揮はできません。
いわゆる、心に血が通わなくなって麻痺するんですね。
そうなると、とても心が本能的になり、一方的になります。
豊かな想像性を発揮するには単純労働に慣れていては無理です。
自由に発想できてそれを組み立てられる力が出せる環境が必要になります。
だからと言って想像性豊かな人がやらないかといったらそうでもないのですが、問題はストレスの受け皿となる環境づくりができていないことが問題となってきます。

それが何のせいだというのは極力避けますが、現代都市文明はエネルギーを使っています。
それがこの地球上での最もわかりやすい「破壊のシンボル」だということは、あまり気がつく人はいません。
そして、その都市社会の動きを止めないために働く人もまた「破壊活動に加担している破壊者」となります。
なぜなら、繰り返しますが、エネルギーや資材を限りなく消費していくからです。

都市部にだけ犯罪者が出るとは限らないのですが、犯罪者は人間社会の破壊者であり、人の心のは会社でもあります。
よく、「愛情が注がれなかった人が凶悪犯罪を犯す」と言われていますが、私は愛情のない家庭で育ったわけではありません。
でも、破壊的な衝動だけはどことなく浮かび上がってきます。
物理的な暴力はダメで、精神的な暴力はよいということにはならないように、誰でも大なり小なりやっているわけですが、心が硬くなれば、硬いものが当たった時、跳ね返せるようなクッションはなく、ガキッと変な音を立てて、欠けるときがあります。
張り詰めた筋肉が何かの衝撃で切れてしまう感じです。
心が切れちゃった人が変なことやり始めるわけです。

「豊かな社会」にも「貧困の社会」にも「破壊」があふれています。
そしてどちらにも共通しているものが「循環」がありません。
自然のサイクルといいますが、ごく自然なものは「循環」します。
それがどこかで滞ってしまうと不自然な状態になります。
「破壊」したあと、「再生」するものがない。
よりよい社会ができあがるには、「循環」させるシステムを考えなければいけません。
そしてそれは人の目を背ける不都合な真実に向けられなければいけません。

想像力がなく、創造のできないものは「破壊者」です。
そして、破壊しつくしてしまうと、気が遠くなるほど時間がかかります。
誰かのせいにすることは簡単で、あらゆる自分の不都合を他人のせいにできる世の中になりました。
でも、その分自分で考えなくなりました。
自分に不都合な現象を自分で率先して解決する人が少なくなりました。
自分が嫌な人の心を無視して生きようとする人が多くなりました。

と、言ってみましたが、「心」が他人を循環しなくなると、己の中で腐り果てます。
エネルギーを使うだけで再生ができないといずれ枯渇します。
循環がないと、何もかもおかしくなります。

破壊は誰でもできます。
そしてそのターゲットは無差別に向けられてもよいのです。
どうせ、結果的には破壊なのですから。

しかし再生は無差別には無理です。
莫大な想像力と力がいります。
これをやる人も誰でもよいのです。

誰のせいでもないのです。
きっと社会が悪くなっているのは、いつの間にか創造することを忘れている人が増えているからなのではと私は思ったりします。
私は人に向かって「やりなさい」とは言わないタイプですし、それを言えるような身分でもありません。
でも、「少し、考えてみてくれませんか?」とぼやいてはおきたいです。

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09/19

Wed

2007

誰もが突拍子もないことに否定から入る。
無理だ。
とうてい不可能だ。
現在の状況から逸脱したものを想像できないものは、大きな未来は作れない。
なぜなら、奇抜なものは前例のないもので、過去を探して安定材料を探しても無駄だからだ。
「それみたことか」
「やっぱり失敗しただろ。言ったとおりだ」
みんなその言葉を他人に言い放って自己顕示欲に浸りたいのか、それとも変化が怖いのか。
犠牲にするものがなくて、何が得られるのだろう。
苦しまずして、どんな鋭いものが創れるというのだろう。

ずっとなにかあるごとに心に思い出す宣伝がある。



見るたびに涙ぐむのだが、この宣伝にだけはかなわないと思った。
同時に、自分が誰かの想像力あふれる未来を潰すことに恐怖を感じた。
そして、己の未来さえも、他人にはくくれない何かがあるのだと自分で充分感じた。
もし、自分に本当に能力があるのなら、必ず世の中に出られるだろう。
そのタイミングがいつになるかはわからないけれど、なぜか自分が活躍している姿は想像に難くない。

少しずつ、近づいている。
そう、感じる。

誰も敵はいない。
一番の敵は、あらゆるものに対してくじけそうになる心そのものなのだ。

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09/17

Mon

2007

「神はサイコロ遊びをしない」

たとえ失敗が目に見えている無謀な行為でも、何かしら得るものが大きいと思い行動している。
馬鹿でも、アホでも、どのように身内からすらも罵られようと、私は私の新しく得るものに向かって身を犠牲にしている。

誰も、その覚悟を知らない。

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09/14

Fri

2007

長らくネットで暮らしてきた。
ネットに流れる文字から色々な体験をした。
都会の人ごみのように一度会って流れ去るのに、自由に発言して、自分のどのような心情でも遠慮なく言える。
たくさん傷つけ、傷つけられた。
人生が充実していれば、ネット依存になることはない。
ネットに依存する人間は、ある魂の欠けたような違和感と孤独感を持っている。
一時の刹那の中で、魂のぬくもりを見出そうとする。
日常では言えないことを言う。
自分もそうだ。
ただ、自分の場合は、もう日常でも話せる人なら日記に書いているような内容は遠慮なく言えるようになった。
その分、嫌煙されることも少なくない。

自分で言うのもなんだが綺麗な人間じゃない。
表舞台にいるには難のある人間だ。
それだけに、人のいろいろな部分を見た。
それだけに、自分の中でぬぐいきれない孤独を感じた。
人は結局人を信用しあってないようなところがある。
それはネットにいるからより強く感じるのかもしれない。
日常でも、己の汚い部分が見え、他人の汚い部分が見え、時折吐き気がするときがある。
こんな心持で生きていけるのかと思ったりするが、なんてことはない、自分がへなちょこなだけだ。

文字は残る。
だから過去にさかのぼって現在をまったく無視したアクロバットな誹謗中傷も可能になる。

高度経済文明とは、己が汚いことをせずとも、誰かが代わりにやってくれてその恩恵に預かれる特質がある。
人間はどこまで傲慢になれるのか、どこまで潔癖症になれるのか、無菌状態にいる人間が、だんだんと抗体が弱り外で生きられなくなるのと同じように、汚いものを嫌悪するようになる。

ネットができ、出会うはずもないものに出会えるようになり、己の価値観を著しく踏みにじるものも勝手に流れてくる。
世界が広がれば、当然傷つく機会も増える。

誰かに傷ついてもらい、自分は傷つかない。
そういうことが可能な世界になってきた。
人が一方的になってきた。
それだけ、離れることが容易な世界になってきている。
人が、希薄になり、個々人が分断されていく。

情報化は、孤独を加速化させる。
しかし、時代は個人への特化したサービスをより追及していく。
うわべだけの言葉のやり取りの裏で震える孤独な魂の存在を無視してはいけない。

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09/13

Thu

2007

なんとなくアマノジャク

どうしてか、人が書きそうもないものを書いていこうとすると、人の痛みに触れるようなきわどい話ばかりで、あんまり癒しなのなんなの、俺には関係ないぜ、ぐらいの勢いでやっているわけですが、人の期待に応えるのも才能のようなもので、それができない自分は、時々「一生このままなのかな?」などと思ったりもします。

ひとつ思うのは、いまだに「癒し」とか「泣ける」とか、そういう売り文句が消えず、使い捨てのように話が量産されては流されていくのですが、「癒し」や「感動」などのキーワードが消えないのは、より心に余裕がなくなってきているからなのでしょうか?

私の偏見なのでしょうか。
これだけの多くの人の中にいながら、個々人がまったく孤立化しているようにも見えます。
うわべだけの付き合い・・・に近いような、本音を隠しながらひたすらよく振舞う・・・余裕がないのも重なって自分とじっくり向き合わない。
自分と向き合う作業は思春期でおしまいだなんて考える人もいるかもしれませんが、生涯において重要な作業ができずにいる。
生活、ダイジ。
責任、ダイジ。
「調和」や「協調性」が、妙に自分勝手に解釈され、「個性」をうたいながら、それを完全に潰している。
「オンリーワン」などと言う言葉が、「自分勝手」とたいしてかわらない意味で使われている。

「オンリーワン」よりも「トゥギャザー」
個人でいるよりも分かち合うこと。
でも、相手の要求にはあまり応えられない。
人は結局欲望に純粋で、自分は相手の欲望を満たせない。
サービスは、できない。
だから偏屈なままなのかな。
ギチギチの日本人の心をもみほぐせるような文章はあまり作れません。

この世界に落ちた欠陥品たる私は、欠陥をさらけだすのです。
よく見せようとする前に、すべてのことを寛容に受け入れていきたい。

「あいつは凄い悪いやつだ」
どれだけ悪いのか。

「あれはああだからダメだ」
どれだけひどいのか。

私が日本の社会に感じる窮屈さと「常識」という違和感が、晴れやかに解決できる日はいつになることやら。
はたして、これからより高度な資本主義社会に入ろうとしているところに、はたして資本主義を保てるほどの謙虚さは持っているのだろうか。

国家を滅ぼすのは最終的には国民だ。

今日は簡単な算数もできないくらいアホだ。
たまに「どうでもいいや」とか思うけど、今日はもうどうでもいいや。
明日になればまた違うけれど。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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