皆様は本を買うときに、どうしていますでしょうか。
私は教養書なら目次、小説なら真ん中あたりをガバッと開けて、そこから少し読み始めます。
教養書の場合、目次で内容がよくわからなければ、あまりいい本ではない場合が多いので、目次である程度の内容が見えてこない場合は、あまり購買意欲は起きません。
また、小説の場合、作者は最初は気合を入れている場合が多いので、最初のところはすっ飛ばして、中でたるんでそうなところで文章のレベルがどの程度かを知るために読むわけです。
それにしても、最近は不思議で、「買って損をした」とか「ひどい内容」とか、ヒット作を中心に本への手ひどい恨みすらこもった読者レビューが書かれております。
中も見ないで買うなんて、凄い勇気だと思うのですが、買い手側も「受身」なのだなと思ったりします。
最近の小説を読む限りは、逆に「どうして自分の書いているやつが注目されないのだろう」と、ちらほら思うことがあります。
「あ、自分でも芥川賞取れるや」などと、ルンルン気分で書店から帰ってきたりするのですが、現実は厳しいのか、それともぜんぜん実力がないのか、今だここで地味な生活をしているわけです。
それで、書いていて、もしくは売れ筋を見ていてよく思うことなのですが、どうやら読者というものの小説への目的というものが、二極化しているのではないのだろうか、と、思ったりするのです。
今更こんなこと言うのも時代遅れで馬鹿らしいかもしれませんが、ようするに、インターネットや携帯などの通信機器で育った、「文字離れ世代」と、「王道の文学を求める読書家世代」の二層に分かれていて、お互い相反する好みを持って、読書をしているようです。
前者は、簡単で読みやすく、ストーリーも単純明快かつ奇抜でおもしろい「映像的」なものを好み、そして後者は、いかに文章に情景や心理や人間味や思想があふれているかという「文学的」なものを好むわけです。
それで、出版社はどちらの読者層によりターゲットを絞っているかというと、もちろん前者の「映像派」の人たちです。
この層は、「燃えやすく燃え尽きやすい」のが特徴で、火がつけばガソリンのように燃え広がり、そして燃料切れと共に、何事もなかったかのように鎮火してしまいます。
それで、この「一番受けやすい層」へ、書いていて一番思うことは、「最近の読者はよりはっきりと具体的にわかりやすく書かないと作者のメッセージ性に気がつかないことが多い」ということで、これは所謂「文学」という観点から言えば、相反するもので、文章の密度を薄くし、より内容も平たくし、小難しい思想を排除し、頭で考えるよりも目で追える文章を作るということです。
これが、本当にいいのかどうか、ということは置いておいて、この「文章離れ」減少は歯止めがかからず、いずれ日本語を破壊するまでに至りますが、正直言って自分もまともに「国語教育」というものが、どのように自分の力になっているのかさっぱり理解できず、自分で文章を書いていて「これでいいのだろうか」と不安になりながらも書いているわけです。
私は「国語」で学んだことをうまく思い出せません。他のことならよく思い出せるのに不思議です。
「読者により受ける文章」のほうが世の中には残っていきます。つまり、どのように「文学派」の人たちが新しい世代の文章へ文句を言おうと、「売れたもの勝ち」のようです。
ひどいものは最後にゴミになるのがオチでしょうが、はたしてこの「文章離れ」からくる「文学離れ」に歯止めはかかるのでしょうか。
この問題の裏にある「国語」というものを、皆でもう少し真剣に考えなければならないようです。
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