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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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03/09

Mon

2015

勉強させてもらえる先生はいつも目の前にいる

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
ー山本五十六ー

有名な言葉ですが、前半部だけがよく取り上げられます。


「人望がない人」は、大体"話しすぎ"ている
職場で、どうすれば人はついてくる?
http://toyokeizai.net/articles/-/62331


先日、上記の記事を見つけまして、色々と考えておりました。
束ねている、というほどのことでもないのですが、団体を持ち、年齢層も幅広く、様々な才能の人たちと関わっていくと、例えば10個下の上司の自分への接し方一つ取っても勉強になるわけです。
つまり我が身に置き換えて、一体自分の何がダメだったのかよかったのか、そしてどうしていけばいいのか、傷つきながら喜びながら、自分がやってきたことを反省し酷く落ち込んでいる日々が続いているのですが、こういうことは金を払って学べるものでもないし、言葉を学んだとしても感覚ではわからない。
最初に書いた言葉だって熟読していくら覚えていても、個々人に対しての細かな方法、実行した時の大変さだってわからない。
多くの人もそうだと思いますが、普通の人は今必要だと思っている情報以外のことには鈍い。そして、感覚を研ぎ澄ましていないから見逃す。
つまり言葉だけ知っていても行動しないから理解しない。知っているつもりで、中を見れば何も詰まってない。
やっぱり何かをしている人って、自分なりにちゃんと言葉を持っていたりします。そして、その言葉や行動はきちんと自らの人生、生き方から出て来ている。たとえそれがあまりよくない方法や言葉だったとしても、学ぶところは数多くあるわけです。
それは自分自分していたら絶対わからない。俺は、私は、こう思うから、これがこうだから、なんて考え方していたら、絶対見えてこないことでした。
相手の立場を考える。相手の気持ちを考える。相手の思考を知る。その上で一番制御しなきゃいけないのが自分の気持ち。憎いと思える人に程、大親友であるかのように接しろ。最近はそう考えるようにしています。
大親友って逆にベタベタしないし、わかりあおうとするから本当の本当の本当のピンチじゃないと助けようともしないし、でも話を聞く姿勢はいつも保っている。それが大事。受け入れる姿勢があるってこと。だからよく観察しているし、ちょっとした違いにも気がつける。
日々の中で学べるかどうかは、相手じゃない。自分の姿勢にかかっています。
もちろん人間は感情の生き物だから、そう簡単にはできないけれど、そのことを意識することはできます。

最近若い人と接してよく理解したことは、かつての自分もそうであったように、大人が思う勝手な親切心は、ただの説教にしかならず反発心を買うだけだとよくわかりました。
だから余計な事は言わない。聞かれないことは答えない。その前に相手のことをたくさん知るべきなのだとよく思いました。
今自分に足りないのはコミュニケーション能力。相手の力や本来持っている魅力を存分に引き出すということ。日々勉強中です。

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03/01

Sun

2015

一つ場所が違えば素人になる

題名をそのまま解釈すると当たり前のことなのですが、この当たり前、しばらく感覚として忘れておりました。
色々新しいことをやり始めているのですが、10歳以上年下の方から色々怒られたり注意されたりしながら頑張っております。
文章のことなら色々言うこともできるし、年の功で少しなりとも知っていることはあるのですが、文章以外の技術面となるとそうもいかず、たとえ知っていたとしても、できる技術を持っている人間の方がはるかに凄いわけです。
そして、世の中自分よりも何かしら優れた能力を持っている人たちによって支えられていて、自分ではできないことをやっている人たちの活躍によって今の自分の生活もあるわけですね。
なので、たとえいくら年上だろうと、その現場の中に自分が入ってしまえば50歳だろうと60歳だろうと「新人」として扱われ、できなければガンガン怒られるわけですね。20代の人たちに。
それで、彼らだって年上の扱い方って凄く困るはずなんです。私も最近若い人の扱いに困っております。私の場合はちょっと批判的な事を言うと敵視してくるほどの勢いで不満を抱く人が多いということですかね。君たちちょっとのこともダメなんかい、みたいな。
年下の子たちは年上の人たちをどう思っているんでしょうね。昔は私も大人を馬鹿にしておりましたが、大人になって交友関係が広がってくると、すげーーーー人が結構おりまして、足元にも及ばぬ人もちらほらいたりして、本当に視野の狭い子供だったんだなと思いますが、もしかしたら、今の子供たちも当時の私と似たような思いを抱いて見下しているのかもしれません。
でもなんなんだろうね。あの若い頃に抱く意味のない根拠のない自信。何の行動もしてないのに湧き上がる自己陶酔感。私はそういうのなくなっちゃったんですけど、不思議ですね。
今はどうしてなくなったかっていうと、そりゃジャンル一つ変えればたちまち素人になるからですよ。文章のことに関しても、もうどうでもいいって領域にまで来てますからね。作りたいもの作る。そして創作ってものに集中する。取り囲んでいるすべてのものを含めて創作ですから、他人の言葉も反応もすべて含めて創作だと思えるようになりました。だから自分なんて、ある意味どうでもいい。
今色々苦労しておりますけど、なんか泣きそうなくらいケチョンケチョンで、少し自信なくしかけております。でも、なんとなく忘れてた感覚だなぁと思い返しております。
新しいことをやれば新しい発見がある。その自己への他者への新しい発見がとても楽しいかなと思っております。
挑戦ってほどでもないけれど、苦労は買うべきだし、買わないと心の負債が増えていく気がして、心がどんどん弱くなって人にただ口先だけ動かす人間に成り果てる気がして、そういう人間にはなるべくならないように、日々勉強です。

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02/19

Thu

2015

恐れているほど自分は変わらない

ダメなタイプってものの中に、妙な細かいところにこだわりすぎているというのが挙げられる。特に何かに影響を受けすぎていて、人に伝わらない細かさにこだわり続け、「伝える」ということをまったく無視している人。
 伝えたらどのように解釈されるのかの想像力がなく、他人に伝える実践が少ないため、余計に独善的な事を繰り返し、ドツボにはまっていることにも気がつかない人。
 結構この手のタイプは多くって、自分は間違っていないとこだわっている人が多い。
 残念ながらそれは自信のなさの裏返しであって、どんなにスタイルを変えようとしてもやっぱり自分というのは残る。

 それで、自分を変えることに恐怖を抱いている人がいて、自分が自分でなくなってしまうのではないかとやってもいないのに尻込みする人がいるけれど、別人になるという発想でいるからできないのであって、「適応力を鍛える」とすればなんら問題はない。
 世の中で生き残るためには「相手が欲しいものをさっと作れる」能力が必要だ。
 その能力は達人レベルじゃなくてもいい。大満足というレベルじゃなくてもいい。相手が普通にしていられる程度のレベルでいいのだ。それをうまくやれば生き残れる。
 ただ、どうして独善的になってしまうかと言うと「対話」をまったくしないからに他ならない。だって与えようとしている人の話も何も聞かないで、ただ自分が努力し続けたからってどうにもならないところがある。
 たくさん人の話を聞き、その話を沢山蓄積できれば、普通に情報は処理されていき、自分と他者との妥協点は見出せる。そこに商売のコツはあるし、生きたいくためのヒントがある。

 私も文章上では偉そうなことを並べ立てているが、別に自分が正しいことを言っているという自覚は一つもなく、たぶんどこかで間違っているのだろうなという意識は常に持っている。
 それでも、まずはやってみないことにはわからないし、自分の中の体験として色々蓄積はあるものの、腐っても創作に携わっているので、時代によって考え方も変わってくるだろう。

 さて、例えば文章でどうしてもダメな人の中には、特に強く影響を受けた作家の文体に引きずられる人がいる。構成とか、人物設定とか。
 無意識に「こうじゃなきゃいけない」みたいな考えが強くて、そのこだわりを捨てると自分のスタイルを見失う弱さがある。
 新しいことに挑戦できない、もしくは変えられないというのは、逆を言えば引き出しの少なさをモロに物語っていて、普段何しているかと言うと、趣味の領域から出ずに、その領域でずっと楽しんでいる。
 新しい知識を入れること、強いて言えば自分がまったく知らなかったジャンルを知っていくことは最初は大変苦痛だし、自分の思い込みが強ければ、思い込みを裏づけする資料のみを探し出すという了見の狭いことしかしなくなる。
 好きなものばかり集めてもいいものはできない。ダメだと思うものも一旦自分の中で受け入れて処理する必要がある。つまりは、ダメはダメでも「何故ダメなのか」を感情をまったくいれずに考えられるようになると少しは見えてくるものがある。
 当然一つのものばかりを考えてもいけない。本当にダメなものというのは、最低でも20くらいのサンプルを集めてようやく見えてくるものだ。
 その点、いいものは結構たくさんある。大小こだわらないのであれば、発想を変えるだけで、いいものは見えてくる。
 いいものというのは完成されていなくてもいいのだ。むしろ完成されたいいものというのは時間を止めなければあり得ない。
 自分に劣等感があれば、いいものを見つけるのは難しい。そのまま自らのコンプレックスを刺激する材料にもなりかねないから。
 でもね、世の中捨てたもんじゃないと思う。何も変わらない人生を送っているのならば、見知らぬ誰かと懸命に会話をすべく、外へ外へと出て行くといい。
 大丈夫。恐れているほど自分は変わらないし変われない。
 必要だと思ったら懸命に努力して変わっていけばいいだけの話だ。

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01/18

Sun

2015

何度も辞めようと思った

今文章を書いたりして作品を作っている。
一昨年あたりから発想を変えてグループを作って作品を作るようになった。
今でも思うが、大変な事だし、何度も何度も辞めようと思った。
馴れ合いの中ではいい作品が生まれなくて、そしてお世辞を受けても改良点がわからない。
何よりも自分で欠点がわかってしまうから、嫌な気持ちにしかならなくて。
納得できるいい作品を作りたい。
そしてその上で感動してもらいたい。
いつも夢を見ていたように思う。
辛くて、やっているふりをして、目をそらし続ける。
結局行動としてできていなくて、すべてが先送りになる。
こういうことを繰り返して何年も過ごしている。
だがこれは自分に対しての裏切りだし、何よりも、生きている価値をただ「夢想」で作り上げているだけなのだ。
これではいけないと思う。
色々な話が少しずつ進んでいて、よい方向に向かえばいいと必死にしがみついている。
とにかく、もっと自分を苦しめて行為の中に置いていかなければいけない。
自分の言葉が薄っぺらく、机上の空論にならないためにも、ちゃんと実践で自らを鍛え上げていく。
一生、辛い思いをして、そして孤独の中に身を置きながら、進んでいかなければいけない。
人は欲望に負ける生き物らしい。
自分の弱さを何かに転嫁しながら、薄っぺらな正しさを正当化するものらしい。
今でも辞めたいと思うし、何度も思ったし、辞めたら自分に価値がなくなるから死んでしまいたいなぁと思うこともある。
だけど、まだやれるかなと思うし、もどかしい、本当にもどかしい状態を続け、我慢に我慢をし続けながら、一つ一つしっかりとやっている。
これがどこに続くのか、これが何を作り上げるのか、自分にもわからないけれど、自分にしかできないこともあるのではないかと、手段尽きるまで必死にやろうと思っている。
もちろん、考えるだけではなく、実践しながら。
精神は弱りはするが、死に絶えるまでには至っていない。
その「熱」ある限り、が大事なのだ。
その大事さを多くの人は大小優劣で否定することがある。
もったいないことだ。

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01/15

Thu

2015

2014年歌会始

皇后様
「来(こ)し方(かた)に本とふ文(ふみ)の林ありて、その下陰に幾度いこひし」

天皇陛下
「夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ」





コメント
あまり深読みはしたくないと思いつつ、今回は一種異様な感触がぬぐいきれず聞いておりました。
まずマイナスの要素の語や力の要素のある語が合わせて3つもあるということ。
皆「書籍」の方の「本」で詠んでいたし、皇后様も「書」で詠んでいたところ、何故いきなり「根本」の「本」なのか。
稲は束で植えることが多く、その根本に鎌をあてがうということは一個人に対する感慨ではないにしろ、「一本二本」と数えていく実る稲穂は「本」の集合体であり、そして実るものは「生」あるものです。
素直に取るならば収穫の大変さと、そして少ない面積でも時間のかかるようになってしまった様子を描いているとも取れますが、「夕やみのせまる」という言葉が強烈過ぎて、後の句の印象を引っ張っています。
時間がないことを印象付けさせますし、暗闇が訪れる不安感も同時に植えつけさせます。
田んぼには区切りがあり、その中のことをさしますし、農作物を実らせる一つの区画であります。
この中で種を撒き、育ってきた命を刈り取るという行為を繰り返していますね。
そのサイクルをどこかで断ち切ると、田んぼではなくなりますね。つまり「田」は人工物です。
この「田」を一つの「枠」と捉えると、あらゆる区画にも想像が及びます。
大は「国家」から小は「地域」まで。
そして「実る」ではなく「稔る」。
「念」が入っていますし、「豊稔」「稔熟」という使い方をするそうですね。
結構豊かな意味とセットで使われる漢字みたいなので、やはり「稔り」は「幸福」そのものであると、この漢字からも取ってよいでしょう。
そして昔から稲は神や祭りに直結しています。
民や財物の存在と考えても通じるところがあります。
そこに鎌を入れて切り取り収穫しているのではなく「あてがって」いるのです。
刈り取られるものと刈り取る者。
本当に深読みはしたくないのですが、これを陛下のメッセージだと取ると、よほどの事態だと考えてよいかと思います。
ただの思い過ごしであって欲しいです。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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