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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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07/05

Sat

2014

処世術って難しいよね

先日、ある店に立ち寄ると、いつもいる店長がいない。
「あれ? 今日はお休みなの?」と聞くと、いつももう1人居た若い男性が「ああ、アイツ、これです」とクビの横で手を前方へと切る。
つまり、「クビになった」ってことだった。
特に悪い動きをしていたわけでもなく、店の売り上げだって外から見る分には困っているほど困窮はしていなかったはず。
だからこそ驚いてしまい、理由を聞こうとしたが店が忙しすぎて聞けるような雰囲気じゃなかったということと、それに店の外に出た人間は部外者だし恐らくクビになるようなことをしたのだからなのだろうけれど、それでも「アイツ」呼ばわりしたことに、少しだけ嫌な気分になりしつこく聞くことは止めた。
やはりお店は、そこにいる店員に客層が左右される。
以前のマスターも若いと言えば若かったが、さらに若く、タトゥーも多少ある。
多少きつめな眼差しと、引き締まった体。その人が今度マスターになったってことだ。
周囲を見るとちょっと出入りする客も変わったように感じた。
前はサラリーマン風の少し落ち着いた客が多かったように思えたが、いかにも飲み屋街に出入りしていそうな客が多く、自分としてはちょっと落ち着かない。
夜の雰囲気をまとった人っていうのは、やっぱり夜の街に出入りしていると昼間とは違う雰囲気がある。
夜の闇に紛れて自己主張をするような、昼のファッションとは違った外見になったり、仕草になったりするので、なんとなくわかる。
一杯でさっさと店を出て、もうここには来ることはないだろうなと店を後にして、もう一軒立ち寄った。
私とは一回り以上も年上のマスターだが、随分と気に入ってくれていて色々と話をしている。
閉店の時間になりワインを注いでくれ、2人でサシで飲みながら話をしている中で先ほどの店のマスターのことをふってみる。
「世の中ね、上の人に左右されるなんて当たり前の話じゃないですか。だって事業者の方が絶対強いんだもん。雇用者はいくら文句言ったって、社長とか上の人間にクビだって言われれば、それでおしまいだもん。その解雇された理由はわからないよ? でも上の人と合わないような事情があったからクビになったんでしょ? それがどんな理由にせよ、その組織の方針と合わなかったってことだし、合わせられなかったってことでしょ。上司と上手くやっていくだけの技術がなかったってことじゃないですか。それが不満だったら、自分でやれば? って話になるでしょ」
自分も最近団体を持って、人も増えてきたので色々とさじ加減考えることが多くなった。
確かに一理ある。
自分の場合どこかに所属して、自分を生かせる場所がないから、じゃあ自分で自分の場所を作ろうって思い、自分の団体を作りたがる癖がある。
今は横の繋がりが多いけれど、結局は最後大きな舞台に引き上げてくれるのは、自分よりもはるかに力を持った年上の人たちだったりすることがほとんどだ。
例えばクソ上司だった場合、ブラック企業だった場合、さっさと辞めちまって正解だと思うけれど、年上の人間たちと上手く付き合い、そして目上の人たちを上手くいなすような、そういう技術は処世術として絶対必須になってくる。
さもなければ妙な形で衝突するだけか、変に目をつけられて邪険にされるか、もしくは自分が鬱々と日々重苦しい気持ちを引きずっていくしかなくなってしまう。
自分も一つ思うところがある。
ちゃんとした大人っていうのは、ちゃんとした人間関係を築いている。
そしてちゃんとした人間関係を築いているからこそ、目上の大人に気に入られると、その大人を通して素晴らしい人たちと出会えるようになる。
これがやがて自分の大きな財産になっていく。
横の連携が強化されていっても、権力を持っている人には絶対に出会えない。
つまり、仲間は多くなっても、社会上の力は強化されることはない。
その必要性はないと感じる人もいるだろう。
しかし何かに翻弄されるだけの自分によしとしないのならば、自分の身を守るためにも処世術は身につけておいて損はないのだ。
価値観や主義主張のぶつかり合いもあり、どうしようもなくなるぐらい収集がつかなくなることは人生の中では自己を主張し続ける限り必ず起こることでしょう。
でもね、私は人間関係で一番大事なのは「相手の懐を察する」ってことが大事だと思うんです。
つまり相手の本心を見抜く。それにはじっくりと相手を観察しないといけない。
相手の事情を察することができれば、懐にすっと入ることもできるし、懐に入ったら「肝を抜く」こともできる。
いい意味で度肝を抜くことができれば、年上相手でも主導権を握ることはできる。
でも組織の中に入れば事情は違ってくるのかもしれない。
上司は上司。その場を仕切る上司によって翻弄される。人によって一長一短あって、上司の短所に対応しなければいけない。
そして人はだいたい短所に気がつかないものだから、どれだけ自分の短所をかばってくれているのかということも、あまり理解しないことが多い。
さらには上司の短所の責任が部下のせいにされることだってある。
そんな理不尽さの中で皆生きている。
自分だけが自由に好き勝手、さも正しいかのように言えるのは、ここだけ、このインターネット空間と、友達同士だけの酒の席などと場が限られている。
別に権力うんぬんかんぬん言わずとも上司とうまくやる処世術は絶対に身につけておかないといけない。
相手の自尊心の在り処を見抜ければ、少しは上手くやれるさ。
話は元に戻るけれど、クビになったマスターのことが気になってしょうがない。
またどこかで会いたいな。
だって、その組織では才能が生かされなかっただけで、まだ死んだわけじゃないからね。
生きていればチャンスはあるさ。

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06/28

Sat

2014

カモメのジョナサン完成版



 先日NHKのニュースで出たことを知り、完成版とのことで第四章が追加されて40年ぶりにお目見えとのことで急いで書店に行き購入した。この本を最初に読んだのは確か20代後半だったような気がする。
 題名からは、なんか動物ものだから、ほのぼのしてる童話か何かじゃないか? だなんて思っていたら違いました。悟りの書みたくなってる。
 というのもジョナサンは「飛行」や「スピード」をひたすら追求するカモメになっていく。一つ芸を追及することによって単に「生きる」ことに必要な「餌をとり生活していく」という次元からはるかに別の価値観を得ていくことになるのだが、それだけにカモメの群れから追放されてしまう。
 その一芸を追求するという行為の先に肉体をも超えて行き開眼する様は「これはいかにすれば悟りを得られるのか」を書いた小説なのではないかと、当時は思っていた。一つの世界を純粋に練り上げ純度を高め、目で物を見るのではなく、世界と一体となった心の目で時空を見渡す。確かにここまでいってしまうとそれは「カモメ」とは呼べない存在になってしまう。
 ニュースでも言っていたが、肝心の第四章は、第三章で終わっていれば「ああめでたしめでたし」という印象しか持たなかったものが、ジョナサンがいなくなり神格化され、行為から思考へ切り替わり、思考のために思考を練り上げ、思考を植えつけるための約束事やしたきりまで出始めるという、ニュースでは「堕落」と言っていたが所謂「現実不在の堕落思考の様相」が描かれている。
 ほとんど全ての言葉というのは「行為」を中心にし、体の中のリアリティを通して発信されているはずだ。さもなければ、個人にとってそれは単なる「情報」でしかなく、体験談でも得た知恵でもなんでもないのだ。知識を得て体験もせぬまま情報レベルでそのまま井戸端で噂話をするかのように語る人間はたくさんいるが、常に情報のオリジナルであり続けることは難しい。
 何故なら現代は情報が溢れていて、さも体験したかのように緻密に脳内に情報を蓄積することができるからだ。だから、我々は知らないことでさえ情報を共有して知った気になっている。
 そして情報を我々が確かに身近なものとして共有している、現実のものであるとするにはシンボルが必要になる。何か象徴的な形となるものが必要になってくるのだ。だから我々が思考を停止させる時必ずキーワードで話し出す。そのキーワードが何を示すのか、というのは、象徴物に印象付けられたイメージや先入観からしか考えられなくなる。
 そして行為は歪められ、思考は堕落していくのだ。
 これは別段難しい話ではないのだ。行為によって出しかオリジナルの情報は手に入れられない。知識は知恵にならないし、情報が真実かどうかも確かめることはできないのだ。世界を見つめることは、歪んだ心を捨て去り自由を得る必要がある。心の中からしがらみを取り去る必要があるが、いかに自由になったとしても自由になろうとしても、しがらみや群れを求めだすのが人なのかもしれない。
 この小説は多様な捉え方がある。経済には「神の見えざる手」があるというが、人間社会にも荒む時期や栄光の時期が繰り返されている。それはきっと個人の利益を考える人間の腐敗であったり、はたまたその腐敗に対する反発的な意思で利益を考えたりの繰り返しなのかもしれないとも考えさせられる。
 しかし我々の社会がどうあれば健全でありうるか、という議論はしばしば「行為」によって変えられるのではなく「情報」によってのみ歪められることが多々出てきている。
 第三章までの話は40年前。高度成長期の終わり頃で、その時期には第四章は時代に似つかわしくなかったとニュースで言っていた気がする。そして今になって第四章が追加されたわけだ。
 これは何の運命か何の因果か。あの頃二十歳で読んだとしても、もうその人は60ぐらいになっているはずだ。その人たちは何かを感じるのか、もしくはそういう長老たちよりもむしろ、今の若者にこそ再度問いかけているのではないのか。
 文章も簡単で一読の価値はある。ぜひお勧めしたい。

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06/21

Sat

2014

年季の入ったドアをくぐると、そこは別世界だった。

民家を改装した家庭的な雰囲気が残る店内はウッド調のぬくもりに包まれている。その料理屋の入り口は若干低く、わざと頭を下げて入るよう「茶室の入り口」をイメージして設計してある。
 小さな路地に入ったところにある店だが、隠れ家的な、秘密基地のような、こんな目立たぬ場所に客など来ないのではないかと思いきや、そうではなかった。
 先日とある監督からよいお話をいただき、同席していたプロデューサーさんと一緒に楽しく会話をした。自分としてはその先にあるたくさんのコミュニティにアクセスできる可能性ができたことが大きなことであり、この入り口の先にある世界に今からワクワクしている。
 さて、プロデューサーが帰った後、監督が酒を飲みすぎ、本人曰く10数年ぶりに取り乱し、マスターに色々と議論を吹っかけるという事態になっていたが、なんとなくその様子に親近感を抱いた。
 というのも、自分だってバー帰りの街路樹に酸性の肥料はたくさんあげたわ、酔って猪木ばりに店員に平手を食らわしたわ、楽しくなると自分の素を曝け出したいという気分になって、よくやらかした。それは、いつも抱えすぎているフラストレーションを自分の中でどうしようもできなくて、外に出たときには泥酔、悪酔い、なんて形で酒の勢いで色々出すっていう結構ろくでもない手段なのだけれど、誰かに話そうと思っても言語化できないような、もしくは同業者じゃないと理解できないようなもやもや感っていうのがあるので、ああここにも仲間がいたという一つ精神面での「わかるー」という微笑ましいものを確認できたのが大きい。
 たぶんこれから、深い付き合いになりそうな予感がした。
 さて、そこまでが先日の話だったのだけれど、改めてお店にご挨拶に伺った。マスターとも初対面だったけれど「金ないならツケにしてもいいから!」と気に入ってくれたようだったし、監督の席だったので自分の話はあまりできないこともあり、マスターとも店員さんとも自分のペースでお話しようというわけだったのだ。
 マスター自身もだいぶ人を選ぶと言っていた中に自分がいることができるのが嬉しい限りだし、色々な話の中から透けて見える「命の活動力に興味を持っていきたい」という意思が今回の話でよくわかった。
 そしてそのマスターのお店に来るメンツが多種多様で面白く、人の繋がりがまた一気に増えていくことに、色々な可能性を見出していけそうで、結構未来は努力次第でかなり明るいものになっていくであろう確信を持てたことが、とにかく大きな収穫だった。
 私は監督の紹介でドアを一つくぐることができた。こういう入り口がありますよとくぐった先は、とても面白く、また別世界が広がっていたというわけだ。
 その新しく広がる可能性の空間に対し面白みとやる気を奮い立たされたのだ。たくさん勉強して、慎ましやかに能力を外に対して発揮していかなければならないと思わされたのだ。
 よい出会いを本当にありがとう。

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06/07

Sat

2014

年寄りから見るとつまらないこと

年をとってそれなりの経験をすると、全部とは言わないが面の皮が厚くなったり精神的に耐性がついたりする。
私もこの記事を書いている時は30代半ばなので、年をとったなどという表現は上の世代から笑われるだろう。
でも私よりも、より多くの若い人たちがいて、さらに自分にはできない優れた才能を発揮する若者がいて、なんとかそういう才能を応援したいという気持ちも素直に生まれてきている。
本当にもっと若い頃は、自分のことを理解して欲しいという気持ちでいっぱいだし、自分の才能を認めてくれないのは見る目のないやつだと思っている頃があった。
プロの素質というのは、実力だけではない。
当然関わる人たちに対しての敬意や礼儀をきちんと保てるかという点も含まれる。
何故って敵を作るような反発的な態度は、必ずいざって時に足を引っ張る敵を作ることになるし、人間の心は本当に卑しいものだから、見下されたと感じたら仕返しをまず考え出すような恐ろしいものだ。
若いと自分だけの世界で成り立てるから、それがわからない。
そしてさらにわからなかったのは、実は思ってもみなかった人が、意外な人と繋がっていたということが多々ある。
人を尊敬するには、見えない良さを見つけることのメリットは、実はとてもある。
私は常々「努力は他者の手によってようやく報われる」と考えるようになった。
ここ最近でようやくわかってきたことだが、いかに努力しても認めてくれる人がいなければ、社会上ではその実力はないものと思っていい。
それが人の手によってようやく引き立たされるわけだ。

大人になると、相手の感情は大事にしたいが、だいたい二の次になる。
どこを重要視するかっていうと「行為」そのものになる。
人は感情で物事を創出しているわけではない。
その先にある「行為」によって全ての現実は成り立っている。
見る目のある人間は常に「行為」を重要視している。
だから感情を大事にする時もあれば、感情を無視してもよいのなら、そうする。
当然優れた大人ともなれば、他者の感情の扱いにおいては十枚も二十枚も上手だ。
この人にはかなわないな、とも思うし、完全に見抜かれている、という妙な脂汗も出る。
世の中には上には上がいる。
それがわからないのは、小さな世界にいることを自分で主張しているのだ。

私は最近とても嬉しく思った音がある。
謝りそうもない若者が謝罪の言葉を文面とはいえ出したことだ。
才能はあっても不安な要素はたくさんある。
別に見下されようが何されようが、相手の感情の問題なので私にとってはどうでもいいことだが、少しは進めたのかなと思えるところがあったから嬉しかった。

いつだって、命があり、常に己の才能を伸ばし続ける人間が歴史を作っていく。
その歴史の一翼を担う人間は他者を味方につける術を無意識にでも身につけている。
だから上にいける。
人間には欠点がある。
他人が到底認めないようなものも含んでいる時がある。
そういうものに実力があったとしても振り回される。
年寄りから見ると、どうでもいい個人の感情が、他者との関係を決める。
だから、どんな人間でも自分より優れた点があるのだという気持ちで人を見なければ、たちまち己が作った敵によって、あらゆる利益を阻害されるだろう。

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05/19

Mon

2014

「共感が大事」という恐ろしいフレーズ

「共感」という言葉ほど実践において難しいものはない。
そもそも「共感」って何だ。これほどわかっているようで漠然としている言葉もないだろう。
個々によって「共感」する場所は違うし、レベルも違うし、繋がり方も違う。
そもそも自分自身の「共感」を説明できるのだろうか。
例えば「集団においては共感が大事だと思うのです」と言われたとして、集団としての一体感や共感とはなんだ。
人に不快感を与えず、その人間をやる気にさせ、かつ能力を十二分に伸ばせるような環境づくりと、成果を分かち合えるようなシステム作り、と言ったところだろうか。
作品における「共感」とは「面白いものを作ってください」だし、個人における「共感」とは「不愉快な気分にさせないでください」ということだろう。
それは守らなければいけないことなのだろうか。
いや、守らなければならない、という周囲の期待感のようなものがある。
そして取りまとめるような立場になったり、注目を集めるような立場になったりしたら余計に「あなたはこうしなきゃいけません」というような声も増えるだろう。
だがそれは正しいことだろうか。
新しいことを生み出そうとしている時、人を傷つけてはいけないし心理的な不安感を与えてはいけないし挫折感もなるべく他人が与えず自覚的に覚えていったほうがいい。
逆にタイプによっては無理難題を並べ立てられて悪戦苦闘して出てくる場合もある。
関わる人が増えれば増えるほど「共感」の内容が違ってくる。
変容を常日頃感じているのは多くの人間に注目されている人間であって、周囲は自分のままでよいのだから「共感」の内容が変わるとしたら己の生活や経験によってが一番だろう。
そもそも、本気で何かを作って発信したことがあるなら、そして数字を厳密に見ているのなら、「共感」は過去にしか存在しないことがよくわかる。
新しいことをやり始めると「共感」という定義すら吹っ飛んで、ほとんど実験状態になる。
何度も何度も失敗を繰り返しながら、99%ぐらいの失敗の上、ようやく見つかったりするものが多い。
そこは本当に失敗を重ねないと嗅覚が働いてこない。
知識だけ得て、その知識をすっと出したところで、なんら具体策もアイディアも存在しない。
その組織にあったベターなやり方は何なのか。
人によって組織が変わり続ける限り、ベストなんて絶対に存在しない。
これは創作の現場においても同じことだ。
なんでそんなこと言うかって、自分がこの「共感」ってやつを考えすぎてぶっ壊れそうになったからですよ。
「じゃあ受けるやつを学んでそれを自分なりにアレンジして出せばいいのかよ」
自分の創作の方向性を捻じ曲げてそれをやることが一番の近道だとよくわかっていた。
特に数字や成果を求められると本当にこの「共感」って言葉が心を病んでしまうほど重荷になる。
だから今はこういう風に考えている。
自分の場合はある人との出会いや歌舞伎との出会いなどによって心が変えられた。
だから、「自分の作品で誰か一人の人生でも好転させて影響力を持ち続ける」ということだ。
「一生忘れないものを与える」
これが、自分の目標だ。
「共感」という漠然とした言葉を考え始めると、また長年立ち止まってしまうことになるだろう。
組織における「共感」は私の場合「学びと成長」であればいい。不愉快だろうとなんだろうといい。それを与えられる数々の機会さえ設けられればいい。
創作における「共感」は私の場合「人生観を変える」ものであればいい。千人に否定されようと、たった一人だけでもいい。
仕事における「共感」は私の場合「美味い酒が分かち合えるよう最高の充実感を達成」できればいい。それが少なかったとしてもそれを目指したい。
ところで、これをお読みのあなた。
曖昧な言葉で思考を停止させてはいないだろうか。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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