意外にもアドバイスや批判も含めてだが、舌先だけで足りる。
正しいことは誰にでも言えて、こうすれば正しいと思えることを言うことは、どんな人間にも出来る。
だから上から言って鼻でもほじっていれば済むことだ。
世のほとんどの人間は、それだけで終わる。
しかし実際の現場で人にアドバイスするとなり、目標を設定すると鼻などほじっていられない。
実際に行動しなければいけないし、相手の感覚などに合わせた二人三脚のアドバイスが必要になる。
それは相手のことをよく見ていなければいけないし、価値観の合わないものがあったとしても、まずは受け入れなければいけない。
間違ったものがあったとしても、そこから始めなければいけないからだ。
そして間違ったものがあったとしたら、どのようなプロセスを経て改善させていくのかも細かく見つけ組み立てていかなければいけない。
人を一人変えようとしたら、何ヶ月も何年も必要になる。
だから中途半端な優しさや気持ちでは心が必ず折れる。
悪い点があり、非難するのもアドバイスするのも実は容易く、言っておしまいの人間が多い。
言うだけで終わると、人は「言ったこと」だけを覚えているので「なんでいつまでも直らないのだ」と何故か言った労力のみを重視して苛立つ。
つまり「言う=改善される」という想像が勝手に膨らむ。
現実に関わらないだけに妄想の域なのだが、憎しみも嫌悪も妄想の中で育っていくため、わりと深刻な事態になる。
今世の中は情報に溢れている。
現実に関わることなく、映像を見て、あたかも疑似体験したかのように情報を得ることが出来る。
厳密に言えば、それは現実ではなく情報だ。
生身で見に行き、現地で感じてこそ初めて現実になるのだが、現代人にとっては情報すらも現実とする。
情報と現実の境目がなくなってきたのは今に始まったことではないが、例えば情報と現実を区別できないことはどういうことかというと、実際に起こっていないガセネタに感情を激しく動かされることになる。
現代人の制御は「情報」によってなされている。
その「情報」によって心理が左右され、そして一個人の行動が形作られる。
たとえ間違った情報を持っていたとしても、それを心底信じていたら、その人間にとっては現実なため、「それは間違っているんですよ」とアドバイスするのは、既に人間性の否定に繋がるのだからアドバイスは難しい。
ここまでくると「感覚」の世界に等しい。
アドバイスは舌先だけで足りるため、私たちは相手の感覚世界にまで踏み込んでいるということをうっかり忘れるというか、普段すっかり忘れきっている。
それゆえに意図しない衝突が起きたり、一方的に感情をぶつけてしまったりする。
よく「相手の立場に立って」などと言われるが、正直そんなことをしてくれる大人はいつだって「自分の利益」と天秤にかけて動いている。
相手の立場に立つと自分の利益になることが多いからそうしているだけで、善意を持って、というのは中々貴重で素晴らしい人間だ。
もちろん利己的な人間ばかりではないし、善意を持っている人間はこの国にはたくさんいる。
だからまだ滅びないのだろう。
しかしもし舌先だけで正義を語る人間が増えたとしたら、国はいつだって危うくなる。
正義を語り、あこぎな行動をし、得た利益で正義を宣伝するという悪循環があるのだとして、それを糾弾できないほど受け手が呆けてしまったら、国など荒廃するに決まっている。
我が国は未だ年間3万人以上もの人間が自殺している。
例えばこの自殺者を一日にまとめ、一気に首を吊ったとしたらどうだろう。
木一本に一人。
三万本の木に首吊り死体が広がる想像をしてもらえば、どれだけおぞましいことが起こっているかが容易に理解できるだろう。
ちなみに三万人ですら見渡せるものではない。
実際に駅前で人を数えてみるといい。
100人とは、1000人とはどういう単位なのかすら私たちは実感として持っていない。
例えば「死ぬな」とアドバイスするのは容易い。
しかし「どうしたら死なないで済むのか」をアドバイスし、それを達成していくのかは、よりアドバイザーに具体的な行動が求められる。
舌先だけでは足りないことはわかるだろう。
だいたいは舌先だけで、相手が改善の余地なければ放っておく。
無責任とまでは言わないが、結局は無関心なのだ。
そしてその無関心さは余計な事を並べ立てながら、次々と標的を変える。
人にアドバイスすることは難しい。
金メダルを取れと言うことは容易くとも、取らせることは難しいのだ。
もしアドバイスをするのならば「現実に関わる覚悟」が時として必要になるかもしれない。
現実に関わることでしか変化は訪れない。
そして現実に関わってこそ初めて情報を発信できる。
この順序が逆になっては、危うい。
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