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あさかぜさんは見た

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10/15

Mon

2012

やましな駅前 陶灯路(とうとうろ)



かつて私たちは「密会」をしていた。
暗闇の中の自然の光の中で、心を打ち明けあっていた。
灯篭や行灯や提灯の薄明かりに照らされながら。
京は、その「密会」によって歴史が動くことが多かったことだろう。
陰謀を張り巡らすものたちは獣のように息を潜め、周囲の物音に気を配っていたであろうし、男女の間においては語られぬ数多くの恋物語が生まれては消えていったのであろう。

烏丸駅近くのビルの中にあった観光案内所で偶然出会った学生さんの案内で知ることになったこのイベント。
大きな祭りではないが、一区画ほどのメイン会場に清水焼や切子ガラスの器の中にキャンドルが灯されている。

清水焼は高価なものもあり、焼き物の灯篭にいたっては現役作家が無償で提供しているのだそう。
作家と地域と人を繋ごうという狙いがあると言っていた。
京都橘大学の学生と教授が一体となって山科区を巻き込んでイベントを企画するという試みで、会場のスタッフにも学生さんを見かけることが多かった。





日本という国は世界の中でもひときわ明るい。
宇宙から日本を見たとき、他の国にはないほど輝いている。
私たちは「明るさ」を追ってきた。
たくさんの電気を使い、便利な世の中にし、そして「明るみ」のある人間を求め、「暗闇」を押しやっていった。
表現という領域においても、「明示」され、わかりやすく、面白く、「秘密」めいた表現は避けられ、観客に考えさせるようなものが徐々に少なくなってきている。
「密会」には、人様に打ち明けられないような暗いイメージが付きまとう。



明るくない人間にはやましいことがあるのでは、と疑われるくらい私たちは「明るさ」を信じている。
無駄に「暗闇」に想像を膨らませ、余計な詮索をしなくてもいいように。

例えば『ゲゲゲの鬼太郎』という水木しげるの代表作品がある。
昔のアニメは白黒なのはしょうがないが、何度もリメイクされて最近も放送された。
その放送を見たとき、年代を追うごとにハイトーンになっていることに気がついた。
現代版は「暗色」が避けられ「明色」が主に使われているのだ。
現代人はあふれ返った情報の中から想像を「編集」している。
明示された情報の中から切り貼りして物事を理解しようとしている。
「暗部」と言えば、「よからぬ部分」という意味だ。
都会では夜空の星さえもよく見えぬほど明るいため、星を美しいとはなかなか思えない。





「暗闇」には「秘密」がある。
心理的にも明るいより暗い方が互いが密着しやすくなるし、不思議と打ち溶け合ってきて秘密を打ち明けたくなる気持ちがふわふわと浮き出てくる。
うまく見えないからこそ、たくさんの想像力をかきたてられるし、キャンドルの灯りで浮かび上がる陶器から、作家が何を思って作ったのかを様々な角度から考えさせられる。
光を通じて陶器が密やかに語りかけてくる。
芸術には想いがあるし、祭りには心がある。



おそらく古今東西「暗闇」と「不安」はセットで付きまとっているものだろうと思う。
「秘め事」もそう。
人間が最も想像力を働かせるのは「恋」と「恐怖」だ。
月明かりに浮かぶ波紋は「恋」をしていれば美しいと思うし、「恐怖」にかられているのならば気配として恐れる。
キャンドルの中に浮かぶ人の影を見ると、どこかほっとし、新しい出会いがあるのではないかと期待する。
暗闇の中に浮かぶ自然の明るみは、人のあたたかさと同じくらいの明るさではないだろうか。
見えていても見えないものがたくさんあるのが人で、しかし見えないからといって冷たいというわけではない。
本当の「物語」は、「暗闇」の中から数え切れないほど生まれる。
「語り」と「騙り」は同じだから。



今年のテーマは「かぐやひめ」だったそうだ。
書も学生さんたちが用意したもので、暗闇の中でストーリーを追えるようになっていた。





私たちは「明暗」の中にいる。
それは命というものを使って歩んでいる、この今でこそ「明暗」なのだ。
「明暗」があるから「尊ぶ」気持ちも生まれるのだろう。
たくさんの想像力の中に、また新しいストーリーが生まれることもあるし、新しいストーリーの中で、たくさんの想いが生まれるのだろう。
懸命に学生さんたちが企画し、小さな会場では生演奏も聞けて、ついつい酒に手を出しほろ酔いで歩いた秋の一日。
美しき密会をさせてもらいました。
よい出会いをしたことに感謝です。

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10/07

Sun

2012

昨日壬生狂言を見てまいりました。
狂言は生まれて初めてで、能よりかはわかりやすいものの、身振り手振りのみで示すため、やはり下知識がないと何を示しているのか少しわからない部分もあり、パンフレットを買い、それを見ながら楽しんでまいりました。
壬生狂言は口頭伝承だそうで、今でもしっかり伝承され、そして楽しんでいる人たちを見ると、歴史というものを感じると共に、一番派手な演出のある「土蜘蛛」が終わったら結構な人が帰っていったところに、やはり現代はエンターテイメント性がないといかんのか、帰っていった人たち、とも思ったりなんかしたり。
「眠くなるなぁ」
と京都弁でしゃべっていた観客がいらっしゃりましたな。
3日にわたってあり、今日明日と連続で6演目やるようです。
私は用事が有るので1日だけ。

壬生寺、というと全国的に有名なのは狂言よりも、もしかしたら新撰組のほうかもしれないと思いましたが、壬生寺=新撰組ではなく、歴史はもっと深いようです。

壬生寺は正暦2年(991)、園城寺(三井寺)の快賢僧都によって創建され、古い名を地蔵院、宝幢三昧寺、などと号した。
壬生寺公式HP

とありますので、地元の人からしてみれば新撰組など勝手に居座ったような心地になりますでしょうな。
しかし今ではしっかり新撰組のお寺としてお寺側から積極的にアピールされてます。
この近くは新撰組ゆかりの建物も残されていてファンが巡礼するコースにもなっています。

さて、壬生狂言。
昨日の題目は賽の河原、土蜘蛛、大原女(おはらめ)、大沸供養、橋弁慶、棒振、と最後の棒振りは締めの演技なので、全6演目、なんと13時から17時半までずっとやり、800円で鑑賞できるというお得なものなのです。
一番の見所は「土蜘蛛」で、こちら土蜘蛛が手から紙のテープを幾筋にも放つという見た目にも派手だし、2階ほどの舞台から下へと飛び降りるシーンもあり、演出が一番驚きに満ちています。
最初の「賽の河原」も地獄の鬼が子供の舌を引っこ抜いたり、釜で煮たり、むしゃむしゃ食べたりと、恐ろしい姿が舞台上で展開されます。
大人は「わー」と釜の中から子供の代わりの人形が出てきたときなど驚いていましたが、想像力豊かな子供は夜眠れなくなりますね。
私昔小さな頃住んでいた家に、なんとトイレの扉の上のほうに鬼のお面があり、ちびりそうになりながらトイレに入っていっていた記憶があります。
壬生狂言は仮面の劇なので、それはもう鬼の仮面は恐ろしいわけです。
あの仮面も長年伝えられてきているものなのかもしれませんね。
「大原女」は立小便はするわ、腰布で洗った手は拭くわ、人のハンカチで鼻はかみまくるわ、そりゃーもうお下品な老婆が出てきまして、その品のなさが喜劇なのですが、男のスケベ心もまた笑いを誘うところです。
一番解説が必要なのが「大沸供養」で、敵討ちという部分は解説文を読まないとなかなか見えてこない。老婆との離別を名残惜しくしているシーンと敵方の懐に侵入しつつ掃除下手なシーンは緊張感があってよかったな。
「橋弁慶」は牛若役の小さい子がばったばったと現れる敵を切り倒していくというのが見ものというか、切られ役も小さな子などがいるので、たぶんお母様方とその関係者たちが見に来て「ああ、我が子も頑張っているわ」と自慢げに話すのが主の話でした。
っていうか、せっかくの子役の登場にもカメラで撮影禁止だから勇士を映せないんだよね。残念。
「棒振」は厄払いの役目があるんですって。
そのまま締めで「棒を振る」という感じです。
この時間になると暗くなってきて半袖では肌寒かった。

こちら側に来るとこういう民間伝承に近い形で地域の人たちぐるみで一生懸命伝えている物事って凄く多いのですね。
実際見聞きしながら感じることは伝承と発信の力。
意味を伝え、形を伝え、想像力を伝える。
年に3回ほどやっているらしいので時期が合えば1つだけでもご覧くださいませ。

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10/04

Thu

2012

大丈夫であるように-Cocco 終らない旅-




Coccoについては、あまり詳しく知らなかった。
シンガーソングライターで、拒食症を患っていた、というぐらいの知識だ。
どうして興味を持ったかというとこの後の映画で『KOTOKO』でベネチア映画祭オリゾンティ部門でグランプリを受賞したからだ。
この映像はドキュメンタリーだけれど、音楽活動を通してどんな視点を持っているのかというのがわかった。
ちなみに彼女が沖縄の人であるということも、この映像で初めてわかった。
沖縄の人間は基地問題と共にあり、毎日のように基地について考えている。
中で「阪神大震災の慰霊モニュメント」も出てくるし「六ヶ所村」のことも出てくる。
身内が働いていて給料を貰っていたら、どんなに村から離れていて関係なかったとしても何も言えない、ということを村の関係者の人が話していたのが印象深い。
Coccoはファンの手紙を貰って「六ヶ所村」のことを知り、そして沖縄の問題と重ねあわせて考えていた。
自分たちが生活を送っている裏で何らかの犠牲を背負っている人たちがいる。
特に都市圏に住んでいる人間はこの意識を持ちづらい。
かく言う私もずっと札幌に住んでいて、それなりの都会であるので、都市を維持するための労力は思い描くのが難しい。
原発の問題も基地の問題も、国家の裏でどういうやり取りがあってそうなっているのか民衆には理解しづらい部分があるし、「民意」と言ってもダイレクトに反映されているとは言いがたい。
「生活をするための、しょうがないこと」
こんな意識が取り巻いているのではないだろうか。
映像の中でもCoccoは絶望だけじゃなくて何とか前向きに生きようとしていると言っていた。

ふと他県に移って私も気がついたことがある。
地元以外の他県の情報は「東京の視点」でニュースになり、地元は「地元の視点」でニュースになる。つまり地元の問題は「東京では問題にならないこと」は外に出ていかず、地元に閉鎖的に情報が流される図式になっている。
Coccoが沖縄の問題は沖縄だけでたくさん流れている、というようなことを言っていた。
中にはジュゴンが海に帰ってきたというニュースが差し挟まれ、道民の私はそのニュースを映像の中で始めて見た。
このドキュメンタリー映像は、ほとんどCoccoのファンぐらいしか最初は興味を持たないかもしれないが、はっとさせられることがある。
それは「誰かの苦しみや悲しみを救おうとすることで自然とメッセージ性が出てくる」ということだ。
六ヶ所村から住む女性から手紙を貰ったCoccoが「助けてっていう手紙がほとんどだけど、この手紙には一言も助けてと書いていなかった」とあった。
このメッセージからもCoccoが祈りの対象のようなものであり、救いの神のような扱いをファンから受けているのではないかと思わされる。
さまざまな苦しみや痛みや悲しみに目をむけ、音楽を通してそれらを少しでも緩和できたらという気持ちが全編に流れている。

最後のほうに親としての視点があった。
一人でいたときと、親になったときの気持ちの変化が宮崎アニメ「もののけ姫」を通して語られていたのが面白かった。
守るものが出来ると、つまり後世のためのことを考え始めると、一人でいるときとはまったく視点が違ってくる。
絶望よりもなるべく希望を残していきたいし、共有したいという思いは誰にだってある。
しかし希望だけ並べ立てても現実は塩辛い。
なぜなら生きることそのものが何者かに犠牲を強いることだからだ。
この構図は人間が生物である限り変化しない。

全ての人間の苦しみを救うことは不可能だ。
だからこそ「終わらない旅」なのだろう。
彼女のファンではなくとも、何かと考えるところがあるしっかりとしたドキュメンタリーだった。


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10/03

Wed

2012

イベントがありすぎる京都

ついついイベントが多くて出かけてしまいそうになるけれど、京都に来たのは仕事をするためでもあり、いつまでも報酬が金銭ではなく現物支給ではお金がなくなってしまうので、しっかり仕事をしたいと思います。
今年は我慢する。
来年こそはイベントに顔を出しながら色々回りたいと思います。

さて、いろいろ気になることが出てきているのですが、観光地といえど、祭りが多すぎるということに気がつきます。
ほとんど毎日のようにあり、イベントの無い日はないのではないかというくらい。
それだけ神社仏閣の力が強いということなのですね。

昨日、京都府立大学にて「京都力を探る」と題しまして今年から三年かけて公開講座をするみたいなのですけれど、「平安京の仏教ー最澄・空海とその後継者たち」という講演を聞きに行きました。
所謂京都における仏教の発展がいかにしてなったか、という内容だったのですが、私の中で印象に残ったのは「徳一が最澄に論争で負けてから仏教の流れが変わった」という点と、最後の質問の中であった答えなのですが「何故民間信仰があったにも関わらず仏教などが力を持つようになったか」という問いに対し「体系化がしっかりなされたからではないか」ということでした。

宗教が体系化するには「テキスト」が絶対必須であり、「テキスト」は「呪術」でもあります。
昔は山側に死体を捨てていた、という話も聞き、中央と周辺との違いが目に浮かぶようでした。
当然昔は今のように食糧事情や経済が安定していたわけではなく、天災飢饉火災などで街が壊滅的な状態にもなっただろうし、いつ崩れるかわからない生活に大きな恐怖や不安を持ち、何か大きな力に頼りたくなる気持ちもわかるような気がいたします。
栄枯盛衰の中には「憎しみ」も多分に含まれます。
栄耀栄華の裏には、その分「憎しみ」の力があるのではないかと私などは強く感じるわけです。
その民の「憎しみ」の力をいかになだめるかが政治の力であり、宗教の力であるか、を感じます。
そこに「テキスト」がいかなる役割を持ったのか、個人的には気になるところです。

人の心における「恐怖」というものは「憎しみ」を時として凌駕するものが多々ありますが、ふと先日の別の講演の中で出てきた「感染呪術」と「類感呪術」を思い出しまして、至る所に触れて作用するとされているものがあったり、お守りやその代わりとなるものがたくさんあり、京の街は「呪術の街」なのだなと祭りの多さなども見るとしみじみと感じ出すわけです。
漠然と感じているものを理論体系化し、組織化すると、それは大きな力を持ちますが、漠然としたままでは形にしたものよりはるかに弱い。
現代においても社会は「テキスト」に縛られております。
現代は「法」という「呪術」が機能しておりますね。
その「法」には漠然とした「恐怖」や「憎しみ」の力が働いて新しい法ができたりするのですから、現代は完全に理論体系化された「呪術の世界」と言えます。

さて、「祭りとは何ぞや」という疑問がぽっと浮かぶのですが、それを調べるのは来年になりそうです。
ひとまず昨日は三条通を歩き錦小路で鱧串と出汁巻き卵を食べまして、京の味を少しだけ楽しみました。
あと今月はぼちぼちと講演に出かけたりするくらいで、ほとんど引きこもり生活です。

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09/27

Thu

2012

貴志祐介氏の講演

昨日、第54回京都大学未来フォーラム「なぜエンターテインメントに残虐な表現が必要なのか」という講演に行ってきました。
「ここが京大か。北大よりかはこじんまりとした感じ」という印象を受けつつ、いや、北大が異常なだけかもしれませんが、氏のすぐ後ろに陣取って聞いてきました。

文筆業などをやっている人なら知っている人も多いと思いますが、都条例にも触れつつ、話されておりましたよ。
本当は講演聞きに行くときはしっかり下調べしなきゃいけないのだろうけれど、そんな金銭もなく、というか、買う本も選ばないと食料がなくなる状態なので活動そのものはしょぼいっす。
質問もしたかったけど他人の話し声が聞こえる中ではうまくまとまらず、悔しい思いをしながら帰ってきました。

私も規制に対してはよく考えることがありましたが、例えば「犯人がそれを持っていたから」という理由では規制する根拠や論拠にはならず、専門的な議論をするには反証もしなければいけないものを、それがまったくないまま話は進んでいます。
これは実害の方ではなく、非実在における推定被害の方です。
つまりは表現のほう。
反証というのは「なぜその他の人間は同一の物品を所持しながらも犯行に及ばないのか」ということを踏まえなければならないということです。
規制派の理屈から捉えると、おそらく「想像なくして行動なし。想像の根源となるものを排除すべし」「規制による推定抑止効果」というのが最も根底にある意識であると思うのですが、人間の信じる根底の中には類感呪術(○○をすれば~になる:遠隔型)と感染呪術(お札など身につけることで効力がある:接触型)があると言っていました。
確かについったーなんて見てるとそういうのすごく多いし、いつの間にかうわさが真実のように扱われていたりする。
そのうわさが一種の暴力装置として働くこともあるというのが現代の特色です。
心理的にも安直に因果関係を結べるものは叩きやすいし、例えば昨今の政治家におけるスキャンダルだってそう。
どんな性癖があったって、政治手腕に影響するわけではないのにSM好きだったら次の選挙で落ちるとかね、たぶん仕事とは関係ないところで仕事そのものまで見られたりするのも同じことだと思います。
実はその裏には大衆の不満や鬱憤が溜まっていたりする。
そんな風に「表現規制はスケープゴートにも利用されている側面があるのではないか」と指摘しておられました。

それで、どうして残虐な表現が必要かというところなのですが、読者にとって緊張感が伝わる手法として主人公たちを100%追い詰めてようやく1%伝わっていくということや、死を見つめることによって、ようやく生の境界線が現れるということや、そもそもの現代社会の仕組みの中に暴力があり、暴力は抑制であり、抑制は秩序であることをあげられていました。
その「暴力」とはなんぞやを作品によって疑似体験させることによって、所謂作品そのものが「ワクチン」の効果を持つということです。

都条例のこともそうですが、大阪も確か規制に乗り出していたと記憶しております。
私も氏と同じ懸念をしていたのですが、いかに担当者が質問者に対し「いやいや、そのケースはいいんです」と言ったとしても、条文が残っている限り、場合によっては「いや、条文に照らし合わせるとアウトです」と突然翻される可能性だってある。
これは氏の言葉では「検閲が厳しくなると時代における為政者によって都合のいいものが規制される」という状態になります。
つまり「表現の自由が侵される」というのは、ここにあるんですね。

最近の御伽噺は読んでいなかったのですが、子供用に因果応報の話を改変しているのだそう。
いきなり改心して善人になるケースが多いのですか?
だとしたらグリムなんて読ませられませんね。
親の立場として「自分の小説は子供には読んで欲しくない」と冗談を言っておりましたが、悪に対する想像力が養われないと突然過剰反応したり魂が傷つけられたりと、取り返しのつかないことが起こるということを言っておられました。
そこで重要な言葉がありました。
「魂の傷を教えるのと与えるのとは違う」
この言葉は非常に難しい。
現代人は「不愉快なもの」に対して過剰反応する性質があるので、「不愉快なもの=尊厳を傷つけられた=魂を傷つけられた」という論法に摩り替わっていくのです。
ロジックの飛躍なのですが、この手の飛躍は「日常茶飯事」になってきています。
他者への配慮よりも個人の利益優先で成り立っておりますから、「魂の傷を教える」というのはいかなることなのか、これは作者側の葛藤ですが、やはり作り手としては悩むところだと思います。
そして作品を受け取った側にとっても「魂の傷とは何か」を考えて欲しいところなのですが、これは各々の感想や感受性に任せるしかありません。

現実の世界は世の人々が言う美談とはかけ離れていて、結構魑魅魍魎の世界。
権力とかお金とか関わってきて、大きくなればなるほど、もう酷いものです。
裏切りや奪い合いや巧妙で狡猾なやり取りなど当たり前。
他人への思慮分別など策謀に巡らされるわけです。

私も「臭いものに蓋をし続ける」ことが、いずれ大きな社会的な損失として表出してくるのではないかと考えています。
海越えたら日本の理屈なんて存在しなくなるのだから、人間のありのままの姿をいかに議論できる状態にするか、議論をしあえる自由な空気を作れるかが、成熟した教養を持ち合わせた社会へと発展する鍵だと思うし、しっかりした大人を育てる社会的な度量だと思います。

蛇足なんですが、京大には約7000円コースディナーを出すレストランがあって、ちょっとびっくり。
洒落てるね。
無料で講演開いているみたいなのでちょくちょく顔出したいな。


追記:
講演が始まる前に『悪の教典』の映画の予告編を流しておりました。
講演ポスターにも単行本が。
そしてこの講演のタイトルに絡めて話したという流れなのですが、「ぜひ買ってね!」ということですね。
わかりました。買います。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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