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あさかぜさんは見た

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11/24

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2024

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04/18

Wed

2012

「自分ひとりで作っている」という錯覚が起こしがちなこと

「海は海だけで成り立っているわけではない」
この言葉はコンブ・ワカメなどが不漁になったとき、ある漁師が「山の栄養分が海に流れ込んで初めて昆布は育つ」ということに気がつき、植林などに力を入れたエピソードからの言葉だ。

元々事業主と雇用者どちらが優先的な権限を持っているかと言うと、もちろん事業主だ。
だからこそ使われている立場では、よほどの組織の有利になることではない限り利益を阻害する活動は許されない。
つまり「文句を言うなら代案を出せ」というのもここにあるし、稼ぎもしないのに権利を主張するのはお門違いであって、会社にも資金という体力があるので、これらの範疇を超えてくるものは用済みとせざるを得ない。
誰かの世話になっているうちは、その世話している人間の口出しをたくさん受けるし、その人物の意見が理不尽であろうとも優先されがちなのは言うまでもない。
簡単に言うなら「文句言うくらいなら自分でやれば?」という話になってしまう。

ところで、製作者はとても孤独だ。
例えば私の場合文学活動をしていて、1ヶ月、長いときは3ヶ月だって平気でこもってひとつの作品を書き続ける。
その間はほとんどずっと一人でこもりっきりでやるわけだから、当然ある種の独自性を持ってくるし、悪い言い方をすれば独善的になるのはしょうがない。
そして錯覚しがちなのは「自分こそが一番働いたので自分こそが優遇されるべきだ」という意識だ。
この意識は自然と芽生えてくるし避けられない感情だろうと思う。
大物であろうと素人であろうと、よほど自制的であり自省的な人間でない限り、どんどん育ってくる感情でもある。

出版、特に出版ではなくとも組織を絡めて世に何かを発表する場合、自分が思っている以上に多くの人間が関わっている。
それこそ水道ガス電気と同じようなもので、そのライフラインを保つのにどれだけの人間が関わっているか想像できないのと同じだ。
なので例えば私が著作物を出したとき「私こそが利益を被るべきだ」と考えがちだし、編集者は編集者で「私が編集しなければ作品は磨かれなかったので利益を……」、会社は会社で「こちらが金を出して、すべてをまかなっているので、出資者が一番利益を……」となりがちである。
そうしてこの経済社会は、お金に関わる人間たちは、自分たちの利益が少しでも増えればよいと欲を主張する。
欲を主張しなければ他者に侵害されてくるのだから、防衛策としても権利と主張は繰り返す。
ここで共通する意識とは「自分が欠けたら成り立たないだろ」という自負心と自尊心だ。

元々芸術とパトロンの関係は古今東西根深く、パトロン、つまり出資者のオーダーや力に従って世の傑作は作り出されてきた側面は強い。
生活に安心できなければ芸術活動は続けられないので、自分の描きたい絵も我慢して大衆向けの絵を描きまくっていた、という絵師だって珍しいことではない。
そのような経済的な事情から解放されて自由に芸術に専念している人間は、よほど芸術の神であるミューズの加護を受けているのだろう。

昔は人と会わなければ物事が進まなかったが今は分業化が進んで各々の仕事をこなして、あとは投げっぱなしにすれば、組織化ができているところなら物事は進む。
なので余計に独善的になりがちな環境が揃っている。
権利と利益を主張する時「我こそが利益を……」と考えるようになるのは当然だと思う。
特に将来に対して不安を抱いている人間ほど主張するだろうし、不安感からもまくし立てたくなるほど主張したい気持ちも湧き起こってくるだろう。
そんな中、自分のキャパシティー以上の権利を持ちたがったり、主張をして、結果として果実を得ても、自分で消化しきれないばかりに、そのほとんどを腐らせるということをやりがちなのも、強欲が招く悲しい結末だったりもする。
大体自分で全部やっていないのだから、自分がさばくことのできないことまで抱え込み、結局は両手で抱えきれない状態、「手が足りない状態」になっていることにも気がつかず、零れ落ちたものを自分の足で踏みつけてはいやしないだろうかと権利と主張を繰り返す人間は少し考えて欲しいと、ここで勝手に思うわけです。

権利のことで言うならば著作権は時代とともに変化してくるし、うまく回らなくなるシステムは変化させていく必要がある。
「我こそが」と主張すること事態は悪いことではないが、これからの時代ネット化が進み電子化が進むのだから、よほどの自信があり組織化の能力があるのなら「我こそは」と主張すればよいと思うし権利も持てばいいと思う。
結局は自分でこなせない限りは宝の持ち腐れだし、いずれにせよ「儲けたい」のならば1000人規模以上の人間を巻き込まない限りは立ち行かないのだから「自分ひとりでやっている」という意識はこれから先内省的に見ないと、思わぬところで乗り換えられたりして泣きを見るだろう。

電子という脆い空間ではあるが、芸術家にとって昔の人間から見たら前代未聞の好条件が揃ってきている。
一度自殺した芸術家だって、また生き返りたくなるほどの。

後は道具の使い方とプロセスの問題だけになる。
本当に自分ひとりでできるのならやればよいだけの話。
その条件さえも揃っているのだから。
もしできないのなら自分にこそ優先的な権限があると考えるのではなく、あくまで協力的な気持ちでいないと、思い描いた錯覚のどつぼにはまって、やがてジリ貧になる。

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04/17

Tue

2012

著作権を失った詩のサイト

名詩の林

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03/30

Fri

2012

ジョン・ケージ 前衛的過ぎて前のめりになる

朝から前衛的過ぎたジョン・ケージ。
初めて知ったけれど、はてさて酷いと取るか、素晴らしいとするか。

NHKBS朝6時からのクラシック倶楽部でたまにモダンクラシックをやっているけれど、いつも刺激になる。
というより、街の中の滅茶苦茶な状態の音に囲まれている自分は、時折優雅なクラシックよりもずっとしっくりくることがある。
さて、そのBSではやらなかったけれど、ジョン・ケージの代表的作品「4:33」をご覧いただきたい。











むしろ馬鹿にしているのかという具合の沈黙。
何もせずに終わる。
オーケストラでこれをやってのけるのは、ある意味凄い。

私は途中で不安になった。
自分を炙り出された感じ。
一分少々でもう耐えられなくなるのだから、これが自分の集中力の限界なのだと気がつく。

この「4:33」は「音楽」ではないかもしれないけれど、ひとつ気がついたことは、目の前に楽器がある、オーケストラも指揮者も演奏者もいる。
だったら絶対音楽を奏でるだろうという前提で私たちは座る。
そして「聞こうとして待つ」わけだ。
つまり私たちは「意味を前提にして動いている」ということがわかる。
その「頭の中で思い描いた通りの意味」が目の前で起こるであろうことを前提として物事を受け入れようとするわけだ。

これがジャングルだったらどうだろう。
「目的」を前提として動くのではないだろうか。
野生では生き残ることが最優先される。
食料を探す、新しい水場を探す、地形を知る。
「生きる」という「目的」のために行動する。

今度は現代都市の中では仕事がありお金が定期的に入る環境下ならば「生きる」ことは既に担保されている。
その「生きる」という空間も様々なシステムや人間の思考によってカスタマイズされている。
つまり「意味」が最優先され、その「意味」を「飲み込むか」「飲み込まないか」という前提で物事が成り立ちだす。
「意味」があって、初めて「目的」が出てくるのです。
だから当然その人間の思考で理解できる最小単位の中に「行動」が納まっていく。

「意味を共有する現代空間」に対して「4:33」は「意味」も「目的」も打ち砕く。
何のためにオーケストラを前にして4分33秒も黙って座っていなければいけないのか。
しかも目の前には「ルール」だけが存在している。
つまり「演奏中は静かに聴く」という「音楽を聴くときのルール」だけがある。
「目的」も「意味」もないルールって一体何なのか。

ルールを強いるならば、目的か意味か、どちらかが与えられるべきだろうという気持ちになる。
とにかく人間は「感じるものに何らかの意味や目的を与えたがる」という心理を炙り出すわけですね。
無音であろうとも何も感じずにいようとも、究極的には「無我の境地」があるわけですが、そんなもの常人が辿りつけるような境地ではないので、生活空間内での自分のリズムや考え方や行動の癖が、ひとつの「ルール」を前にして炙り出るというのは面白い反応でした。

これはピアノでよくやられるようですが、むしろオーケストラの方が威力があるし、楽章の休みまでの微妙な感覚が嫌な居心地の悪さを覚えさせます。
この「居心地の悪さ」が、自分の中に勝手に渦巻いている「モダンの意味とリズム」であるとするならば、我々は本当に「現代の意味のリズム」に巻き込まれ、そして心をそこへ投げやったまま、取り戻せずにいるのではないだろうか、というのが私の今回の感想です。

ここから日本の小説ははたして「モダニズム」を本当に経験したのだろうか、という疑問と、当然「モダニズム」を経験しつくしていないのだから「ポストモダン」などあろうはずがない、というのがひとつ見えてくることであります。
そういう意味では日本の小説は一世紀ほど遅れているのかもしれませんね。

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03/27

Tue

2012

生きる価値ってありますか

ずっと書き込みが決着つかないスレッドがあり、「生きる価値ってありますか」という質問に、誰かが代わる代わる書き込んでいく。
2,3年経ってもまだ書き込まれているし、おそらくそこが終わったとしても、また別の場所で別の誰かが同じような質問をするだろう。

この年になってわかってきたことがある。
精神的に強い人間と弱い人間は確かにこの世にいて、強い人の理屈、よく言われる「やればできる」というような「行動で精神的肉体的に高揚・ステップアップさせていく方法」、つまり「体育会系」の理屈では、どうしてもついていけず、体と精神の調子を壊してしまうという人がいる。
ツイッターでも松岡修三botがあるけれど、ああいう論調のが毎日横にいると、たちまち体調崩す人がいるということ。
場合によっては、死もある。

そもそも精神的肉体的ペースと力の入れ具合の違いを「強弱」という言葉で表現するべきではないが、この資本主義社会、近代社会を維持しているのは、日々働いている人たちであり、社会は当然その人たちの理屈で動いているわけである。
単純に言えば、の話だけど。

そんな社会を動かす人たちの理屈が、とても苦しく、生き辛さを感じさせ、最後には死を選ばなければいけなくなる人たちもいる。
死因としては「うつ病」に近いものが圧倒的に多い。
よく「社会のシステムが」とは言うが、結局突き詰めれば「人に対する接し方」の問題にもなってくる。
システムがどうあろうと、人に対して優しくすることぐらいはできる。

ほとんど全年齢高い数値なのだが、特に中高年の自殺者が多い。
「人生もう行き詰った」「これ以上生きられない」
打つ手がなくなれば頼るものなく死んでいく様子が見て取れる。
断定はできないが男性の自殺者数がずば抜けて高いところを推測すると、この日本社会が「男の理屈」によって支配されているのではないか、とも私は考えてしまう。

生きる価値を見出せなければ、死ぬことに直結していく。
価値という概念を見出せなければ、存在意義さえも失っていく。
ある意味恐ろしいなとも思う。

生きる価値ってありますか。
その問いにたとえ答えがなくとも、誰かに言えるようなことがあろうとも、すべてその人の「哲学感」だ。
そう、答えがなくとも、それでいいのだ。
年齢によっても変わるし、私の日記なんて、私自身が30年後に見たら、卒倒して「なんてくだらないやつ」と罵るほどのことを書き連ねていることも承知しているが、その時にはその時思っていることが自分の正直な気持ちであり、自分に対する生死観なのだと思う。

特に他人の言葉をいくら求めようとも最終的に気持ちに決着をつけなければいけないのは自身だし、当然それは言われずともわかっているだろう。
そして精神的にきついときは「期限を設けない」というのが大事だ。
社会ではさまざまな区切りを設けて、どうにもそこについていけない、自分の体が、お金が、と様々な数字や価値観に区切りを強制的につけられる環境にあるが、最低限の生活があるのなら、期限を守れなかった自分を責めてしまうのではなく、自分のペースにゆったり合わせるのがいい。

比較対象にされながら、自分も自然とその漠然とした強迫観念の中にありながら、人を、自分を責めてしまうが、それは本当に正しい見方なのだろうかと思うところが多分にある。
人間に対する正しい見方とは、一体どういうものだろうと、よく考えるわけだ。

自分も「価値概念」の呪縛から逃れるには相当時間がかかったけれど、つまり「日本社会での考え方も、ただのひとつの基準でしかない」と行き着くには、かなり「自己の確立」が必要だったし、おかげでこのような偏屈で少数的な人間になってしまったけれど、これはこれでいいやと思っている。
だってやっぱり社会のスピードにはついていけなくて体調壊してしまうのだもの。

前向きな言葉、楽天的な観念、それが通常の人間には必要だけれど、暗闇にひっそりいるような気配が必要で、光の強さには耐えられない精神状態の人だって数多くいるということは、よく経験させてもらった。
人を前向きにさせる言葉が、その時には毒になる。
死に至らせるほどの強い薬になってしまうことになることもある。

人間が価値を決めなくとも心臓は動くし、よほどの鉄の意志を持たない限り、食わず飲まずはできない。
本能として生きたがり、思考として死にたがる。
ちぐはぐな辛さを抱くから、ネガティブなことを言うと落ち着く。
そういうのもすごくわかる。

逆に誰かに認められたい、褒められたい、抱きしめられたい、もっとわがままに生きたい、欲望からくる苦しみもあるだろう。
欲望がとことん否定されて価値を見失う。

人の悩みは尽きない。
自己矛盾にどこまでも苦しむ。
いいじゃないか、価値を無理やり見出そうとしなくたって。
そして誰かの中に自分の価値を認めさせようとしなくたって、十分生きていけるし、もしどうしても価値を作りたいのなら、ごみ拾いでも始めればいい。
花壇でも作って花を育ててみるといい。
そんなたいしたことなさそうなことでも、尊い価値になる。

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03/27

Tue

2012

技術は常に示唆を与える

※結果的にグダグダになったのでメモとして記録。

受け売りの言葉だが、なるほどと思った言葉がある。
それは、
「道具には二つの側面があり、一つは人間が使用して道具に目的を与える面と、もう一つは道具の形状や性質などにより人間が目的を見出す、ということだ」

前者の場合、小枝を切るために使い続ける刃物、サバイバル用も含めると、時として動物をさばくこともあるかもしれない。
そんな風に使うことによって道具に目的を与えている。

後者の場合、本来はまな板のように使っていたつもりが、ものを叩くための板になり、そのうちすりつぶすようになり、板では足りなくなったので、すり鉢のようにする、ということだ。
そこまで進化しなくとも、動物を殺し食料を確保するための弓矢が、人間同士の勢力間での食糧確保のための暴力的手段になる、ということだったりもする。

asahi.comに

映画館向けのフィルム映写機で国内最大手だった日本電子光学工業(東京都豊島区)が、東京地裁から破産開始決定を受けたことが26日わかった。


とあった。

つまり、デジタル映写機に押されて、フィルムの時代はひとつの区切りを迎えたということだ。
昔からの映画愛好家からすれば、何か心の中のノスタルジーを失うというか、それこそ「ニュー・シネマ・パラダイス」のように、少年時代の心の中のフィルムのシーンが遠いものになってしまった切なさはあふれてくるだろう。
その上で新しい時代に飲まれていく。

技術は進歩する。
一見関係のないような文学の世界でも、従来の視点からはシフトしなければいけない時期に入った。
少しずつではあるが新しい試みはなされてきているし、「フィルム映写機愛好家」のような人間がいる限りは、進歩はどうしても遅くなる。
さまざまな試みがなされるであろうが、私はひとつ流行る手法としてバルザックの「人間喜劇」のような人物(もしくは世界観・テーマ)を関連付けていき、ひとつの「シリーズ」として郡を作る手法は鉄板としてやられるようになると考えている。
「人物再登場法」のより進化した形というわけですね。
今までなされてきていなかったわけではないが、もっとわかりやすいような関連性を組んでくると思っている。
そして、シリーズ化されたものは、コンテンツ同士の垣根を越える。
今DeNAが運営している無料携帯小説サイトE★エブリスタでは、人気のある携帯小説をピックアップし、出版化、映像化も含めて展開している。
そしてクリエーター応援ご祝儀システムのようなものも取り入れてきている。
人気のある作家さんを応援して後に換金できるポイント付与プラストップページ作品露出という具合に「より埋もれているクリエーターが頑張ろうかなという気持ちを起こすシステム」を作ろうとしている。
続くかどうかはわからないけれど、うまいシステムだと思う。
こんな例からも「システムが作家を変え、変わった作家が新時代の作品を作る」という具合になってくる。

ユーザー側から見たデジタル時代のコンテンツに対するひとつの性質とは「好きなものだけ見る」ということだ。
もっと酷く言えば「全部見なくとも好きな部分だけ切り取って見て楽しめる」という、個人の事情がより優先される。
この流れは技術的に仕方がない。
文学だってたらたらと時間をとって、楽しくないんだか楽しいんだかわからないという不透明な作品は絶対買われないし、興味すらもたれないということになる。
だから紙の本でも「ニーチェ」の、やたら簡略化してすっぱ抜いたような本が受けたりするのだと思う。
現在の中年の世代でさえこの通りなのだから、若い人ならよりダイレクトに目的に到達したいだろう。

技術が進歩し、徐々に変化を加えていく。
技術は道具として目的を示唆しているから人間がその利用方法を選んで作り出している。
デジタルの時代が人間にもたらす錯覚は、「思い出も編集できるのではないか」ということだ。
常に便利になっていく。
そして自分の好きなコンテンツに触れられて、いくらでも好きなパートだけを楽しめる。
デジタルネイティブの世代は「個人が記憶と情報の編集者」の時代になる。
そしてそこへと人々の思考や技術や展開が多く費やされるようになると、また新しい世代が生まれてくる。

そうしてよりお金を払ってくれる人の元でコンテンツは常に成長する。
この「芸術や技術」と「お金」の関係は、天地でもひっくり返らない限り、変化しない。
これを覆せたら本当の人類上の天才になれる。

さてしかしだ、よく「芸」という言葉を考える。
「そこに芸はあるか」
逆に言えば「芸のないことをするのは芸に携わっても何も生まない。焼き直ししかできない」ということでもある。
人に受けるものだけを作っていたら、やがて強気の手を打てなくなる。
ジリ貧になるからだ。
多様性を摘んでいく、選択肢を狭めていくのだから、ジリ貧になるのは言わずともわかること。
思考だって硬直化して、いざという時のシフトが頭の中でまったく組み立てられなくなる。
でも資金を確保するための「鉄板芸」は必要になる。

どこに中心があるかといったら「鉄板芸」であって、新しい試みは、必然的にその周囲になるか、もしくは博打上等で突拍子もないことをするかになる。
今の携帯小説を楽しんでいる子たちだって、より難しい作品に挑戦したがるのかな?と多少疑問を持ったりするけれど、段階的な道筋は作っておいたほうがいい。
技術や道具はその道筋に変化を与えるだけで、人間の根本的な部分は変えない。
道からそれれば迷子になるが、道を作ることは忘れてはいけない。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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