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あさかぜさんは見た

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03/23

Fri

2012

思考がめちゃくちゃ

先日ツイッターで日本の労働環境はおかしい。
家族よりも会社を優先させなきゃいけない風潮は既に体質として狂ってる。
そういう話を読んで、思い出したことがあった。

何年か前にじいちゃんの死に目にあったのだが、その時派遣でコールセンターに勤めていた。
シフトはしっかりと組み込まれていて、一度決められると誰かに代わってもらうことでしか融通がきかない。
そういう事情はわかっていながらも、医師の「ご臨終です」の言葉を病室で聞いて、すぐに電話。
その時「祖父の葬式で明日休ませてください」と伝えると「代わりの人いますか?」と開口一番言われた。
「お悔やみ申し上げます」の一言すらも、その電話では出てこなかった。
世間知らずの自分でさえ驚いた。
普通は言われないものなのか、身内の死亡すら「通常の休暇願いと同じ扱い」なのか。

そのツイッターの中でも「よく役者とか身内が死んでも舞台をやるけど、褒められたものじゃない」と言っていた。
そりゃそうだよね。
身内の死は一度きり。
ましてやきちんと葬儀にすら出ないとか、通常の神経じゃないし人間性が欠如している。
そんな「お客様中心主義」のために人間性を犠牲にしなければいけないのは、つくづく間違っている。

でもそんな強迫観念を与えているのも「消費者」だったりする。
もちろん「数字」を厳密に計算して求める経営者などにも言える。
どんな生産者であろうとも消費者にまわるものだけれど、一度消費者の立場にまわると、「払ったお金以上の対価を得ようとする人」が多い。
つまり通常意識はしていないが、その分「相手から利益を奪っている」ということに気がつかない。
そのことが巡り巡って自分たちの生活に響いてくる。
その時には「自分の行動が積み重なって今の状態になっている」とは思いも寄らないものだ。

最近どうにも苛立っている。
思考がめちゃくちゃで定まらない。
久しぶりに昔のことを思い出して、酔った勢いでメチャクチャにぶちまけてきて、支離滅裂な話を繰り替えした。
思考力がぶつぶつと切れて、何を話そうとしたのかも忘れる。
本当にひどい状態だった。
そういう状態で人と話そうとすることもひどいし、話しながら「まだ自分の中では完全に消化しきっていないものがたくさんあるのだな」と感じた。
何を見つめていけばいいのかもわからなくなりそうだ。
とにかく自己嫌悪。
今日は心の中で必死に謝っている。

そうやってぶちまけて、ようやく落ち着いてくる。
ムラムラと苛立ちが湧き上がってくる中で、落ち着かせようとする。
何か変というか、抜けきらない膿のようなものがあるのだな。
自分が一度でも突き抜けられれば、決着がつくような数々の問題。
愚痴っている場合じゃないのはわかっているけれど、人は気持ちにどこまでも揺さぶられる。
いや、自分が脆弱な精神を持っているだけの話なのかもしれない。

追記:
そうだ。
「自分は苦労しているから」という話を持ち出して、人に対して「こうしろ」というのは、いくらなんでも横暴な話で、そういうことをしてはいけないし、きちんと相手に配慮していくというのは、押し付けることではなく、うながすことなのだ。
つい自分の価値観から、「〜しなければならない」という論調で相手と話をしていた。
そういう癖は直さないといけないし、逆に「〜しないから、こいつはこう」なんて見方も止めなければいけない。
そうじゃなければ押し付けがましすぎるし、当然そのような押し付けがましい話に他人は価値を感じないのだ。
こういうのは普通の対話のみならず話作りの時にも大事になってくる。

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03/21

Wed

2012

ゲームでも同じ競走の社会

競争という言葉から思い浮かぶのは、よく「走る」ことが思い浮かぶ。
でも社会はあらゆる場所で競争しているといっていいし、知らぬ間に飲み込まれて世の中はまわっている。
それはゲームの社会でも同じだ。
単純に自負心や利己心や射幸心を満たすために動いていてわかりやすい。
その中で余裕のある分だけ他人へ施しをしようとしたり、余裕のある分商売をしようとして、自分が儲けようとする。
思えばゲームは人間が決めたルールにのっとってやるものだが、ルールにのっとってやるプレイ自体には制限がない。
何をしてもいい。
だからたかがゲームといえども露骨に性格が出る。
例えばランキングにのる人間の100位と101位の違い。
トップ3などになると、次元が違ったりするが、少々競争原理が働いていて、かつ100位までは、ある資格が与えられ、それ以下は与えられない、という条件の場合、この100位と101位の人間の違いはなんだろう。

思えば自分は競争や誰かに比べられるのが大嫌いで、そのプレッシャーであたふたする状態からなるべく解放されたいと思ってきた。
実際、田舎暮らしのような、のんびりした生活の方が体質に合っているのかもしれない。
ただ自分は芸の道を選んでいるわけだし、当然「他人と自分は違う」と主張したところで、比較されながら価値が決まっていくのは言うまでもない。
トップの競争集団から振り落とされる人間はどんな心理でいるのか。
少なくとも自分は「これで大丈夫だろう」という勝手な安心をして、自分へ妥協を与えていた。
上に行けば行くほど、犠牲にしなければいけないものが多くなり、脱落すれば資格を失うのだから、実力の世界は厳しい。

人生は妥協が損を与える。
完璧などというものは存在しないし、完璧という幻影に怯える必要もないが、「妥協の技」は本当に百戦錬磨の老練ができることで、つまり場数を踏んで修羅場をくぐり、自分が入り込んでいる領域の原則を知り尽くし、そして自分の能力を遺憾なく発揮できる人間にだけ、初めて力の程よく抜けた行動ができるわけであって、若いうちから、体力のあるうちから「これでいいや」だなんて力を入れないでいると、逆に力をいれるべきところも見失うということだ。
だから古人は「かわいい子には旅をさせろ」と言った。
冒険させてやらなきゃ、世の中の渡り方だってわからないじゃないか。
どこで力を入れて、どこで休まなきゃいけないのか、その術がわからないじゃないか。
きっと、こんな意味で言葉を残したのだろうと思う。

中途半端に力を入れて頑張ると、損をするものだけが大きくなる。
だからこそ負けつづけ、負け癖がつき、行動が消極的になる。
一度この癖がつくと這い上がるのは難しい。
100位以上は価値があり、自分が109位だったら、どれだけ100位に近くても価値は認められない。
本の少しの差。
水泳だって指一本の差、競馬なら鼻差など、本の少しの差でも「実力の差」となり「トップ」と「トップではないもの」に振り分けられる。
残酷な話だ。

芸をやるからには、そういう残酷さの中にいる。
人の世を渡るには不条理さの中で栄光を掴み取らなければいけない。
2位では価値はとことん薄れ、もしかしたら2位への妥協が見事に人生の転落を呼び込むかもしれない。
価値をとことん薄めさせるかもしれない。
自分のベストを更新しつづけ、自己記録を塗り替える。
誰も評価してくれなくとも見逃せない前身をつかまえつづけなければいけない。
たとえ無価値だと言われようと、しがみつくべき客観を大事にしなければ自分を見失う。

ひとつ面白い言葉を覚えている。
「博打って自分で決めたルールを曲げ出すと、とことん負け出すんですよ。だから、最初に決めたルールをどれだけ貫き通すかが大事です。そのルールの中で転落したり上がったりする」
ご存知の方もいらっしゃると思うが「アカギ」や「カイジ」の作者福本信行氏だ。
「人生なんて不条理なのに、いつまでも不条理さを受け入れようとしない。だからダメになる」
うろ覚えだが、インタビューでこんなことを言っていた。

どうしても自分の場合、自分のペースが崩れ出すとミスが多くなる。
これは性質として避けられなくて、今までほとんどこれで失敗してきた。

自分のペースをどれだけ安定的に保てるのか。
ルールの中で、どう実力を発揮するのか。
きっと、その力の入れ方を、私はまだまったく知らない。
いや、その前に原理を理解していないのだな。

わかってますわかってます。
負け癖がにじみ出ている文章だってことも。
だから書いて認識しているのです。

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03/15

Thu

2012

月額課金で見放題 さて電子書籍はどこで稼ぐか

Youtubeに映画が一本まるまるアップされていた。
申し訳なさを感じながらも見てしまった。
映画には何億というお金がかけられている。
その莫大な予算と労力を少しだけ考えられるようになった作り手の側の立場からすれば、違法アップロードされたコンテンツへ「もっと見たいのでアップしてください」などというコメントには複雑な心境がわく。
自分もちゃっかり見たから同罪なのにね。

テレビでスマフォで月額500円ちょっとで5000タイトルの映画見放題という宣伝がやっていた。
コンテンツはどうしてもこの方向で、つまり「月額課金で見放題」へと時代は突き進むだろうとは感じながら、「一体どこで製作資金と、次作への余剰資金を得るのだろう」と考える。

コンテンツは「元手を回収しただけ」では、どうしようもない。
当然才能は作りながら積み重なっていくものだし、「次回の作品も期待します」と言われながらも次回作へ必要な資金が確保されなければ作られることはない。
ここら辺の感覚は「見ているだけの人」には、とことん欠如してくる。
身銭を切って物を作るということをしたことがないなら余計に欠如する。

もっと莫大な資金をかけなくとも作品が作れるようにミニマムな製作が好まれるようになるのか、それともあらゆるメディアミックスをしながら垣根という垣根が取り払われ巻き込んでいくのかはわからない。
いずれにせよ、お金を得られる瞬間というのは「いかに鮮度の高い話題性を呼べるか」にかかってくるのかもしれないと薄々感じている。
例えば「ライブ」であったり「今旬の俳優の最新作」「ドラマのスピンオフ」など、現在進行形で、かつ「誰かと話題を共有する時に古くさくないこと」が最も大事なことなのではないか、と感じた。
カラオケを歌うとき、結構大事なのは「場が盛り下がらないこと」だ。
歌われた分だけ権利者や作者に支払いがいっている。
歌う方の選曲で気を遣うのは「場を共有している」ことにある。
ソーシャルの大事な点も「場を共有している」ところにある。

アメリカの映画館に行くと、日本とはまったく違って、観客が劇を見るように反応する。
見せ場には「ヒュー」と盛り上がり、悲しい場面には「オー」と悲痛な声を出す。
ちょうど日本で言う歌舞伎の観客のように画面に向かって反応するのだ。
それは文化の違いと一口に言えばそうだが、「場を共有できる準備」が「観客」にも「作り手」にもできているということだ。
「場」というのは「両者の完成された空間」にしか過ぎない。
作り手にとって、この理屈は別に目新しいものでもなく、昔からこんこんと受け継がれてきたものなのかもしれないが、やたらと「ソーシャル」なのなんなのと、どうも変な理屈で現代風こじつけをされるようになってきてしまったのかもしれない。

さて場を作り上げるには観客も訓練されなければいけない。
個人的な信条や思想が作品の価値を大きく左右する本となると余計に難しくなるかもしれない。
どのように本を持ち寄った場を作るために訓練しなければいけないのか。
その試みは、どうやらあまりなされてきていないようである。
バラバラに存在し、そのバラバラを持ち寄って「商品の客観的な価値」を作るところまでは来ているが、バラバラを新たに再構成して価値を作るという新しい領域が出来ている人は少ないし、むしろそれができている人はうまくやっている。

もの凄くプライベートな感想を持ったとする。
でもそこで人に言う時、日本人が一番怖がるのは「場の空気を乱すのではないか」「自分が的外れなことを言っているのではないか」という「不和」だ。
違ったものに対して意見や感想を述べるというのは、よほど勢い余ったときぐらいしかない。
スムーズな場を作る上でやはり大事なのは、いかに会話や対話を繰り返してきたか、というところに落ち着く。
発言しやすい、参加しやすい雰囲気作りと場を作り込む力。
いくら人が来ても、これがなければ場として機能しない。

そして場として機能し始めて、ようやく本は売れるような気がしている。
落語やジャパネットでさえ言っていた。
「昨日の話題、例えばスポーツの試合の結果などを一言でも盛り込む。すると生放送だという臨場感が出てくる。これを伝えることが大事だ」と。
ということは「いかに鮮度の高い場を作れるか」にかかってくる。
そしてそれは「本」ごとに違うし、そのバラバラの本は「作者」や「ジャンル」といったカテゴリーでくくられる場合もある。
「鮮度の高さを感じられる場を作る」ことは、各々のブランディング力次第なのだろうけれど、共通した答えのこの課題を、いかに自分の持っている作品と絡めながら作れるかが勝負どころなのだろうなと考えている。

既に「パッケージを売る時代」から「パッケージの周縁を作り込み、売っていく時代」を越えて、さらに「周縁からパッケージをカスタマイズする時代」になっている。
次はおそらく「パッケージとその周縁の相互カスタマイズ」だろう。
具体的な言葉を言うならば「観客がコンテンツにより直接的に関わる時代」となるはずだ。
その方向性でなければ、死滅すると私は見ている。
そして作者に求められる資質は「ライブをこなせる実力」であり、売り手に求められるのは「ライブ会場のセッティングを演出する」ということだろう。
「セルフブランディング」となると、この両方をこなさなければいけない。
そして初めてコンテンツが動き、売れるという時代に完全になる。

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03/12

Mon

2012

SHAME -シェイム-



久しぶりに頭をフル回転させました。
そして何年かぶりに劇場で見たいと思った作品。
映画を見て一つ気がついたのは「ああ、ハリウッド映画ってなんて饒舌だったのだろう」ということだ。
饒舌な映画というのは、とにかく喋る。
シーンを説明するために、何が起こっているのかを観客に考えさせないように、とにかくスクリーン全体を通して「喋り続ける」。
だから売れ筋のハリウッド映画というのは、考えなくてもいいし、余計な思考回路を使わなくていい。
だからこそ、この映画を見て、人により様々な解釈を与えるアプローチがとても久しぶりに思えた。
ああ、こういう映画も出てくるものなのだな、と感動した。

内容は成人もの。
最初からマイケル・ファスベンダーのイチモツが出てくるような裸のシーンがドーンと出てくるし、セックスシーンも多く含まれている。
この映画の一番特徴的なところは「饒舌ではない」というところだ。
例えば「この台詞が成り立っているのはどうしてか」「このシーンが成り立っているのはどうしてか」という仕掛けが随所にあり、そこに観るものの様々な憶測と解釈を生む。
饒舌なハリウッド映画に慣れている人は見ても、やたらとセクシャルなことしか出てこないように思えるかもしれない。
そして「疑問を持って初めて観客として成り立つ映画」なので、様々なことが明示されず、解釈できなければつまらないと思う。
何が起こっているか饒舌には説明してくれない映画なのだ。

マイケル・ファスベンダーが演じるブランドンは「セックス中毒」とあるが、部屋でポルノビデオを見たりビデオチャットセックスもするし部屋だけではなく会社でもパソコンの中はポルノ映像でいっぱいでトイレで自慰をするくらいだから相手がいなくとも「性的な刺激」がないと、どうしようもないような主人公。
この映画でヴェネチアの男優賞をとっている。納得。
私は男性だったのでちょっとわかる部分があるのだが、男性が「過剰なセックスをしたがる」というのは多くは「フラストレーションを抱えている」ことがあげられると思う。
フラストレーションの発散の手段として性的な刺激を欲しがる。
だが埋められない。
問題の根本を解決しているわけではないから。
部屋に上がり込んでくるシシー役のキャリー・マリガンも宣伝だけ見たら「娼婦役」かと思ったら実の妹だった。
そして一番重要な点はシシーを最後まで肉親として扱うというところだ。
これがセックスをする対象になってしまったら何がなんだかわからなくなって、一気にこの手のセクシャル映画がやりがちなB級C級への脱落を果たしていたところだった。
このシシーもリストカットの痕があるのだが、やはりそういう細かなシーンを見ていくと「この二人の子供たちが育ってきた環境」というのもうっすら推測できるし、「傷持ちであり、兄とは反対の位置にいる不安定な身分の妹」から「仕事部屋を与えられるほどのオフィスに勤めていて、自分の部屋も持っている注意力深い、できた兄」を見ると、実は同じ「傷持ち」なのではないか、ということもうっすら浮かんでくる。
そうなると途端に「なぜ性的刺激が必要なのか」ということに切なさがつきまとう。
「同じ傷」とは何か。
繋がらないようで裏で繋がっているのは何か。
ここらへんは観客の解釈の多様性が生まれてくる。

全体的に映像が綺麗で透明感のあるシーンに彩られていくが、男として見ると「プライベート空間に入ってきた肉親の気まずさ」や「やたらと動画を探したり、女性を性的な対象として舐めるように見る」という主人公に感情移入してしまう。
妹に自慰を見られて絶望的な気持ちになり、お前の家じゃないのだから出ていけと切れたり、その怒りの勢い余ってポルノ雑誌や毎日動画を見ていたパソコンやアダルトグッズをすべて捨ててしまうとか、妹が自分の家で上司とセックスしだして、いたたまれなくて走り出してしまうというやり切れなさ、フラストレーションの発散の場を失い苛立ち、妹は性的な対象として見ないという、きちんとした区切りの中で身の置き場をなくしていくような心の乱れがよく出ていた。
何せ自由にコールガールを呼べたのが、妹がいるから全然呼べなくなるのだしね。

同じものを持っていながら対照的な二人。
部屋は小奇麗にしているが、心まではどうなのだろうとか考えてしまうし、とにかくいろんな意味で「危ない」と思ったのは「性的な嗜好」で「これよくアメリカで問題にならなかったな」という人種的なシーンまで入っているので刺激的と言えば刺激的だった。
主人公が最長で女性と四ヶ月しか付き合ったことがないとなると、何かふっと思い出すことがあった。
というのは、以前私自身「恋愛の過程」が好きで「好きになってもらったら興味を失う」という変な癖があり、「好きでいられる」ことが重かった。
人から好かれるということに違和感があったし、本当に好かれているのか疑心暗鬼に勝手に陥るということもあった。
人を愛せない人間はだいたい思春期などの多感な大事な時期に何らかのトラウマを負っていることが多かったり、愛された経験が圧倒的に少なかったりする。
リストカットをしなければいけない心理も、なんとなくわかるだけに二人の立場が非常に辛く見える。
自己嫌悪と愛情飢餓の中でもがくからこそ人をうまく愛せず、うまく付き合えない女性。
きちんと話し合いたいが溝は深まるばかりで、どうしたらいいかわからず、やっぱり自己嫌悪が爆発してしまうというやり切れなさ。
とにかく「やり切れない映画」なのだ。
そこにある程度の理解が及ぶかどうかが映画を楽しめるかどうかに関わってくる。

この映画に強い感想を持った女性がいるのなら、ぜひ語り合いたいと思いましたよ。


追記:
2012年3月14日
非常に鋭い視点のコメントをいただいたのでご紹介します。

今日観たのですが、非常に共感するところがありました。相手から与えられるものに対して性欲と愛の区別がつかない妹シシーと、愛することから自らを閉ざしてひたすら性欲を満たして日々をやり過ごす兄ブランドンは裏表の関係で、あからさまに異常な精神病患者などではなく社会に適合してそのあたりに普通に生活しているような人たち。愛と性欲の関係が現代ほど多様で混乱した時代ってなかったんじゃないかな。多かれ少なかれ皆シシーやブランドンのような当惑を抱えて生きているような気がします。(無記名)

実はこの手の女性は結構見てきて、昔精神が病んでいたころは、「メンヘラ」といわれるような女性とよく仲良くなった。
「愛される」ということに非常に敏感で、性的な関係が一度でもあると、そこに「愛情」や「恋」を見出してしまいのめりこむ。
一度「裏切り」のようなものを男に見出すと過剰に反応したり、とにかく相手の愛情が欲しく、執着がどんどんひどくなっていく。
「愛情」をくれない男にひどく当たったりするが、別れるとなると豹変してすがりつく。
これが男性になるとよくDVになり、別れるとき人が変わったように優しくなる。
そこまで精神が病んでいなくとも「愛情に手応えを感じない」という人間は数多くいるように感じる。
それこそ「愛情の種類を選び、自らも出せるものが限られてくる」という現代人の環境・スタイルや感情の間で成り立つ恋愛に多種多様な性癖も絡んでくる。
ストレスを多く抱えているし、性が商品化されてフラストレーションの捌け口とされている。
性と愛。
性の場合、本能だからどうしてもムラムラくるときがあって、そこに「愛情」など一切差し挟みたくないときもある。
だから「自慰」という手段があるわけで。
でもやはり人と接する快楽は自慰よりもいいわけですね。
そこに「愛情」を差し挟まないで、お互い「欲求の発散」と割りきれれば、これほど都合のいいことはない。
現代は性商品にあふれていて、性的な繋がりを持とうと思えばいくらでも持てて、「愛情」というものを紡ぎあって生きることの境目をきちんと持っていないと感覚的なものから境目が曖昧になる。
理屈ではわかっていても感覚的に感情が侵食されて境目が消えていくという現象が起こってくる。
そして性的なものに対して、ある種の抵抗が薄れてきている。
ネットではいくらでもあふれているし、若者にだってきちんとした性教育がなされていない。
日本でだって性がカジュアル化するという現象が起こっているくらいだから、この映画だって他人事ではない。
この手の映画は嫌煙されがちで、つい「ポルノ映画」みたく先入観が持たれてしまうけれど、本当にうまい脚本だなと改めて思いましたよ。

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03/11

Sun

2012

去年の今ごろ

確かバスの中にいた。
温泉地に向かう途中で、久しぶりの温泉を楽しみにしていた。
震災を知ったのは、夜につけたテレビだったように思う。
携帯電話のメール機能などがほとんど使えず、辛うじて電話が通じた。
北海道内だが心配になった母親が電話をしてきた。
無事であることを伝えると安心したようだった。

テレビをずっと見ていて何かができるわけではなかった。
ひとまずは温泉地に来たのだからゆっくりとリラックスして楽しもうと思った。
できることをする。
楽しみにしていたのだから、楽しむべきだと考えた。
もし身内がいたら、友達がいたら心境は少し違っていたのかもしれないけれど、それでも人には各々の日常と囲まれている環境がある。
地球規模で見ると人間には不条理さがつきまとう。

一年経って何か進めたかというと、どうにも居心地が悪い。
誰かのために何かしなければならない前に、自分のことをしなければいけない。
その自分のことすらまともになっていない。
動けやしない。
そして自分のことができたら、今度は支援してくれた人にお返ししなければいけない。
順番があり、その最初のやつさえこなしていない。

進まなければ、という思いが随分空回りしているようにも感じるけれど、それでも苛立ったり焦ったりしてはいけない。
そうして、進んでいかなければいけない。
思いだけ、ぽかんと浮かんでいるような気持ちだ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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