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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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03/04

Sun

2012

狂気と狂喜と凶器と

「きょうき」という日本語は色々な漢字に変換できる。
文章活動をしているけれど、よく「きょうき」という言葉を考える。
これを言葉の上で意識しだしたのは何でも鑑定団で伊藤若沖の紹介VTRを見たときからだった。
自分の中でしっくりとくるものがあった。
若沖は一年間庭の鶏をじっと見続けたという。
そして「きょうき」を見た。
宇宙を見た。
己れが鶏に宿って絵となった。


http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic43.htm


そもそも、芸の世界などまともではない。
まともではない世界からまともな世界へアプローチするようなものだと思っている。

伊藤若沖は鶏の中に「きょうき」を見た。
そして、現代に金魚の中に「きょうき」を見ている芸術家がいる。

"Goldfish Salvation" Riusuke Fukahori from ICN gallery on Vimeo.



深堀隆介。
http://goldfishing.info/about/kingyo.html

かつて私が山形を旅行したとき、確か酒田駅だったと思うが、庄内金魚がいた。



美しい尾びれが風に旗のようになびいて天女の羽衣になっていた。
凄い金魚があるものだと数分じっと見入ってしまった。
金魚など小さなころにお祭りで救ってきたものしか飼ったことがなかったので、別に興味があったわけでも詳しいわけでもない。
少し調べてみると金魚は人工的に生み出されたもので、自然の中にはないという。
つまり人間が交配させて生み出したひとつの芸術品だと言える。

水槽の中をひらひらと泳ぐ金魚を眺める日本人。
その中に何を見たのであろうか。
なぜ金魚ひとつにここまでこだわるのか。
美意識とはどこからくるものなのか。
最初に見つけた中国人はどうして金魚を作り出したのか。

芸術家にとって人生とは何を見て何を宿すか、なのかもしれない。
しかもその見るべきものは日常性の中に潜んでいる。
身近な自然の中にあるのだ。
結局は自然的なものを宿していき、それを突き詰めていくのだから、究極的なものは「宇宙観」になる。
自分を越えて周囲になり、周囲はやがて拡大し、そして見えないものへと近づいていく。
想像よりもずっと超え、妄想をぶち破り、そして現実と相対し苦悩し、さらに現実を越えると、「ゆめうつつ(夢現)」となる。
つまり究極的なリアリズムである「夢幻(無限)の世界」になっていく。
なぜリアリズムを究極的に突き詰めると夢幻になるかというと、時間の流れと人間の一生を比べればすぐわかることだ。
生は儚い。「人」に「夢」と書いて、「儚い」のだ。
芸術とは限られた生の中で宇宙を目指そうとする作業だ。
完全には成し得ないからこそ、成し得ようとする、神に近づきバベルの塔を建てるようなことをしていく。
それが本物の芸術家なのだと思う。
そこには「きょうき」が宿っている。

さて、私は文章に携わっている。
文章をまとめると最後には「本」になる。

ヨコハマ創造センター「天野太郎」氏の講演を聞きに
深堀隆介のブログ 金色ノ鮒 より

アートで生計を立てることは、批評と市場という枠組みが不可欠だといっていた。

批評とは、「この作品はこんな作品ですよ」と世に伝達すること、野菜の産地表示や、WEBで買い物する時のクチコミ欄みたいなものも批評だということ。

それを市場(ギャラリーや、美術館、コレクター)が紹介したり、売買したりする。それで、また作家が新しい作品を作る・・・・。

この仕組みは絶対に変わらない。というお話しは興味深かった。


この仕組みを考えれば、アートはビジネスだと理解できるだろう。


以上の文はこちらの世界にも言えることである。
まがりなりしも文筆活動を続けていこうと考えているのだから、どうしてもお金を取るということは考える。
あらゆる場所で従来の売り方が崩壊している中、デジタルの時代と向き合おうとしている。
今はその過渡期だ。

「本の性質」を考える。
視覚にダイレクトに訴える絵などに比べて本はといえば「閉じられて」いる。
「閉じられている」から、「開いた者」に「編集権」みたいなものが与えられる。
この「編集作業」も「伝達」の一種だ。
「伝達」が機能しなくなると開かれることもない。
それは本ができる前から始まっていて、本ができてからも続けられなければいけない。
それが「閉じられた世界」における「伝達」だ。
「開かれ」なければ「閉じられる」。
放っておいても「閉じられて」いく。
本は常に閉鎖的な作用をもたらしていく。
電子書籍の世界になればなおさら埋もれるので閉じられる性質は強くなる。

私たちはよく開かれるべきアプローチをしていくべきであり、その伝達の手段を日々考えている。
もしかしたら鶏や金魚もまた閉じられていくものなのかもしれない。
それを開き、表現し、伝達している。
書店がなくなる、新刊がどんどん出る、ネットにどんどん依存していっている。
私たちが身近に触れるべき「開かれたもの」が狭まっていく。

そこで「狂喜」を考える。
創造するとはある種の「狂気」と「狂喜」の伝達だ。
本はあらゆる段階で編集されるという。
本が出来上がった後でも書店の棚でも。
そして買われてから個々人の生活の中でも。

「伝達」には「きょうき」が宿らなければならないと考えている。
それはもうひとつの意味、「生物学で、神経繊維の興奮がシナプスを介してニューロンまたは筋・分泌腺などに伝えられること。興奮伝達。」を示すように、ある程度の刺激以上の信号でなければ伝わらないように。
ある意味、燃え上がっていなければ熱など伝わらないし、伝達など不可能だ。

私たちは「喜びのマッチング」を試みている。
自分が幸福だと思ったものを表現して何かを救いたいと思っている。
「伝える」ということの根底には、そんな衝動が隠れているのだと思っている。
「救われたい」と思ったらダメだ。
「救いたい」と思わなければ。
それじゃあ、「何を救いたいのか」が「伝達」する上で「伝えていく」上で大事なのだと感じている。

そこに「きょうき」は宿っているか。
芸術家が背負う命題だろう。
刃物は人を傷つけるためだけに存在しているのではないのだから。

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02/27

Mon

2012

人生の時間は限られている

若さってやっぱり財産なのだよな、と若い人と話しているとよく思う。
といっても、10年ぐらいの差なのだが、自分は10年間はまるまる出遅れているという気持ちが強いので、辛くとも悩みながら、それでも目標に向かっている姿を見ると、ああ、なんと素晴らしいことだろうと感慨にふけってしまう。

人間は理屈の上でわかっていることは何も分かっていない。
分かってくるのは実感として染み付いてきたときに、ようやく「こんなものなのかな」と深く感じ出す。
結局上っ面を撫でているようなものには、まだ中身はわかっていない。
情報だけ理解し、現象も理解しているようで、本当の仕組みにまでは理解が及んでいないということは情報がありふれているからこそ陥る錯覚だと思っている。
自分もまた、間違いを犯さないよりも、あえて当たって砕けろを心がけているのだけれど、理解などという言葉にはものすごく遠いところにいる。

そろそろ、死ぬまでの道筋を考え始めている。
人生の時間は限られているとは言うけれど、実際にそれを意識できている人は少ない。
私ぐらいの年だったら、まだまだ人生は続くだろうと考えているだろう。
私は自分のやっていることが失敗すれば、死あるのみなので、後がない。
たとえ食えていけたとしても、命尽きるまでにできることといったら限られてくる。
その「命尽きるまでに残していくもの」を少しずつ考えている。

例えばミュージシャンでも、30年も活動できる人は、一握りしかいない。
しかも30年といったら随分長いような気がするが、世代を越えて、ということを考えるとどうもそうではない。
あまりにも短い。
私が携わっているのは文学だが、はたして100年残っていくような作品がひとつでも残せるだろうかと考える。
一体何のために色々なものに頼りながら、意固地にここにかじりついているのだろうと、時折自問自答する。
将来成し得ることまでは断定できないし、そこに希望を抱くか絶望するかは本人の心構え次第だ。

先日NHKで人類とお金の関係を放送していた。
お金とは単純に生活していくための道具だと漠然と認識していて、お金を得るために働かなければならないと現代日本人は誰しも認識できている。
今現在、まともに生活できるほどお金を稼げない、結果を残せない自分は世間から見れば価値がない。
結果がないのだから値段がつかない。
「自由」とは何でもしていいが、すべての結果の責任は自分が負わなければいけない。
フリーランスやノマドなどといったら聞こえだけはよいが、正直言って食い合い。
いや、そもそも「個人事業主」みたいなものがなくとも、芸術家、芸に携わるものは自然と「実力の世界」に巻き込まれている。
これが微塵も理解できないのなら携わる資格がない。
そしてそもそもこれらの「芸」は「値段のないもの」であって、そこをうまく現代資本主義のシステムに乗せて金を得ている。
今お金のことを考えると今の自分には価値がないのだから、たちまち首でもくくりたい気分になるのだが、何かそんなことばかり考えていると、すっと言葉が頭の中から砂のようにこぼれ落ちて、何も組み立てられない日々が続いてしまう。

お金がないということは、ものすごい焦りがある。
自分の評価が低いという実感も持ってしまう。
悲しいまでの実力のなさというものを突きつけられているようで辛くなる。
希望を持ちつづけるには精神力が必要で、それは恐ろしいほど莫大な、まるで恋でもしているかのようなモチベーションがなければ、すぐに尽きてしまう。
やはりどこかで「見返り」がないと、萎えてしまう。

ここ最近はこんなことの繰り返しで少しずつ進んでいるのだが、言葉の世界や目の前の事実だけにこだわってしまうと未来を作っていけなくなる。
言葉の世界に携わっているだけに、その呪術めいた作用や、暗示的な作用が働いてくるのはよくわかってくる。
しかし言葉だけでは本心を覆すことはできない。
どんなに綺麗事を言おうと現実は変わらない。
汚いことを言おうと現実は変わらない。
やるべきことはわかっているのだからやればいいのにね、精神力が追いつかないのですよ。
小説書くのが楽しいと言っている人が羨ましいね。
どうしてあんなに自分のすべてをひっくり返してくるような作業が楽しいのだか。

さて、人生の時間は限られているという題名でこんなに長々と愚痴めいた日記を書くのはそもそも間違っている。
今やるべきことはXHTMLとHTML5の勉強なのですよ。
文章のことではなくウェブ構築のノウハウを得るという、随分と遠回りなのですがしょうがないもんね、やりたいことを表現するのに必要なのだから。
英語の勉強もして将来英語で小説書けないと生き残れないだろうなとも考えているし、こういうことざっとあげただけでも5年は費やしそう。
それで詩のことも、またやり直さないといけないし、書くといっぱい出てくるんだよな。
四書五経、キリストイスラムの宗教世界のこと、量子力学、心理学、脳のこととか、あーもう、ありすぎる。
三国志も改めて「陣形」のこととか学びたいし、水滸伝だってまだ読んでないし、金瓶梅、紅楼夢、西遊記とか、うおい、童話もあるし、グリム、アンデルセン、マザーグース、イソップ、シャルル・ペロー、日本の近代文学だってまだ読み尽くしているわけじゃないし、ね、やることいっぱい。

ということで、目標なんて与えられるものじゃなくて自分で見つけてこなしていかないといけないわけですわ。
死ぬまでの時間のこと考えても不思議じゃないでしょ、今あるだけでもこれだけあるのだから。
最低限のベースとして備えておかなければならないことなんですよ、これでも。

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02/25

Sat

2012

第146回芥川賞受賞作 「道化師の蝶」 円城 塔




※今回も文藝春秋からなので「道化師の蝶」のみで。

わからない。
腑に落ちない。
おーーーいに疑問が残る。
今回の芥川賞受賞の最大のミステリーだ。
なぜ、審査員が理解もしていないものが芥川賞をとれたのか。
じゃあ誰がこの作品を理解していたのか。
誰が審査員たちに、この作品を推したのか。
首を360度ひねっても部外者にはわからない事情だ。

さて、個人的には久しぶりに頭を使った。
そして最初読んだとき、審査員のコメントも頭に残っていて「量子論」も取り入れたのではないかというイメージがこびりついていて、作品への純粋な理解を拒んだ。
そして「もしかしてこれは言語論を少し越えて言語とそれにまつわる事象が脳内でどうインプットアウトプットという処理をされているのか」まで突っ込んでいるのではと思った。

審査員たちのなるべくこの作品に言及したくはないあたり、どうにも日本の小説は「ストーリー」ありきで、そこに記号的な暗喩を用いてパズルめいた小説とすることには理解がないらしい。
amazonでも混乱ぶりがよく見て取れる。
そして、その混乱ぶりこそ、この「道化師の蝶」に書かれているテーマたる「言語論」であり、示していることである。
はてさて、「言語論」と言っても何のことやら。
簡単ではあるがテキストとしては

記号工学研究室、初心者のための記号論の中にあるテクスト間相互関連性

がヒントになる。

動画では50分近くあるが、

【ニコニコ動画】哲学の「て」 第17回 MADとコメ職人でわかるポスト構造主義テクスト論


がヒントになる。

最初頭をよぎったのは「もしかしたら何か参照にした論文が存在するのではないか」という疑問だったが私の頭では見つけられそうにない。
とりあえずは上記のリンクで精一杯だった。

この小説では「記号」というものが大事になる。
登場人物は人物ではなく、何かを暗喩している「記号」となっている。

大前提として「我々は意味など共有しあっていない」ということだ。
たとえば同じ言葉でさえも、それぞれ解釈が違ってくる。
そして言葉に対する使い方さえも違うのだ。
言語を覚え、それを使用するとき、私たちは「生涯同じ意味で使いつづける」ということはまずない。
そして言語は他者へと伝えるコミュニケーション手段としての「道具」として使われる。
他者に向かって使用されたとき、他者の中で言語は変容し、意味の感触は変えられて受容される。
だが、二者間の間では、その共有されているであろう幻想を持って、我々は伝えあっていると認識している。

例えば三人いたらどうだろう。
三人の中で言葉がやりとりされるうちに、個々人の当初の意味合いにおいて言葉が使われるのではなく、三者がそれとなく了承しあった意味に最後には変わっている。
もしかしたらその最終段階に至るまでに喧嘩が起きるかもしれないし、あらゆる類推がなされるかもしれない。
そうしてようやく言葉は個人を離れて「三人にとって意味のある言葉」に置き換えられるのだ。
その時個人の脳内では当初に意識していた言葉の感触や意味合いは完全に保管されているであろうか。
残念ながら完全に崩されているはずだ。

テキストというものを暗示的にも明示的にも他者へと使った場合、「意味を伝えようとする意図」が既に他者に伝わった段階で壊されている。
「当人が思っていた意味」が「他人の意味」に置き換えられてしまうからだ。
言葉を扱うことは意味の純粋性を壊し、意味や意図を伝えようとする目的からは矛盾している。
それでも、ある一定の妥協点において言葉を二者間、あるいは三者間の間で妥協しなければ使用できない。

そうして「他者との妥協によって生まれた言葉の意味」は「テキスト」となり、また誰かがそれを行い、となる。
この作用は半永久的に続く。
この連鎖性こそ「存在しない生き物」のように変容していっている言語性質となる。

まあ、簡単に説明すればこんなところ。
でもこの感想とて、この小説と同じように「なぞっている」に過ぎない。
安部公房の名前が出てきて、円城塔作品はもしかしたらロシアなどの海外で高く評価されるのではないのかと思ったが、まだまだ作品の質としては「入り口」に過ぎない。
これ以上難解になると読者がついてこれないのではないかという批判も出てくるだろうけれど、私自身はこのような作品が評価の対象になることは嬉しいし、ちょっとした「問題」を出されているようで興奮する。

私は言語論のことなど知らなかったが、読みながら「量子論も組み込めるな」と思った。
その時、作品として書かれたテキストの中で作者が「死んでもいないし生きてもいない状態」を示せるとしたら、一体どんな小説を書くのか。
私は作者として作品作りに対して実感していることは「テキストは作者を越えられず、作者を模倣しようとする」ということだ。
ここにどういった力を加えて錬金していくのか、伊藤計劃作品を仕上げた後に大きく脱皮するのか、ひとつ読者として楽しみができた。

今日はこの辺で。

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02/23

Thu

2012

無教養さからくる差別

二十歳の知り合いがいるのだけれど、その子は短大生。
今度卒業で保育士を目指していたという。
保育士の資格を取得するには実習が必要で、二回目ぐらいの実習の時は東北の震災が起こった後だったらしい。
そこで実習を決める担当官から「あなた震災起こったとき、きちんと全員の子供の命を守るために体張って動ける?」という類のことを言われたらしい。
いや、もう少し意地の悪い質問で、私もはっきりと「できます」とは言えないような質問だった。
つまり「口では言えても実効段階になったときに100%できるとは保証できない内容」の質問。

その子は日常生活にはまったく支障がないほどの軽度の障害があるのだが、その質問に答えられず実習は弾かれたらしい。
他の先生からは「訴えてもいい」と言われたらしく、私も「完全な差別だね」と言ったのだけど、その子は別の方法で挑戦するみたい。

日本人は頑張る人間、障害を乗り越えたとか、時には障害者そのものを美談で飾るくせに、こうした意地の悪いことが行われている。
風当たりが健常者とは同じではないことは、ところどころから聞いていたけれど、実際知っている人がこのような差別的な扱いを受けると苛立ちを隠せない。
その子は十以上年上の私よりもよく考えていて頭の回転もよい。
すぐ説教したくなってべらべら余計なことを言ってしまうが「そんなことはわかっている」と言う。
たまにこちらが子供のような気持ちになって面食らう。

その子とはまったく事例が違うが、

保育士採用試験:全盲女性「受験させて」大阪市が門前払い

リンク先の記事のように全盲の保育士の例もあるし人類はヘレン・ケラーという偉大な実例も持っている。
しかしそれらのことは結局「美談」として語られるだけで、隅々にまで浸透し一般化しているわけではない。

話がちょっと変わるが、例えば健常者でも宗教観の問題は職場で対応できる姿勢があるのか。
イスラム教信者とキリスト教信者の職場での扱いは同じでよいのか。
こういうことすらも日本人は知らない。
今回のこの子の問題も、日本人のこういった無教養さからくる差別だと言っていい。
なにせ軽度の障害など、ほとんど健常者と変わらないのだから。
例えばこれが片腕片足がなくとも同じことだと思う。
きちんと試験に合格できる頭と能力と強い想いがある。
健常者と比べて「あれはできないだろう、これは支障が出るに違いない」とか、どれだけ見下せばよいのか。

ヘレン・ケラーのwikiに以下の文があった。

その一方で、彼女を快く思わない者も少なくなく、日本の重光葵の手記『巣鴨日記』(『文藝春秋』1952年8月号掲載)によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、彼女のニュースが耳に入ってきた際、彼女のことを「あれは盲目を売り物にして居るんだよ!」とこき下ろしている者もいた。このことに関して重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判すると同時に、見解の偏狭さを嘆いている。


差別は言葉から来るものではないと私は考えている。
「比較と哀れみから湧き上がる微かな優越感」から来るものだと考える。
自分や自分と類似したものが作り出す集団だけが世界や社会の基準ではないのだということを、その性根に叩き込むのが「教養」というやつではないのか。
外国人ホワイトカラーから見れば日本の職場は「ブラック」ばかりらしい。
わかるような気がする。
家族のことを優先できない、違法なサービス残業がある、会議が簡潔に終わらない、意思決定のプロセスが複雑、有休はお飾り、独自の職場ルールがあり法律より優先されるなどなど、守られるべきものが人によって崩されている職場など優秀な人ならば嫌がるだろう。
まだまだ「差別大国日本」なのだ。

余計なお世話なのだろうが、その子には頑張ってほしいし、私も久しぶりに連絡が来て少し励まされた。
ここは見てはいないのだが、ひとつの祈りを込めて。

その青春の全力こそ、次世代の糧になる。

応援しております。

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02/21

Tue

2012

自分で自分を褒めたいと思います

「より速く適切に学べる人」:その理由(WIRED.jp)

いわゆる「褒めれば伸びる」の具体的な研究結果として、何を褒めたらよいのかが示されています。
「賢いね」と褒めれば「賢さ」が褒められて脳が刺激され、その「賢さ」を維持させようとするので、失敗を恐れるようになるというのはなんとなくわかる。
努力を褒めることは「チャレンジすること」を褒めているのだから、チャレンジ精神が維持される。

私の場合は結構抑圧的な精神が強くて、どうやったかというと誰も褒めてくれないから自分で自分を褒めるというやり方をやっていました。
比較せずたとえ他人が一日で一キロ進もうが、自分は今日一センチ進めた、それでいいのだ。
自分としては前進した。よくやった。
と、他人から見ればくだらないことかもしれませんが、これでほんの少しずつ進んできたのです。

今までやることなすこと嫌で成果がでなくて、やろうとしたことはけなされ、あまりよい目で見られてはこなかったので、ほとんど人生に対する前身力を失っていたところから始めましたので、自分にとってはこの方法が最適ではありました。

ところで、この研究結果、いわゆる「成果主義」にも言える側面があり、今ここまで社会の風潮として萎縮してしまっているのは失敗や「金にならないかもしれない挑戦」に対してひどく厳しくなってきているからなのだとは思います。
やはり誰かのせいではなく、今日独り言でもテレビの前で、新聞読みながら、週刊誌を見て吐いた呪いの一言が、メディアが流し続けている、会社組織がトップダウンで労働者を締め付ける考え方などが、世の中の人たちからチャレンジ精神を奪いつづけているのではないかと思うことがあります。

このことは今回は蛇足として、重要な下記の部分。

固定的な姿勢をもつ人は、間違いを「ぶざまな失敗」とみなし、与えられた課題に対して自分に十分な能力がない証拠だと考える。一方、成長志向の姿勢をもつ人は、間違いを、知識を得るために必要な前段階、学びの原動力ととらえる。


企業はお金という体力の問題があるので、厳しい事情はたくさんあり、社会的なことは今回は述べませんが、少なくとも個人でできることは他人の挑戦・行動をやたらと批判することは社会的にとっての癌化を促進する可能性を高める、ということが言えると思うのです。
少なくとも私は十数年病んでましたよ。
そして批判する側にも回ることがありますが、不必要な批判、これを越えて中傷までいって心が痛まないというのは、ちょっと根が腐り始めているといってもいい。
じとっとした嫌な気分を味わうことなく「スッキリ」したというのなら、これは少し考え直した方がよいと思うのです。

大事な未来の可能性を締め付けて結局さまざまな意味で豊かさを失うのは自分であると常に覚悟するべきなのです。
自画自賛のコツは「努力と挑戦」に対して、ということですね。
モチベーションを高めるには挑戦すべきものを見つけて攻略していくことにあり、です。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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