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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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02/19

Sun

2012

甘えるんじゃない

よく人間が動物自然界のことを持ち出して、現在の人間の成長と重ね合わせようとする理屈がある。
道理としては間違ってはいないし、理屈の展開としても不自然なことはない。

子供は甘えている。
社会を知らず周囲も甘やかすので甘え癖が抜けない。
社会は厳しいので厳しく育てるべきだ。

色々意見や考え方はあるだろう。
私は「子供」という存在は、上の世代が貢献し育てた社会の「結果」だと思っている。
直接関わっておらずとも、たとえ自分の生活を維持するために懸命で、子供などに一切関与しておらずとも、社会を維持するために生きてきたのなら、その間接的結果として「子供」がいると思っている。
そして、その上で「知恵のある人間が動物と同じ理屈を持ち出す」というのは、少し「知恵のない行為」だとも思っている。

植物はギリギリの厳しい環境下で飢えさせ水を与えるとメキメキと育つらしい。
野菜に関しては、この理屈で同じ種なのに信じられないほど味の違う野菜を育てている人がいるのをテレビでやっていた。
しかし普通この理屈を見て知って、そのまま現実に適応させようとすることの愚劣さときたら目も当てられない。
知恵なき行為の典型とも言えるし、やはり何も考えていない人間がバカのようにベルトコンベアー形式で他人の知恵をあたかも自分の知識になったかのようにして偉そうにしているだけ、となってしまう。

なぜここまで言うのかというと、「厳しさ」には「観察眼」が必要だということに気がついていないからだ。
それぞれの個体の性質というものを見抜いて、何が足りなくて何が足りていて伸ばすべきなのか、まったく理解しようとしていないからだ。
この部分が一番労力と持続性が必要で、骨が折れると言っても言い足りないほど努力を必要とする。
この一番大変な部分を省略しようとしているのは一体誰なのか。

社会はマニュアルに沿って育てる方がとても楽だ。
思考も分別も簡略化しやすい。
なのでシステムとして統一し、社会の人間が価値観を一様に共有した方が処理する上ではとても早い。
多様な価値観を受け入れるには柔軟な思考が必要だし、ある意味「答えを求めない姿勢」が大事になる。
正直そんなものをまとめるのは大変だし、いざというとき動きやしない。
今までの理屈が通用しなくなると、システムの組み換えをしなければならないし、とてつもない労力になる。
だからなるべくサボりたい。サボれるもんなら。
そんなこんなで立ち行かなくなると思考が硬直化し、なおさら意固地になるのは、こんな柔軟さを欠いた姿勢があるのかもしれない。

と、ここまでは与える側のことを書いたが、与えられる側は「お前たちが与えないのが悪いのだ」という考えは一切持ってはいけない。
これもまた「子供」の考え方である。
子供はいつか大人になるし、いつまでも子供の考え方では、時間が経って下の年齢の人間がどんどん増えるにつれて「ああいうバカな大人にはなりたくないよね」と後ろ指をさされるようになるし、自分たちが批判していた「社会の、大人の責任」というやつが、いつの間にか「自分の責任」になってしまっていて、子供たちからかつて自分が行っていたことと同じような批判がされるようになる。
これが「時の流れ」というやつだ。
いつまでも子供のままではいられない。
大人になっても子供のような発想では、下の世代から「早く死んだ方がいいよね老害は」と言われるのだ。
「獲得しなければ得られない」
これが人間の基本的鉄則だ。
与えられることは「幸運」なのだ。
このことにたくさん気がつけないと、大人になったとき「たくさんのチャンス」を逃していくことになる。
つまり「幸運の女神」「幸運の神」というやつは、それを見ることのできる人間に微笑む。
人間だって無視されれば腹が立つし、寂しくてやりきれない気持ちになるのだ。
幸運を無視する人間に寛大に神様は笑いかけたりはしない。

個人が「環境を維持」しているということは「何者かが了承している」という状態を意味している。
だから私から言うならば「甘える」もなにもない。
ただ他人の環境に入るのに自分の慣れ親しんだ環境を適応させようとするのは「了承してもらえない可能性」がある。
ここでいざこざが起きるのだろう。

人間にはだいたい「段階」というものが必要で、「千尋の谷に我が子を突き落とす」という理屈はあまり通じないように思う。
そういうのはドラマかアニメの中だけにしてもらいたく、そのドラマ的な思想を持ち出して悦に浸ってもらっても困るわけだ。
「段階」というのは、誰しも生まれて泣き喚くことしかできなかったのが、言葉を覚え、行動を覚え、実践を覚え、知識をつけ、知恵をつけ、大人になり、仕事をしている、という過程をたどるように、いきなり昨日まで甘やかしていたのが今日から厳しくすればいずれついてくるだろうみたいなのは「段階」をすっぽかしている。
それこそ「観察眼なき行為」だとも。

自分のことばかり主張する時代になってしまったと、ところどころで言われている。
それは「互いに向けるべき観察眼を欠いている」ことでもあるように思える。
当然人間なのだから接している限り会話をしなければならないし、きちんと向き合いたいのなら「対話」すべきなのだ。
これらの行為を欠いた突然の理屈は、いつだって少々暴力的な手段になりがちなのは、いつの時代でもあまり変わらないことのように思える。

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02/18

Sat

2012

第146回芥川龍之介賞作品「共喰い」 田中慎弥 



第146回芥川龍之介賞作品。
すいません。今回は文藝春秋からです。
なので「共喰い」のみで。

キャッチコピーは「泥河の鰻とセックスと暴力と祭り」といったところでしょうか。

最初の感想としては「ああ、こういう際どいテーマ持ってくると必ず嫌悪感示す人いるんだよな」と思ったらやっぱりそうでした。
予想通りの反応とはいえ、会見のVTRもあってか、嫌悪感が先にきてまともに読めない人多数。

というのも男性作家が書いた「セックスと暴力」となると必ず「男性的視点から」というのがセオリーというか、だいたいの作品というか。
そうなると当然女性側が男性の欲望のままに、いいように扱われているイメージって持ちがちになるのですよね。
そこをしっかりカバーしないと「作者の都合よく人物が動かされている」と言われたりします。
これは女性作家にも言えることなのですがね。

そして男女とも嫌う「汚さ」というのもあり、汚れた河で釣り上げた鰻を食すというのも読んでいて嫌悪感をより一層抱くポイントでもあります。
男性が鬱屈していて我が強い、協調性もないとなってきたら、気持ちよくは読めないでしょうね。

何にせよ、一番凄いなこれ、と思ったのは「タイトル」です。
作品全編を見事に貫いている「共喰い」のタイトルは中身のおどろおどろしさを示すのにこれ以上ない秀逸さだと感じました。
文の細かな構成や登場人物それぞれが食い合っているんですね。
冒頭に出てくる淡水と海水が混じる川底にゆらゆらと揺れる藻を見ているような感覚に見舞われますし、この出だしあたり瞬時にして読み慣れた人は「いつもの流れか」とも思います。
「性と暴力と土着性」ときたら、だいたい古い読者は「中上健次」を思い出すでしょうし、私も途中までふっと頭に浮かんだのですが、まず消して頭を真っ白にして読みました。
文そのものは近代文学のような、ちょっとお堅いイメージを抱かせますが、構成が大変面白く短篇として文の構成の各ブロックが、それぞれのシーンや人物の心境とリンクしているところ、これは啖呵切っただけのことはあると感じました。
川端康成、司馬遼太郎、三島由紀夫等に影響を受けたと本人おっしゃっておりますが、なるほど、これは川端康成を彷彿とさせるかもしれない影がうっすら確かに見えます。
そのうえで選評で、ある方が「伝統的」と表現されたのかもしれません。
短篇としての仕掛け、道具、これもよく掛け合っていていやらしい感じで発酵しています。
最後、あれに気がつくあたり、救いなんじゃないでしょうかね。
まずああいったタイプの男性って、まったく気がつきませんし、気が回りませんからね。たとえ一瞬気がついても、すぐ忘れますよ。
少なくとも女性にとってデリケートな事情は「男性には関係ない」ことなのかもしれませんが、とある女性選評者のように、たとえ照れ隠しであっても「心配される筋合いはねえ!」と言うような母親を持たなくて心からよかったと思っている次第であります。
私だったら気持ちが悪くなって二度と顔見たくなくなりますから。

いわゆる「エログロ」の世界観にも似た雰囲気、これは「春画」の世界観でもあるなとも思えました。
鰻の顔をした大きな男が女を犯している。
その奥の部屋でも子鰻の男が初々しい女を犯している。
そういう構図の春画を彷彿とさせました。
しかしまあ、日本的かもしれませんが、陰鬱で濃淡だけの水墨画のような世界観は確かに表現が難しく、文章もやや隙があり、ところどころダブついている感があります。
おそらくそれは自分が尊敬しているものの影響をまだ色濃く受けていて、それが継ぎ接ぎ状態になっているからだと個人的には考えています。
本人も文章技術の未完成さ、達成したいものが先にあることを意識しているようで、そこがわからないと作家としてはもう終わったも同然ですが、これからおおいに変化していく予感を感じさせました。
私はみなさんが思っている以上に、この方は飛躍していくのではないかと思っています。

次は長編で才能を発揮しているのが読めるのを楽しみにしております。

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02/17

Fri

2012

そういえばバレンタインデーは歯医者だった

先週の火曜日に行ったとき「来週火曜日から空いてますけど」と言われ、「じゃあ火曜日でお願いします」と予約を取って普通に行ったら、なんとその日はバレンタインデーじゃないですか。

別に狙って行ったわけでもなく、かわいい歯科助手さんに導かれるまま「はい、火曜日でぜひ」と内心ウキウキしながら行ったわけです。
なんで「そういえば」と思い出したのか。
その日に気がついたのですよ。
チョコなんてものに縁がないからその日に気がついたんですよ!
そして縁がなかったから今更思いだしたんですよ!

やっぱり知り合いは、それとなく探りを入れてくるわけです。
「こいつはチョコなんてもらってないだろうが、一応念のため聞いておくか」という非モテ偵察を行ってくるのですよ。
「チョコ、もらいましたか?」
うるせいやい、と心の中では夕日に照らされながら河原で石ころを蹴っているわけですが、紳士なわたくしは「ええ! 歯医者で奥の仮の詰め歯ならもらいましてね! いやあ、ずいぶんと削り取られ、美女の歯科助手には歯石がたまっていますねと告白されましてね! よいバレンタインデーでしたよ! HAHAHA!」と充実した一日であったことを暴露してやると、さすがのわたくしの過密偉業スケジュールっぷりに「ああ、そうですか」と苦笑いを見せながらも恐れおののき、そそくさと目の前から退散していく姿を晒すのです。
まさに虎を前にしたウサギのように逃げ出すという具合でありまして、私は勝ち誇ったように笑みを浮かべるわけであります。
ああ、勝利し続ける男というのは罪だなと。

いつもながら歯医者にいくと死ぬほど緊張していて、水を飲む手が震えるというぐらいガチガチになっている。
「こ、このわしが、奮えておるわ……」
と心の中だけは余裕っぷりを示しているのです。
そしてその余裕っぷりは歯科助手の「奥歯の詰めものは取れやすいのでガムとかお餅とか、そういうくっつきやすいのは食べないでくださいね」という説明の時も相手をおののかせるほどに出ておりました。

「チョコは?」
「え?」
その質問を投げかけた時一瞬マスクの下の歯科助手の顔が歪むのを見逃さない。
(こいつがチョコ? もらえるのは義理か、その程度だろ、ふっ)
「チョコレートは食べていいんですか?」
なおも食い下がり必死の応戦。
弾幕の薄さに怯まず残り弾を敵前で打ち尽くします。
「え? ええ。キャラメルとか、そういうくっつきやすいものじゃなければ大丈夫ですよ」
そういう質問をしてしまったのも、歯科助手の後ろに見えるカレンダーの「14」の文字。
チョコなんてもらっていないのに。
せいぜい自分で買うぐらいなのに。
今日という日が憎けれど、決して同士を募るなどというマネはしたくなく、つい見せかけだけでも「ちょっとモテてます感」を出したかった……

ああ、その日は歯医者から出たとき世界が潤んでいたよパトラッシュ……

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02/16

Thu

2012

才能ってなんだろうね 素人作家の愚痴

「才能」というものをきちんと述べられるほど多くのものを見ているわけではないので、きっと「才能とは何か」という文章を書けるまで、あと10年20年かかっていくのだろうなと思っている。

今日は記録のための愚痴ブログになることをあらかじめ記しておきます(笑)。
なので極めて個人的な心情を展開するので何の役立つ情報がないことをあらかじめ書いておきます。

たいてい書いている人って、それなりの情熱を持って、楽しみを持って、思い入れを持って書いているので、きっと自分の作品は他の誰よりもおもしろいに違いないと少なくとも信じている部分がある。
こういう気持ちがなければ怖くって書けないのも確かだし、長文を書いていくにはこの手の高揚感が必要になる。
たとえそれが錯覚であったとしても、完成したときの達成感がないと、とてもじゃないけれどやっていけるものではない。

今日「カーネーション」というNHKの連続ドラマ小説で、よい台詞があった。
あのドラマは成功のためのヒントが数多く含まれている。
ビジネスの教材にできるぐらい凄いドラマだとも思っている。
もったいぶらずに、その台詞書けよと言われそうだから書く。
一字一句はあってないが下記のニュアンスで言っていた。
「服ってもんはな、デザインで完成されるものちゃうんや。着ている人が気持ちよう着れて、ようやく完成するんや。ほら、やり直し」
と、将来の世界的デザイナーがお母ちゃんに説教されるシーンがあった。
店の構えもアバンギャルドすぎてデパートの支配人から「品のある店構えを」と散々きつく言われる。
そりゃあ今だからこそ世界のジュンココシノだとわかっているから安心して見ていられるが、当時の感覚としてはどうだったろうか。
もうあまりにも前衛的過ぎてついていけないものがあったのではないだろうか。

HPを見ても現在でも非常に前衛的であることがわかるし、デザインと人がきちんとマッチングするための洗練された感覚が一目で分かる。
ちなみにHPはこちら。

ヒロココシノジュンココシノミチココシノ

今となってはセンスの凄みが世界中に知れ渡っている。

でもね、誰が将来世界的に有名になれるなんて保証できますか。
誰もできない。
もしかしたら失敗したかもしれない可能性がたくさんあった。
その「失敗した可能性をどう改善したか」があのドラマには本当にたくさん込められている。

ということで長くなりましたが、
「服ってもんはな、デザインで完成されるものちゃうんや。着ている人が気持ちよう着れて、ようやく完成するんや。ほら、やり直し」
という台詞まで戻ります。
この台詞は文章にも言えることではないかなと強く感じたのです。
いえ、芸術全般に言えることなんじゃないだろうか。
文章に限って言えば「読んでいる人がアクションを起こしたり、心の中でなんらかの強烈な印象を抱くことでようやく完成する」とも。
当然終わりのない、半永久的に続いていくことではありますが、やはり作品と受け手の因果は「受け手を見抜く発信者の心意気」にあるような気がいたします。
そして最後に完成されるのは「読み手の心の中」であります。

いや、今日は愚痴を書こうと思ったのですが、いわゆる私なんぞは「落ちこぼれ街道まっしぐら」のペースで歩んでいます。
それで周囲の人が自分よりも活躍するとイライラするわけですね。
差し置かれていっているような気がして。
でも本当は自分に才能がないだけかもしれない。
それよりも活躍している人は才能の片鱗を誰かに認められているわけで、そういうものを無意味にいちいち比較して現在の自分に当てはめて落ち込むわけです。
落ちこぼれは非常に強いコンプレックスがあり、その卑屈な感情を刺激されると包まれてあった柔らか膜が破けて一気に汚物が中から出てきて汚さをまき散らします。
長年積み重なった卑屈さがありますから、「そんな気にしなくても君は君だ」と言われてなんとかなるほど軽いものではないのですね。

それで大抵コンプレックスを持っている人が小説やお話を書くなんていう根暗なことをやり始める。
自分の心への一種の救済行為として始めるのですね。
だからまず人に認めてほしいという感情が全面に出てくる作品が出来上がります。
自分の実現したいことや鬱憤などが当然出てくるので、どうにも読んでいられないものが出来上がる。
それでも自分としては懸命に、それこそ生涯で使ったことがないのではないか、というくらいに情熱を注いで作り上げますから余計に否定されると全人格否定を受けたような衝撃を受けるわけです。
笑い事ではなく、本当に。
素人がやっているわけですから、プロの世界などしるよしもなし、こんな文章などでは通じないしもっと洗練させてたくさん文章を読んで他人の技術とか発想とかを盗んで身につけないと到底生涯やっていけるはずはないのに、なぜか自分を「天才」のように錯覚してしまうのもこの頃です。
だいたいコンプレックスを持っている人間は通ってくる道だと私は勝手に思っているわけですが、素人の皆さんは思い当たることありませんか?

ということで今現在私は自分自身にとても無力感を感じていながらも、「まだ達成できていない数々のこと」に思いを巡らせながら「俺の実力はこんなもんじゃねえ状態」で頑張っているわけです。
「才能って何だろうね」ということは何度も考えたし、自分の才能のなさに本当に大泣きしたこともあります。
正直に告白すると去年応募した坊ちゃんの文学賞はやたら自信があっただけに最終選考に引っかかりもしない惨めさに号泣しました。
これホント。
それぐらい情けなくて申し訳ない気持ちでいっぱいで生きているのも肩身が狭いというのに、ああ、どうして自分はここに意固地になってしがみついているのだろうと考えたりするわけです。
結局、これを奪われたら本当に自分の軸のようなものがすべて引っこ抜かれるような感覚になってしまうからなのだろうなと思うところがあります。
こういうので食っていける、成功する、芸術分野において、そんな次元にまで行くには人生一つ賭けていかないとダメなものなのではないかと思うところがあります。
食えなくて連絡とれなくなって飢え死にしているんじゃないかと思われるような末路も見ているので自分も覚悟しなければいけない部分が大きいのですが、思い返してみれば長年思い描いてきて「創作のための環境」が少しずつですが整いつつあります。
それは自分の努力の部分による所は少なく、ただの幸運ではないかと思ったりもしますが、これも「誕生」のためには必要なことであって、「誕生」のための条件も整いつつある。
去年の終わり頃から「そろそろこの埋もれた状態に終止符を打ってもよいのではないか」「こちらで味わうことは一通り味わった。屈辱も苛立ちも」と思い始めているのですが、まだ何かが足りないのかもしれません。
それがわかったらすんなりいくのかもしれませんが、ああ、ひとつだけわかっているのは「技術」と「面白み」ですね。
これがまだきちんとわかってないんじゃないかと思うわけです。

そろそろ、素人の域は出たのではないかと勝手に思っているわけです。
それと常々思っているのですが「素人だからと言って何も擁護されない。素人でもプロ根性でやらなければ、いざプロになったときに使い物にならない」という気持ちを持ってやっております。
いくら言い訳しようとプロになったら結果がすべて。
結果を出せないものは忘れ去られ時代にも人の心にも残らない。
芸術家の厳しい運命がここにあります。

どうしてしがみついているのか。
もうひとつ理由があります。
前にも何度か言っている理由の他に不思議な縁についての理由がもうひとつあります。
それは必ず一人二人直接「書いてください」とお金を払ってくれる人がいる。
一人二人とか思うかもしれませんが、少なくとも一人でも二人でもいるって凄いことじゃないですか。
しかもネットでショッピングするって結構な手間がかかるのですよ。
店頭で財布から出すのと違ってカバンの鍵を開けて、巾着の紐を解いて、中のお金を取り出して、というぐらいの手間がちょっとかかるのですが、それでも買ってくれるってことはやっぱり相当なんだろうなと思うわけです。
アホらしいと思われるかもしれませんが、こういうところにもしがみついているわけですね。
いきなり大きなところから考えていたらどうしようもないわけですよ。
いきなり不特定多数の人のことを考えていても道を踏み外すような気もするのですよ。
自分は着実に進んでいる。
そして遅いペースではありますが、応援してくれる人もいる。
この先もしかして儲かってしまったら忘れるかもしれないこの気持ちを、きちんと覚えておいたいのと、やっぱり今の状態にもの凄く苛立ってどうしようもなく周囲をけなしたいと思いつつ、一番寂しい思いをするのは自分だとわかりきった私がここにいることを、ちょっと記録したくて今日は長々とつまらぬ日記を書いた次第でございます。

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02/11

Sat

2012

電子書籍は何故ハイパーテキスト空間で孤立する運命にあるのか

偶然本にジュリア・クリステヴァの言葉が引用されており、「テキストは生産物ではなく生産性である」と書かれていて、なるほどと思い検索して見つけたこのサイトに凄いことが書いてありました。

東京外国語大学大学院 総合国際学研究院 山口裕之教授のサイトより
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/yamaguci/inet_lec/index-i.html

このウェブ講義の12回目に書いてあるネットテキストの将来。
しかも10年以上も前に考えられていたのだから驚きました。
そこから私が強烈に学んだことがあります。

端的に書くと、以下になります。

ハイパーテキスト空間においてのテキストはオリジナルを小さな穴で覗くがごとく断片的に存在していく。
つまり「検索エンジンで検索したテキスト」は常に「オリジナルの断片」であり、オリジナルの断片は「検索エンジンで検索したテキスト=自分の興味のある分野のみ」になるわけです。
つまりハイパーテキスト空間では、「検索=興味=テキスト」の関係が常に成り立ち、そこに完成された一つのパッケージとしての「電子書籍」は、ハイパーテキスト空間における「油」で、常に水(「検索=興味=テキスト」)の底に沈む運命にあるわけです。

以上の理由がハイパーテキストと電子書籍の決定的な違いになり、そして電子書籍がハイパーテキスト空間で孤立する運命を決定づけています。

だからと言って電子書籍にはまったく未来がないかと言ったらそうではない。
「検索=興味=テキスト」の関係性は絶対に崩れない。
常に「オリジナル」を針の穴で覗いていく「検索によって導かれたテキスト」「興味のあるテキスト」を読むという行為は、まず崩れることがないにしろ、これは「点描画」であると言えると考えます。

検索で覗かれた一つ一つは小さな点であるとしても数多くの点を打っていくことで最終的には「絵」になる。
しかしその「点」である一つ一つのテキストたちも、検索エンジンやネット空間というデジタルの海に消えていく作用は強烈に働いていくわけです。
せめて私たちができることは「点ではなく点描画だ」と示唆することです。

そんな中で後半で書かれているのですが「「書物」がより細分化された単位同士の結合である」という点が重要であり、ハイパーテキスト空間であっても結合の仕方が大きく変化しているだけで、テキスト同士の結合性の性質はそれほど変化していないのではないか、という点です。

検索でテキストを探すということは、よりピンポイントなわけです。
検索したテキスト以外は興味がない。
これはユーザーそのものが編集作業をしているのと変わりがない。

どうやら我々が電子書籍を扱う上で最も注意しなければいけないのは、このハイパーテキスト空間上のユーザー任意のテキストの結合の仕方であり、その関連性の中にテキストを配置していかなければならないのではないか、という点に尽きると思います。

しかし私が実際に電子書籍やテキストを配置している中で実感するのは、たとえ「検索=興味=テキスト=点」であっても、「点のオリジナルである点描画」は用意しておかなければ、本当にデジタル上の「点」でしかなくなってしまう、ということです。
「点」が強力であれば強力であるほどよいにこしたことはないのですが、そう連発できるものではありません。
最も理想的なのは「個人が記号化すること」でしょう。
例えば法人でも「SONY」とか「TOYOTA」とか言われれば、すぐそれが何であるかがわかるわけです。
つまりテキストが完全にシンボルとなっていて「記号としての意味」を示している。
今ネット上で勢力をふるえるテキストを発信できるのは「記号化した個人」「シンボル化した個人」であると言えるでしょう。
しかしこれもそう簡単になれるわけではない。

一番最後のところになるとハイパーテキスト、デジタルという道具によって変化した感覚が、テキストのオリジナル性を歪めていく機能を指摘しておりますが、ここは私も危惧しており、テキストを生み出す人間の大きな課題となるだろうことは目に見えております。

そして最後に指摘しておられるこの部分。

これからもし、ハイパーテクスト的な読み方が社会・文化において圧倒的な力をもつものとなるとすれば(ちょうど、技術メディアによる映像的・音響的な文化がそうであるように)、そういった読みのあり方、さらにはそれによってもたらされる文化のあり方を無視することはできなくなるはずです。こういった事態がとりわけ顕在化するならば、それまで絶対的な準拠枠と思われていたテクスト的な思考、テクスト的な文化のあり方に対して、疑問が生じることにさえなるでしょう。ハイパーテクストとポストモダンの「収束点」は、まさにこの根本的な点にあると考えます。コンピュータは人文研究のための有用な道具となりうるという側面を持ちながら、同時に、人文的な思考のあり方そのものを解体する可能性をももっています。自分の手の中にあると思っていたものが、その特性にしたがって、知らないうちに自分の立っている基盤そのものを掘り崩すことにもなりうるのです。

これを電子書籍に置き換えるのならば、ハイパーテキスト空間で解体・変貌を遂げたオリジナルの欠片、これを一般的には「コンテキスト」と言いますが、この「コンテキストに電子書籍は対応できるのか」ということが、電子書籍をデジタルの中に置く上で見えてくる最終的な目標となることは言えると思います。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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