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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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01/23

Mon

2012

心に筋力を 緊急指令「心の富を手に入れろ!」

心にも筋力なるものがあるのだなと、最近ダンベル運動をしながら思うわけですが、体の実感が心の動きを捉えることもあるもので、体を動かすことはとても大事だなと思い室内運動で日々終わっている今日この頃でございます。

今年は珍しく雪も多く「雪祭りは大丈夫かな」と温暖化への心配もなんのその、雪に埋まって救助される地域も出てくるほどで、本当に地球はよくわからないものです。

ところで今回は「心に筋力を」ということなのですが、ちょっとしたうつ状態というのも体験したしうつ病患者にも長く接していたこともあり、「心がダメな時はどんな強い言葉も無理なのだ」と常々申し上げても、多少正常な思考回路が残っていれば、周囲から「甘えだ」なんだと言われるのがだいたい皆様が経験する状況なのではないでしょうか。

実際他人には、それが甘えなのか、もしくはうつの初期症状なのかはわからないわけです。
下手な言葉で強いコンプレックスや抑圧されたストレスを爆発させるようなことになり、最悪のケースを招くことがあります。
「招くことがあります」という「可能性」だからこそ、普通の発想力のある人は「だったら逆の可能性もあるんじゃないの?」とやたらと「励ます」という行為をしたがり、歩けないのに背中を押すという一種の拷問をしがちです。

こういう自分も少しずつ心のバネがついてきたなと実感しているところでありますが、やはり心の筋力の弱いころは、何をしてもダメというか、歩いても筋肉痛になってしまうように、いきなり走ることなど不可能なことだったのです。
歩いて筋肉痛になり休んで、何日か経ってまた歩き出して筋肉痛。
こんなことを繰り替えしていたわけですね。

だいたい心のバランスを崩す人は、本来自分が持っているペース配分を大きく乱されている状況にあると思うのです。
そしてその乱れたペースが埋め込まれてしまい、一種の自浄能力を失い、病んでいくのですね。
現代日本は他人の心の富を大事にできなくなってしまいました。
軽々しく奪っていきますし、そもそもその手の人間は心に非常に暴力的なものを抱えていたりします。
そんな暴力性が他者へと伝染しているのですね。
はい。私も気をつけなければいけないことなのですけれど。

まったくの他人が個人の心に干渉していくには、相当の観察力が必要になり、かつ相手のデリケートな内容を最大限尊重するようなデリケートさが求められます。
たいていできませんがね。
よくいらっしゃいますが、私はこう思うが君はどう思うと聞きながらも、最後に「だから君は〜」と結局自分の意見を強く押し付ける方がいらっしゃいますが、そんな行為をするなら対話など必要ないわけです。
意見を仰っていただいて「はいそうですか。さようなら」でおしまいでいいわけです。
心を完璧に大事にすることは正直言って不可能ですが、できる限りの配慮は可能です。
それでも人に嫌われたりするのですから、しょうがないといえばしょうがないことがいくつも起きるのが人生なのですが。

個人が心の筋力をつけるためにはどうしても「もう一歩だけ頑張り、本当にしんどい時は休む」ということを気をつけなければいけません。
そしてこのペース配分は他人から押し付けられたものではなく、自発的に組み立てたものである必要があります。
じゃなければ、また他人に乱されてしまうので。
人生は言い換えれば自分自身に対する実験の繰り返しなのかもしれません。
自分のペースで挑戦し、失敗を繰り替えしながら、自分なりの法則を見つけていく。
どんなに環境が変わろうと心の自由だけは奪うことができないというのは「ショーシャンクの空に」のアンディーが言った教訓であります。
いつの間にか自由でいるつもりが様々なものに執着してしまい、振り回されるだけで心の自由などないというのは個人的な経験から結構しんどいものです。
時間はあっても全然自由じゃないわけですね。

心の自由や本当の富を得るには、誰もが豊かな感情を感性をとは言いますが、いったい何のことやらさっぱりです。
人によっては音楽だったり、創作活動だったり、スポーツだったり様々ですが、共通していることは「よいものを探す癖をつける」「よいことを実行する」ことだと最近思うわけです。
悪いものばかり見て文句をつけていたりすると、あらゆるものを「欠点から眺める」ようになるのですね。不思議なもので。
そんな負の言葉に囲まれて常日頃身につけていると本当に腐ってきます。
その腐った状態が日常の自分になるので、どれだけ酷い状態かわからなくなるわけですね。
こうなるともう直すのに相当な時間を必要としてしまいます。
腐る前に腐らない癖をつけるという意味でも「よいものを探しよく褒め長所を感じれるようになる」ということは心を豊にするためにも必要なことであると実感しています。

自分のペースで踏ん張る癖をつけると、少しずつではありますが成長してくるものです。
その「少しずつ」は数ヶ月という範囲ではなく年単位になるかもしれませんが、それは個々人によって違うので他人が押し付けることではありません。
なので自分のペースを守って欲しいとは思いますが、年月の長さに逆に失望することなく、目の前のことをちょこちょことこなしていって欲しいなと思います。
一日一歩でもだいぶ進んでいるものですからね。
まずはお腹に力を入れる練習からやってみるのもよいかもしれませんよ。

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01/17

Tue

2012

この気持ちはもしかしたら今の状況だから感じられることかもしれないので記しておく。

「功を焦る」という気持ちがあるが、自分の場合たいした努力もしないのに、いちいち大きなリアクションを期待する。
お世辞で囲まれたいわけではなく、どこにいるか実感として得たいのかもしれないし、自分の労力に対する価値を得たいのかもしれないし、怠け癖が出ているのかもしれない。
ただ、本当にこの「功」というものへの憧れというか、執着のようなものがあり、引きずり込まれて成すべきことが歪められてしまう。
何をしなければいけないのか、そんなちょっとやそっとでは「功」など得られるはずもないのに、すぐに何かの形で目の前に現れて欲しいと、手を伸ばす思いで切に願っているのだ。

いくつになったら「功を焦る」気持ちが抜けて、落ち着けるのか。
集中力がなくて、気が散りまくり、自分の労力以上の成果をいつも期待し、「理想」がいつの間にか「自分の評価されるべき状態」となっている。
やるべきことはわかっているし、目標も道筋も見えているというのに途中の歩みに思っていたものとは違う焦りや体力のなさや集中力のなさを感じて、刻々と過ぎる日にちに「ああ、自分は何をしているのだろう」と考えたりしてしまうのだ。

これが「目的論」みたいなものから言えば愚かしいことはわかっていても、つくづく弱い感情が歩みを止まらせ、考え事を多くさせ、目の前の道のことを考えてただ歩いていけばいいものを、今来た道やこれからの道のことや歩いてきた道はいかにあらねばならぬと小賢しくまったく自分にとっては意味を成さない作業をしている。
そもそも他人がする「評価」などいちいち気にしていては「オリジナリティー」を出さなければいけない場所では最初の段階ではほとんど無意味であり無価値であり、方法論技術論などにおいて効果を発揮する「アドバイス」も「評価」においては、「主観の集合体」になることはわかっているはずなのに、また見失ってしまいそうになる。

なんてったって、こんな日記を書く時間があれば、あんた読書したり作品作ったりしなきゃいけないでしょうが、ともう一人の自分が言うわけですが、どうにも「分析屋」になると、「この日本が」とか「読者の環境が」とか「社会が」などとろくでもないことを言いがちになり、文句があるなら実力で変えなければいけないものをグダグダと文句だけ言い、つくづく怠惰になり、煎餅を食いながらテレビに向かって意見を言うような存在になってしまいがちになる。

それで今回も誰の役にも立たない日記を書いてしまったのですが、「功を焦る」という感情について、何度も実感して「遠目に山頂が見えてからが、はてしなく道のりが長い」とわかっているはずなのに、改めてうじうじと「功」についての執着心と執着心による視野の狭まりに、意識を向けて戒めをする本日なのでありました。

遠目に山頂が見えてからが、はてしなく道のりが長い。頂きにたどり着くためには、遠回りに歩いて進んでいかなければいけない。目標地点が高くなればなるほど、技術と経験が必要になり、危険を察知する感覚に素直に従える潔さ大事になってくる。「あともう少しで」の欲が命を狙って取りにくる。

「過去を定義できる人はいても、未来を定義できる人はいない」。だったら君、文句を言う前にやるべきじゃないのかね。
結局これなんだよね。

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01/08

Sun

2012

神無月「武藤敬司」イジリー岡田「三沢光晴」



1990年代まではプロレスを見ていた記憶がある。
橋本が小川に完全敗北して引退を表明した後ぐらいから、プロレスを見なくなってきたように思う。
特に新日とか全日とかこだわらず、両方見ていた。
全日四天王、新日三銃士が一番油の乗っていた時期だといっていい。
今は三沢も亡くなってしまったし、小橋のようにひたすら受けて返すようなプロレスもなかなかないし、危なっかしくラフにやっていて、雑な印象を受けるようになってしまった。
20世紀が終わり、21世紀が始まって10年も経っている。
その間何かを積み上げてきたのだろうか、むしろ崩れていっているのではないかとさえ感じる。

「昔はよかった」とはよく言うけれど、懐古主義ではなく確かにしっかりとした技術のようなものがあった。
それは考えてみれば自分の実力を持って相手を輝かせることのできるような技術だったのだと今振り返ってみて思う。
触れているものをキラキラさせるような力があった。
だから数年で消えるようなことはなく、やっぱり10年20年と今も残っている人が多い。

プロレスのような肉体を酷使する世界では体の故障などが多く、20年も残れる人はなかなかいないけれど、たとえばひょうきん族であったり、たけし軍団であったり、ドリフターズであったり、本当にすごいものは残る。

今はそれがないかと言ったらそうではなく、何がおかしいのかというと、今残っている人たちがこの頃の夢を見ながら、今の奇抜な実力者を引き上げる機能が鈍ったのだと考える方が正しいだろう。

よいものをよいと伝える、よいものをより引き立てるようにできるには、当然自分たちにも力がないといけない。
その力がないわけでもなく、使い方がわからないだけなのだ。
これからも「わあ、素敵だな」と素直に言えるようなものが増えていくといい。
そのためにも、自分はその「素敵さ」に参加できるよう努力しなければいけない。
「消費」から「生産」へ。
時代は受け継がれるのだから、次は自分たちの番なのだ。

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01/06

Fri

2012

電気羊は英雄の夢を見るか

もう黙ってられない! 原発なくせ! ちばアクション

ぬまゆのブログ

どうやら福島の放射能汚染が相当深刻らしいですね。
今度は4号機うんぬんとうわさされていますが、しかしマスコミも凄いですね。
これだけの情報制御とダンマリを決め込んで、自分たちのする仕事に対して心が痛むことはないのだろうか。
どういう感情で日々動いているのか、私はそれが知りたいな。
いくら隠しても将来はバレるのだから、自分らの子供が大人になったとき、お子さんは父・母はマスコミ関係者でしただなんて口がさけても言えなくなりますぜ?
今していることは本当の背徳行為だからね。

もし、という話で申し訳ないが東京が遷都することになったら、次は大阪だろうか。
ふと「橋下徹はラインハルト・フォン・ローエングラムになりえるのか」という記事を誰か書いていないのか、書いてもいいだろう、と探してみたがなかった。

もし銀河英雄伝説のような優れた専制政治のヒーローが出てきたら、などとはちらと思ったが、この国にも妥当されるべき「貴族」はいるのではないかと、ろくでもない妄想が頭をよぎる。
こんなファンタジーばかり考えていてもしょうがない。

しかし条件は揃いだしてくる。
今の日本政府のありようが後数年後にははっきり問われる。
これは政党うんぬんの話ではなく「今までこの国を作ってきた中心的な人間を含めたすべての関係者の責任」というものが国民から突きつけられることになる。
そうなると現在活動している政治家や政党は信じられなくなるわけだよね。
誰も同じに見えて、あいつも裏では金勘定して裏切るのではないか、という不審どころの状態ではない雰囲気が一気に蔓延していく。

そうなった時誰に白羽の矢が立つかといったら、もう「中央におらず」「活躍している」「経済界との利害関係にも染まっていない」人間となってくる。
素人でさえ、そう思うのだから、もっと事態が深刻化してきたら、そんな雰囲気広がってくるのではないの?

いまだに揺れが頻繁に起こっている福島。
大きな地震がもう来ないという保証はもうない。
原発だけでこれだけ国が傾く。

電力会社は税金を使って賠償の費用に当てる。
消費税率はアップする。
福島の人たちは見捨てられる。
マスコミは国の財政経済状況を煽る。

今でもテレビでは「暫定基準値よりはるかに下回る」とか言っているが、あれだって「もうこれ以上上げられないギリギリの危険数値」なのだ。
それを今までのパターンと同じように「すりこみ効果」でイメージを植え付けようとしているだけ。

これからもっと見えない恐怖と見えてくる症例は拡大していく。
「電気羊などいない」とアンドロイドが思考能力もなく想像もせずデータから答えるように「放射能による健康被害などない」と答えつづける経済学者や新聞や国家。自分たちが認識しているものや制御したいものの中でしかものを言えない非人道的人間たち。
まるで「放射能や原発の危険なんて、この世に存在しない電気羊の話をするようなものですよ」と毎日吹き込んでいる。まるで「国家」は「機械」そのもの。
「健康被害がないって?どの口が言ってるの。現場に来いよ!その電気羊でこんな目にあってるんだよ!」と怒りあふれる現地の人々。こちらの現地の方々の方が生身の人間だ。

妄想でも狂言でもなんでもない。
公式発表されていることではありえないことが現場で起こっている。
こんな国家を妥当する英雄の出現を求めたくなる心境にもなるさ。

現場に言って話を聞きたいものです。
すっからかんで動けないのが情けないことこのうえないです。

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01/04

Wed

2012

おせち料理から「意味」が抜き取られる時代

御節料理
Wikipedia

御節料理は「縁起物」とよく聞きますし、テレビでも料理番組を見る人なら料理に込められた意味をちょろっと説明してくれます。
しかしちょっと待てよと。
料理を作らない人や、そもそも家庭で正月には御節料理を作ったり頼んだりする習慣がない家庭も、もしかして多くなってきたのではないかと、あるブログの記事を見て思ったわけです。

日本語には

忌み言葉

というものがありまして、言葉に対して非常に繊細な感覚と想像力を昔から持っています。
その逆もまたありまして、この御節料理に代表されるように「験を担ぐ=縁起を担ぐ」意味においても想像力ゆたかに「保存食」とも兼ね合わせて作ったわけです。

ただ「正月もの」とか「縁起物」だけであるわけではなく、一つ一つの料理に意味を込めて、その「意味を想像しながら食べた(祈った)」ことは容易く想像できます。
「縁起物」として「意味を食べる」過程でちょっとずつ今の形になったのでしょうね。

せっかく意味が込められているのだから、バクバク食べればいいってものではない。
一つ一つ噛み締めながら食べることでも「一年の心構えや気分を心に思い浮かべ血肉にする」ことができると思います。

このように意味を込めた料理は結構多くて今でも普通にテレビで行事の季節が来ると自然と流されますが、だんだんと形骸化しているのかな、とも感じるわけです。
味付けに関しては現代では高カロリー高血糖など、食べ物があふれているため昔通りでは多少きつい感じがしますが、そこはさじ加減。

それよりも「作るのが面倒くさい」「頼むと高い」「わざわざ食べるほどでもない」「おいしくない」「正月気分で」「ご馳走ならもっとおいしいものがある」など「意味が抜き取られている」ということに少し恐れを抱くわけです。
そもそもこの飽食の現代日本に、わざわざ古典的な、別に無理して食べる義務もなく、他の惣菜買えばもっと立派になるのに手間暇かけて作り、など食べる必要性すら感じなくなってきていますが、もっと根本的な生活感覚に立ち返れば、「節目に想像力を駆使する」ことが少なくなってきているのかな、と思うわけです。

「文化」とは何かなと考えると「形式」ではなく「想像力」なのかなと思うわけです。
言うなれば「創造性」とも言いますか。
一つ一つ意味や思いを心に描いてみる。
そんな感覚が「創造性」を後押ししているのだと感じることがよくあります。

だんだんと時代の流れなのか、あらゆるものが「形骸化」している。
「形式」だけ残って「意味が抜かれて」いっている。
現代の人は「想像力」がないと言われていますが、豊かな未来を描く想像力をぜひ各々思い描いていって欲しいなと願うわけです。
「意味」という「骨」が抜き取られれば、崩れ落ちるのは容易くなる。
これは色んなところにおいても言えることだと思います。
こんな時代だからこそ、他人の幸福、一年の実りある幸を心に浮かべることのできる創造性をもって欲しいと、御節料理に対する感覚を読みながら思った一日でありました。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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