僕は生きているのが怖い。
楽しい時もあるけれど、ふとした時に動悸がしてきて、不安になって、自分の存在が軽く見えてくる。
何故生きているのかわからない。
だいぶ人間としてもクズだ。
不安を押し込めるために酒を飲んで忘れることが大半の人生だ。
そういう人間が書く。
社会は基本的に強者の理屈に傾く。
強者とは権力を持っている人間だ。
その権力は国家よりも大きい場合があるが、とにかく僕らが知れる大きな存在は、まず国家だろう。
国家とは常に監視しなければいけない性質がある。
何故ならば国家は得た権利を国民が無知であればあるほど独占できるからだ。
君が10億円提示されて、もしタダで何もせず受け取ってもいいと言ったら絶対に「NO」と言わない。
この「タダで受け取ってもいい」という状態が、国民の政治の無関心にあたる。
話を置き換えよう。
権力を得た人間は弱者の言うことなど基本的には聞くはずがない。
君が10億円易々と得たいという人種なら、彼らもまた邪魔者はいらない。
あわよくばそれ以上の価値を手に入れたいと思うはずだ。
それならば関わってくれない方がいい。
関わってくれないのに、言ったことを守らなければ犯罪者になるくらいの勢いで法整備した方がいちいち面倒な対応をしなくて済む。
これが欲望の流れだ。
そう考えると力を得た人間が善人であれるはずがない、というのが僕の昔からの意見だ。
もし善人ならば監視の目があるか、後で書く人種だけだ。
一般人に置き換えよう。
普通、みんな面倒は嫌だ。
自分の生活が脅かされることは嫌う。
資産が脅かされるのを嫌う。
逆に言えば、豊かな人生を歩みたいし、資産は増えていった方がいい。
君の窮状等には関わりたくないし、なるべく言葉で励まして何とかなるなら、それでやって欲しい。
自分の身を犠牲にするまでは責任が持てないし、自分の生活を犠牲にしてまで尽くす義理がない。
他人とは、そういう存在なんだ。
だから強者の理屈がより重視されていく。
より豊かな人生を歩んでいて、より多くの資産を得る人間の理屈こそ正しいとされる。
そしてその理屈が突き詰められると、当然弱者の理屈など何も役に立たない、弱者とは人間の正常な生活そのものに対して危害を加えるようなものとなってくる流れ(見方)となる。
僕と同じような心の弱い君の話になる。
自分の話を聞いて欲しくて、認めて欲しくて、苦しいことをわかって欲しくて、まるで毎日泥の中を溺れながら泳いでいるようなもどかしい感覚の中で、必要とされたくて、やったことを褒めて欲しくて、そういうことがないと腐ってきて、人の愚痴をすぐに言いたくなり、活躍している人を羨み憎しみに近い感情を抱き、孤立しているがゆえに、もしくは似たような仲間と絡むがゆえに、心の中にどんどん毒を作っていき、浮上することもできないまま、低空飛行で死ぬこともできず、ずるずると生きているっていう、そういう人間。
そんな僕らの話を聞く強者などいるものか。
気取って正論だけ喋って、人生一つもこじらせたことなくて、そんな人間どもに何がわかるのか。
だから誰も助けてくれない。
もしわかってくれるのならば、その人は弱者の立場から這い上がった人だ。
人間知らないことは知らない。
この認識というものは意識の差にも繋がる。
極端に言えば上記の人たち。
苦労はしているが腐りはしない。
ああ、きっと人を殺そうとも思ったり、自分が産まれてきてきたことが間違いだったとか、そういうことを思わなかった人間たちなんだ。
きっと人生の中で誰か一人でも大事にされて、その大事にされた存在を信じられる人たちだ。
何故ならそういう人間たちほど心が澄んでいて濁りがない。
接してきたけど、素敵な人間たちだ。
だから、交われない。
僕らとその人たちは、どこかで永遠に理解し合えない違和感を持ち合っている。
どうせそいつらは落ちたことのない人間だし、堕ちたことがないから堕落も心のどこかで嫌悪している。
堕落していく人間を見下し、いざって時は罵りたく感じている。
だからこそ人に文句や嫌な気持ちを抱いて自分を落としたくないから、僕らのような人間とは関わりたくないと当然のように思っているし、その手の理屈を絶対人生のポリシーにしている。
自分のことだって客観的に見て、超面倒臭いんだよ。
普通に見て関わりたくないじゃん。
気難しいし、ピンポイントで褒めてくれないとつむじ曲げるしみたいなやつ。
僕も相当年齢重ねたから少しだけ社会に溶け込めるスキル身に着けたけど、地はそういう感じだからね。
そうなるとどうなります?
「意識高い系」なんて絶対寄り付かないに決まってるじゃない。
そうなると誰も助けてくれないのは必須になるし、自分からいけなんて、突っ込んでいけなんて怖くてできないじゃない。
当然放っておかれますよね。
ネガティブっていう状態になる。
ネガティブなんて状態になったら自己主張もできないし、控えめになるし、人と接していないからどのレベルで出していいかわからないから、出したら途端に過剰になる。
過剰に表現しているつもりないのに他人には引かれて、もう自分なんて生きていけないんだって絶望に浸る。
そういうぐちゃぐちゃした人を誰が救おうとするのですか。
少なくとも面倒を極力避けようとするのが人の世。
ネガティブなものを持ち合わせて、それを表現する人間の元には、同じような人たちしか集まらず、強者とは理解し合えぬまま水と油のまま過ごすわけです。
問題はこっからだ。
じゃあ僕らは放っておかれる。
弱者のままでいたら一生そのままだし思い描いているような理想の世界は永遠に突き崩され続けて「賽の河原」で積み上げた石を崩される鬼を横目に、また積み上げていくような拷問を生きている間に味わっていくことになる。
人に大事にされたことがない人間が、人を大事にできるのか。
その術を知らない人間が、その術を行使できるのか。
「NO」だ。
よって貧しい人間は、より貧しいところへいく。
図書館があるから勉強すればいいじゃないとか、本って難易度が高い。
何も知らない人間が、何かの知識の綱渡りをできるのか、できない。
結局強者の想像力は決して弱者の生身の現状に至らない。
だからこそ権力は監視しなければいけないし、強者に対して声を出さなきゃいけない。
弱者を理解できる強者の出現を待っているまでに、奪われすぎてしまうんだ。
そしてきっとこの国でも安楽死という手段が選べるなら選ぶ人が多くなっていく。
もっと貧しい人たちがいるからとか比較論で言う人間は、恐らくホームレスに缶コーヒーの一杯もおごったことがない人間たち。
内容のない言葉だけを振りかざして、その言葉が何を意味するのかも考えない人たち。
僕たちは弱くていいんだよ。
僕が弱いから認めて欲しいって言う意味じゃない。
残念ながら強者に見える人も大きな欠点があったりする。
いつ人間は転落するのかわからない。
万が一弱者の立場になった時、自分の吐いていた強い言葉が全て裏目になって自分を苦しめることになる。
サクセスストーリー、逆転ストーリーが輝いて見える。
だからこれらの例は珍しいんだ。
僕たちは分かり合えない。
だから弱者は強者のままにさせないように何かを表現している。
小さな小さな声で、小さな小さな部屋の片隅で。
そういう声が掻き消されないように、相手に膝をつくような、強者がもっと年を取って大人になって、子供が自分が言ったことの反対の状態になっていじめられたら、すぐさま自分が間違っていたと改められるような、そんな人間になれないと、どっかの次官みたいに我が子を殺さなければいけないなんて悲しいことが起きてくるんだ。
いいか、膝をついて何十万のスーツに土がつくからなんだ。
下手なことがあると自分が築き上げた名誉が傷つくからなんだ。
弱さなんて、人の転落なんて、誰しもが持ち合わせている。
恐ろしいほどに持ち合わせているのに、無関心すぎる。
それだけ自分勝手さを見事な形で包んでくれながら、何も知らない状態で生きていける素晴らしいツールがインターネットになりかわったのだとしたら、とても悲しいことだ。
体験したことがないことには想像が及ばない。
弱者に優しい世界などない。
だけれど、命に優しい社会は作れるはずだ。
もし自分が転落したら、もし自分の子供が弱者の側に落ちたら、あなたは強者であっても、子供を全否定しますか?
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