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あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

05/12

Sat

2012

能力はそれぞれ独立している

人には色々な才能がある。
はたから見ると、何かに優れている人は、他のことにも優れているのではないか、と思いがちだし、実際私もそう見ていた時期がある。
しかしよくよく人を見ていると、まったくそうではなく、ある能力が突出しているからといって、別に他の能力があるというわけではない。
これは逆でも言える。
なので、人は本当にじっくりと見ていかないと、判断を誤るし、やたら他人の才能のみを潰す俗物に成り下がる。

例えば、話をよく聞ける人、よく覚えられる人、人の話を他人にもよく伝えられる人。
こういうタイプがいたとしても、聞いた話を実行できるかどうかというのは別能力になる。
実行力というか、実効性におけるプロセスを組み立てられない人がいたとしたら、たいてい「あの人、人の話はよく聞けるのに、なんでできないんだろうねえ」となりがちである。
通常この手の錯覚は、ただ眺めている人には気がつかないし、そつなくこなす人にも理解されない。

精神論というのもあるが、あの人が怠惰なのは気持ちがだらけているから。
お前らがきちっとしないのは甘え。
そう言うのはかまわないし、考えるのも自由だろう。
だが、その人たちが気がつかないのは、「何故世界を統一する宗教や思想が存在しないのか」という単純明快な疑問である。
つまり言葉一つで、他人に現象や事実を伝えたからといって、何故人は変われないのか。
明快な答えがあるのなら、何故人はそれに従えないのか。

多くの人が気がつかないのは、自分で発した投げかけに対して、既に通じない部分があるのなら「失敗」しているのに、いつまでもそれに気がつかないのは、異種のものに対して物を見る能力がなく、内省的に自己の思い込みを哲学する能力がないからだ。
この手の人は自分のことがよくできたり、強いコンプレックスを別の能力で補っていたりする。
または社会的に虐げられていて、酷く精神が卑しい状態になっている場合もある。

歌がよく歌える。
優雅に暮らしている。
お金もたくさん持っている。
だからといって、人間的に優れているとは限らない。

話が得意ではない。
いつも黙っているし、コミュニケーションもうまく取れない。
集団に参加しても一人ぼっち。
あいつはどうしてここにいるんだ、使えないやつだと思われていたとしても、手先が器用かもしれない。
実は記憶能力が優れているかもしれない。

人の能力を見つけるには、かなり時間がかかる。
しかもそれは自分で見つけなければいけないし、社会の評価と一致しないかもしれない。
一致しない場合は「趣味」という部類に入るし、その「趣味」が社会の評価と一致するのならば「仕事」にできる。
他人がどう言ったからといって、個人の能力や未来に開花する才能まで限定されはしないが、普通は落ち込むし、自分はダメだ、能力なんかない、社会では評価されない、と投げやりになってしまう人もたくさんいるだろう。

だいたい他人なんて、どんなに親しかろうと、結構ぱっと言ってしまいがちなところがある。
自分を大事にできるのは最後は自分だし、延ばせる可能性、好きになれる素質を見つけたのなら、ひたすらそれを探求し、自分で辛さを受け入れながら能力を伸ばしていくしかない。

もし、できる人になったからといって、今度は自分が他人の能力を卑下するような人間になったのだとしたら、ただの下賎の輩であろう。
才能は容易には伸ばすことはできない。
だからこそ否定こそ慎重に、注意深くしなければ、小さく芽吹いた若葉を大きな足で気がつかずに踏み潰し、それを繰り返した挙句、何の才能も開花しなくなるという状態にまで追い込むこともありうる。

失敗は糧。
うまくいくことこそ少ないのであるから、人間はその身にたくさんの傷を負いながら、成長していくものであると考えております。

他人の才能や能力を大事にできる人間が増えれば、人も国も本当に豊かになるに違いない。
その理想郷を願いまして、本日の考えはこれにておしまい。

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04/25

Wed

2012

ネットゲームの話をしたので少しそこでの話。
私はゲームが好きだけれど、「飽き性」という欠点があり、同じ作業を何度もはできない。
だから最初どんなに面白くとも変化がないとモチベーションが続かない。
もしかしたら「飽き性」という性格がなければ、廃人になっていたかもしれない。



ここでは「廃人」と言っているが、本当の廃人はもっと酷い。
掲示板も管理していたことがあるので、炎上、つまりギルドのメンバーがマナーに反する行動をし、ギルドの掲示板に次々とクレームの書き込みが殺到するという状態を経験した。
そこではログを取っていて逐一どのIDが入ってきているか監視していた。
とくに匿名でできる掲示板だと「工作員」と呼ばれる「余計な情報や煽りで話をそらし、感情を逆撫でして、怒ったところの揚げ足を取る」という人たちがいたので、IDはきちんと見ておかなければ策にはまるからだ。
そのログでは掲示板に書き込んでいる当人は朝方から昼にかけての6時間ぐらいがすっぽり空いて、すべての時間掲示板を見ているというぐらい執着していた。
もちろんゲームも起きている時間ずっとやっている。

ネットにのめりこむ人間は執着心が強く器量が狭く自尊心が高い傾向がある。
月に何万も注ぎ込む重課金者であり、さらに莫大な時間を費やしてキャラクターを強くしているのだから、それなりの精神的な見返りを強く求める。
例えばこれが会社だと仕事して十分な働きを得た分だけ直接的にわかる形で報酬や見返り地位などが欲しくなるが、ゲームだとシステムに則ってわかりやすい形で見えるので、そのらへんの精神的な充足感を得やすい。

廃人とまでいく人間とこじれると、結構自分でルールを決めているなどして、様々な自己解釈をぶつけてくるので厄介な存在でもある。
しかしながらゲームといっても、そこにひとつのコミュニティー空間ができているのだから、従来では考えられないような人のつながりかたもできてきている。
オフ会と呼ばれる現実での集まりや実際に会う人々などがいる。
私のやっていたゲームでもゲームがきっかけで出会い、実際に結婚している人はいた。
ゲームと割り切ってある程度の距離を置き、きちんと時間管理の上でゲームをするのならゲームで済むのだが、中には現実空間よりもネット空間の比重が高い人がいる。
私も精神が荒んでいるところからネットに拠り所を求めていたので、気持ちがわからないまでもないが、健全な人が不健全な生活にまで落ち込むと、ちょっとまずいよなとは思う。
というのは、ゲームをするのではなく、ゲームに振り回される、ゲームその物に自分のスケジュールが管理されるという逆転の状態になるからだ。
韓国などでは実際に殺人が起こるほど「廃人」と呼ばれる人がたくさんいて、社会問題にもなった。
昔ウルティマオンラインが出たときは、わざわざ会社を辞めてまでゲームをする人も現れたそうだ。
最近は聞かなくなったが、やはり廃人というところまでいってしまった人はいるのだろう。

今は「おかしい」という感覚で見られるし、きちんと現実で五感を使って生活している人に取っては理解できないコミュニティーであることはわかるが、私はこれから先もっとネット社会が浸透してバーチャル空間が作られるようになれば、バーチャル空間にのめりこむ人間はそう珍しい数ではないほど増えると考えている。
今ネット化データ化がどんどん進んでいて、情報がどんどん管理されていっている。
知らず知らずのうちにデータを利用され、管理され、個別のサービスに特化している。
そこでさらに登場するのがバーチャル空間だと考えているが、未来の話なので今はちょっと置いておく。

ネットに比重を置いている人間に取って「リアル」と「ネット」と区別している。
「リアル」は現実空間のこと。
「ネット」はネット空間のことなのだが、既に「リアル」よりもネットの方が生活時間の大半を占めているので、正直「ネット=現実」だと言っていい。
そこである種の錯角も起こる。
ゲームだと分かっていながらも精神的な没頭をして、そこに様々な感情を投入したまま引き上げられなくなったり、むしろ辛い現実から逃げられるので、そのバーチャル空間に自分の居場所を見出してしまうなどがある。
こうなってしまうと、結構「廃人」は近くて、もう理屈では引き上げられなくなる。
どんな理屈も辛いだけになってしまい、余計にバーチャル空間にのめりこむ要因を与えてしまうということになる。

私は中学生まで携帯電話を持たせることに反対の立場だ。
というのも、携帯電話を使わなければコミュニケーションが成り立たないというのは、普通の状態ではない、不自然過ぎると考えているからだ。
といっても、今や携帯電話に限らずゲーム機はネット通信を備えているものも多く、バーチャル世界での遊びの場所は拡大していく一方だ。
逆に携帯電話がないと、はたまたゲームがないと、コミュニケーションを取れないばかりに、陰口いじめのターゲットになったりと、ツール一つないばかりに仲間と「共有意識」が持てないというところまで来ている。

ここに書いてあることが「変だな」と違和感を持つのなら、もうちょっと古い世代か、古い感覚の人かもしれない。
未来はもっとこの状態が進むのか、それともあくまで自然的な状態の中でさじ加減を持っていくのかは我々、というかお金の流れ次第だが、ゲームという場所ではなくともネット上では様々なところでコミュニティー空間ができてきている。
そのコミュニティー空間を使って商売をするなど、新しい話ではなくもう10年以上も前からの話なので目新しいことでもない。
後はゲームというシステムがつくのか、それとも別のシステムがつくのか、という話なのだ。

さて、問題になるのは映画の「マトリックス」の世界ではないが、匂いもなければ感覚もない、心だけが存在する世界で、正常な感覚は育つかと言ったら、もちろんそうではない。
実際子持ちの人が廃人っぽくなっている状態も目の当たりにしているし、大学生などが一日中ネットをしているなどざらにあった。
こういう生活は健康にも精神的にもよくない。
遊びの範疇で収められるならよいが、のめりこむ人は自制心がないからそうなってしまうのであり、現実での居場所よりもネットでの居場所が心地よいからそうしているのである。

現実よりもネットの空間に安心感を求めるのは、奇妙な感覚ではあるが一種の宗教的な信心にも似た感覚に陥る。
キャラがあってRPGならばその名のとおりロールプレイができるのだから、理想の自分を実現できるし、現実よりも確かに居心地がいい。
今やほとんどのオンラインRPGは結婚システムを導入しているので恋愛だってできるわけだ。

でもやっぱり、現実よりもネットの方が比重が大きくなり生活がそれに振り回されたり管理されるのはおかしいんじゃないかと思う。
膨大なチャットログに会話は流され、ゲームの終了とともにデータは消え去る。
残ったものは会ったこともない人間の絆で、これも100人いたら10人も残らない。
つまり生産性が著しく乏しいのだ。
何も創造していない。
ただ消費しているという状態だ。

一度ハマってしまうと理屈で引き上げるのは難しい。
そして嫌だと思うことをするのは引き上げるどころか執着させてしまう原因を次々に与えてしまう。
なのでもしネットにハマるなどしたとき、最後の手段になるのは、その状態を認めてあげて、そこでの話をとことん引き出してあげるしかない。
当然ネットを切断して人情沙汰になった事件もあった通り、人生のほとんどすべてになっている人間からネットを引き剥がすのは逆上を誘うだけだ。
よいコミュニケーション方法を与えるのは年上の仕事であって、年下の仕事ではない。
きちんとコミュニケーションが取れないのなら、それは年下のせいではなく年上の能力が乏しいからだと考えている。

もし身内に廃人を抱えてしまった場合、常日頃のコミュニケーションがものを言う。
一度も否定後を使わないで会話をなりたたさなければならないので、高度な技術、忍耐力を伴う。
今は突拍子もないようなこの話も、やがて未来には身近な話になるだろう。
願わくば、突拍子もない話のままであってくれるとよいのだが。


追記:
リアルネット廃人から復帰した人のログまとめ見つけましたのでどうぞ。
http://hamusoku.com/archives/577276.html

こっちは廃人生活で家庭崩壊の話
http://suiseisekisuisui.blog107.fc2.com/blog-entry-539.html

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03/27

Tue

2012

生きる価値ってありますか

ずっと書き込みが決着つかないスレッドがあり、「生きる価値ってありますか」という質問に、誰かが代わる代わる書き込んでいく。
2,3年経ってもまだ書き込まれているし、おそらくそこが終わったとしても、また別の場所で別の誰かが同じような質問をするだろう。

この年になってわかってきたことがある。
精神的に強い人間と弱い人間は確かにこの世にいて、強い人の理屈、よく言われる「やればできる」というような「行動で精神的肉体的に高揚・ステップアップさせていく方法」、つまり「体育会系」の理屈では、どうしてもついていけず、体と精神の調子を壊してしまうという人がいる。
ツイッターでも松岡修三botがあるけれど、ああいう論調のが毎日横にいると、たちまち体調崩す人がいるということ。
場合によっては、死もある。

そもそも精神的肉体的ペースと力の入れ具合の違いを「強弱」という言葉で表現するべきではないが、この資本主義社会、近代社会を維持しているのは、日々働いている人たちであり、社会は当然その人たちの理屈で動いているわけである。
単純に言えば、の話だけど。

そんな社会を動かす人たちの理屈が、とても苦しく、生き辛さを感じさせ、最後には死を選ばなければいけなくなる人たちもいる。
死因としては「うつ病」に近いものが圧倒的に多い。
よく「社会のシステムが」とは言うが、結局突き詰めれば「人に対する接し方」の問題にもなってくる。
システムがどうあろうと、人に対して優しくすることぐらいはできる。

ほとんど全年齢高い数値なのだが、特に中高年の自殺者が多い。
「人生もう行き詰った」「これ以上生きられない」
打つ手がなくなれば頼るものなく死んでいく様子が見て取れる。
断定はできないが男性の自殺者数がずば抜けて高いところを推測すると、この日本社会が「男の理屈」によって支配されているのではないか、とも私は考えてしまう。

生きる価値を見出せなければ、死ぬことに直結していく。
価値という概念を見出せなければ、存在意義さえも失っていく。
ある意味恐ろしいなとも思う。

生きる価値ってありますか。
その問いにたとえ答えがなくとも、誰かに言えるようなことがあろうとも、すべてその人の「哲学感」だ。
そう、答えがなくとも、それでいいのだ。
年齢によっても変わるし、私の日記なんて、私自身が30年後に見たら、卒倒して「なんてくだらないやつ」と罵るほどのことを書き連ねていることも承知しているが、その時にはその時思っていることが自分の正直な気持ちであり、自分に対する生死観なのだと思う。

特に他人の言葉をいくら求めようとも最終的に気持ちに決着をつけなければいけないのは自身だし、当然それは言われずともわかっているだろう。
そして精神的にきついときは「期限を設けない」というのが大事だ。
社会ではさまざまな区切りを設けて、どうにもそこについていけない、自分の体が、お金が、と様々な数字や価値観に区切りを強制的につけられる環境にあるが、最低限の生活があるのなら、期限を守れなかった自分を責めてしまうのではなく、自分のペースにゆったり合わせるのがいい。

比較対象にされながら、自分も自然とその漠然とした強迫観念の中にありながら、人を、自分を責めてしまうが、それは本当に正しい見方なのだろうかと思うところが多分にある。
人間に対する正しい見方とは、一体どういうものだろうと、よく考えるわけだ。

自分も「価値概念」の呪縛から逃れるには相当時間がかかったけれど、つまり「日本社会での考え方も、ただのひとつの基準でしかない」と行き着くには、かなり「自己の確立」が必要だったし、おかげでこのような偏屈で少数的な人間になってしまったけれど、これはこれでいいやと思っている。
だってやっぱり社会のスピードにはついていけなくて体調壊してしまうのだもの。

前向きな言葉、楽天的な観念、それが通常の人間には必要だけれど、暗闇にひっそりいるような気配が必要で、光の強さには耐えられない精神状態の人だって数多くいるということは、よく経験させてもらった。
人を前向きにさせる言葉が、その時には毒になる。
死に至らせるほどの強い薬になってしまうことになることもある。

人間が価値を決めなくとも心臓は動くし、よほどの鉄の意志を持たない限り、食わず飲まずはできない。
本能として生きたがり、思考として死にたがる。
ちぐはぐな辛さを抱くから、ネガティブなことを言うと落ち着く。
そういうのもすごくわかる。

逆に誰かに認められたい、褒められたい、抱きしめられたい、もっとわがままに生きたい、欲望からくる苦しみもあるだろう。
欲望がとことん否定されて価値を見失う。

人の悩みは尽きない。
自己矛盾にどこまでも苦しむ。
いいじゃないか、価値を無理やり見出そうとしなくたって。
そして誰かの中に自分の価値を認めさせようとしなくたって、十分生きていけるし、もしどうしても価値を作りたいのなら、ごみ拾いでも始めればいい。
花壇でも作って花を育ててみるといい。
そんなたいしたことなさそうなことでも、尊い価値になる。

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02/19

Sun

2012

甘えるんじゃない

よく人間が動物自然界のことを持ち出して、現在の人間の成長と重ね合わせようとする理屈がある。
道理としては間違ってはいないし、理屈の展開としても不自然なことはない。

子供は甘えている。
社会を知らず周囲も甘やかすので甘え癖が抜けない。
社会は厳しいので厳しく育てるべきだ。

色々意見や考え方はあるだろう。
私は「子供」という存在は、上の世代が貢献し育てた社会の「結果」だと思っている。
直接関わっておらずとも、たとえ自分の生活を維持するために懸命で、子供などに一切関与しておらずとも、社会を維持するために生きてきたのなら、その間接的結果として「子供」がいると思っている。
そして、その上で「知恵のある人間が動物と同じ理屈を持ち出す」というのは、少し「知恵のない行為」だとも思っている。

植物はギリギリの厳しい環境下で飢えさせ水を与えるとメキメキと育つらしい。
野菜に関しては、この理屈で同じ種なのに信じられないほど味の違う野菜を育てている人がいるのをテレビでやっていた。
しかし普通この理屈を見て知って、そのまま現実に適応させようとすることの愚劣さときたら目も当てられない。
知恵なき行為の典型とも言えるし、やはり何も考えていない人間がバカのようにベルトコンベアー形式で他人の知恵をあたかも自分の知識になったかのようにして偉そうにしているだけ、となってしまう。

なぜここまで言うのかというと、「厳しさ」には「観察眼」が必要だということに気がついていないからだ。
それぞれの個体の性質というものを見抜いて、何が足りなくて何が足りていて伸ばすべきなのか、まったく理解しようとしていないからだ。
この部分が一番労力と持続性が必要で、骨が折れると言っても言い足りないほど努力を必要とする。
この一番大変な部分を省略しようとしているのは一体誰なのか。

社会はマニュアルに沿って育てる方がとても楽だ。
思考も分別も簡略化しやすい。
なのでシステムとして統一し、社会の人間が価値観を一様に共有した方が処理する上ではとても早い。
多様な価値観を受け入れるには柔軟な思考が必要だし、ある意味「答えを求めない姿勢」が大事になる。
正直そんなものをまとめるのは大変だし、いざというとき動きやしない。
今までの理屈が通用しなくなると、システムの組み換えをしなければならないし、とてつもない労力になる。
だからなるべくサボりたい。サボれるもんなら。
そんなこんなで立ち行かなくなると思考が硬直化し、なおさら意固地になるのは、こんな柔軟さを欠いた姿勢があるのかもしれない。

と、ここまでは与える側のことを書いたが、与えられる側は「お前たちが与えないのが悪いのだ」という考えは一切持ってはいけない。
これもまた「子供」の考え方である。
子供はいつか大人になるし、いつまでも子供の考え方では、時間が経って下の年齢の人間がどんどん増えるにつれて「ああいうバカな大人にはなりたくないよね」と後ろ指をさされるようになるし、自分たちが批判していた「社会の、大人の責任」というやつが、いつの間にか「自分の責任」になってしまっていて、子供たちからかつて自分が行っていたことと同じような批判がされるようになる。
これが「時の流れ」というやつだ。
いつまでも子供のままではいられない。
大人になっても子供のような発想では、下の世代から「早く死んだ方がいいよね老害は」と言われるのだ。
「獲得しなければ得られない」
これが人間の基本的鉄則だ。
与えられることは「幸運」なのだ。
このことにたくさん気がつけないと、大人になったとき「たくさんのチャンス」を逃していくことになる。
つまり「幸運の女神」「幸運の神」というやつは、それを見ることのできる人間に微笑む。
人間だって無視されれば腹が立つし、寂しくてやりきれない気持ちになるのだ。
幸運を無視する人間に寛大に神様は笑いかけたりはしない。

個人が「環境を維持」しているということは「何者かが了承している」という状態を意味している。
だから私から言うならば「甘える」もなにもない。
ただ他人の環境に入るのに自分の慣れ親しんだ環境を適応させようとするのは「了承してもらえない可能性」がある。
ここでいざこざが起きるのだろう。

人間にはだいたい「段階」というものが必要で、「千尋の谷に我が子を突き落とす」という理屈はあまり通じないように思う。
そういうのはドラマかアニメの中だけにしてもらいたく、そのドラマ的な思想を持ち出して悦に浸ってもらっても困るわけだ。
「段階」というのは、誰しも生まれて泣き喚くことしかできなかったのが、言葉を覚え、行動を覚え、実践を覚え、知識をつけ、知恵をつけ、大人になり、仕事をしている、という過程をたどるように、いきなり昨日まで甘やかしていたのが今日から厳しくすればいずれついてくるだろうみたいなのは「段階」をすっぽかしている。
それこそ「観察眼なき行為」だとも。

自分のことばかり主張する時代になってしまったと、ところどころで言われている。
それは「互いに向けるべき観察眼を欠いている」ことでもあるように思える。
当然人間なのだから接している限り会話をしなければならないし、きちんと向き合いたいのなら「対話」すべきなのだ。
これらの行為を欠いた突然の理屈は、いつだって少々暴力的な手段になりがちなのは、いつの時代でもあまり変わらないことのように思える。

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02/10

Fri

2012

五感を欠落させないこと

これからどんどん情報化社会になってきて五感情報が欠落してくる。
何度も言いたいのだが、繰り返し言うつもりだが、五感情報を欠落させないことが重要だと思っている。

そんな中、ふと、この言葉遣いでは通じないのではないかというまとめがあった。
よく聞くことだが「精神疾患は努力で治る。精神病になるのは甘え」というやつだ。

私はこの理屈で、冗談でも誇張でもなく現実で命を一つ二つ犠牲にしそうになったので、口が割けてもこれが言えない。
だが、そのような危機になる前は確かにこの理屈はまかり通っていたし私も苦しめられた。
自分が人殺しになるかもしれない、などという危機感などあろうはずがない。

そもそも人間はとことん因果な生き物で、自分の感覚に近い情報を集めて脳内情報として編集し、蓄積していく癖がある。
なので基本的には思いやっても、わからないものはわからないし、理解しようと思っても限度がある。

まとめられていた内容を端的に言うと、「甘え派」の主張は自分の主張がくくっている「グレー」の部分と「アウト」の部分を混同していて、もはや医療そのものに対する批判、暴言にまで自分の主張が達しているのに、その分別ができていなかった。
ようは自分が見てきた、主張してきたものを肯定する情報だけ集めていたのだが、大事なのは自分の意見が批判された時に他者を納得させられるだけの論拠が提示できるかどうかが対話であり正しい分別と思考なのだ。
最もやってはいけなかったことをやっていたのだが、「アウト」の部分「完全に精神疾患となり苦しんでいる人たち」「もはや自分の努力ではどうにもならない人たち」を、「グレー」の部分である「自分が主張している半分落ち込みぎみで努力でもなんとかなるが鬱にもなりそうな人たち」と混同して絡めていた。
自分が思い描いている「グレー」の部分を「アウト」部分と絡めるだけではなく、医療や精神疾患の人たちにまで主張が及んでいるのが完全な暴論や罵倒の部類であるということに気がついていなかった。

このように自分の感覚に沿って情報を集めるということは、いくら表面上綺麗に言おうと以上のようなとんでもない罵詈雑言の範疇を人に対して叩きつける暴力を平然と行ってしまうことにもなりかねない。
そしてこのような主張のほとんどは実例に基づくものに乏しく、ほとんどが「また聞き」「間接的情報」による推論と「極めて小さな規模の個別の事情の集積」による極論である。
テレビでああいっていた、私の友達が知り合いが、といって全体を否定するのは完全な感覚の閉鎖性を示している。
これは分別ある大人とは言えない。
何も理解していない子供が言うことだ。

おそらくこの「甘え」の主張をした人は、私が言う「五感を大事にしろ」の言葉も、自分の感覚の中に取り込んで理解するだろう。
私は経験している。経験したことしか言ってない。だから正しい。
もしかしたら全体には適応できず「自分とそのお仲間にしか正しいこと」なのかもしれないとは絶対に思わないわけだ。

このような事例が目の前に出たからには今回はまた私の主張を補足しておきたい。
そもそも正常な五感感覚とは「自然」であるということだ。
「自然」とは「自然物」のことであり、当然「人工物」ではない。
人工物は人間の作り出したあらゆるものを指す。
情報や自分の中に存在しているもの、人が作り出した物(物体)など、人工物である。
ここで「自然物」を出したときに、混同するところは、一体どこなのかということを考える。

端的に言えば「他者感覚を知る」ことができるのが正常な五感を鍛える近道だ。
私も小説を書いていてようやく気がついてきたが、閉鎖的な感覚、辛いときなど自分の主張しかできない。
自分の主張が精一杯で他人の感覚へ想像力がいかない。
これは知らないからしょうがないとも言えるのだが、他者感覚を鍛えるには、かなり辛いものがある。
というのも自分の感覚を優先させているうちは自分以外の自然に存在している感覚は少し理解し辛い。

例えば風を出すとわかりやすいのだが、風は体に受けないとわからない部分が大きい。
温度や湿度や風力などは体感温度でわかるし、時には雨や雪など気温や天候によって風の中に混じるものが違ってくるのはよくわかるだろう。
そして同じ場所に立っていれば、だいたいは皆同じ感覚と意見で仲違いをせずに一致すると思う。
しかしこれが「どこからこの風が流れてきているのか」とか「この風はどこへ行くのか」「どう変化してきて、どうなっていくのか」という部分になるとたちまち争いが起きる。
ここで一番正しい意見を言うものは足を使って風や地形や雲行きなどを追うものであって、その場から一歩も動かないで体感だけで言う人間ではない。

自然のものを知る。
五感を自然に慣らす、五感情報を人工物によって欠落させない、というのは流れる様々なものの中で自分の立ち位置を変えながら物事を見ていき、今までとは違った感覚があることを知るということだ。
そこに突っ立っているだけでも「知識」はつくかもしれない。
しかし実用的な知恵は頭だけ動かしていてもまったくわからない。
推論だけで語るならまだしも、他人にまで推論を根拠にして指示をするようになる。
自分はずっとここに立ってきて感じたことは間違いないから、”この先もこうなるはずだし、それを証拠付ける体験もしてきた。お前らもそうだ。”、となっていく。
自分は農耕民で相手が遊牧民にもかかわらず平然と言う。
「個人の意見」がいつの間にか「集団の理論」にすり変わる瞬間だ。
自分が立ち位置をまったく変えない限り、自分のテリトリー内での意見であることをわきまえられないと、何もかも絡めてやたら大きな問題にまでしてしまう。

多くの分別のつかない人間がすることは、コンパクトにまとめ、選り分けなければならない問題を、あれもこれもごっちゃにすることで雪だるま式に問題を大きくして、場を混乱させるというのがあげられる。
物事を知ることがなぜ辛い作業なのかというと、自分の立ち位置を変えることは、時として真っ向から反対してくるものの立場と考え方を知るという場面にも遭遇するからだ。
この作業が一番苦痛を伴うし、相手の攻撃性に余計に持論を固めて意固地になる心理作用が出てくるため、大抵の場合は、喧嘩別れする。
それも自分の知識や知恵や教養不足からくることなのだが、攻められ反発しなければ敗北感に見舞われるため、相手を認めたくないし、もし認めてしまったら自分を否定することにつながると感覚的に思うのでやらない。

頭では議論を公平にしたいとわかっていても、感覚的に「勝負」の土俵になってくる。
おかしなことだ。
もしかしたら世界はこんな風に争いを繰り返しているのかもしれないが、少なくとも持論を引っ込めてよく相手を観察することでしか相手の感覚は飲み込めてこないし、感覚が飲み込めないと言語感覚すらも理解できないと私は思っている。

知識を深める。
よくものを知る。
自然を知っていく。
これは「ざっくり」ではいけない。
植物は緑だ。
本当だろうか。
魚は皆水がないと生きていけない生き物だ。
水がないと生きていけない生き物は魚だ。
逆にしてみたがたちまち違和感が出てくる。
Aさんは明るい人だ、と言えても、明るい人はAさんだ、とは言えない。
かと言って、Aさんはずっと明るいままの人だ、とも言えない。
こういう当たり前の感覚が頭だけで考えているとわからなくなるのが怖いところだ。
このような間違いは人間はよく起こすが、その度に自分以外のもの、自然物に触れて頭の中を叩き直していく。
こういう作業ができるのが自然であり、五感が鍛えられていると言える。
昨日までの自分は今日の自分ではないし、ましてや他者ならなおさらだ。

いつの間にかざっくりと知った程度で「わかったつもり」になっていないだろうか。
何か異種のものに降れたとき、自分が間違っているかもしれないと疑問が持てるのが正常な感覚であると申し上げておきたい。
五感を鍛えるには「自然」に触れていることが大事だ。
それは決して理屈の世界ではないことが皮膚感覚でわかってくるだろう。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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