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あさかぜさんは見た

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11/09

Fri

2012

夢は追うもの? 叶えるもの? 見るもの?

以前、夢を語るタイプの中には小さなことからコツコツ語るタイプと、途方もなく大きなことを語るタイプの2種類いて、日本人には前者のほうが受け入れられ、後者はだいたい非難の対象となることが多いような日記を書いた。
多くの人間は夢を見て、それを実現しようとするとき、想像と現実のギャップの埋め合わせが大変で、だいたい根気がなくなるか、もしくは大きな失敗をして挫折する。
世の中には随分と語られるサクセスストーリーが多いが、その後どうして失敗したかとか、失敗してどうなったかとか、そういう人の話は成功に比べて少ない。
特にそういう人間のことを「落ち目の人間ですね」と見る人がほとんどだが、この「失敗」の中にこそ本当の成功へのノウハウが込められている。

プロ、という道を本気で目指そうとするとき、ひとつ覚悟が必要になる。
恐怖と戦うことと、馬鹿正直に可能性を信じることと、行動することを止めないことだ。
特に最初は誰も信じてくれないし、初心者なのは当たり前だし、技術など体験して得るべきものが全て未来にしかない。
そして素人であることの未熟さを曝け出し、親友に話したところで人ごとなのは当たり前だし、時として現実味の無いことに批判すらされるかもしれない。
そうして自分で掴み取るよりも、誰かに使われるほうが本当は楽なのではないか、着実なのではないかと「保険」のことを考え出す。
「失敗してもいいように、いくつかの逃げ場所を用意しておかないと」
これが「まともな考え」とされるけれど、何かを成し遂げようとするのは博打そのものであるから、恐怖に打ち勝つような精神力と肥大する欲望への抑制力がないと、上に上がることは難しい。
特にプロというのは、その道を歩むにあたって、どのような「怖さ」があるのか知り尽くしている人だし、またその「怖さ」をあらゆる技術によって埋めていくものであるから、プロを目指そうとして保険を考えているつもりが、いつの間にか横道にそれ、本筋を見失いながら余計な力ばかり使っているということもよくあることなのだ。

夢を追うには精神のコントロールと欲望の抑制が必須になる。
これは自分の実力(技術以外に対人能力も入る)以上のものが手に入ると思わないことと、失敗しても利点を見出していく好奇心を失わないこと、別の何かに追い立てられるようなことがないよう心の余裕を常に持っておくことだ。
さもなければ、自他問わず何かを責めるようになってしまい、その責めたぶんだけ自分の損失として降りかかってくる。
といっても、この精神のコントロールができる人間は、ほぼ間違いなくある程度達観している人間なので、この境地に至れる人間は数少ないし、むしろ生涯の目標としてもよいくらい難しいことだ。

私の場合だが精神が落ち着かず、何年もまともに動かず酒ばかり飲んでいたし、特に過去に対する未練のようなものが重くのしかかっており、引きずり回して時間を歩んでいた。
そんな黙っていても何者かに圧力をかけられているような精神では、何かに集中することすら難しい。
自分に対して負の要素を抱えている人間も、過去のことばかり気にし、人の批判を恐れ、やがては行動して失敗することに恐怖を感じ、夢を見るだけになり、酒場で語るだけのネタになってしまうことだって珍しいことじゃない。

京都に来て、このような場所だから余計に気がつくことなのだが、この地には数多くの文化があり、様々な形で伝承され発信しようとしている。
たとえば神社仏閣知名歴史などがあっても、知識と好奇心がなければただの建物や文字にしかならない。
狂言だってよく演じられているが、意味を解釈しようとする想像性がなければ、ただの無言の踊りにしか見えず、なんら楽しめないだろう。
人によって、この地では見えているものが違う。
数名の人間と話していると、ハッキリとわかる。
この京都をただの住む場所と捉えているのか、都市という感覚を当てはめ多少刺激の少ない場所と捉えるのか、文化そのものがこの地に数多くあると認識するのか。
何故これだけ違うのかと言えば、好奇心の対象がまったく違い、知識も違ってくるからだ。
今捉えている世界は知識と経験によって成り立っており、世界観を広げていくには好奇心を持ち続けるしかない。
世界は確かに広いが、世界を広く見つめるためにも高い知識と技量が必要になるし、くじけずに進むためには諦観にまみれず好奇心を持ち続けるしかないのだ。

夢を掴むには困難があって当たり前。
むしろ挑戦しなくなることこそ危うい。
行為が続いているのなら、何一つ無駄にはならない。
もし「無駄になった」「失敗して何も残らなかった」などと考えるのならば、それは己の考え方や姿勢そのものが不毛で堕落していることは間違いない。
それは自らへの真摯さを欠いているので姿勢を正すことをお勧めする。
夢にきちんと魂を吹き込めるよう、飽くなき心を失わないように。
夢を目指す全ての人を応援します。

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08/14

Tue

2012

意外にもアドバイスや批判も含めてだが、舌先だけで足りる。
正しいことは誰にでも言えて、こうすれば正しいと思えることを言うことは、どんな人間にも出来る。
だから上から言って鼻でもほじっていれば済むことだ。
世のほとんどの人間は、それだけで終わる。

しかし実際の現場で人にアドバイスするとなり、目標を設定すると鼻などほじっていられない。
実際に行動しなければいけないし、相手の感覚などに合わせた二人三脚のアドバイスが必要になる。
それは相手のことをよく見ていなければいけないし、価値観の合わないものがあったとしても、まずは受け入れなければいけない。
間違ったものがあったとしても、そこから始めなければいけないからだ。
そして間違ったものがあったとしたら、どのようなプロセスを経て改善させていくのかも細かく見つけ組み立てていかなければいけない。

人を一人変えようとしたら、何ヶ月も何年も必要になる。
だから中途半端な優しさや気持ちでは心が必ず折れる。
悪い点があり、非難するのもアドバイスするのも実は容易く、言っておしまいの人間が多い。
言うだけで終わると、人は「言ったこと」だけを覚えているので「なんでいつまでも直らないのだ」と何故か言った労力のみを重視して苛立つ。
つまり「言う=改善される」という想像が勝手に膨らむ。
現実に関わらないだけに妄想の域なのだが、憎しみも嫌悪も妄想の中で育っていくため、わりと深刻な事態になる。

今世の中は情報に溢れている。
現実に関わることなく、映像を見て、あたかも疑似体験したかのように情報を得ることが出来る。
厳密に言えば、それは現実ではなく情報だ。
生身で見に行き、現地で感じてこそ初めて現実になるのだが、現代人にとっては情報すらも現実とする。
情報と現実の境目がなくなってきたのは今に始まったことではないが、例えば情報と現実を区別できないことはどういうことかというと、実際に起こっていないガセネタに感情を激しく動かされることになる。

現代人の制御は「情報」によってなされている。
その「情報」によって心理が左右され、そして一個人の行動が形作られる。
たとえ間違った情報を持っていたとしても、それを心底信じていたら、その人間にとっては現実なため、「それは間違っているんですよ」とアドバイスするのは、既に人間性の否定に繋がるのだからアドバイスは難しい。
ここまでくると「感覚」の世界に等しい。

アドバイスは舌先だけで足りるため、私たちは相手の感覚世界にまで踏み込んでいるということをうっかり忘れるというか、普段すっかり忘れきっている。
それゆえに意図しない衝突が起きたり、一方的に感情をぶつけてしまったりする。
よく「相手の立場に立って」などと言われるが、正直そんなことをしてくれる大人はいつだって「自分の利益」と天秤にかけて動いている。
相手の立場に立つと自分の利益になることが多いからそうしているだけで、善意を持って、というのは中々貴重で素晴らしい人間だ。
もちろん利己的な人間ばかりではないし、善意を持っている人間はこの国にはたくさんいる。
だからまだ滅びないのだろう。

しかしもし舌先だけで正義を語る人間が増えたとしたら、国はいつだって危うくなる。
正義を語り、あこぎな行動をし、得た利益で正義を宣伝するという悪循環があるのだとして、それを糾弾できないほど受け手が呆けてしまったら、国など荒廃するに決まっている。
我が国は未だ年間3万人以上もの人間が自殺している。
例えばこの自殺者を一日にまとめ、一気に首を吊ったとしたらどうだろう。
木一本に一人。
三万本の木に首吊り死体が広がる想像をしてもらえば、どれだけおぞましいことが起こっているかが容易に理解できるだろう。
ちなみに三万人ですら見渡せるものではない。
実際に駅前で人を数えてみるといい。
100人とは、1000人とはどういう単位なのかすら私たちは実感として持っていない。

例えば「死ぬな」とアドバイスするのは容易い。
しかし「どうしたら死なないで済むのか」をアドバイスし、それを達成していくのかは、よりアドバイザーに具体的な行動が求められる。
舌先だけでは足りないことはわかるだろう。
だいたいは舌先だけで、相手が改善の余地なければ放っておく。
無責任とまでは言わないが、結局は無関心なのだ。
そしてその無関心さは余計な事を並べ立てながら、次々と標的を変える。

人にアドバイスすることは難しい。
金メダルを取れと言うことは容易くとも、取らせることは難しいのだ。
もしアドバイスをするのならば「現実に関わる覚悟」が時として必要になるかもしれない。
現実に関わることでしか変化は訪れない。
そして現実に関わってこそ初めて情報を発信できる。
この順序が逆になっては、危うい。

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07/26

Thu

2012

アイディアを育てる社会

人は良くも悪くも想像できないものは信じないという性質があります。
そして一番の盲点となるのは、自分が信じない及び否定している事柄に対し、相手方の立場から物事を構築せず、完全な思考停止状態からの一点張りに陥るという癖を持っています。
これは、どのような人間でも陥る思考の盲点です。

人は己の感受性と経験的な思慮と思いによって、相手の感情を量ります。
時として愚かで、的外れで、おせっかいでもありますが、その閉鎖された感覚と他者への熱心な想いが、何かしらの奇跡と呼ばれるものへの信念を与えたりもします。

人の発展を妨げるのは「想像力の欠如」と、それを促す行動です。
想像力からはじき出されたものを英語では「idea」と呼ばれるものです。
日本語にすると「アイディア、理念、考え」、哲学では「イデア」と呼ばれたりもします。

世の中には信じられないものがたくさん存在します。
その信じられないものは、何故信じられないものなのでしょうか。
答えはわりと単純なところに落ち着きます。
つまり想像できないか、経験していないか、のどちらかでしょう。

私たちは経験せずとも想像の翼を羽ばたかせ、自由に物事を考えることができますが、閉鎖的な考え、つまり最も自己中心的な考えになると、より多くのコストを自ら支払わなければ得られないということがしばしばです。
これはお金の話をしているわけではありません。
私たちが最も建設的な意識を他者に与え、自らも率先して建設的な行動を示せるにはどうすればよいのかの話をしているのです。
何故建設的な行動をしなければならないかというと、創らなければ消費するばかりになるからです。
労働とは生活の為に有りますが、生活の為だけにする行為は、自らの眼で物を見ても、必ず歪んだ眼で見てしまいます。
その歪んだ眼は他者の創造性を必ず阻害するからです。
もっと言えば異種の物を認めない眼を自ら養ってしまうことになるからです。
その行為は他者の創造性を育てず、ただ消費することになります。

私たち人間は、あまりにも個人的で小さなことにこだわって生きています。
その「小さなこと」が個人にとってはとても重要なことで、そして関係のない他者にとってはくだらないものになります。
この違いは何処から来るのか。
他者へは時として「想像力の欠如」を超えて、「己の閉鎖性」を如実に表しているのかもしれません。
現代の私たちは知識をつけました。
それゆえに知る前に論評しようとします。
一度も出会ったことのない人間に対して出さえ、何かしらの評価を下そうとするのです。
これはとても恐ろしいことであり、あまりにも柔軟で豊かな発想を持っているとは言い難い行為です。

しかし私たちは一度に出来ることや、一生に成し遂げられることは、たかが知れています。
だからこそ自分以外の人間は、自分にはできないことをしており、そして自分より優れた素質を必ず持っていると考えるのが健全であるといえます。
私たちはあまりにも今の豊かな環境に慣れすぎていて、他者が何をしてくれているお陰で自分の生活が成り立っているのかを、まったく意識せずに過ごせるほど狂った環境にいるのです。
今の状態こそ、豊か過ぎる環境こそ、異常な状態であると誰も意識しない、異常であると言った途端、お前こそが異常だと指差されるほどに豊かな環境にいるのです。
その慣れに、自分の思考を麻痺させてしまってはいけません。
何にも感謝できず、ありがとうの感動すら忘れる薄っぺらな大人が出来上がってしまいます。

私たちは、相手の考え方が気に入らないからといって、相手のすべてを否定することはできません。
思考の盲点を完全になくすことは出来ませんが、相手の心やお話に熱心に耳を傾け、じっと聞くことぐらいはできます。
都会に来れば、あらゆる人間は他人となり過ぎ去っていきます。
誰もが他者であれば個人主義になるのは当たり前です。
他人同士ならば他者の為に尽くしても見返りがないと思い込んでしまい、その感覚が他者の創造性にすら冷たく接してしまう癖を作り上げてしまいます。
創るものがなければ消費できる期間はあっという間です。
消費のみの社会では奪い合いがおき、必ず疑心暗鬼に見舞われます。
そのような社会では創造性が生まれるはずがなく、人々は荒んできます。

私たちは創造しなければいけない。
創造を大事にする心を養ってこそ、次の創造へのバトンが渡せます。
最初から完璧などない。
失敗から数多くのことを学べばよいのです。
さもなければ食い尽くすだけの消費の文化しか残らず、滅びるしかなくなるのですから。

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06/13

Wed

2012

変わっていくもの変わらないもの

人間の価値観は非常に薄っぺらく、意識の表面に張り付いているにも関わらず、その価値観を必死に守ったり、存在意義そのものであったりする。
例えば、そんな「人間」などという壮大な話でもない日常。
自分の場合「好き」という好意を伝えられた時、警戒する。
それは自分が利益を持っているときに擦り寄ってくる人も同じなのだけれど、「この人間は自分の何を見ているのだろう」と考える。
人の表面上のものはすべて変わっていく。
例えば考え方、容姿、身体的なもの。権力、財力、名誉、所有物。
時間の流れの中でほとんどすべてのものが変わっていく。
そしてほとんどの人は、他人の流す情報に右往左往し、時には傷つけられ、流されていく。相手の持っている「目に見えない圧力」に左右されていく。
多くの人は悩むだろう。
物事の本質はなんなのだろう。
真実があるのならば、正義があるのならば教えて欲しい、と。
そうやって悩み苦しむのが等身大の人間の姿だ。
だがそれは人間の表面上の価値観の姿にしか過ぎない。
この高度な文明社会の中では、集団の操作は「情報」によって行われる。
多くの人は「情報の根」までは探れないし、その「情報」は「何者の意図によって流されているか」までは考えないので、それが「社会上の出来事」のように意識しだす。
そんな薄っぺらいものなど、自分の生活すらも明日転覆することなど、まず考えない。

極端な例が天変地異だ。
今日まで持っていた価値観が180度変わってしまう。
生きていた人は死に、支えてきたものは跡形もなく崩れ去り、残ったものが身ひとつとなった時、そこに残るものは何なのか。
それこそ「人間の根」だ。
どんなに価値観が崩れても、どんなに目の前の組み立てたものが瓦解しようと、人間の中には変化しないものがある。
だが、そこまで極端な場面に置かれなくとも、「その人の根っこ」は見える。

私だってまだまだ浅いところまでしか見えていないし、これからもっと苦労して深いところまで探っていかなくてはいけない。
小説ではよく「普遍性」などと言われる。
そういえば、これほど薄っぺらく聞こえるものもないだろうなと思うし、この言葉を発するほとんどの人間はどこか血迷っているか勘違いしているかの例しか見たことがない。
口にした途端薄っぺらくなるもの。
その人間の浅はかさが見えるもの。
たくさんある。
何かを決めてしまう前に、もっと考えることが沢山あるのではないか、もっと理解しなければいけない、自分が知っていないことがたくさんあるのではないか。
そんな膨大な情報の中から、ようやくうっすらと重なっている部分が見えてきて、糸のような細い道の先に「変わらないもの」が見えてくる。
そんな作業ができるのは、並大抵のことではできることではないし、中には多くの苦労をしてきて、一瞬にして見抜く凄い人もいる。
そういう人間に一度会ったことがあるけれど、一緒に座っているだけで胃がキリキリ痛んだ。

ほとんどの人は「変化していくもの」に対して「評価」をしている。
そして逆転させて物事を考え「評価」は、まるで「変化しないもの」のように考えるところがある。
まるでテーブルを裏返して食事をしているようなもので、それが慣習となっているので、違和感を持つ人間ですら、その不便さに従わなければいけない。
テレビではあれほど波乱万丈ストーリーを美談にしながら、社会ではレッテル張りを必死にしている。
この強烈な違和感。
その違和感すら「日常」になっているほど薄っぺらなものを見ている人たち。

人には矛盾はある。
そのアイロニーの力をバネにして生き抜く力を得ているところがある。
不思議な力だけれど、それが人間の魅力でもある。

価値観を極限まで削って考える人など、恵まれた社会の中ではほとんどいない。
自分の中に最後に残るのは何か、相手の中に最後に残るのは何か。
人はその根っこと環境という土で決まってくる。
ほとんど変化する中で唯一変わらないもの。
そういうものは必ずある。
そしてそれを見抜くには、自分の価値観など、紙切れ以上にもろいものなのだということを性根に叩き込む必要がある。

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05/20

Sun

2012

よく知るにはよく見ること

人には当然価値観があって、癖があって、そして傷がある。
思い込みがあって、曲げられないことがあって、こだわっていることがある。

人は通常、自分の価値観を中心にして物事を見ていて、特に集団でこれを共有する時、自らの承認欲求を満たし、時には共有している価値観が正しいことのように安心する。

そうしていつの間にか薄っぺらくなったものや、信じ込んでいたものが、実はもろく、とてつもなくあっけないものだと知った時、自分の信じきっていたものが揺らぐ。

信じていたものを変えられなくて、長年苦しむ人間もいれば、受け入れて新しい道を歩む人もいる。
ただ、普通は自分の信じているものが崩れてしまわないように、一生懸命努力し、努力するがゆえに崩壊を信じないし、対極にある価値観を否定するし、それが向かってきた時は何らかの防御反応を示す。

通常信じられないものが身近に来た場合、違和感や拒否反応を示す。
そのまま目をそらしたまま、これ以上近づいてこないよう様々な防衛手段をとる。
当然きちんと相手を見ていないので、嫌悪感が妄想を生み、その妄想がさらに嫌悪感を積み上げていく。
やがて大きくなった嫌悪感は憎悪に近い状態となり、話し合いすらも通じなくなる。
嫌悪を向けられた側は、賢明なれば引くが、大事にしていたものが揺らいでしまうと感じたとき、相手の攻撃性に対し過激に反応する。

人はわかりあえない。
わかりあえないのが当然で、わかりあえるとしたら最も幸福な機会を与えられたのだろうと感じるしかない。
しかし全員とわかりあえないわけではない。
中には気が合い、意気投合し、生涯の友と呼べる仲間もできることだろう。
しかし中には友と思っていても、相手と自分の仲を取り持っていたのは「利害」だったのだと気がつくことも時にはあるだろう。

自分の価値観も、また「利」なり。
その「利」を交換できる相手を、いつも望んでいるのが人間だ。

中には犬猿の間柄であったとしても、双方とも慎重で思慮深く、熱い魂を持っていながらも、やり過ぎないという礼儀は守る、という人間で、やがて分かり合えることもあるだろう。
お互い分かり合えなかったが経験をつんで、ようやく互いのことが見えてくることもあるだろう。

ただ、どんな状態であれ、目を背けられ、しっかりと見ようともしないのに、否定などされたら不愉快に感じるのは誰でも一緒だ。
人には価値観があって、癖があって、そして傷がある。
思い込みがあって、曲げられないことがあって、こだわっていることがある。
それが他人にとって、どんなにくだらなくとも、その人なりに大事にしていることがある。
そしてそれは時として愚かしく見え、くだらなく馬鹿らしいことのように見えたりもする。
だがそれでも、そう言われることがわかっていても、やっていることもある。
反社会的な行為で、明らかに直接的に何者かに被害を及ぼしているのなら、それは倫理的に反する行為なので、当たり前のごとく止めさせなければいけないが、そうではない場合は、他者が口出ししてもしょうがない部分がある。

もし、嫌悪感を抱くようなもの、受け入れられそうもないものに相対してしまった場合、普通は逃げる。
関わらないようにする。
それで無難にすごしていける。
酷い場合は目の前に一切現れないように執念を燃やして叩き続けることもある。

もしどうしようもなくなったら、見るしかない。
見て知るしかなくなる。
それもぱっと見ただけではなく、腰を落ち着け、しっかりと相手を見つめ、口をつむぎ、自分の考えをまず捨て去らなければいけない。
そして出てくる言葉に耳をしっかり傾けなければいけない。
そうしてようやく知ることができる。

じゃあ例えば、逆の場合は。
好きから入った場合は。
知りたいと思う。
その知りたいの中にも好きじゃないもの、受け入れがたいものがある。
妥協するか話し合うか、どちらにせよ知る必要がある。
きちんと真正面から目を向けて知ろうとする。
腰を落ち着けて逃げない。
そうしてようやくわかることもある。
拒否していたものがうっすら理解できることもある。
ひとつ世界が広がると、以前の自分とは違ったものの見方ができるようになる。
よく知るにはよく見ること。
そうして出てきた言葉に耳を傾けること。

大変な作業だが、そうしなければ永遠に理解とは程遠い。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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