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あさかぜさんは見た

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11/22

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01/25

Wed

2017

批判の本質 批判されて悩んでいる人へ

調理師免許を取った。
だけど蕎麦屋上がりで取ってしまったので、ほとんど何の知識もない。
しかもチェーン店と似たような仕組みだったから、材料はほとんどできていて後は火を通すだけという状態。
そんな状態で調理師の免許など取っても、技術がほとんどない。
今もことあるごとに動画を見ているけれど、実際にやると特にフライパンは失敗しがち、包丁技術もない。最悪だ。
料理の動画を見ていて思ったけれど、あのやり方がダメ、こうした方がいい等プロじゃない人が見聞きして言っている。
そして喧々囂々と意味のないやり取りをしだすことも。
どうやらこの構図、どこの世界でもあるらしい。
「プログラムって、ほとんど宗教のようなところがありますからね・・・」
と、あるプログラマー。
「絵描きの連中が集まって飲みだすと、やれあいつの描き方がとか喧嘩になることがあるからさ・・・」
と、芸術家の人。
その他日本料理の革命児と言われるような人も新しいやり方を模索して同業の人間たちから猛非難を受けたと言っていた。
私は小説を書いているけれど既存の作品と比べられ「君はこの人のこの作品より劣っている」とか「もっと売れ筋を理解したほうがいいよ」「自分の押し付け」など、様々なことを言われた。

はてさて、何でこんなことが起きるのだろう。
きっと自分の好きなやり方があったり、もしくは尊敬する先生や、自分で積み重ねてきた経験則などあるのだろう。
ここで起きる心理メカニズムについては、長年もやもやしていたけれど、下記の本で私はわりとスッキリした。
予想どおりに不合理

昔は自分もよく悩んでいた。
批判されるたびに何日も悩んだりして、色々な事が手につかないほどだった。
今はあまり迷わない。
判断基準ができたからだ。
特に最初の方は、観察研究勉強のみ必要であって、素性のわからぬ人間の意見など「どの立場からの発言」か素人が判別できるわけがないので無視したほうがいい。


観察研究勉強と言ったけれど、まず、

「観察」とは自然に満ち溢れているものを、余さず見て気がつくということ。
これはネットではなくて自分を取り囲んでいる現実の世界のこと。人と知り合ったり話したり。
旅行に出かけるのもいいかもしれない。
人を知ろうとすること。自然を知ろうとすること。自分の五感を使って情報を得ようとすること。
そうすることで自らの中に軸が出来上がってくる。
この行為は自分の心と体の反応を良く知ることにも繋がっていく。
無理な理想を排除できるし、現実的で着実な手を打てるようになる。

「研究」とはとにかく実践の中で学び取っていくこと。
上手くいかなくても自分の行為から生まれた結果を沢山積み重ねることによって一体どういう癖があるのか、頭で考えていても実際に出来ていないことなど、逆に思いも寄らぬ長所があった、やらなければ気がつくことはない。
そこで大事なルールは決して奢らず、決して卑下しないことだ。
冷静な目を持つことができれば「手ごたえ」のあるなしが感覚でわかってくるようになる。
冷静さと客観性(公正さ含む)を持てるまではちゃんとした目を持っているとは言えない。

「勉強」とは基礎力を身につけ、新しい考え方を得ること。
基礎力とは安定感にも繋がる。つまり実力の底上げだ。
基礎力がないと、何かをずっと続けていくことが難しい。
新しい考えは本を読むことや挑戦という名の経験をしていくこと。
自分が知らない、未知の分野の知識を得ていかないと発想力が身につかず、仕事の広がりを持ったり人脈の広がりを持ったりすることが困難になる。
なにより人間を一番謙虚にするのは未知への好奇心だと思っている。
何故なら世の中には自分の知らないことばかりで、自分ができないことに満ち溢れているし、力の及ばない無数の事柄に囲まれているし、あらゆる偉大な知識は他人から得ていることに気がつけるのだから。


これらのことをしっかりやっていくと、一体何が身につくのか。
何事にも「立場」と「知識のレベル」と「知性」と「環境」がある。
そんな人間らしい事情を考えられるようになると、批判も意見に変わってくる。今までイラッ!としていたのが少し抑えられるようになる。
批判が必要かどうかを判断するには、自分が物事を考えるための軸が必要になる。
何の立場に立つのか、何を大事にしたいのか。
これが見つからないと、批判には耐え切れないし、一々自分のしたことに一喜一憂することになる。
正直心がもたないと思う。
何よりも何をしていっていいのかわからなくなるし、目標も見つけられず、やっていることを放棄したくなる。
十人十色。
様々な色を混ぜて一色にしようとしたら、限りなく黒に近づいていく。
料理だって美味しいものを全て混ぜたらゲテモノ料理になる。
小説だって書きたいものを全て書き表したら、まとまりがなく何のお話かわからなくなる。
必要なものを、必要なだけしか入れない。
この原理を見極めるのが大事になっていくのだ。
そして見極めるには観察研究勉強が大事になっていくというわけだ。
道のりは長くとも、確実に進めるのなら、これほど充実し喜びを感じることはないと思う。
批判をされても自分を見失わず、優れた先人の知恵を得ていけば、自ずと気概も持てるようになります。

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11/09

Wed

2016

【ナショジオ】地球が壊れる前に

地球が壊れる前に
http://www.ngcjapan.com/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/2058
とっても作りがわかりやすくて、本当によかったです。
持続可能なエネルギーと持続可能な地球を残すためにどうすればいいのか。
まとめると下記になります。
とにかく次の世代ってよりも、我々が生きている時代に単なる温暖化を超えて難民問題が発生するということ。つまり地球から人類が住める場所が少なくなってくる。
今パリやドイツなどを見てもわかる通り、あのレベルではなく桁違いの難民、数にして数億単位で増えるということは、国家を揺るがしかねない安全保障上の問題と人道上の問題がぶつかりあって一国を揺るがすことになる。
そのまま海面上昇によって沈む国家と人間に対し「死ね」とは言えないから、各国での難民受け入れは、このまま海面が上昇すれば必須となってくる。
本編は特に隔たることなく満遍なく網羅していたのが物凄いいい仕事してる感ハンパなく、牛のメタンガスの温暖化効果、その飼料にどれだけの森林が壊されているのか、パーム油畑による森林破壊、例えば油で揚げた製品のほとんどすべて(お菓子、インスタント麺等)は、パーム油が使われているから、それを食べることは森林破壊と温暖化に力を貸していることになると示唆しているのは、あまり表には情報として出てなかったんじゃないかなと思ってます。
化石燃料消費(電力等)による影響と、温暖化を訴えた科学者への嫌がらせ。
「インサイダー」という煙草の害を訴えた職員が戦う映画があったけど、いつになっても利益団体を脅かすことは、あからさまな脅迫とメディアを使われた圧力が加えられるということ。
ディカプリオだって、よく殺されずに済んだものだとさえ思ってしまいます。
私自身も札幌という地に住んでいて20年近く前とは違ってきていると痛感しています。
まず雪祭り期間に雪像が溶けるなんてことはなかったし、雨なんて降らなかった。
積雪も数メーターあったのが、今は溶けたり積もったりで腰くらい積もることが珍しい。
そのうち雪祭りはできなくなると感じています。
このまま南極などの氷が溶け続け、海面が4,5メーター上昇すると、一体どうなるのか一目で見られるツールもあります。
http://flood.firetree.net/
海面上昇でどこが浸水するのか。
沿岸沿いに住んでいる方、ぜひ調べてみてください。
今北九州の小説書いていますけど、例えば工業地帯は全部水没し、小倉駅周辺も浸水することになります。
今撮っている地域の写真が幻になる未来が20年30年後に待ち構えているわけです。
札幌は北にある石狩市は完全に海になり、大通のテレビ塔から車で1時間近くかけて海を見に行ったのが、わずか20分の距離までになってしまう。
難民のことを書きましたが、難民は国外ではなく実は国内でも出てくるんです。
これぐらい深刻な海面上昇が起こると、まともな水を確保することや食料を作ることすら難しくなってくるわけです。
世界に水や食料が乏しくなれば水や食料を輸入などということは不可能になります。
まさに人類は個人のことを考える時代から、子供たち、孫たちのことを考えて生きていかなければならない時代になったのです。
信じられないスピードで変化してしまったということなんです。
私たちは一体何を残すのか。今からできることは何なのか。
少しずつ話し合ってみるのがよいと思います。
誰にって? 友達とか家族とかです。
まずはそこからです。

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11/08

Tue

2016

子供の経験を不足させることは遠回り

これは私が感じている、この国の「生き辛さ」にも直結しているのですが、ほとんどの人が「失敗」を恐れますし、ゆえにリスクのある「挑戦」に歯止めをかけることをします。

こうしていれば安定的に過ごせる。
失敗すると恥。

まるでレールから外れると自分たちが大変な目に合うと小さな頃から子供にも教えます。
ましてや「周りと違うよね」という目で見られることを嫌いますから、歩調を合わせようとしたり、挑戦的な事、その「挑戦的」なことが「親が意識できなかったような意外で突拍子もないこと」だとしたら、親自身がついていけず「やめなさい」と理由も聞かずに頭ごなしに言うことがほとんどです。

今は親自身が挑戦することを忘れていますから、子供の挑戦を認められるには相当意識改革が必要になってきますよね。
多くの親が「子供にはなるべく幸せに人生過ごして欲しい」と思っているのでしょうが、あまりにも漠然としていて何がしたいのかまったくわからない目標意識です。
それが漠然としているから「安定的に」という発想が出てくるのだと思います。

ただこれが「成功」、つまり「人より抜きん出てお金を持ち続ける」という意味でなら、失敗の重要性にもっと目を向けるべきです。
結果的には「順調に物事が上手くいき続ければよい」という状態であればいい。
そこには安定など一切なく紆余曲折、山あり谷ありなのですが、何故失敗が大事になるかと言うと、「物事を上手く行かせる」には「物事が上手く行かない理由を知って」いなければならない。

つまりリスク回避ができるから、落ち目を見ずに進めるわけです。
となると、「どれだけ失敗してきたのか」は危険を避けるためには、とても重要な要素となってくるのがわかってもらえると思います。

人間経験できる範囲って、とても狭い。
農業やってない人が明日から野菜を育てるには、マラソンやったことない人が走りきるには、料理が得意じゃない人がフレンチの盛り付けをできるようにするには、つまらないと思っていた物理学が簡単に理解できるようになるには・・・などなど。
自分が知ってもいないことを色々想像したり、ましてややり始めることは、とても難しい。
それでも、やってできないことはないのです。

50も過ぎてからガンで数ヶ月の余命宣告をされ「この世で最も過酷なスポーツは?」と医者に聞いたら「トライアスロンかな」と答えられ、始め、完走するまでになり、何故かガンも克服していたという超人的な話もあるくらいです。

人は何かに挑戦する際「経験」がとても足かせになることが多い。
知ってるからこそ知ってる範囲での「失敗」を恐れるのですが、失敗は知識以外にも実践における生の情報がとても重要で、当然場所や時代や人の繋がりによっても、大きく成功するかどうかが分れてきます。

少しでも危険があると今の社会は規制の方向に向かいますが、子供から経験を奪っていくことは、それだけ大人になってからの現実感覚を奪っていくということになり、現実感覚がないことは、社会に入ってからとても苦労します。

安心なのは親だけで、子はツケが回ってきて苦労するわけです。
だったら遠回りさせるくらいだったら、どんどん挑戦させて失敗から学んだことに耳を傾け、子供が得てくる知識に大人の好奇心をくすぐられていたほうが、ずっと子供の可能性を広げるし、「成功への原理」を無意識に叩き込むことにもなります。

この「成功原理」。
観察力から養われる先見性。
人との協調によって養われる愛嬌、分かち合い、人を見抜く力。
成功するまでやり続けるからこそ成功するんだという不屈の(楽観性にも似た)精神。
失敗から生まれる次への創意工夫(アイディア・イノベーション意識)。
これ養われると考えたら、もういい事尽くめじゃないですか。

「はいはい、どんどん失敗して大物になりなさい」という気持ちになりませんか?

私は挑戦しない人が挑戦しようとする人を陰険な形で冷笑するような社会は、未来の創造力をことごとく奪っていっているのだと、よく感じます。
苦労を避けても、残念ながら「楽あれば苦あり」なので人生どこかで苦労することになります。
これは他人を見ても自分の経験上からも痛感していることです。
だったら、子供には失敗させる経験を多くさせて「大物への階段を上がる手伝い」をしてあげればいいのです。
そんな人が増えれば、この生きづらい社会も挑戦に対して「面白いじゃないですか。やりましょうよ」という活き活きとした人がどんどん出てくるんじゃないかと思っているわけです。

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10/06

Thu

2016

努力は報われないけど努力はした方がいい

愚公山を移す(ぐこうやまをうつす)~中国故事街より~
http://www.katch.ne.jp/~kojigai/gukouyamawo.htm

努力は報われない。
年をとると当たり前のように受け入れられるようになってくるが、若い時はまったく理解できず周囲を恨んでいた。
「努力した」というものは独善的な感情で、それは苦しい思いをしたからすぐに自分を認めて欲しい、その労力を労って欲しいという感情に近く、テストでもあるまいし、特に作品なんてものを扱っている限りは、その努力など作品でしか見えてこないものを、きちんと客観的に見る力に欠けていたのが大きな理由だ。
自分は凄いものを書いている・・・つもりなのが10年経ってみるとわかる。
今なら赤ペンで自分の文章が真っ赤になるほど直す箇所がある。
酷い文章を書いていたものだ、と思う。
今でさえ色々言われる。
20代の頃は本当に先が長く、ガチで眩暈がして、動悸がして、もう嫌だな、どこまでやればいいんだよ、なんて思っていたけれど、色々経験して表現したいものが豊かになってくると、結果的にはよかったし、いかに自分が未熟であったかがよく理解できるようになった。

さて、肝心の努力は報われない、という意味なのだけど、端的に言うと、
「自分の望んだ通りになんか、なるわきゃねぇだろ」
ということなんだ。
当然物事を通したいのなら、現代では努力よりもアイディア。
そのアイディアを現実的に進めることの出来る徹底した力。
これが必要。

どうして最初の故事を紹介したのか。
ここにはとても大事な事が書かれている。
まず、時間的な捉え方。
個人主義が横行していると、息子が継いでくれて、孫が継いでくれて、なんて壮大な考え方はできないかもしれないけれど、肝心なのは「こうしたい」ということを人に見せ続けるということだ。
そして今の世、というか日本は「何歳まで何をして」「何歳からは遅い」とか、本当にうざったいほど他人の固定観念に晒され自信すら失い、やる取っ掛かりすらも潰しあっているような状況に感じるかもしれないけれど、大事なのは「やり遂げようとする日々の行為」だ。
他人は常にそれを見ている、ということ。
当然尻込みすれば「ほらできなかった」ということを証明してしまうことになるし、あらゆる他人の意志や意見に集中力が削がれるくらいだったら全ての情報を遮断した方がいい。

「何をやり遂げたいのか」
目標意識は大事な事だ。
ゴール設定がないと物事はどこまでもあいまいになる。
物事には段階があることを忘れずに、次にすべきことを調べて行動する。

「限界を自ら設定しない」
仕事は時間に縛られるが、少なくとも「何歳だから遅い」などとは考えてはいけない。
やりもしないことを否定する人間は、いつか他者の可能性を潰す。
人の可能性を潰すような有害な人間になってはいけない。
それだけで社会の多様性は失われていく。

「他者を得させる行為をする」
自らのみに利益があるようなものは他者は振り向いてくれない。
そして理解してくれない人を憎んではいけない。
これは自分の感情だけを見つめていることだから。
勘違いしていけないのは、この「得」とは「金銭的な利益」のことではない。
「得」とは沢山の人と関わって見えてくることだから、どんな目にあっても人と関わっていく勇気を忘れないで欲しい。
そこから初めて「得」が見えてくる。
もしかしたら「徳」にも繋がる行為かもしれない。

誰も見ていない、と思っているのは自分だけで、やはり誰かが見ている。
こんな誰も見ていなさそうな個人ブログでも、ひょっこり誰かが来て気まぐれにコメントしてくれる。
誰も見ていない、自分は孤独だ。自分だけが苦しい思いをしている。
よく精神が荒んでくると思ってしまうことだけれど、もし思い込みそうになったら声を出そう。発信しよう。色々知るように感覚を広げよう。
わりとなんとかなってくる。
このことは楽観主義ではない。
自らを取り囲んでいる現実であることを理解すると、世界は開けてくる。

また、他人は見ているということは、その努力が個人的に報われなくとも、誰かを勇気付けるかもしれないし、誰かの心を打つかもしれない。
思い通りにはならない。
だから努力は報われない。
でも、努力を続けないと、思い描いた全ての事は叶うはずもない。
過去の自分は全て糧だ。
寄り道の先に何か見つかるかもしれない。
そう考えると可能性は無限大になってくる。
昨日の自分を超えてゆければ、今より見えてくるものが沢山あるし、助けてくれる人も現れる。

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05/19

Thu

2016

不安。
不安とは得体の知れない未来予測だ。
つまり「もしかしたらこうなるかもしれない」というマイナスへの想像性への飛躍でもある。
未来は何も決まってはいない。だけれど経験的に「こうなるだろう」という核心めいた、かつ漠然な物事が膨らみ、自らの中で暴走をし始め、さらにグレードアップすると不安を共有することによって固められる。
それは「うわさが尾びれをつけて広まる」ことと何一つ変わりはない。
さて、不安とは何だろう。
自らが守っている何か大事なものが脅かされようとする時不安は広がる。
その大事にしている、時として漠然でもあるこれが脅かされるとは、自らの日常に変化が及ぶという小さなものでも人は不安を抱く。
その不安感を取るにはいったいどうすればよいのか。
あくまで相手の日常性の延長線に、より豊かな日常が存在するということを示さなければいけない。
さもなければ、ことごとく全ての行為は無に帰すだろう。
どれほど説得しようとしても無に帰すのは何故なのか。
人は習慣の生き物であるに他ならない。
人は慣習の生き物であるに他ならない。
だからこそ、その個人としての習慣と、集団としての慣習とは何か、よく捉えなければ人を動かすことは難しい。
不安の原理とは、それほどまでにプライベートであり、プライバシーなものだからこそ、この二つの側面を大事にできないものは、ことごとく信頼を失うことを明記しておく。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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