NHKクローズアップ現代「優しい虐待」記事に関連して。
突然だが、しょっぱなから暗いデータを見てみる。
データーは平成22年度の自殺者の統計である。
自殺統計(警察庁)自殺者というと何を大げさなと思われるかもしれないが、いわゆる「最悪の結果」から見える推測図がうっすら浮かんでくる。
聞けば当たり前だと思うかもしれないが「最悪の結果」は、「どんな理由で死ぬほど悩んでいるのか」がわかる。
たとえば、子育ての悩みで自殺する30代。
女性64人、
男性6人。
40代になると女性が36人に減少する。男性は相変わらず一桁。
となると、父親は子育てに対して「死ぬほど悩まない」ことに対し、女性は「死ぬほど悩んでいる」。
子育てに男性は無関心だと女性は思い込み、男性は職場や仕事の事情をなぜわかってくれないのかと悩んでいる。
そして、40代になって半分近くに減るということは、母親の多くが「思春期の子供」「思春期にさしかかる子供」に対しての悩みであることも見えてくる。
平均初婚年齢は女性で平成21年で28、6歳だから、まず母親の前に大きく立ちはだかるのが「幼稚園」そして「小学校中学年」「中学校」となるだろう。
父親はそれよりも職場環境のストレスで疲弊してきている。
ここ4年を見ても平成19年30代女性40人から年々増え64人にまでなってきている。
なぜ今回自殺者から見ているのかというと、この厳しいご時世、就職失敗することで自殺する若者が増えているという記事があったからだ。
3年前の86人から153人と倍増している。
つまり「就職に失敗」することは、本人の無気力・徒労感・世相感からくる「人生お先真っ暗」という事情もあるかもしれないが、今回の親の「優しい虐待」に照らし合わせると、もう肉親親族に顔向けができない、死んだ方がましだ、と思わせるほどの事情・環境があるのではないか、と疑ってもいい。
「たかだか20年程度の人生。これから4倍も生きていかなきゃいけないのに、これくらいなんだ」となれない重苦しい心理があるということは、後戻りのできない周囲の重圧があるからだと考えるからだ。
前に「将来的な自殺の引き金」と一文を添えたのは、こういう締め付けからくる心理を指摘していた。
そもそも私が「家族の問題」に興味を持っているのは、個人的な事情もおおいに絡んでいるが、それだけでは家庭の事情に文句を言っているにすぎなかった。
しかしNHKなどの番組、子供や親の悩みをちらりと聞いていくうちに、どうやら核家族という閉鎖的な環境の中で似たような事情を抱えている家族が非常に多く、悩む子供と大人が増加し、両者の軋轢は大きくなってきているのではないかという危機感を持った。
そして決定的だったのが「無縁社会」というNHKの番組で、「家族・親族がいても無縁仏になる」という事情をあぶり出していた。
これも末期状態の結果だが、衝撃的だったのは「家族がいても無縁仏」になるという現実だった。
親などが死んだとき、遺品整理の際便利屋に「写真は破棄して」と言う子供が多いという。つまり「親との記憶・親の生活の記録はもういらない」ということだ。
今は思春期の子供を抱えていて、子育てに追われ、老後のことなど考えていられないほど忙しいのは承知だが、どう考えても就職後独り立ちし、一人暮らしなどをして家を離れるなどの子供側の環境があるとしたら、家族との間に軋轢が生じるのは、二十歳未満の環境が大きく影響しているとしか考えられないからだ。
今思春期の子と対峙して、おおいに悩んでいる母親は、今のコミュニケーション方法が正しいのか少し立ち止まって欲しい。
さて、子育てをする際、親が子供に期待するのは「最低限社会に出ても恥ずかしくない子になる」ことだろう。
この日本では「〜しなければならない」という風潮が強く、社会できちんと生活するには、会社でちゃんと働いていける能力を、と何かしら母親も頭をフル回転させて子供のために血を吹き出すような努力をしているかと思う。
極端な言い方をすれば現代日本の会社社会に売り込むための商品を作っている。
どうして「商品」という言い方をするかというと、題名の通り社会に適応するためにと集めている情報・周囲が共有している情報が既に「会社組織」に合わせられた情報であり、そこへ適応させるためには無駄な「個性」が不要であり、きちんと「能力」を身につけ、発揮できるためには、ということを少なからず考えて育てるだろうからだ。
そこまで考えていなくても「自分の手をわずらわせないで欲しい」「私の迷惑も考えて」とは必ず思う。親が「社会の代理」をする、ということだ。
そもそも「個性」というものは「規格外」のものであり、クリエイティブな産業・仕事でなければちょっと邪魔になる。
スーパーで並んでいる野菜はすべて「規格品」だが、なるべく味も形も揃えられるようになっている。
どうしてかというとバラバラだと値段が統一できなく、不公平感が出る。組織だと「個性」など出されては、まとまりがなくなり、生産性が落ちる。日本では反発して組織をかき乱す人間はまず首が飛ぶ。「独自解釈」や「独断行動」は給料もらっている立場でやるな、一人で独立してやれ、というのが大体の見方だろう。
親同士の間でも「あの子ちょっと変わってるわよね」だなんて噂されるのは恐ろしいだろう。親にも周囲に合わせようとする「同調効果」が働く。
曲がったきゅうりやにんじん、規格外野菜というのは味は規格品と変わらなくとも安値で出回る。商品にならない。だが、その曲がったものが「個性」だ。
「節目」という言葉があるが、竹を例に出せば、節目がなければ曲がっていけばバリバリと割ける。節目からぐんにゃりと一回転して曲がってさらに伸びていけば「見苦しいな」と思う。まっすぐ伸びれば見た目にも気持ちがいいし、商品にする際にも「規格外」とならず「安く買い叩かれ」たり「破棄される」ことはなくなる。周囲にも「立派に育って」と言われるし気持ちがよい。
子供はテストや受検ごとに「節目」があり、「節目」ごとに人間の価値を評価されるような脅迫感を持つ。親も同じだろう。まるで「人生の総評価」のような様相をていしてくる。
「評価」とは「ある一定の立場や基準から見たもの」であり「人間の可能性のすべて」ではない。だが感覚としては「未来のすべてを決定されている」という強烈な暗示にかかり身動きがとれなくなる。社会全体で共有されれば本当にたちが悪い。私などは明日にでも自殺しなければいけないほどだ。
しかし人生に「解答」はない。そして人生の「節目」は個々人違う。
3年後とではなく、もっと長い人もいる。それは押し付けられるものではなく、自分で決断していくものだ。
その「節目」を今の自分に照らし合わせたって、本当に自分がたどってきたものが、これがよいのかどうかわかっていない。一応環境上納得はしようとしているが揺れることもある。
だから悩む。
親も子供と同じ土俵に立てる場所にいる。
でも自分の悩みは子供には適応できない。「これが正しい道」と自分の理想のようなものを押し付ける。
自然な人情だが子供は抑えつけられるようで苦痛を感じる。
自分で全力でやらないから子供も「自分で失敗した」とは思えず「親がこうするからうまくいかないんだ」となすりつけがちになる。
さて、「就職させるまで」が「親の使命」だとするならば、「就職させる」「社会に立派に送り出す」ことから逆に考えれば、当然思考は「規格品」を作るための組み立てに重点が置かれる。
そこで「個性」は邪魔になる。
子供のためによかれと思っているのに子供は反発する。子供は子供で自由にやりたい。
そんな勝手な子供を見て、社会に出ればもっと大変なの、あなたのためを思ってやっているのにどうして言うこと聞けないの、となるのは人情として自然と出てくる。
子供は子供で、なんだかんだ言っても親というのは「絶対者」なのだ。
自分の運命を握っているし、日々の生活を左右するほどの影響力を持つ生まれて初めて対峙する「権力者」である。
思春期は自我が芽生え、個性が伸びていく時期とされるが、もっと絞り込んで言うならば「哲学的に自我を捉える時期」とも言えるかもしれない。
未知のことをしてみたいと憧れる、触れている情報が親とはまったく違うし、子供社会の生き辛さを感じて日々立ち回っている。楽しい日もあれば辛い日もあるだろうし、失恋も経験する。「〜すべし」の親であれば話が噛み合わない。
もしかしたら学校で友達と合わせるのに違和感があるのかもしれない。色々理由はあるが、とにかく子供から「本音」を聞かなければ何もわからない。
例えば自分の経験を例に出すと「会話」ができなかった。
親は親で一方的に物を言う。子供は子供で伝えたいことがある。親に反発することを言えば、気に入らないことをすれば反論される。という「常に一方通行のやり取り」が長年繰り返されてきた。
そして親子ともに「私の話なんか全然聞いてくれない。あんたが悪い」という不満が積み重なり「否定癖」が染み付くと、いざ褒めるところが見つけられない、言葉にできない、会話につまる、という普通に考えたらちょっと恐ろしい状況があった。
ぎくしゃくして意思疎通そのものが億劫になる。
子供の力ではどうしようもできなくなってくる。
ちょうど統計で見て、「夫婦関係の不和」で自殺する人は、
30代で男194人、女76人。
40代で男238人、女70人、とピークになる。
全員が子供を持っている世帯ではないが、ちょうどたまりにたまった父親の職場でのストレスと母親の子育てのストレスが子供へ向けられやすい時期が「思春期」とも言える。
親の立場として子供を立派にさせたいというのはわかるが、「立派」とは何を持って「立派」なのだろうか。
社会に入れば様々な価値観を叩き込まれ、お前は間違っているなの、失敗して取り返しがつかなくなるなの、とにかく「失敗」は山ほど出てくる。
子供といえど自分ではない。他人だ。だからこそ他人に何かをさせることの大変さはよくわかる。「〜させなければいけない」という気持ちがあれば、まず潰れるのは親の方だろう。子供は心を閉ざし、対話の糸口を一切なくそうと試みる。両者にとって「〜しなければいけない」は苦痛そのものだ。
特に一旦対話を閉ざされると修復がなかなか難しい。色々やりたい年頃なのに説教しかされなければ嫌だろう。
親だって子育てに対して事情も知らない他人から毎日のように説教されたら精神的に本当に辛い。もし子供の話をちゃんと聞いていないのならこれと同じ状況だと思った方がすっぽり当てはまる。
子供も親も一生懸命やっていることを「褒めてもらいたい」心理は少なからずある。
否定されることに身構える癖がつくと、何をするにも不安になるし顔色を伺うようになる。
「失敗」を恐れ「経験しなくなる」と絶対伸びないし長い時間を消極性で浪費することになる。いつまでたっても成長しない悪循環が待っている。体験した本人が言っているのだから間違いない。
おおいに失敗させて後悔させてやればいいのです。
母親と同じようにとことん行き詰まれば「どうしてこうなるのか」と考え始める。
失敗について考察するのがとても大事なのです。
こういう経験の積み重ねが後に大きな財産となり人間力となります。
「人様に迷惑をかける」という考えをしていたら、どこまでも拡大されて、いずれ「他人の顔色を伺ってから行動する」という癖がつく。それはちょっとまずい。
人生における積極性を失うことは、他人の命令がなければ自分で大胆にくりだせず新しい道も自分で見つけられなくなる。
よく昔「自分探し」という言葉が流行ったが、私は「自分探し」など一生終わらないと思っている。生きている限り永遠にさまよう。そういうもんです。
だからこそ、今の自分を肯定していかないと前に進めない。
失敗も短所も含めて、現段階では事実であり、個人の能力であり、個性なのだ。
ダメなものは徐々に直していく必要はあるが、それよりももっと大事なのは長所に自信を持っていくこと。
そして人間褒められると伸びるものだ。
人はおおいに褒めても、けなしてはいけない。叱ったとしても怒ってはいけない。これが大原則。
ということで最後に誉めの技術。
誉めると伸びるというのは厳密には「誉めた部分が伸びていく」と覚えておくといい。脳にとっての快楽のようだ。
ただ、分別のはっきりしない子供は、なけなしに褒められると「ダメな部分も含めた自分の全部」が誉められた気持ちになって有頂天になるので、誉めるには具体的な方がいい。
ピンポイントで具体的に誉めろというのがコツ。
「この部分は難しかっただろうが、三つもできて、相当前進した」とか「前合ってたここの部分が今もできているということは身についてるから後ろには下がってないよね」とか、もしできたことができなくなっても心理的なことが左右しているかもしれない。「どうしたの?」とじっくり聞いてみる、気がつく余裕を忘れないでいただきたい。
なにせ、人間の知の前身はすべて「好奇心」にあるのですから。
好きになれば失敗にすら興味を持つようになる。
どうして失敗したのかを考えられる力は「好き」からくる。
その力すらもなくしてはちょっと進みが遅くなる。
失敗そのものを恐れるようになるから。
日本では失敗を蜂の巣をつついてしまったかのように騒ぎ立てますが、これは人間の成長を妨げる大きな過ち。
もし育てたいのなら失敗が当たり前だと思ってください。
それも山ほど失敗するのが人間だと開き直った方がよろしい。
誰でもそうですが、人間何かが完璧に揃ってどうにかできることなどまずないのです。
失敗という貴重な経験を前向きに認める(失敗は道が閉ざされることとは違うと認識する)ことこそ、追い詰めないための人たらしのポイントであります。
改善する点が見つかる限り、その分よくなる可能性を秘めている。改善されない限りいくらでも過ちは繰り替えされますが、ここを「間違いは間違いだから絶対いけない」と締め付けてはいけない。「叱る」と「怒る」の境目だと思います。
前に進めるって素晴らしいことじゃないですか。
そして、大事な点。
誉めることができた自分を誉める。
自分だけ一生懸命やっている、という意識を払拭するちょっとした技を持つことはとても大事です。
一日一善といいますが、「ああ、自分子供の嬉しそうな顔を見れた」という自画自賛は、励みになります。
そっと隠し持っている日記帳にハンコでもポチッとつけておくとたくさんついた時は嬉しくなるものです。
我が子といえど、人と付き合うのですから、嬉しいことばかりじゃない。
辛いこと、傷つけられることあるでしょう。
そんなことを素直に話し合えるような関係、そして好奇心を絶やさせないための「ピンポイント誉め攻撃」は忘れないでしてほしいなと思います。
中学生受検の子を持った母親からコメントいただきました。
気になる言葉がひとつありました。「失敗」という言葉を使っていたことです。物事の評価においては使える言葉ですが、人間の人生に使う言葉として大変難があると思います。
最中には考えられないことですが、どこかで覚えておいて欲しい言葉があります。
「人間、死ぬまでが人生」なのです。
他人は好き勝手、それこそ人のことを物のように評価しますが、本当の「失敗」というのは、死んだ時「あいつは死んでよかった」と恨まれながら死ぬ、誰も悲しんでくれない、という状況だと思います。
生きていればいくらでも挽回する機会は訪れるものです。
挽回できると思える想像力、発想力を自分からも他人からも奪わないことが大事です。
よい人間とは、この未来への想像力や発想力を奪うことなく育んでいきます。
それと、たまには適当にテケトーに考えるのもええんです。
「失敗」と思わないで「改善点の大発見」「これはチャンスを与えられた」と言葉を置き換えるだけで、だいぶ楽になりますよ。
「うわっ、私偉すぎる」と自画自賛できます。
長くなりましたが何かの参向になれば幸いです。
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