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あさかぜさんは見た

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10/15

Thu

2015

集合知という幻想 ~集団はより愚かになる~

集団的知性(しゅうだんてきちせい、英語:Collective Intelligence、CI)は、多くの個人の協力と競争の中から、その集団自体に知能、精神が存在するかのように見える知性である。
wikipediaより



簡単に言うなれば専門性の高い共通の話題は専門化同士でしか話せず、集団の分母が増えれば増えるほど知性の低い、より感情的で、かつ欲情的な鬱憤の溜まった、狭量なものたちへ、話題や意見が統一されていくということ。
ネットは人を自由にするかと言ったら、ツールとしては自由に扱えるが、人間の最も醜い本質をより多く反映させる結果となるのではないかということだ。
玉石混交とはよく言うが、ネットとは泥の中から砂金を見つける作業に等しく、知識のないものはより程度の低い話題しか見つけられないし、結局万国共通というか、同じ言語同士で一番話題にしやすいのが「悪口」であり、今や「悪事千里を走る」ではなく「悪意地球を回る」と言ったほうがいいほどだ。
現代の情報の受け取り手は真実かどうかは関係なく「現実味があれば事実」と承認してしまい、そして独自理論や、その他者の独自理論を借りてきて自らを納得させる。まさにネットの論理は「ほぼ思考停止」の状態に陥っているし、大企業や政治家さえも「目に見えない誰か」の存在を大いに気にしている。
これはもはや既に「現代の迷信・宗教」に他ならなく、私は最近よくわかってきたが、このような恐れを抱く人間は自分の足を使って自分の身を使って人と数多く接していないのではないか、または身の丈に合わぬことをしているから「不特定多数」の「自分の目の前にいない人」を気にしなければいけないのではないかと考え始めている。
結局当人の欲望の拡大に原因があり、右肩上がりの利益拡大を思い描いているからこそ生まれる恐怖心なのではないか、などと勘ぐったりするのだ。
誰しも批判は怖いし、人から拒絶されると自分の居場所を失ったかのような喪失感は個人にもある。
会社だと利益に響くということもあるし、株式会社だったら直接株価に響くから、株価から算出される損益に神経を尖らせていることなのだろう。
だがより愚かになる、情報に飼いならされた、物理現象もまともにわからなくなっていく文明社会の人々に合わせなきゃいけないとしたら、それはほぼ完全な嘘で塗り固められたサイクル形式を保つしかない。
つまりA→B→C→D・・・→A→B・・・となっていくような利益循環システムを嘘で完璧に作るのが一番大衆を制御しやすい。
このABCDはそれぞれ独立していてもいい。
ようはAからBへと繋がる嘘を作り次にBからCへと繋がる嘘を作り、ABC・・・は独立した事実であるということが、このサイクルを完成させる仕組みなのだ。
嘘はどこに存在するかと言ったらAとBとの関連性、ということになる。
Aの中にフェイクのようなものがあってもいい。
「私は君にお金を出そうかなと考えている(が、出すとはまだ決めていない)。」
「生きるのに確かに水は必要だ。君には水をあげよう(だが飲み水をあげるわけではない)」
というような内容だ。
さらにBまで繋ぐ嘘は例えばこう。何でもいいのだ。
B「飲み水の確保は難しく、世界は干ばつが急速に進んでいる(が、飲み水はまだ安価で仕入れられる)」
その間に存在する嘘は無数にある。
「今や1リットル500円以上もする飲み水を人口分用意するために我々は大変努力をした。これも皆様が力を貸してくれたおかげだ」
こうなると既に何者かが利益を得られるサイクルって出来上がっていて、さらにこの不都合な真実を調べられる能力のない大衆を巻き込んだ負のスパイラル構造、メビウスの輪のような地獄のレースは感情的に訴えられ、そして感情的に高ぶったところで理屈で固められるということになる。
例えばこの理屈で競合している者を排除するとなると
「あいつは水を独占していて、高値で吹っかけて売っている。人類が水に困り、死者も増えるばかりだというのに、利益のために水をわざと溜め込んでいる」
特に日本人は「利益を独占」とか「利益を多く得ている」とか、他者の抜け駆けを許さぬ民族であるからこの文面は効果があるし、いつでもネット上にふっと湧いてくる謎の文面である。
ライバルが消えた後にうわさを流した張本人が、悠々と牛耳っていけばいいということだ。
このように「悪意に加担するものは悪事に手を貸している」ということを知らぬ人たち、また「完全な善意の裏にある悪事を調べられない」人たちが、「集合知」の正体なのだとしたら集団は完璧な愚かさを極めていくしか手がないではないか、ということを言いたいのである。
つまりは負の釜の底を見ようと頑張っている連中に対して恐怖心を抱くのだとしたら、それは真に戦うべき相手を間違っているし、その手の存在に志が打ち砕かれたとしても、何のために戦うべきなのかを見失ってはいけないのだ。
ここを捻じ曲げてしまうと、より低俗な、より安易な、より直情的な、そしてなおかつ卑屈さによって歪められた何かを産出するほかなくなるし、先ほど述べたように、より嘘のサイクルを塗り固めるしか利益拡大の方法はなくなる。
これはつまり「利益のための利益」であり「人の幸せへつなげるための利益」ではなくなるのだ。
罠はいたるところにある。
目の前の亡霊はあなたを呪い殺すかもしれないが、あなたがきちんと分別を知っているのならば、それ以上は何も出来ない。
決して人のぬくもりを忘れぬよう覚えていられる場所に日々自分を置くことが、「集合知」に巻き込まれないためのコツだ。

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08/09

Sat

2014

国家の国民として

指導者がいかに高尚なことをのたまっても、その指導者についてくる人間はすべて高尚というわけではない。
人は感情に振り回されるどうしようもない生き物で、自分すらも制御できない。
特に怒りや憎しみや嫉妬や焦燥。
そういった心の狭さが自分を苦しめ他人に危害を加えることは多々ある。
別に指導者じゃなくとも個人の問題として感情と行為の問題は常に付きまとう。
今日も世界のどこかで戦争をやっている。
贅沢な暮らしをして、明日の仕事や生活のことを考えながら、自分には災難は起きないと安心して生きている。
とても平和な事だ。平和ボケをしていると言う人もいる。
この国では年間3万人ほど自殺者がいる。
特に60歳以上の人間が1万人だが、50歳以下の人たちが1万人以上毎年亡くなっている。
40代が5千人。
私の世代の30代が4千人。
未来ある20代が3千人。
この数値は毎年出ている。
今戦争で1年あたり健康な1万人の人間が死んだら、この国の人は何と言うのだろう。
本当にこの国は「いい国」なのだろうか。
ある人が「投資」と「消費」のお金の質は違うと言っていた。
その内容のことをまだ調べられずにいるのだけれど、私たちは一体何に対してお金を払っているのだろう。
「税金」ってやつもある。
お金を無視した行為もある。人に対するちょっとした優しさだ。
無関心であれば、係わり合いがなければ、ある問題に対してまったく関係のない自分がいる、まったく関係のない生活を送れる。
どこかでそう思っているんじゃないだろうか。
いや、正直に告白すると自分がそのクチなんだ。
だって、何もできないじゃないか。悩んでいる人はたぶんいないさ、だなんて思い込んでる。それよりもお財布の中身や次の給料や報酬の振込みのことなんて考えている。
個人の小さな問題が、日々の全てだ。
許せないタイプの人間がいる。その許せなさで苛立って、どうしようもなくなる。
きっとその人にもいいところはあるはずだし、悪人というわけではない。
悪人でもないのに許せないのだ。おかしなことだ。
その感情が他人を苦しめているのはわかっている。
私は感情に振り回される。酒に頼って忘れることが多すぎる。ツイッターなんかにも愚痴めいたことをたくさん書いてしまうような愚かな人間だ。
こんな私でも愛してくれた人がいたし、今でも好きになってくれる人がいる。
その「愛情」を糧にして生きている。生きられる。
惜しみなくとは言わないが、芸術活動に対してプレゼントやチップをくれる人もいる。
そういうのがなかったら、自分は生きる気力を持っていただろうか。
他の人はどうだろうか。愛するものがあって、愛されることがあって、だからこそ困難にも立ち向かえたのではないだろうか。
「隣人を愛せるかどうか」「愛するものを見つけられるか」というのは、個人の大きな問題だ。
そして私たちがお金を手放す時、税金にしろ買い物にしろ投資にしろ、もう少し真剣に考えた方がいいのではないか。
そして将来何を残したいのか育てたいのか、そのためにできる自分の優しさを問い続けた方がいい。
本当に優しくあるには、あらゆるものを受け止めなければいけない。
それらのことはきっと、この国の礎になっていくはずだと私は信じている。

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01/07

Tue

2014

偶然検索ワードで引っかかったことだけれど、よい「題」ですので書こうと思います。
さて、人の使う「言葉」には、口語と文語がありまして、口語は感情的に、文語は極めて論述的に展開されます。
そして、言葉においての口語と文語は、一致を見せないのが当然なのですが、どうにも、この両者はいつまで経っても喧嘩をしあうようです。
自分もよく経験しました。

口語は口から出る心に根ざした言葉。
文語は文章上で展開される論述的なパズルのようなものです。
口から発せられる言葉は必ずしも、言葉の意味と一致するわけではありません。
大嫌いと言っても、それは大好きの裏返しであったり、そうだねその通りだよ、なんて言葉はその場をしのぐための口あわせだったりします。
それが文語と大きく違うところです。
対する文語は記述した言葉の意味を辞書の意味とほぼ一致させながら、かつ意味を積み重ねながら意味の結論を導いていくということをします。
一番親しんでいるものは「契約書」でしょうか。
あれは書いたものと読んでいるものが両者意味を一致させなければ成り立ちません。
論文、なんていうのもそうですね。
だから、ロジック(論法)にこだわる人間が、しばしば人の心を踏みにじるのもこの齟齬(違い)によるものです。
口語にこだわる人間は心にこだわり、文語にこだわる人間はロジックにこだわるのですから、両者一致するはずがないのです。
しばしば、宗教的にも政治的にも文語が口語を踏襲し、爆走し続けることは多々あります。

「言葉と言葉のやり取り」という検索ワードだったのですが、憶測ですが一番興味があるのは「何故通じ合えないのか」なんてところだと思うのです。
何故違いが生まれるかというと、だいたい「客観」と「主観」と「当事者」と「他者」における、各々の立場からの一方的なやり取りが原因になります。
当事者は自分の気持ちを知って欲しいことに対して、他者は客観的にこうしたほうがいい、なんて知ったようなことを色々と助言したがるものです。
話もよく聞かないままに、黙っていられずにベラベラと物を言ったり、聞いて欲しくないことまで聞いてしまって信用を失うものです。
そして、最も難しい言葉と言葉のやり取りは「相手の使っている言葉の意味を知る」ということです。
両者、知ろうとしなければどちらかに不満が残りますし、口語と文語のやり取りでもすれ違ってしまいます。
ここが非常に難しいところ。

外国にポーンと2ヶ月以上出てしまえば、日本語を使わなくなるので他民族多文化などの多くの価値観を肌身で感じますが、どうやら同じ言語でやり取りすると、そんな感覚も薄れてしまう傾向にあるようです。
私たちはどこかに「同調意識」を強く持とうとするのでしょうね。
それは「承認欲求」の変化した形なのだと考えています。
そんな「承認欲求」の中で、私たちは多くの場合、自分の持っている言葉の意味を変質させたり、自分自身の言葉の意味を押し付けたりします。
これは言葉における感覚というよりも、圧倒的な経験のなさや、他者感覚の欠如とも言えるでしょう。
経験や他者感覚の欠如は、現場に出て養うしかないので、いくら知識を集めたところで追いつかないところがある。
文学青年少女が独自の世界にこもってしまうのと同じ状態になってしまう。
どこの世界にも知識に凝り固まってしまうあまり、現実世界の微妙な意味を見失う人は多くいる。
言葉を人間が扱う限り、変質し続け、意味もまた微妙に変化し続ける。
10年時代が違えば感覚も得ている環境も育ってきた場所も違うのだから、私たちはもっと他者の感覚に注視しなければいけないのに、古今東西「最近の若い者は」と「大人ってヤツは」を繰り返している有様だ。
なにせ古代エジプトにも「最近の若い者は」というようなものが残っているというのだから驚きだ。

違っている、理解しあえないかもしれない、だからと言って会話をなくすのは間違っている。
いつだって私たちの間の溝を埋めるのは対話でしかないのだから。
そして対話とは、感覚が違うことを前提に、そして立場を尊重しながら交わす言葉のことである。

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06/24

Mon

2013

ジョン・マクホーター 「テキスト・メッセージが言語を殺す (なんてね!)」

ネットをよく使いチャットなどに親しみのある人なら「w」は「(笑)」の意味であることは知っている人は多いだろう。
英語では「lol」と表現する。
日本語のチャット空間でも語尾に「wwwwww」と無駄につけたりし、芝生のようでもあることから「草をやたら生やす」と揶揄する人もいる。
実際何も可笑しくはないのに「w」を使う人はたくさんいるが、英語圏でも似たような使い方をされているらしい。
映像の中で説明されているように「可笑しい」の意味ではなく「好意を持っている」というようなニュアンスで使われている場合も発生してきている。
日本語でもワンクッション置くというか、シリアスすぎる雰囲気を出さないようにわざと「w」を文意の強い意味を和らげる効果を狙ってつけることが多々ある。
または同じように「好意」のニュアンスで使われることがある。

例えば、小説の場合でも過去の文体を褒め称え、現代の文体や用語の使い方を酷く嘆く人がいるが、長い年月で見れば言語もまた生き物なのだということが説明からもわかってくる。
小説の場合でいうならば、一つの命題が生まれる。
「読まれない作品は名作として残るか。読み捨てられる作品は残りうるか」
いきなり「昔の文章はよかった」などと考え堅苦しい文体で書きすぎた文章など、あんまり今の時代読まれないし、なんやかんや若者に受けるような消費型の軽いものも一年経てば立派な中古品として扱われるという現状がある。
ジョン・マクホーターさんは「2033年の16歳が書いた文章を見たい」と言っていたが、言語が生き物であるのなら私も興味がある。
未来ではどんな話し方をしているのか。
文章はどうなっているのか。
事故さえなければ私も生きている年齢だ。

私は言語は「着物」だと思っている。
つまり内面を表わす服装も同じだ。
醜くければそう見られるし、美しければ限界はあるが多少評価は上がる。
他者の評価はそうなるのだが、問題は個人の心の問題だ。
私は個人が使っている言語によって心の作られ方も違ってくると考えている。
そうなるといわゆる「大人が思ってもみない行動を若者が取り出す」ということになり、そして「最近の若者は」という嘆き節か何かに変わっていく。
純粋に興味を注ぐならば同じ言語ニュアンスやそれによって作られた思想によって出来た集団が何を作り出すのかというのは、邪念を取っ払うならば本当は何か知ったつもりの一個人が口出しすべきではないのかもしれない。
お前はそれだからダメなんだとか、こうするとダメになるとか、あまり言うべきじゃないのかもしれない。
言葉は一種の「楔」であり、「願望」でもある。
私たちが覚えておかねばならぬのは、自分が他者に放つ言葉は一種の「願望にも似た圧力」にもなっているということだ。
それを「社会」とか「常識」とかで包んでいる場合は多々ある。

どこかで読んだ気がするのだが、司馬遼太郎さんは二十一世紀に対応するための簡略化した言語が出来上がってこなければいけないというような内容を覚えている。
それは「伝達」という領域において、より時代にあったものが出てくるだろう、そうしなければ対応できなくなる、というような内容だったと思う。
ここらへんはどこに書いてあったか失念したので間違っていたら申し訳ない。
しかしあまりにも簡略化されると詩文調になってしまい、個々のニュアンスで言語の使い方がバラバラになり伝達された側の解釈時間が大幅に増え、「伝達の簡略化」どころではなくなる。
言語というのはある程度共通の理解があって、ようやく成り立つものなのだから。
どこで落ち着くのやら。

よく考えてみれば今の時代は「個人の時代」になってきている。
言論空間はご存知の通り、私をはじめ、皆好き勝手に言いたい放題、自分の価値観で物を言っている。
その慣れの果てが結局「共感」という部分にあるのなら、私たちは単に自分の望む情報を掻き集めているに過ぎなくなる。
そうして生物界のように滅びたり生き残ったりしながら言語もまた進化していくのだろう。
今のSFでも時折出てくるように、直接脳内のイメージをやり取りできるようになったら、今度は言語どころじゃなくなるだろうという疑問も出てくるけれど、私が生きている間にそれが可能になるかどうか、わからない。
今から心配することではないが、そうなった場合、小説などという古びたツールは生き残るのか。
それともマニアのような人間が、言語空間から想像できる自由な想像性を小説の中にあるような独自の言語表現に求めるのか。

テキスト空間と対話空間と文章空間は、まったく別の様相を呈している。
文章空間はあらゆるものを取り込みながら死滅を数多く残し、生き残ったもので進化をしようともがいている。
それは個人の願望にも似た強い意志で残ろうとしている。
それがテキスト空間に変わると「いや、ほんと、俺金ないしwまじ欲しいよねw誰か100万ぐらいくれねぇかなw」となるところが、
文章空間だと「誰もが渇望するだろう。100万ほど目の前に置いて願望成就の布石にせよと告げる人間が現れるのを」なんて気取った表現になる。

もしかしたら、今笑っているようなものが将来の常識になるかもしれない。
恐ろしいことだがw ホントw まったく考えていなかったものが生まれるのは固定概念に捉われている人間にとって受け入れがたいものかもしれないよねwww

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06/19

Wed

2013

成りたい自分になっている

最近「idea」という言葉を考えている。
英語の意味を日本語に直すと様々な意味があるけれど、人はこの「idea」により自らの行動を決定付けている。

キース・チェン:言語が貯蓄能力に与える影響(TED)

キム・ヨンハ: アーティストになろう、今すぐに!(TED)

この二つは実は「今」ということに着目している。
上のほうは経済学者が「言語」の観点から貯蓄率への関連性を述べたものだが、未来系のない言語圏の方が貯蓄率は高く、今を楽しみ将来苦しむ「喫煙」という名の行動は低かった。
それに比べ未来系のある言語圏では逆の数値が出たという。

私たちはいつの間にか「未来」を、一つの目標として捉えているのではなく、どこかしら「今とは切り離された世界」と認識してしまう部分がある。
だからこそ、どこかしら否定的なものが心の中にあれば、達成する前に挫折してしまう。
そして「今」という「結果」から、「未来の結果」までイコールとしてしまう人間がほとんどだ。
これは創造性も何もない行為で、しかも今現在から未来が決定されるのならば、恐らくその人間も創造性を一切発揮していない。
(このことは私自身も猛烈に反省しなければいけない部分です)

成りたい自分になるには「今」と「未来」を心の中で常にイコールとしていなければいけない部分がある。
つまり言語に直すと、「成りたい自分になる」でも「成りたい自分になりたい」でもない。
「今私は成りたい自分になっていっている」という「今」を捉えた表現を常に心の中に留めておく必要がある。
現在進行形の先に、未来は存在するのだ、という認識であると同時に「今」を無視しないための言霊でもある。

私たちのすべてのマイナスの経験などは、ある視点を加えることによって突拍子もない輝きに変わる。
そして私たちは想像性というものを創造性に転化させるには、自他共に抑圧しているものをある程度取り除いていかなければいけない。
言語によってある程度精神の活発性が形作られるのであれば、意外にも歌なども関係してくると最近思っている。
というのは、歌詞があって、どうしても受け入れられない、好きになれないものがある一方、その歌詞が物凄く好きな人たちがいる。
やはり共感できる何かを心の中に持っているから好きなのだろう。
それが悪いわけではない。
それが好きな自分を意識できるかで、今現在の自分がよくわかってくる。
よく使う言葉は何か。
無意識に発している言葉の中に執着心があって、その執着心を探ると、わりと捉われている自分がいたりする。
自己抑圧はいかにして作られたかを考えることも大事かもしれないが、今回のことは「今」に着目している。
「Just Do It」
色々ごちゃごちゃと考えてきたが、実際この言葉が一番大事なのかもしれない。
創造性は一心不乱の中から生まれてくる。
その「一心不乱」の中で抑圧を解放していけばいい。
行動の瞬間からまさに「成りたい自分になっていっている」のだ。
いつか喜びが得られるのではなく、「今喜びを得ていっている」のだ。

そしてもう一つのコツは、「分かち合える喜び」であること、だ。
どんな不幸も無駄になることはない。
後戻りさえしなければ。
だからこそ、前向きな行動の中で自分を壊していけばいい。
今まさに「望んだ自分になっていっている」のだから。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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