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あさかぜさんは見た

日記

01/11

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12/13

Tue

2011

はやぶさ元プロジェクトマネージャー怒る

はやぶさ後継機に関する予算の状況について
http://www.hayabusa.isas.jaxa.jp/j/index.html

はやぶさ2の予算が大幅に縮小されることについて川口淳一郎さんが大きな憤りを持って、ふつふつとこみ上げる感情を抑え抑え書いているのがよくわかる。
前回のはプロトタイプで今回が初号機ということらしい。これからが本番というところで大きな障害を目の前にしている。

一番着目すべき点は、この国の製造が限界を見せることは明白であるから、創造を担う若手を育て、この国の体質をシフトさせなければいけないという点である。
今からでも遅いほどなのに、川口さんの危機感が受け入れられないとしたら、この国の先もどうなるかわからない。

ふと思うのだが、よく引き抜かれないなと頭が下がる。
私が海外のエージェントだったら関係者お金で引き抜き、宇宙開発事業を充実させるべく動く。
国の技術を売るという意識があれば、とても海外にいけたものではないが、やはりそういう話があったとしてもこの国を見限ることなく、こうして辛抱強く訴えかけているのだろう。
これからの宇宙開発事業や技術というのはソ連やアメリカが国家プロジェクトとして、躍起になっていたように、国家の威信をかけた問題ではなく、軍事や民間に応用し世界経済への影響力を持つためにあれだけの競争を重ねているのに、日本は「すぐ儲かるもの」にしか目がいっていない。
既にインターネット社会、コンピューター社会、こんなことは言わなくてもこうしてネットでブログを読んでいるのだから実生活にまで当たり前のごとく浸透しているが、それが宇宙とどう関係してくるのか、という想像力が一切生まれてこないのが不思議だ。

軍事や民間に応用できる技術を持つということは、世界への暴力の抑止にもなるし、国家としての発言権を増せるし、例えば夢のような技術、宇宙からエネルギーを地上に送るとか、未知の物質を調べて新しい発見により、新たな物質を生成できるようになるとか、医療通信製造エネルギーあらゆる生活に関わる技術、とにかくSF小説で書かれているようなことが、当然のように実現可能になり、30年前は考えられなかった今のこのネット社会のようになっていくということになる。

言い換えれば「特許ビジネス」を展開している世界に対して影響力を持てることになるし、何よりも「2番」ではいけないのは、その莫大な特許料を払ってビジネスをするのか、莫大な特許料をもらって技術を与えるのかでは天と地ほどの違いがあるからに決まっているからなのだ。
だから海外の生産力の波に飲まれる日本は創造にシフトしないと製造でも必ず敗北すると危機感を持って言っているのです。

常々繰り替えされることだが国家の未来は若者にある。
若者の柔軟な発想や知識がやがて日本の未来を創造することになる。
人材を育てるにはタダではできない。失敗を何度も繰り返すし、人間として挫折や敗北を経験しながら大きくなっていくだろう。無駄だと思われる、つまり経済的感覚から言えば「投資の回収がダイレクトにできない」状態が何年も続くことになる。
それでも他の国より技術的に一歩先に出るということは、国家として大きな前進であるし、やがては自分たちの生活そのものへダイレクトに反映されてくる。
単純な話として、もしこのインターネットを世界中に展開させたのがビル・ゲイツではなく日本人だったとしたらどうだろう。国家プロジェクトだったとしたらどうだろう。
4兆円もの個人資産を持った人間が日本にいるということになる。これが国家技術だとしたら5兆以上の技術を持っていることになる。
もし5兆以上の資産があり、それで次世代を育成できたとしたら、この国はどうなるだろう。
もしビル・ゲイツではなくスティーブ・ジョブズだったら?アップルが日本生まれだったら?
26兆以上の資産を持つ会社が国内にできている。
未来への技術というのは夢物語ではない。挑戦なのだ。
挑戦というと綺麗事に聞こえるかもしれないが、これがかなり泥臭い作業なのだ。テレビで編集され美談化されているようなものは一部・最後の達成感に集約されることであり、それ以外の作業は地味で長くて時として汚らしく、屈辱にまみれる。それくらい泥臭い。
しかし「夢」を追って、そしてその「夢」こそ、「国家の未来」そのものに関わってくるのだという使命感を捨てずに頑張っている。
その気持ちを、無駄にするようではこの国には未来はない。

国家が与えないのであれば、国民が寄付するしかない。
はやぶさの映画を見に行くくらいなら2000円を募金すれば、少しの間はしのげる。
映画を見たってはやぶさ技術へ何の影響力も持たない。私が開発者なら映画がはやっても予算がこのような状況ではヤケ酒でも飲みたくなる。そんなボヤキは書けないだろうから、ああして要点だけ書いても、大いに腹が立っていることがわかるのだから、よほどの感情であろう。
今生活が苦しい人がたくさんいるのはわかる。
だったら1円でいいじゃないか。はやぶさの映画を見に行く、レンタルで借りるなどする人は、その分を寄付する。一人10円だったら十億集まる。100円だったら百億。
お金が嫌だったら国に大して発言するもよし、ブログで盛り上げるもよし、手段はいくらでもある。
初号機を飛ばそうではないか。みんなの力で。
日本のプライドを込めようではないか。

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12/12

Mon

2011

電子書籍などで、「よい作品だから売れる」と考える前にやること

これはゼロから始める場合にとくに言える。
そろそろ、このような意味もなく湧き上がる自信や幻想はやめにしないか、といきなり切り出す今日の考え事。
というのも、当然よい作品は口コミで広がる、作品がお客を引き込んでくる、と考えられがちだ。
しかし本当にそうなのだろうか。
では「同調効果」で爆発的に売れるものはどうだろう。
何年立ってもリメイクされ、年月が経っても色あせない名作はある。
しかし一方ではけなされ、これは商品レベルではないと言われながら、買った読者の一部を幻滅させながらも十分商業レベルで成り立っている物がある。
これについてどう説明すればよいのか。
今までの流れから言えば売れたものではないものが売れる。
若い世代の、同世代の話のネタやすき間時間の楽しみになっている。
今や目の肥えて金を出し渋る人間よりも無垢な読者に刺激を与えた方が儲かる場合がある。
理想論どうこうではなく、現実なのだ。

作者として当然よいものは作りたいし、よい作品は必ず日の目を見るのだと思い込みたい。
だが私は気がつきました。
「いつ、よい作品が生まれるの?」と。
誰も保証などしてくれないわけです。
それに、「よい作品って何?」この世界の総人口に聞いたってまともな答えは出てこないだろう。
いい加減に「よい作品だから売れる」なんて幻想はさっさと過ちだったと認めるべきだ。
得に芸術家など「個性」を売りつけているわけです。
「個性」に「正解」などあってたまるか。
「個性」を「売りつける」ってことは「人によっては嫌がられる」ということでもあるわけです。
これは「技術」とはまったく違う次元の話なのです。
目の肥えた人間は「技術」や「知識」に対する重厚さを作品の中に求めますが、コミュニティー空間における話のネタ、手軽さにおいては「個性」が重要視されている。
この二つのことを同一視して、技術のことをけなすわけです。
腕がない、商品レベルじゃない。
しかし個性とコミュニティーと演出で商売としては成り立っているのだから、しょうがない。
時代は変わったのだ。
だからと言って、腕を磨くな、技術は関係ないという話しにはならないわけです。
技術がなければ、下地が深くなければ続かないことは当たり前だし、一発屋で終わりたいならまだしも作品群にするためには多くの知識が必要になってくる。
これはどんな道でもプロフェッショナルとして見られたらやらざるをえなくなってくる作業だし、本当に作品作りに真摯に向き合っているならば自然と身につくことなのです。

もし、よい作品というものが存在し、それをあえて定義するならば「技術的に優れており、作品に対する考察や直感力が読むものを圧倒している」となるだろうと考えるわけだが、さてこの定義は読む年齢層によっても違ってくる。
だったら個人で思っている「よい作品」だなんて、幻想そのものじゃないですか。
他者から見たら価値のないものに変わり果ててしまうかもしれない。
「よい作品」とは「共同幻想」なのですよ。
それのよい例が「携帯小説」なわけですよ。
あれは作品を売っているのではない。
コミュニティー空間をそのまま売っているわけです。
応援してくれていた人へのメモリアルと場合によっては言えるかもしれない。

とにかく、ひとつだけ言えることは「同調効果」をうまく利用しているわけです。
人を多く集めて「よい作品感」を演出しているわけです。

じゃあちょっと立ち戻って考えるわけです。
「共同幻想」とは言いましたが「作品の質」とは具体的に誰が決めるのでしょう。
この漠然として曖昧で、誰かの価値観の中にしかない独善的な言葉の内容を、一体誰が決めていくのか。
それは「良い!」と大きな声で示してくれた人が作っていくものだと考えるわけです。
つまり「ファン」の存在です。
歴史に残るなの時間に耐えられるなの、そんな大それたことは「生きている人間」は考えなくていい。
ただ作品に対して懸命であればベストなわけです。
じゃあ「ファン」なる存在を作るにはどうすればよいのか。
私の経験上では作品を公開するだけでは足りない。陳列だけではどうにもならない。
会話の成り立っていない間接的な読者はすぐ離れていってしまう。
存在さえも思い出されないわけです。
もちろん作品が読むものの心をとらえなければ、次の話すら読んでもらえないことは間違いない。
しかし基本は「会話」の中にあります。
会話の奥にある「背景」のようなものを見てもらえると印象深くなります。
親しくなると作品の中身の説明もないのに買ってくれたりしました。
そういうものなのです。
つまり「ファン」とは「自分の存在そのものを応援してくれる人」のことなのです。
作品の質がどうこうじゃない。
あなたが作り出す世界が好きだよと言ってくれる人のことなのです。
このような存在は「読者」とは少し違うわけです。

まず「ファン」の存在が作品を神聖化し、そして「読者」となる人に伝わっていく。
その「読者」の中から、また「ファン」が生まれてくる。
この流れはほとんど例外がないように思います。
結局「買う前から納得」している状態がここにあります。
買うときには既に「お金を払うだけの価値を得ている」状態だからこそ、買ってくださる。
その「価値」について「納得」している状態の人たちが「ファン」であります。
このレベルでは「よい作品」も「悪い作品」もない。
この二つの選り分けは常に後付けでされていくものです。
目が肥えていて作品を客観的に見れる人は常に意見を持ち合わせていますが、好きになってくれるとは、その次元とはまったく違うところにいる。
何か、底知れぬ愛情のようなものを感じるのです。

「よい作品」だから売れるのではない。
愛されるから、価値を感じるから売れるのです。
愛されるためには愛さなければいけない。
そんな基本的で密な関係性を構築できれば、「ファン」は増えていくし、作品の価値も高まります。
よいものを作りたいし常にそうであればいい。
しかし「よいもの」も、最初は思い込みでしか過ぎない。ただの主観でしかない。
よい料理を作るには何度も失敗を繰り返し試作品を作り、おいしいものをたくさん食べ比べ、試行錯誤の上で作り上げるものですが、そんな莫大な労力の上にできる「名作」の出現は本人ですら保証できないし、誰も保証してくれない。
作品が出ても「名作」は「迷作」となり、入り組んだ迷宮の奥深くへ行ってしまうように次々と出される作品の中へと埋もれてしまう。
これが現実なのです。
だから目を覚まさなければいけない。
「よい作品」は、まずは存在などしない。「作品に対する良し悪し」は作品に対する反応は生んでも、作品が読まれる・買われるまでの道筋は「作品そのもの」からは生まないのです。
そのよい例が「青空文庫」の中にはごまんとある。
「よい作品」は作者を取り囲む人たちが作り出す「神秘の像」なのです。

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12/05

Mon

2011

少し立ち止まって考えを整理したい。
今うわさの会社の携帯小説コーナーを覗いている。
そして同時に書籍化された感想をAmazonで見ている。

アマゾンの方はかなり、猛烈に、これでもかというほどの酷評。
そもそも一般文芸から携帯小説というのも無理があるだろうし、批判している人の中には実際に文学賞を狙い、何度も投稿し、何作も書き上げている人もいるだろう。
自分と作者との労力と努力の差から理不尽さを感じ嫉妬し下品なコメントをしている人も中にはいるだろう。

私はといえば、携帯小説など肌に合わなかったし、内容の酷さ、繰り替えされる同じネタ、シチュエーションのえげつなさ、これが本当に未成年の読み物かと気持ちが悪くなったし憤りも覚えた。正直日本語のことよりも内容その物にショックを受けた。
でも実際大人が知らないだけで子供の性の事情は深刻だし進んでいる。
二十年前の私の中学生時代でさえ3年生にもなれば噂レベルではなく結構している人がいた。知っているだけでも5人以上はいた。つまり、学年で言えば1割ほど。そしてその頃は市内の中学でもトップクラスの学力を誇った。そこでさえそれだ。
今ならもっと低年齢化していても別に不思議ではないだろう。
しかもこの手の話題、えげつない事件も含め、大人にバレるものは末期となる。
つまり学生だけでは対処できないような際どいものだけが表出し、穏便にすませられるものはやり過ごされる。
校内でレイプが起こったとしても、親に迷惑かけたくない、学校中の騒ぎにしたくない、口に出すのも嫌だ、などの理由で負の事件は黙っているなどもある。
同意の上ならば絶対に話さない。
だから自分がしていなくとも、友達がしたとかの理由で話の話題にあがっていると思われる。
得にいじめとなると陰湿だし、やり口も汚いし、そういう子たちって絶対に逆らわない、チクらない子を選び取るのがうまいから、これもなかなか表出しづらい。
つまり表には出なくとも「知っている」のだ。
自分が参加しなくとも「知っている」のだろう。
これはネットの情報がどうこうという問題ではなく、子供を取り巻くすべての環境に言えるかもしれない。
と、このようなことを考えれば、今の携帯小説の内容について憤っていてもしょうがないと考えることにした。

国語表現については、確かに問題があると言える。
しかしその前にちょっと待てよと考え直してみた。
そもそも何が凄いかって、1万でも2万でもコミュニケーション空間を作れること自体凄いのだ。
自分の小説ではそれだけのコミュニティーを作ることさえできない。
その点では日本語表現うんぬん以上に凄いこと。
この国は資本主義で動いているし、会社だって社会に奉仕するためにあるわけではない。
稼がなければいけない。
つまりもっと言えば、金を持っているものが勝つ。
稼いだものが発言権を増していく。
それがお金の理屈なのだと私は考えることにした。
あれはだめ、これはだめ、そう言ってお金を投資しなければ大事なものは残っていかない。どんなに優れていようと金がなければ滅びるのだ。
これは厳然たる事実なのだ。
芸術において、この理屈はこれからも覆されないだろうと思う。
そして金を持っているものが人を雇うことができ、人を雇ったものが、会社を動かしていく。
つまり、お金の払われないところには滅びが待っているだけなのだ。
会社は稼げる間は必ず繰り返す。
稼げなくなるまで繰り返す。酷いと罵られようが、これは商品じゃないと言われようが稼げるうちはやるのだ。向こうだって家族がいるし、食っていかなきゃいけない。
こんな当たり前の理屈に対して何が文学だと反省することにした。
不満があるなら今携帯小説に食いついている人たちに対し、面白いものを作らなければいけない。
もっといいものを作って、コミュニティー空間を作って、彼らに対してアプローチしなければいけない。
そういうことを考えると、さぼっていたんじゃないのか。
若い人たちに文章の面白さをきちんと伝えていくことをさぼっていたから、新しい時代に対して新しい表現を編み出し、彼らへの面白みを創造することをさぼっていたんじゃないのか。
古典がどうこう、近代文学も読んでないのか、このジャンル書くのにこれは押さえておけよ。
しかし何も知らない読み手は、そんなことどうでもいい。
活字がズラッと並んでいるのを見ると勉強しているようで嫌になるんじゃないだろうか。
夏目?芥川?川端?三島?江戸川?溝口?司馬?なにそれ?知らない。これでおしまいだろう。
勧めても「長いし面倒くさい」で放置。
それが現実なんじゃないだろうか。
私だって中学のころは児童文学も面白くなかったし、「龍馬がゆく」を勧められても文字数の多さ、大人の世界観に入っていけなかった。
今は面白いのだけど、やっぱり人はステップアップしていかないと面白いものにも面白みを感じない。

こうじゃなければいけない、ああじゃなければいけない。
自然とこのような考え方が染み付いていた。
隔たった考え方をしていたのは、自分であったかもしれないと、今猛烈に反省している。
人を集めて金を出させたものが勝つ。人を集められるだけの作品を書けなければ敗北するのだ。
今回は始めに書いたように整理のために残しておく。

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11/28

Mon

2011

パソコン壊れるのも結果。
運も実力。

圧倒的に実力がないと叩きのめされた一年。
また文字書くのが怖くなってきたな。
手につかない。

ということで、出直してきます。

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10/28

Fri

2011

態度の悪い詐欺師はいない

詐欺師というのは通常人間の信用を掴まなければ騙すことはできない。
例えば、大きな投資の話を持ちかけるとして身なりがよく言葉遣いが丁寧でよく相手の事情を知り上辺の利益を強調する。
その上で契約を良く読まないような相手に契約書にサインさせ、法的にも有効であることを主張する。
騙された相手が悪いのだ。

通常、言葉遣いが悪く、態度もでかく、人を馬鹿にするような人間を信用して一緒に大きなプロジェクトを組もうなどとは絶対に思わないだろう。
詐欺師はそのことをよく知っていて、相手の弱みをよく研究し、そしてよくつけこんでくる。
表向きは全面的に協力することを約束しているが、内容はすべて相手側ではなく詐欺師側に有利な条件が盛り込まれている。
全面的に協力するのは当たり前の話だ。

ここで言いたいことは、物事の本質は表面上の事だけではわからないということだ。
当たり前のことを言っているようだが、現実では騙される人間が後を絶たないことを見れば我が身に降りかかったのがわからないほど理解していないのだから救いようがない。

利権・利益というものが絡んでいる時、まず最初の段階がとても大事になる。
心理学用語ではフットインザドアと言って訪問販売の時、玄関を開けさせるのは大変だが開けたら室内に一歩足を踏み込ませて戸を締められないようにする。
そうして心理的プレッシャーをかけながら断れないようにとくとくと説得をする。
ここで大事なのは、あまり深く考える間を与えずに相手を得させることだけしか言わないことだ。
不利になることは、あったとしても決して喋らない。
経験がある人も多いだろう。
多くの場合、つまりニュースで見えることなど含めて、玄関の扉の話をしていることが多い。
どんなに詳しく語っていようと扉の装飾を懸命に解説しているのだ。
しかしその扉が開け放たれれば、足を踏み込まれ二度と閉められなくなる。
これが国家の利権問題に関わってくる事柄ならば、何十年と時間をかけて二歩目三歩目と踏み込み、最後には国家主権を奪うように手を打ってくる。
あとは国そのものが実質的には国民の手によって司られていると見せかければいいだけの話だ。
表面のことだけであれこれ言う教養のない国民ならいくらでも騙せる。
ましてや日本の国民の性質を見れば、集団を染め上げれば反論など勝手に消えていく。
つまりその集団が反論するものを自動的に排除弾圧していくからだ。
日本人はその点制御しやすい。
ただし、無教養である場合においてのみだが。

最近国家の未来は教育ではなく教養にかかっているのではないか、と考えている。
よく考え、よく鍛錬し、よく尊ぶ。誰かの未来を懸命に苦慮する。
これらのことをしっかりと考える人間が多ければ多いほど国は富む。
自分の私生活に置き換えて「私パンしか食べないしご飯の事関係ない」とか「アメリカ文化大好きだから別にいいし」なんて国家の利害のことを平気で語る浅ましい人間が増えてしまったら簡単に騙され、誇張でもなんでもなく奴隷に近い扱いをされるまで落とされるということをしっかり頭に叩き込んで欲しいと思うことしばしば。

この国に、ちゃんと「国民」がいることを願うし、この国がきちんと「国家」であることも願っている。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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