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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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04/01

Fri

2011

精神の調子が良い時、素直にいろんなものが入ってくる。
悪いものも良いものも分別されず素直に入ってくるので、頭の中がぼんやりした状態で、互いにぶつかりもせず干渉しあう。
これは個人的な感覚だから説明するのは難しい。

この記事はメモ書きとして使おうと思う。
箇条書きに近いものもあるので人に読ませるものでもなのだが。

妙なイメージが見える。
最初は躍起になって動いて人を励ましていた人が、やがて関心が薄れ忘れたようになって行く姿。

人の考えは確証的なものが得られないだけに、何もかもが正しい。
ただし、決定していないどの考えにも反論は加えられるので、どれも間違っている。
つまり未来へ実証的に動いていくか、それともデータによる法則性を提示するか、になる。

希望は「バタフライエフェクト」で、つまり「蝶の羽ばたきが、地球のあちら側の台風を起こす」という理論に基づくが、その反対も言える。
たいがい「覚悟のない希望」を唱える人間ほど非常時に逃げ出すものだ。

「私は自分を貶めても平気だし、自分の底を知っているからいくらでも這い上がれるまでの期間を予測できる。でもあなたは違うみたい。必死につくろって今たっている位置を保とうとしている。あなたと私の間にはそれだけの決定的な佐がある。今のあなたには私を見抜くことができない」

世の中には自分のことを相手に出す時に歪んだ形でしか出せない人がいる。
俺もそうだよ。
思い返せば、家庭内に会話というものがあふれていたら、俺はわざわざ自分の気持ちを文字にするまでもなかった。
人一倍認められたいとか、認められないゆえの歪んだ他人への恨みとか、典型的な日本人の閉鎖的な発想が、強烈なアレルギー反応として体に染み付いている。

たいてい人は自分自身への矛盾や盲点が、そのまま他人への盲点になる。
自分のことを知らない人間は他人に自分を押し付ける。
なぜか。
それは自分の中の矛盾や盲点から起こる強烈なフラストレーションを他人で実証したいという欲求があるから。
矛盾の解消を実証によって補おうとする。常に。
自覚しているならまだかわいいが、自覚していない人間は話し合うに値しない。

そう、だから自分は友達を失う。
人の矛盾なんて暴くことはない。そっとしておけば幸せに過ごせるじゃないか。
ある意味身も蓋もない考えでは、人から賛同されないのは当然のことなのだ。
もっと認めてあげればいいのに。

よく考え、よく物事を見ている人は観点が鋭い。
年は一切関係ないということがわかった。
年配でも自分を誤魔化し続けている人はいる。

希望も絶望も同時に語る。
それは現実だろ。
希望は「実践」において重要。
だが他人に説くものでもないと思う。
希望は語るものじゃなくて見せていくものだ。
そして魅せられた人が希望を実践していく。

東京というのは情報に操られる都市なんだな。
だから希望的な情報も「価値」となる。
絶望的な情報も吸収される。
だから現実と脳内仮想を両立した一種の情報都市になっている。
資本主義社会に生きていて、毎日その社会を維持させるために働いて金を回しているのに「自粛ムード」が流行るのは、どういうことだろう。
経済学を学んだことのない私でも金は血で、血が回らなくなると体そのものの組織が死んでいく、という理屈を知っているよ。
自粛したからって何の助けにもならないばかりか、逆に個人も他人も苦しめることになる。
この矛盾を解消するために他人にも「自粛」を促すことで生まれる矛盾を解消しようとする。
きっと「働く」ということも、とても個人的なところに理由があるせいだろう。
東京人などの都市人間は「公共性」を「社会を通して」ではなく「社会を構成している私個人を通して」見ている。
その典型例が巨大組織のトップに見られるような(目立つからよく見えるのだろう)、へんちょこりんなやつなんじゃないだろうか。
「私個人」で「社会」を見ているから、不安も恐怖も簡単に伝染していく。
「システム依存」が酷くて、ひとつシステムが狂うと都市機能も、中に生きている人間そのものも混乱していく。
実際脆いとは薄々わかっていても、目の当たりにするまで信じられないのは、結局自分にとって都合の良い情報を集めて暮らせる「半仮想地域」だからなのではないのか。

いや、これからの時代現実から遮断されればいつだって「半仮想地帯」に陥る可能性がある。
きっと箱の中から箱を見るのと箱の外から箱を覗き見るのでは感覚が違うだろう。

日本はこれからよりコンパクトな地域づくりをしていかないといけなくなる。
抑制ではなく「最適化」の方向へ向かっていく。
贅肉をそぎ落として筋肉をつけるにはどうすればよいのかの都市づくりをしなければ、また同じところに戻る。
そういうのは、もう東北の人たちは望まないはずだ。
西と東で日本は大きく変わるような気がする。

英語は来年から、と思っていたけれど、もうちょっと早めなければいけなくなった。
外貨を獲得する方向にシフトしないと自分も生き残れない。
日本語ももっと叩き込まないといけない。
今年はまず当初の計画を通しながらスピードを速めないと。
文学賞狙いの文章とか。

賞金が入れば現地入りもできるから。

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03/28

Mon

2011

 口の中にまで錆びた鉄の苦味が染み渡っていきそうな気分だった。
 これから一体どうすればいい。
 目の前に広がる瓦礫を見ながら感情すら抜け落ちた理性がぼんやりとここに立っているようだった。
 昨日まであった物が一瞬にして瓦礫になる。
 昨日までいた仲間が見つからなくなった。
 津波の後の瓦礫の鉄はわずか一週間も経たないうちに錆びだしている。
 奥歯で錆びた鉄の粉を噛むように、ギジャリと妙な音を立てそうだ。
 張り詰めすぎた悲しみが麻痺した感情の中で膨らんで破裂することがない。
 自分の人生は今まで一体なんだったのか。
 すべてが消え去り、何も残らなかった。家族さえも。
 たった一人残されて、どうすれば。死のうにも死ぬ場所すらも残されていないほど、すべてが死にあふれている。
 生存していくことすら無意味に思えてくる。
 冷たい雪が頬をかすめても、冷たいとさえも思わない。
 これが、現実かと、長い夢の中に引き込まれて二度と出られなくなったかのような気持ちでいた。
 家を探す。
 誰かと一緒にいても映像を見ているような、非現実感にたまらず家を探そうと思い立った。
 家。家だ。家はどこだ。
 瓦礫の中を歩く。嗅いだことのない朽ちた臭いが満ちている。人さえも見えない広大な瓦礫の凹凸をちっぽけな人間が放心しながら歩く。脳裏には家があるのだと強く信じて。
 大量の流木や積み重なった車や泥まみれの布や靴や海水のたまった場所がたくさんあり、ぬかるんでいる。足を取られながら目指す。
 家。家を。家はどこだ。
 息が切れる。自分は生きているのだろうか。まるで体が別人のもののようだ。
 足を取られているのは自分か。この瓦礫はなんだ。
 目印になるものが一切なくなった。どこを歩いているのかもわからない。
 壊れて積み重なった家屋の二階の屋根に登る。一階は流されてどこかもわからない。
 どれほど歩いたのか、どれだけ進んだのかもわからず振り返ると、それほど進んでいないことに気がつく。
 ため息と共に疲れがどっと出るようだった。
 海はずっと向こう側だ。むき出しの鉄骨になった三階建ての建物が見える。
 あれはきっと役所だった建物に違いない。前は周囲に建物があって自分の家からは見えなかったが、今は目印のように瓦礫の上にぽつんと骨組みだけ残し建っている。
 方角と距離感をじっと役所を見ながら想像する。自分の家があったのはここら辺なのではないかと足元を満遍なく見る。
 泥の中の水溜りが揺れる。太陽の光が反射したように思った水溜りの中に何かが見える。
 水溜りを覗き込むと自分の顔が映っていないことに気がついた。手をかざしても手は映らない。
 訝しがりながらも水溜りの奥を覗こうと顔を近づけると花の匂いがした。
 すっと息を吸い込むと花の香りが肺を満たしていくようで、生の純水がひび割れた地に流れ込んでいくような気持ちになり目を閉じて花の咲いている野を思い浮かべた。
 目を開けると水溜りの中に三輪の赤い花が映っていた。
 水溜りの中に手を伸ばしていくと手は水溜りの中に入り映っている花へと届いた。大きな花の両方に小さな花が二輪咲いている。
 その花を喉の震える体でめいいっぱい撫でた。傷つけないように、触れすぎないように。
 ぐっと息を強く呑み込み、水溜りから手を引く。涙がボタボタと落ちだして水溜りに落ちて自分の顔を映す。波紋は何度も顔を歪めている。
 不思議と花の匂いだけは体を満たしていた。何もかも流れ落ちた体の中に花の香りが満ちて、ただ一点の生を形作ろうとしている。
 空を見上げて呼吸をする。瓦礫の臭いがもうしなくなっている。
 涙を両方の手の甲で拭って地に払う。
 瓦礫の山を歩き出す。元にいた場所に戻るために。人のいる場所へ戻るために。
 花の匂いはいつまでも脳裏に満ちていた。

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03/28

Mon

2011

世の中、外だけ小奇麗にしている奴が人の支持を得ていた。
でも、それももうおしまいだ。
いくら外が小奇麗でも中の歪んでいる人間はボロが出る。

心根の美しい人間は飾り立てた言葉を使わないものだ。
装飾する必要がないから。
自らの卑しさや弱さを隠すために懸命に飾り立てるのは「香水」の発想と同じだ。

人生も自分も飾り立てるものじゃない。

今はそれだけ思う。
現代社会の中で、いかに装飾されたものが利益を得られるか。
それはまるで金メッキで飾ったものが一見高価そうに見えるようなトリック。

残念ながらそれは加速されると現段階では思っている。
都会化された感覚は恐怖によってより堅固な城を作るよう本能が動く。
都会ではより装飾されていくだろう。
言葉も人も装飾して恐怖から逃れようとする。
そのためのあらゆる虚飾が用意されていく。

俺は行くよ。
もっと辛いところへ。
夢を見続ける浮ついた都会人はもういい。

俺に足りなかったのは、もっと傷つくことだった。
もっと傷ついて、もっと深い悲しみを知ることだった。
すべてのゼロ地点はプラスとマイナスの狭間に。
その狭間を見極めなければ。

自分なりの千羽鶴、折ろうか。
世界一の偽善者として。
支援金や儲けが充分あれば、そのうち現地に入るよ。
なくなるからこそ、残さなければいけないものもある。

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03/27

Sun

2011

二十一世紀に生きる君たちへ



全文(官邸HPより)

司馬遼太郎が後世の人へ託した強い願いが込められている。
小学校の教科書にも掲載された名文章だけれど最初に読んだ時、店先で嗚咽しそうなほど込み上げてくるものがあり、本当に涙を抑えるのが大変だった。
それだけ元気をくれるし感動するし、何よりも優しく語りかけてくる。

「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」

いつしか自分への傲慢が他人を見下すことになっていないだろうか。
私たちは自分の中に思い上がったものを持っていやしないだろうか。

自己を確立し「たのもしさ」を備えた人間になるということはどういうことなのか。
「思いやり」「優しさ」「いたわり」とはどういうことなのか。

懸命に考え抜いて、自己満足で終わってはいけないのだと自分で軌道修正していく。

いくら外だけこぎれいにしていても、内側が汚ければ、化けの皮ははがれてしまうものだ。

文末にはこう書かれている。

「私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。」

人間が最も持ちえる美しいものとは何だろう。

中には「洪庵のたいまつ」という話もある。
その冒頭の一文だ。

「世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。」

自分に厳しく節制し、他人に優しくあり、よく助ける。
いやいや、それだけでは到底足りないだろう。

人は一生を通して自分なりの「たのもしさ」を作っていかなければいけないのだと改めて感じた。
きっと人々の「たのもしさ」の先に「よい日本」を司馬遼太郎は見ていたに違いないのだ。

「たのもしい人々」が作る「たのもしい日本」になることが、司馬遼太郎の願いを叶えることでもあると私は思っている。

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03/25

Fri

2011

 妻を失い、底の抜けた深い喪失への墜落を感じている科学者がいた。
 彼は毎夜激しい嗚咽に見舞われていた。
 それだけ深く妻のことを愛していた。
 そして妻も生前深く彼のことを愛していた。
 彼の人生そのものを深く愛してくれていた妻は、彼の研究も深く愛していた。
 そのことが彼の自殺を食い止めるただ一点の杭だった。
 妻の死後半年ほど経ったある日、自分で書きかけていた研究論文が目に留まった。
「人工知能」に関する論文で、プログラムは人間の心を作り出せることができる、というものだった。
 彼は思った。自分の理論で妻を作り出せるのではないだろうか。
 しかし彼は葛藤した。
 いくら話し合っていたとはいえ、私の知らない妻の記憶や感情はどうする。私に黙っていたこともたくさんあっただろうし、言葉を交わさなくても成り立っていたことがたくさんあった。それらの目に見えない情報はどうすればよいのだ。
 それ以前に死者を模写するという試みそのものに対しても倫理観から酷い抵抗があった。
 論理的矛盾もあった。生前の妻と作り出した妻との違いがわかるのは本人だけで、私が「元の妻のままだ」と思っても自己満足に過ぎないのではないのか。
 悩みに悩んだ末、彼は決断した。自分を愛してくれた妻の思いは自分の理論にすらも及んでいたのだと深く感じることにしたのだ。
 せめて元の妻ではなくとも、元の妻を目指すことに人類の新しい一歩があるのではないのか、と考えることにした。
 彼はあらゆるものを集めた。写真や日記や映像、自分の中に残っているあらゆる思い出や妻の話を寸分も余さずにかき集めた。その作業に七ヶ月以上もかかった。いくら集めても足りず、思い出があふれてくるようだった。山と積み上げても、こんなものではすまないはずだという不安が拭い去れなかった。
 彼はついに人工知能のプログラムを始めた。あらゆる行動パターンや言動や癖、記憶や反応、過去のかき集められたものすべてを詰め込んだ。容姿は少々若い頃を再現した。
 見た目だけは瓜二つにできた。問題は中身だ。生き返ったかのようなロボットを見つめると妻との思い出があふれてきて、思わず一年近く我慢していた涙がまた零れ落ちた。
 妻のロボットは目を開ける。彼の涙まみれの顔を見て「あら、どうなさったの?そんなにお泣きになって。何か悲しいことがあったのかしら。我慢せずになんでも打ち明けてくださいね」と言った。
 妻には一度死んだというプログラムはしなかった。なぜなら生前の妻に「死んだ」という記憶はなく、「死んだ」という情報を入れることによって別の感情が芽生えては困ると判断したからだ。
 違和感なく妻を再現できている状態に彼の顔にようやく笑顔が戻った。彼は妻を強く抱きしめキスを何度も繰り返した。彼の過剰な反応に妻は恥ずかしがりながらも嬉しがっていた。いつもの生活が戻り、妻は生前と同じように振舞っていたが、三ヶ月ほどして異変に気がついた。
 ずいぶんと細かなことまで覚えているのだ。生前の時には口にもしたことがない細かなことを口にするようになった。小さな食べかすが落ちていたことや、テレビの内容、彼の小さな動きを眉一つ動かすのでさえ見逃さずに覚えていて、言葉ひとつでも勘ぐり、気にして言ってくるのだった。
「そんな小さなこと、気にしないでいいじゃないか」と彼が告げても妻はいつまでも覚えていて気にするようなのだ。
 彼は気がついた。
「そうか。記憶の優先順位がわからないのか」
 人は「気にしない」という行為を通して「忘れる」ということもしている。そうすることによって良きにしろ悪きにしろ心身のバランスを取っている。だが一体どうやって「記憶の優先順位」など決めればよいのだ。妻は一体何を優先していたのだ。彼は悩んだ。その末、妻と彼自身のことを優先するようにした。
 するとおかしなことが起こった。妻がだんだんと彼にへつらうようになってきた。時折奴隷のように命令しないと、自分がしたことで気分を害するのではないか、と勘ぐって中々行動しなくなった上、普段の言動にも違和感が出てきた。
 妻は庭の花のことや天気のことなど、まるで毎日が心躍っているかのように情緒豊かに話していた。普段の日常を詩でも語るように言う妻の姿は徐々に消えていった。「記憶の優先順位」をつけることによって「感性」が妻の中から薄れてしまった。
 彼はさらに悩んだ。人間の「感性」など、どうプログラムすればよいのだ。
 悩んでいる間にも時は過ぎ、さらに三ヶ月ほど経った時また異変が出てきた。
 今度は理性的になり、合理的に判断するようになってきた。妻は自分の中の「感情」というものを重要視しなくなり、彼のため、自分のために最適な行動は何か、という観点で行動するようになった。
 まるで妻の中から「色」が抜け落ちて、以前に感じていた「豊かな時間」が次々となくなり、ただプログラムされたロボットになっていくさまを見ているようだった。
 笑っていた時間、たわいもない話をしていた時間、何気なく手を触れ合ったり頬に触れたり、見詰め合って目の色だけで探り合うような愛しい時間などがすべて画一的なものになってきたのだ。
 まるで高級ホテルで訓練された従業員にサービスを受ける客のような気分になってきた。
 その後さらに四ヶ月ほど経った時、妻があまり物を覚えなくなったことに気がついた。
 調べてみると妻の脳に当たる記憶ディスクの容量は既にいっぱいで新しいものが入る隙間がなかったのだ。
 彼はついに妻を止めて、何が起こっていたのかを調べることにした。
 当然のことだがあらゆることが妻の中でプログラムを通して「考えられて」蓄積されていた。ある程度記憶の優先順位をつけて「忘れる」、つまり「重要ではないデータを消去する」という作業を行っても、あらゆる蓄積された事象が相互に関係しあって爆発的にデータ量を累積させていた。そして「思考をする」という作業の中で膨れ上がったデータの優先順位をつけるために妻は「思考をする」という中で生まれてくる「感受性」を消し、合理的に動くことが二人の将来のためになると判断した。今の妻にとってはギリギリの決断だった。
 妻は人工知能になってもプログラムや記憶容量の許す範囲で彼に「思いやり」を示したのだった。プログラムにとっては情報を処理していく上での「最適なこと」が今の妻にとっての「精一杯の思いやり」だった。それを知ると同時に彼は一筋の涙を流し、微笑みながら妻を止めた。頭の中のデータを消すことなく。
そして自分の部屋のベッドに妻を横たわらせ、彼は死ぬまで妻を部屋に置き続けた。
 それから五年後、彼は新しい研究をすることも論文を書くこともなく、一部の彼を慕う弟子たちに講義をするだけで、妻の後を追うように亡くなった。
 死後彼の書斎から見つかった手記には膨大な量にわたってひとつのテーマが書かれていた。
 そのテーマとは「人間の豊かさについての考察」だった。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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