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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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03/24

Thu

2011





新海誠監督作品。
この作品によって一気に有名になってきたのだけれど、映像は全部一人で作ったという作品。
その後「雲の向こう、約束の場所」「秒速5センチメートル」と長編2作を発表した。
第二の宮崎駿と評される彼の作品はジプリとは違って切なさの余韻がめいいっぱい漂っている。
この作品は短編作品だけれど、必要最小限のセリフが詩のようにつむぎだされていて、何度も見てしまう。
音楽も絶妙なタイミングで入ってくるし、SFなのだけれど恋愛の「一緒にいれない」「離れて思いあう」という感情がぎゅっと詰まっている。
思うのは男性のストイックなこと。
どちらも一途に愛し続けるけれど、男のほうが状況的に色々誘惑もあるだろうに長い時間の中で生きているかどうかもわからない女性を愛し続けるというのは並大抵のことではできない。
青春の時期って、それなりに何回か恋をするものではないですか。
それで3年とかもたてばだいたいほかの女性に恋していたりする。
10代って時間が短いようで濃縮されているから、短い時間の中で本当に様々なことを思って悩んで過ごしていく。
だから青春って輝いているのだろうけれど、新海監督が凄いのは五感の感覚が優れていて、セリフの端々に匂いや音や視覚を大事にしているのが、とてもよく伝わってくる。
この作品に出ているそれらの五感感覚が後々の作品にまで生きている。
ああ、この監督さんの地金なのだなと、この作品を見直して改めて思うわけです。
もし他の長編作品を見て気になった人は、このスタート地点たる作品を見れば「作品に漂う詩情は新海誠という人間の本質だ」とよくわかるはずです。

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03/24

Thu

2011

食べろぐでも載ってます

北海道は登別市。
地獄谷の有名な温泉街に行ってきました。
そこでも知る人ぞ知るラーメン店「味の大王」でラーメン食べてきました。
ここはカレーラーメンがおいしいのですが、もうひとつ辛党のチャレンジ精神をくすぐるものがあります。
その名も地獄ラーメン。

この地獄ラーメン0丁目からあり、上限がありません。
この「~丁目」というのは辛さのことであり、役4gほどの唐辛子が追加されていきます。
それで、10丁目から制覇した人の名前が張り出されているのですが、辛いものはいける私めが挑戦してまいりました。


1丁目ごとに追加される唐辛子の量。

ラーメン店に入り新規の人間で興味本位で10丁目頼む人がいるのでしょう。

「ご注文何になさいますか?」
眼鏡をかけた優しそうなお兄さんが聞いてくる。
「地獄ラーメン10丁目で」
一瞬空気が変わる。
刹那のたじろぎ、疑惑の目。
「10丁目ですか?」
不安げに聞くお兄さん。
「はい。10丁目で」
堂々と応える私。
憂いを帯びたお兄さんの目は語りかける。
「これは興味本位で食べるようなものではないのですよ」と。
お兄さん私の目の前にある張り紙を指差して念を押してくる。
特に挑戦しても何も出ないことと、まったくお勧めしていないことと、スープまで全部飲まなければ達成にはならないことなど。
「大丈夫です」と私。

スタッフ2名の不安げなまなざし。
もう1名ラーメン作る係りの淡々とした仕事ぶり。
そしてしばらくして出てくるラーメンはこちら。


まっかっか。

レンゲですくってみる。


ちょっと影が写ってしまって見づらいけれどスープはカゴメあたりの「トマトジュース」のどろっとした感じを思い浮かべてくれればよいです。
現在の最高記録保持者は53か54丁目あたりだそう。
つまりさらっとしたスープがトマトジュース状のものになるのだから、その5倍ときたらいかなる状態になっているのか想像もつかない。
ちなみに1丁目追加するごとに50円プラスされるので、800円+2750円=3550円で新記録挑戦です。
はっきり言って10丁目まずいです。
いや、張り紙でも書いてあるし念も押されるし、改めて言うことではないのですが、まずい。
最初の麺を食べたあたりでは、「お、いけるんじゃないの?」と感じましたがスープが辛かった。
なんかトマトジュースにみりんを入れているものを飲んでいるような感覚になってくる。
ちなみに10丁目は市販のキムチの中に甘みを見出せる人なら充分いけると思います。
自称ピリ辛好き程度には絶対にお勧めしない。
ハバネロペッパーを普通の唐辛子のように10振りくらいしたものを食べられる人なら全然平気。
ちなみに汗は吹き出る、気持ちは悪くなるで大変でしたが普通のラーメン食べる速度で完食。

食べ終わった時、はっきりわかった。
これは見得のために挑戦するものなのだと。

食べ終わり、お兄さん見る。
「これでいいですか?」
と、どんぶり見せる。



お兄さんほっとしたように微笑む。
私も微笑む。
店内が何かの呪縛から解放されるかのように明るくなったのを感じました。
思わず親指立てたくなっちまったぜ。

10丁目以上完食の人は店に名前が残せるそう。
で、書いてきました。
たかが10丁目あたりで。
せっかくの記念なので。
「会社の名前などはよろしいですか?」と聞かれましたが、フリーだもん。
自分の名前だけがブランドだもん。
名前だけ残してきました。

店を出る時待っていた客が「地獄ラーメン4丁目とビール」って注文していました。
なるほど、あれがツウの頼み方なのね。

もし登別温泉お立ち寄りの際は、お気軽に普通のメニューで楽しんでくださいな。

コンディションがよければ新記録もいけるかもしれないと思いましたよ。
ちなみにその後気持ち悪さはタコカツを近くの店で食べるまで抜けませんでした。

P.S.
営業時間が12:00~14:00、21:00~翌2:00となっているので、定休日など調べてから行ってくださいね。

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03/22

Tue

2011

言葉は無力である

震災発生から10日が経ったそう。
ずっとそわそわしてたまらない。
それは大阪の人であろうと九州の人であろうと、北から南まで同じような気持ちのようだ。
何か集中しようにも落ち着かなくて気が散る。
特に大阪や兵庫の人たちは震災を体験しただけに自らの体験を重ね合わせる以上の感情が湧き出ているよう。

こういう時に言葉というのは本当に無力だし、自分が落ち込んでいる時に励ましの言葉を受けて「何がわかる」と余計に腹立たしい気持ちを覚えたことがあるので、被災地の人たちとなれば励ましよりも現実的な対応のほうがずっとずっといいに決まっているだろう。
被災地の人たちが欲しいのは言葉だけの励ましではないし、慰めでもないし、明日の生活のための糧となるもの、明日に繋がる現実的なものが欲しいに決まっているのだから。

こういう震災を機にして、何者が口だけのやつなのかそうでないのかが、はっきりと出てくるのも興味深いところ。
口だけというのは言葉が悪いが、要するに「真剣に人の現実に向き合っているかどうか」というのがわかる、ということだ。
と、同時に文学というのは何の役に立つのだろうかと、また考え始める。

私は「文学」というのはひとつの人間の精神における「ひとつの綱」のような役割を果たさなければならないのではと考え始めている。
それは感情や精神に示唆というものを与え、ひとつの壁を超えていくためにそっと垂らす綱のようなもの。
それがなければ言葉もただの飾りでしかない。
飾りのための「消費されるだけの言葉」は、それは「文学」ではないのではないのかと思うところがある。
なぜ残すのか、なぜ書くのか、明確に説明しないまでも感じるものがなくてはいけない。
直感的に「これは残さなければならない」という強烈なインスピレーションがなければならないのではないか。
さもなければ、すべての行為は己のための慰めであり、ただの惰性でしかないからだ。
その上でなされた苦労など、自己顕示欲に貢献するものでしかない。

上辺だけの言葉を語る人間はたくさんいる。
その気もないのに言葉だけ。
実際の行動に移る時「じゃあやりましょうか」と突きつけるとダンマリ。
保身に走り、言葉は身を守るために使われる。
「情けは人のためならず」とは言うけれども、度が過ぎればただの自己憐憫の連続。
本当は自分がその言葉をかけて欲しいだけの状態に陥っていることにも気がついていない。
「勇気」は、いつも試されているのだ。

言葉だけだと確かに無力だ。
しかし、勇気のある言葉には納得できるものがある。
行動が常についてくるからだ。
だから結果がどうあれ前進はしている。
たとえ失敗して勇気が粉々に打ち砕かれようと。

震災が起こった。
東北の人たちは、私は強いと思う。
同じ雪国にすむ人間として、冬の寒さの中を淡々と過ごし雪に向かっていき耐え忍んでいく雪深い地域の生活を思うと、ただの先入観かもしれないが、辛抱強いと思っている。

これから1年後、少しだけ安定してきた頃、関東大震災の時は利権風俗など少々荒れたようだが、さて東北はいかなることになるであろう。
その時、人の精神が乱れた時、ようやく文学の出番が出てくるような気がする。

テレビなどを見ると本当に気落ちするが、なんとか落ち着けて動いていこうと思う。

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03/21

Mon

2011

ツイッターから離脱してずっと様子を見ていたわけですが、やはりデマと本当の情報が入り乱れています。
自分がうっかりデマを広げないためにも便利な情報ツールの情報発信者として余計な情報を出さないためにも静観していました。

特に専門的な知識を有する情報に関しては、なかなか元ネタまで辿り着くことに時間がかかり、専門用語を調べるだけでも時間がかかる。
さらにこのようなクライシスに関しては、情報を独自解釈した人がさらに情報を作って流すという、何重にもフィルターのしかれた情報が出てきます。
今でさえ数々の情報から共通点を探して、真実めいたものを探していくしかない。

元々文学などは「思考」という相手の「言葉から受けるイメージ」を利用して言葉を展開していくものですが、精度の高い情報は「事実のみ」で構築されるべきなのです。
それを受け手が「イメージ化」して、純度の低い情報を出していく。
正直報道の立場にある人間がこれをやったらおしまいなのです。

この世の中を劇場化しているのは誰なのか、今回の震災でもはっきりとあぶり出ていると思います。
そういうやつらは「情報の発信者」ではない。
「劇の創作者」であったのです。
この「劇の創作者」が長年にわたって日本を扇動してきたわけです。
功罪ありといえども、受け手たる我々がそのことをようやく意識できるようになってきたのではないでしょうか。
そして「劇の創作者たち」は、もう情報ツールの高度化により姿を変えようとしている。

これからの情報はより高度化し、トリックが見抜けないようになってくる。
つまり、一部の高レベルの人間のみが真実を知り、その下の人間たちが信じる情報は別に構築され、心理的なロジックよりもずっと高度でより広大な「世界観」を背景にしたロジックが、これからの情報トリックとして使われてくる。
情報統制は常にプログラムが適切に判断できるようになる時代も近いかもしれないと思っています。

しかしそれを喝破する方法はあります。
より人間らしい緊密な付き合いとコミュニティーを構築していくことです。
結局は都市化によって起こる「情報への妄信」を防ぐには人が発する生身の感覚というものを大事にしていくしかないのです。

でも今回の地震で、若い人たちも奮起している様子を見て、本当にこの日本は捨てたものではないのだなと改めて思いました。
むしろ悪いものを流布させていたのは若い人ではなく年配の人間たちなのではないかという邪推すらしてしまうほどです。

私たちは生きていかなければいけない。
そして生きていくとは、分かち合うことなのではないかと私は思っている。
「最上のワインは最上の友と」
ならば、最上の友となるべく各々が奮起していけば、心底素晴らしい未来が待っている。
一週間ばかり、そわそわして落ち着かない日々をすごしていましたが、少しずつ私も立ち向かっていきます。

P.S.
震災の裏側、騒動の裏側。
どうにも議員の立法権とは衆愚政治状態における最大の腐敗要素となりえるようだ。
この日本は怖い側面を持っている。
特に中央の人たち。

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03/18

Fri

2011

忘れないうちに答えを出しておこうと思う。
もう、頭の中がほかの事に構えなくなってきているので。

つたない私の知識で、間違いが多々あるかもしれませんが説明させてもらいます。

まず芸術家としての、芸術の究極的な到達点からお話します。

伊藤若冲という日本画家がおりました。
この方の絵は鶏の絵などで有名ですが、彼の鶏には写真で移すような鶏からは到底醸しえない緊迫感が漂います。
この絵を描くために若冲は一年間鶏を見続けたようです。

そして彼の絵には人の心に突きつけてくるような鬼気が感じられるような絵を描けるようになりました。

この「一年間鶏を見続ける」という作業の中で何が行われたのか。
結論から言うと自然と自分との中庸のバランスを取ったのです。
自分を消すということも相手を消すというのも不可能。
仏教では、「色即是空、空即是色」という言葉がありますね。
形あるものはすなわち無であり、無であるものはすなわち形あるものである。
このことは現代の科学でも実証されていることであり、万物の根源たるものには境目など存在しない。
これが現在到達している世界の真実です。

芸術家における芸術行為とは「自他をなくす」ということでもあると考えています。
これは自分を感じるよりも物を感じたほうがより認識が広がる。
物を感じるよりも自然を感じたほうがより認識が広がる。
自然を感じるよりも宇宙を感じたほうがより認識が広がる。

このどこまでも拡散していくような限りない知覚の広がりの中で、より大きなものを取り込み、そして形作っていくのが究極的な到達点となります。
しかし、問題が生まれます。
行為をするのは自分です。
対象があっての自分でもあります。
その相互の力関係の中に抵抗を感じ、そしてその抵抗で削れて生まれてくるものを芸術品としなければ、成り立たない。
簡単に言えば自分勝手なことをしても伝わらないし、相手だけの姿を捉えようとしても行為者が無視されることになります。
ですから、相手と自分の知覚のバランスを取らなければ、両者の中で衝突が生まれる。
相手と自己、この右左に置かれた天秤の皿がどちらかに大きく傾いてしまう。
これでは隔たったようなものしか生まれてこない。

一流の音楽家における楽器とは、楽器ではなく「体の一部」なのだそうです。
それが脳の動きを観測することによって明らかになっています。
これはつまり楽器と自分との境目をなくすことによって、行為者が音色そのものに溶け込んでいると見ていいでしょう。
行為者が楽器を通して知覚する自然物と同化して自他がなくなり、音色が流れている空間は行為者の感性の支配するところとなります。

音色にも絵にも共通点があります。
それは自己と他者である自然物とのバランスが取れ、自らも宿っているし自然物も宿っている。
自分と自然が一体化することによって自他の協調性が取れて、なくなる。

勘違いしないで欲しいのは、両者が一挙に存在しているということです。
どちらも消え去るということではありません。
究極的に言えば物質の境目など存在していない。
しかし我々は人間であり、感性や感覚の限界がある限り、やはり限界点は存在するのです。
その限界点とはなんでしょうか。
感覚を通じて形作られる「心」です。

今まで書いてきたことは「究極的」なことです。
「~すべき」という個人の価値観は、他者に当てはまらない時があるのは、どうしてだと思いますか?
究極的なことがいかにこの世界の真実であろうと、人間にとっての一点の真理であろうと、感性や感覚の限界が人間には存在し、そして人間にとってその限界こそ、自分にとっての大事な事実であるからです。

おわかりになりましたでしょうか。
いきなり理想論や究極的なことを言うことがいかに愚かしいことであるか。
つまりこのような理想論や究極論をいきなり出すことは徹底的に「人」というものを無視しているのです。
その言葉を掲げるだけの人間には「他人」は存在しない。
「自分」しか存在していないのです。
これは本当に恥ずかしいことです。
ホームランを打てるようになる前に、やらなければならないことは山ほどあるはずです。

もしこれが「技術的な問題点」であれば他者に対しての改善点を述べることができるでしょう。
しかしこのことは「知覚における個々人の問題」なのです。
ここにまで踏み込んではいけない。
ここまで犯すことは「自分がかわいいだけの人間です」と豪語しているに等しくなってくるのです。
そこに示唆を与えることはよろしいでしょう。
しかし自分の考えでもって相手のスタンスを踏みにじるのは「対話における方法」ではありません。
それをやれば怒りを買うか、不快にさせるか、与えたものを返されるだけであって、自分の望んだ結果などどこにも存在せず、より殻に閉じこもるしかなくなってしまうのです。

本来すべての知識は人と寄り添うためにあるものです。
役に立たないものは捨てられていく。
自分を消さず、相手も消さず、どうしたら自他とのバランスが取れて、共に叡智を共有し、引き出しあうことができるのか、これはあなたがいかに自分の知識をまず出さないで自然の状態で他者を知っていくことができるのかにかかっています。

この先の日本における有能な一人となることを望みまして、このことは終わらせていただきます。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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