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あさかぜさんは見た

日記

01/11

Sun

2026

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03/03

Thu

2011

今よりも、もっと愚かだった若い頃、今よりも、もっと鈍く視野が狭かった。
感性だけが強く、周囲の世界を察知していた。
そしてそれに合う言葉を捜し、身体感覚と合致させ、そしてあたかも自分は「このことを経験したのだ!」と錯覚していた。

小説を書いた。
私の書いたものを理解してくれないと悩んだ。
それは私の作品が悪いのではなく、相手が理解しないせいだと思うこともあった。

私は人と話した。
人とのずれを感じた。
分かり合えないと感じたこともたくさんあった。
それでもたった一つの救いは、ほんの少しでも誰かの力になれたらと、これも当時としては独善的な感情で人に寄り添っていた。
そのうち気がついた。
自分が知り、知識を得、そしてわかっていたつもりのすべてが、愚かな過ちであったことを。
私はもっと過去、今より10年近く前の文章を恥ずかしくて見れない。
今10年前の私がいたら、心底説教をし、何一つ理解していない思い上がった馬鹿野郎だと、罵倒するだろう。
どうしてそこまで人を無視できるんだと。

当時の私はこう思うだろう。
俺は俺のやり方でちゃんと人と寄り添ってる。
力にもなろうとしている。
お前みたいに何も知らないやつに言われたくはない。

そんなことが言えるのも、無知で視野が開けていなかったせいだろう。
借り物の言葉で、借り物の錯覚で、それを自分のことだと思い込んでいた恥ずかしさは今思い返せば死にたくなるほどだ。
自分の行動や言動を独善的に肯定していた。
その独善性が人に嫌われているにもかかわらず、自己満足に浸って独善的な価値観を高めていっていた。
周囲の理解が得られず、悩んだ。
どうしてだかわからなかった。
自分と向き合うことなく、等身大の自分を理解する前に、本当の現実から逃げた。
今なら少しだけ、現実というものがわかる。

私は書くという行為を通じて、同時に「伝える」ということを知っていった。
私は書こうという欲求を通じて、同時に人の思いを知っていった。
自分が物事を頭の中で固める前に、じっと人の思いを待つことに専念した。
たいてい、喧嘩になったのは「~は~だから」というような決め付けで物事を見た時だった。
今ならよくわかる。
人は馬鹿じゃない。
自分で原理くらいは薄々わかっている。
だからたとえそれが真実だと指摘されても、どうしようもない場合だってあるんだ。
だからお前はその言葉で人を傷つけているのが一切わからない勘違い野郎なんだと。
当然、少しずつ孤立していった。
当たり前の話だ。
でも、当時はそれがどうしてなのかわからなかった。
自分は正しいことを言っているのに、あいつが気がついてないだけだと思っていた。
本当に、本当に愚かだった。

人と寄り添い、その思いをじっと聞き、どうしたらこの人の言葉や感覚に近い形でアドバイスしてあげられるだろうと、精神力に余裕のある時、人の相談に乗っていた。
「伝える」ということが少しだけわかった。
それは同じ性質を指している言葉でも、解釈の仕方ひとつで、すべてが壊れてしまうことを。
それだけ、相手の感情は自分が思っているよりも繊細にできている。
その中でたくさんの過ちを犯した。
恨んでいる人も多いことだろう。

愛情も、憎しみも、悲しみも、人の失敗も、独善的な錯覚も、体験もしたし、見てきた。

孔子の論語に有名な言葉がある。
「学びて思わざれ ば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し。」
学んで考えなければ学びとして開けてこないし、考えて学ばなければ独善的になって間違いを犯す。
このことを、すっと読んで「わかった」のなら、たぶん私と同じ過ちを犯す可能性がある。

まず、学ぶことが生半可ではいけない。
学ぶは真似る。
人のことであれば人の思いを正確に把握するように努める。
自然のことであれば自然の力の流れを妨げないようにするにはどうすればいいのか知る。
この学びさえもできないようで習得した気になり、思索に励めば既に過ちが待っている。

体感し、感じ、わかった気になり、他人の意見にも想いにも思想にも、謙虚に聞いているようで独りよがりな態度を押し付ける。
そんなことができるのは、何一つ理解していないし、自分がまったく見えていないからなんだ。
そして人にとって一番大事な学びは本の中だけにあるわけではない。
人の中にある。

本を読んで人を無視するようでは知識が毒にしかなっていないし、独善性が強ければ自分の言葉や知識で人を傷つけていることすら理解できない。
そういう盲目的な視野を持つことは、私なりの表現で言えば「死に絶えている」。

そのような人間に「生きている」友達や人間が寄り添ってくるはずがなかった。
当時の私は文字通り死んでいた。
生きてはいなかったんだ。
これも自己弁護ではあるが、昔よりはほんの少しだけ成長した自分に、かすかな贖罪を感じるのだ。

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03/02

Wed

2011

勘違いのコンプレックス

人間は、長くその環境や思想に浸っていると、あたかも類似したものがそれに浸っているのではないだろうか、ということを錯覚しだす。
たとえば、人間に裏切られ続けた人は、他人の善意を信じることはできないし、人間は人間を利用するために動くものだと思い込むものだ。
そのようにして、自分の長年浸ってきた経験則と周囲の環境により、自分が強く思っていることを、他人にまで当てはめてしまう。
これは別段不思議なことではなく、誰しも大なり小なりやっていることだ。

しかし、誰しもやっているといっても、互いに大きな壁を作っているのは、この「感覚」や「環境」や「思想」や「経験」の差異であり、これにより互いの理解を困難にするだけではなく、両者が一方的に相手に対し自分の考えや思想や経験を当てはめてしまうということもやりがちだ。
文字で書くと難解そうに見えるが、意識していないだけで普通にやっている。
お宅の会社にも一人や二人、「自分のやり方は正しいんだ」と仕事のやり方を押し付けてくる上司がいるはずだ。

さて、最も衝突を起こしやすく、最も他人に理解されない行為とは、自分が長年浸ってきたものを「私はこうで~」と自分の立場として語るのではなく「お前は~だから」と自分の思想や経験を相手に重ね合わせて物事を言うことだ。
それは当然「あんたの世界じゃ正しかったかもしれないけど、こっちの世界は違うし」となる。
若者と老人の衝突だって、異文化の衝突だって、子供同士の衝突だって、似たような原理を元にして発生している。

人が最も勘違いするのは「私とあなたの感覚は一緒だ」と思い込むことだ。
そしてその大前提は往々にして間違っているにも関わらず、人が最も気がつきにくい盲点であると言っていい。
これは自分の感覚が常に主体的に存在するため、他者の感覚まで慮ることが、なかなか難しいし、大きな精神力と想像力を必要とするためだ。
感情や感覚は常に自分を元に発信されていく。
これは言葉で書かなくても誰にとっても当たり前のことだろう。
だからこそ自分から常に「出している」状態を逆転させて「引き込む」状態にすることはエネルギーの方向性が逆ゆえに難しい。
常に発信しかできない人間にいきなり「他人のことを考えろ」というのは無理な話だろう。
まったく逆の力なのだから。

よく小説やテレビなどで知ることも多いだろうが、相手側の立場に立つまでの経緯には傷を伴うことが多い。
傷ついて当事者の立場に気がつき、ようやく考え始め、理解を深めていく。
しかしその前に気がつく方法はないのだろうか。

人は自己主張が酷く強い時、必ずその思想背景に何かを持っている。
それは仲間であったり家庭環境であったり経験であったり、一言で言うならその思想を得るまでの「環境」があり「人生」があった。
そしてそのエネルギーたるや、他人と会話するために使われているのではなく「自分の理屈を証明するための証拠集め」か「自分そのものを認めて欲しい」という欲求がある。
それだけ、自分では意識していない憤りの力が、他者に対してのエネルギーとなって向けられていくのだ。
アイデンティティを否定されてきた、もしくは卑屈さを感じてきた可能性も否定できない。
つまり「コンプレックス」を潜ませている。
人は、他者に埋め込まれた情報を、自己抑制を超えて他者に対して表現することはまれではない。
アイデンティティを大事にされてこなかった人間は、他人のアイデンティティを大事にはしない。
大事にした瞬間、「自分は大事にされなかったのになぜこいつを大事にしなければならないのか」という嫉妬の意識メカニズムが働く。
このように、よくよく注意しなければ自分がされた負のエネルギーを他者に対して発散することになる。

問題はそのような「コンプレックス」を持っていた場合、「あなたは間違っている」では通用しない。
余計に反発をあおるということになる。
まず相手の過去に想像力をめぐらし、相手のアイデンティティの傷をある程度認めなければ、互いの理解は前進しない。
それは過去をほじくりだすことではなく、そっと慮る。
私は小説を書くという視点から人を見る時、「この人はどうしてこうするのだ」ではなく「何がこの人にこうさせているのだろう」ということを忘れない。
つまり主体性があり、意思があり、そしてすべては自己に集約されるのではなく、どのような力が与えられ、どんな環境で過ごし、どのような価値観がこの人間を動かしているのだろう、と考えるのだ。
酷い言い方をすればその人間を一個の独立した存在として見るのではなく、あらゆる力の集合体として見る。
そう考えると、相手の感覚を事細かに分別していくことができる。

たとえば、「40代前半」「男」「高校からの長年の平社員生活」「上司の強烈な圧力」「同僚に時折(仕事のためと称し)暴言」「家庭環境、妻に冷遇、娘2人」「趣味は特になし」「インターネット使用、入りびたり」というキーワードがあったとしたら、この男性は仕事や家庭に対する強烈なフラストレーションという力の昇華の仕方を暴力で補っていて、家庭環境がうまくいっていないということは元々の家族に何かあり、たとえばマザコンであるとか、紳士的な礼儀が同僚に対してもできないのだから当然家庭に対してもできず、娘2人からは嫌われている可能性もあるとか、それらの生活の原因を作ったのは、彼が性的に特殊な願望を持っていて女性に対して理想があるのではないかとか、会社での冷遇に対しても同僚への暴言を見ると自分の処遇は不服でありもっと上の役職が適任であると考えているとか。
可能性の話ではあるが、考えられないことではない。
これらを一言でまとめると「自分の存在が認められていない」ということになる。

男性でも他人の格言名言を使い、あたかも自分を大きく見せかけようとする人がいる。
これもやはり「自分の存在が認められていない」という「コンプレックス」をどこかで持っている。
自分の現実的な姿である小さな自分というものを肯定することに大きな不安を持っている。
それを、数多くの言葉で誤魔化しているのだ。
そして「不安」を持っているから他人との「共有」を強要してくる。

「コンプレックス」は負の感情さえ持たなければ悪いものではない。
前向きに捉えて克服していこうとすれば役に立つ。
それには自分自身の本当の大きさに、いや、本当の小ささに気がつく必要性がある。
しかしそのコンプレックスを他人にまで押し付けるとなると衝突していく。
他人が押し付けてきた場合、私たちはその人間に深く干渉する覚悟が無い限りは適当に褒めて、程よい距離を保つのがベストだろう。
つまり、相手の人生に深く干渉する覚悟がないのなら、「負のコンプレックス」とは付き合わないほうが賢明なのだ。
少しでも否定を加えればコンプレックスを助長させることになる。

他人は大きく見て、自分は小さく見る。
人間は、他者との間に絶対的な溝がある。
その溝は大きな「コンプレックス」として立ちはだかることが多々ある。
しかし、だからこそ、我々は違う能力を持つ人同士尊敬しあえるのだ。
それを自己のレベルで前向きに克服していくことにこそ、人間の希望がある。
それは「同じだ」ということではない。
「違い」を前向きに認めていくことだ。
それが「成長」という謙虚な気持ちにも繋がっていくと思うのだ。
自分の人生に対して、各々の人間が賢明であらんことを切に願う。

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02/28

Mon

2011

「良い作品だと売れる」の時代は終わった

これは電子書籍やコンテンツに関してだけれど、確かに内容が大事に越したことはない。
でもよく考えたら、漫画の読み方をちょっと観察していると、コンビニや書店で立ち読みする。
もしくはキヨスクで買って電車の中で読んで捨てる。
結構この手のパターンって多いのではないのかなと思う。

今まではネットなんてそれほど活発ではなかったから「よい作品は売れる」という理屈は通じたけれど、今だと「よい作品は無料で探す」という時代になった。
そして値段がかかるのなら、値段のかからない良いもので時間を潰すという選択肢が出てきたのだ。
つまり、売ろうとすればするほどお客が逃げていくという悪循環になる。
私だって、なるべくは購入したいけれど、損した気持ちになるような、くだらない作品にはお金を払いたくない。
このことは、もちろん自分の作品にも当てはまるので、本当にこれからの時代苦労するなと思ってしまう。
でも八方塞ではない。

私は前々から「参加型コンテンツ」にしか活路は見出せないのではないかと考えている。
人って芸術作品にお金を払う時って本当に感動したときだと思う。
特にそれが肌身に切実に迫ってくると「思い入れ」というのが出てくる。
ちょっとやそっと「良い」程度では売れないし、売れるはずもない。
いかに思い入れや、その思い入れを引き出せるかというところにすべての戦略がかかってくる。

たとえば今まで書籍は「パッケージ商品」だった。
つまり買ったら、それで独立しすべて完結する。
その延長線上に映画化、そしてグッズ化といった商品戦略があったが、そもそも一番最初のコンテンツの「パッケージ」の概念すら古くなってきている印象だ。
じゃあ、ちょっと「パッケージ」という箱に入っている概念をぶっ壊して考えてみると新しいアイディアが生まれはしないだろうか。

たとえばひとつのコンテンツとしてパッケージとなっている。
しかしもっと他の話の追加とか、映像ダウンロードサービスとか、主題歌セットとか、ラジオでしゃべる、朗読サービス、ソーシャル系が流行るのなら、みんなの意見、好きな文章を集めて紹介して、もりあげていくイベントプランナーのような発想。
そこに思い入れが発生しそうなら、その思い入れをどんどん引き出してこなければ、他の並んでいるだけの商品とまったく一緒だ。
興味を引く、という煽りサービスはもうあこぎだし冷ややかな目でしか見られない。
他の並んでいる商品と一緒になるという事は最初のほうに書いた「無料の良い商品に流れる」か「自分の好きな信用の置ける作品」しか絶対買わなくなる。
これって消費者心理としては当たり前のこと。
そこに文句つけるほうがちょっとおかしいし、「電子書籍・音楽などは売れない」と嘆いている人たちのほとんどは昔の業界の業務を知り尽くしていてそれを忘れられない人たちが言っているんじゃないのかな。

私たちって作り手もそうだけど、創っておしまいだった。
創って並べて宣伝しておしまい。
それが「売る」ということだと思い込んでいた。
でもそれはそもそもの間違いだったし、創るってことを勘違いしていた。
本当に創るって言うのは「思いを残し、創っていくこと」なんじゃないのか。

「仏作って魂入れず」

今の作り手、そしてそこに関わり嘆いている人たちは、この言葉がぴったり当てはまるように感じる。
「パッケージを売る」から考え方をシフトさせれば、本当に多様なアイディアが浮かんでくるよ。
人を集めることができるだけでも、それはイベントになるし、換金化ができてくる。
もう、古い考え捨てちゃいなよ。

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02/27

Sun

2011

悪い癖なのか、いや、その悪い癖が良い物を見れたのだから、まるっきし悪癖も捨てたものではないかなと肯定してみる。
私はストレスが溜まると過食や酒に走る傾向があり、昨日むしゃくしゃしていて家ではどうしても抑えきれず飲みに出かけた。
いつも早めに寝ていたし生活リズムを正そうとしていたけれど、乱れてしまった。
しかし昨日の出来事は、そんな細かなことなどどうでもいいと思わせてくれるほど、すっとした。
本当に良いものを見た。

で、そんなにもったいぶるなと、思ってるでしょ。
この題名の一万日目、何の日にちだと思いますか?

実は誕生してから一万日目、ということなんですね。
飲み屋の店員の女の子の彼氏がそわそわしながらケーキを持ってきて「これ、お願いします」という。
出された彼女のためのケーキのチョコプレートには「10000日め おめでとう」の文字。
2人は結婚を視野に入れて付き合っているもの同士。
彼女そのことをまったく知らず、目の前のケーキを見て初めて気がついたという。

ネットではこのような粋なこと読んだことはあっても、実際目の前でやられると心を打たれるものがある。
「本当にやるやつがいるんだ」と。
男性は24。女性は27。
年下の彼氏だが、しっかりしている。
こういう細かな心遣いや思いやりができるのだから、ちょっとぐらい大雑把になったとしてもうまくできると思う。

何よりもこの男性に非常に心打たれたのは、そのプレゼントに対し「俺がやったんだ。どうだ」と気持ちを押し付けるのではなく、「喜んでくれるのかな。心配だな」と不安がっていたところ。
今は勤務中なので直接「どう?」なんて聞かない。
あとで聞くまで不安をずっと胸にもっている。いじらしいではありませんか。
これが少しでも押し付けられた感情だったらここまで感動しなかった。
なんとも、相手のことをここまで思いやれるなんて、できすぎた好青年だと感動した。
ケーキもみんなで切り分けて、私もおいしくいただきましたよ。

「いや、これはいやらしいわ。ダメだ。俺、女だったらお前と結婚するわ」
って言ったら、
「いや、僕彼女いますので」
と断られた。
男性店員は「俺、抱かれてもいい」と言ってた。
そうだよね、こういう情にあふれる人間なんて昨今珍しい。
こういう男は絶対離しちゃいけないし、こういう若さゆえにわーっと浮き上がって物事をするのではなく、思いやりながら冷静に、そして淡々と相手の気持ちを慮るという素晴らしい若者が、この日本でもいるのだと思うと、今まで人に対してどうしても裏側から見て批判的になったり警戒していたギスギスしていた自分の心も晴れ渡り、スキップしだすのではないかと思うほど嬉しくなった。

すがすがしい、それは見事に冴え渡った空のような男であった。

思い出しただけで、ほっこりした溜め息が出てくる。
私もよいものを見させていただいて、ちょっとした宝物になりました。
どうもありがとう。

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02/25

Fri

2011



第144回芥川賞受賞作品。
ということで、一方の朝吹真理子とは違い、やたらとテレビに西村賢太の名前が出てくるし、ネットで共感する人多数、のような報道のされ方もするので、さていかなるものかと今更ながら読んでみました。

…久しぶりにぞっとする文章だった。
こりゃ凄いわ、というのが第一印象。
これをまともに読んだら本当にこっちまで鬱屈してきそうだし、一人の人間として見たら吐き気もすれば、こちらが持っている負の感情をあおられるようで読めない。
私は芥川賞受賞に対して「ああ、芥川賞ってまともだったんだ」とこれを読んで思った。
つまりいい意味で「ぞっと」させられた。

ある意味日本版「ファイトクラブ」のような男性的な暴力性を感じたし、「火の鳥鳳凰編」の我王を彷彿とさせられた。
というのは、この話は私小説とはあるが、作者の側から見れば当然「日記」ではない。
だから破天荒な人生を送ったからといって、この手の小説が書けるかといったらそうではなく、当然文才も必要だし、一歩引いて自らを事細かに観察する他人の視点がなければ書けるものではない。
通常人間は自分をモチーフにする時、必ずどこかで美化するが、これにはない。
ある意味達観した境地がある。
よく読めばこの話が一本の時間軸にいる「自分」というものをばらばらにして意図的に編集されているのがよくわかるし、主人公にいたってはデフォルメした後にさらに戯画化されているのがよくわかる。
つまり題材は自分でも、その自分をいかに切り貼りしていけば、この手の人物像を戯画化できるのかという意図された小説だということがよくわかる。
それだけにここまで圧倒的な筆力でガツンガツンと掘り込んでいく、力任せの掘り込み方は、そう他の作家が簡単に持てるものではない。
それは自分自身のリアリティというものを戯画化しているからに他ならないからだ。

当然個人の立場から見ればこんな男とは友達にはなりたくない。
扱いに困るし劣等感に触れれば怒るし、卑屈を感じさせる対比があれば不機嫌になるし、このような人間が心底友達だと思えるのは自分よりやや酷い生活を送っているか、まったく同じような劣等感を持った憎しみと怒りと卑屈さの塊のような同種の人間とだけだ。
男性でさえこの手の人種は嫌な感じがするのに、女性が読んだら心底男性不信になると思う。

この負のエネルギーたるや半端なく「美しいものをぶっ壊してやりたい」という昇華されぬ暴力性がとにかく生々しい。
そりゃあ男性だから自慰もすれば、アイドルかなんかの写真を見てしたり、劣等感があれば卑屈なエネルギーを爆発させて高飛車な女を犯し、顔に射精でもしたくなる、という妄想は一度はあるんじゃないのかなと思うがどうだろう。
映画の「ファイトクラブ」を見たときも感じたが、男性には得も知れぬ暴力性というものがあって、それを現代風に昇華している。
それが「仕事のできる」ことであったり「出世」だったり、何かを通しての「名誉」だったりする。
やたらと男性がそういうところにこだわったりするのは野生時代の狩猟本能を現代風に変化させているからだという説がある。
だから獲得していく充足感がないと、とことん腐っていくし、腐ったものに昇華されぬ暴力性が乗っかり余計にたちの悪いものになる。
女とよくしている男友達に嫉妬したり、何かと比べて俺だってこうなってもいいんじゃないかと勘違いしたり、うまくいかないことに苛立ちを覚えそれを抑えることなく他者にぶつけたり、となるわけだ。

また我王を思い出したのは、このダーティーヒーローは生きていこうとすればするほど、自らの過去が因果となって降りかかり、逃れようもない災難をこうむっていくという、結局は最後まで愛されぬ実力者になっていくのではないかと思ったからだ。
実際我王は鼻の薬を塗って懸命に愛してくれた女性を疑心暗鬼から切り捨ててしまう。
その後の話は結構有名なのでここでは割愛する。

等身大の人間として読むと嫌悪感を催すのは当たり前。
でも、一歩引いて見ると、小さな、まことに小さな人間の、自らの痛みに耐え切れずのた打ち回り周囲を傷つけることしかできないこっけいな話ではないか。

この本、後半にもう一編ある。
『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』という川端康成賞候補になった時の話だけれど、この作者としての劣等感、よくわかる。
「俺のほうが実力があるのに、なんでこんなやつが」という「俺だって頑張っているし、こいつはただ運がいいだけじゃないか」というね、この手のね、嫉妬心ね。
よくわかりますよ。ええ。
この手の嫉妬心を本当に臭ってくるようなものに乗せて書いてくるという、えげつないセンス。
いやあ、凄いものを読ませていただきました。


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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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