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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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03/11

Thu

2010

きゅうきゅうしゃは赤い

きゅうきゅうしゃきゅうきゅうしゃ。
きゅうきゅうしゃきゅうきゅうしゃ。

おかあさん、
きゅうきゅうしゃだよ。

あかくてぴかぴかしてきれいだよ。

おかあさん、
おかあさん、
おかあさん?
みえないの?きゅうきゅうしゃがみえないの?

あかいきゅうきゅうしゃだよ。
おかあさんはみえないの?

おかあさん、おかあさん。

おかあさんは、
いつもわたしのみていることを
うそだというよね。

おかあさんは、
いつもわたしにちゃんとなりなさいっていうよね。

わたしはいつもちゃんとしているし、
わたしはいつもみたままのことをいっているよ。

わたしはうそつきじゃないよ。

うそつきじゃない、
うそつきじゃない、
うそつきじゃない。

おかあさんこそ、
うそをついているんだ。

おかあさんはうそつき。
わたしのことをうそつきといううそつき。

おかあさんのめはへん。
おかあさんはわたしとみているものがちがう。
おかあさんのめがおかしい。

おかあさんのめをとりかえたい。
めをとりかえたらおかあさんはもとにもどる。
わたしにまえみたいにやさしくしてくれるでしょ。
やさしくしてくれないおかあさんはこわい。
おかあさんのめがわるいんだ。

めがわるい、
めがわるい、
めをとりかえたい。

そんなめはいらない。
おかあさんのめはいらない。
おかあさんのめをとってやる。

めをとってやる、
めをとってやる、
めを。
めをめをめをめをめをめをめを。
そうしたらまたちゃんとあいしてくれるんだ。

だから、
めを、めを、めをめをめを、
トリカエテアゲルネ。



救急隊員が部屋に駆けつけると、母親らしき女性がガタガタ震えていた。
「あなたですか?通報してきた人は。しっかりしてください」
隊員の言葉に母親は怯えきって言葉を言えないでいる。
「あ、あああ、あああああ、あの子が」
女性の指差す先には血まみれの女の子が果物ナイフを持って薄ら笑いを浮かべていた。
果物ナイフからは血が一滴したたった。
救急隊員が「何があったんですか?」と聞くと、母親は答えた。
「あ、あの子が、き、急に自分の両目を、な、な、な、な、ナイフで抉り出したんです!」



きっと、
わたしがいけないんだ。

おかあさんがみえるものとちがうから。
おかあさんとみえるものがちがうと、
わたしはいけないこ。

おかあさんのめはいらない。
おかあさんのみているせかいはいらない。
おかあさんとちがうからいけない。

きゅうきゅうしゃきゅうきゅうしゃ。
きゅうきゅうしゃきゅうきゅうしゃ。

きゅうきゅうしゃはあかくてきれい。
これからはきゅうきゅうしゃみたいなきれいなゆめをみながら、
おかあさんのいうことをちゃんときけるこになったよ。

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03/07

Sun

2010

誰も信じないから、自分ひとりで信じることにした。
自分が自分を信じなければ、もう誰も信じようとはしないから。
それを何度も粉々に砕こうとする。
何度も何度も傷つけていく。

憎んでいるわけではない。
恨みもない。
いや、思い出すだけで瞬時に憎悪がはちきれそうになる。

ただ、殺したいと思う。
殺しのイメージが頭にちらつく。
心が耐え切れるかどうか不安になる時がある。
何かの拍子にやってしまいそうな自分がいる。

それをやれば何人もの人生が変わる。
だけど、あとのことはどうでもいい。
やれば自分の人生は終わる。
自分が退場するのに、残った人間ことなぞ知らない。

嫌っていたはずのものになった人間が、嫌っていたものに成り果てていた。
そしてそれをまた伝えようとしている。
自分もまた嫌ったものに成り下がっていくのだと思うと、生きていこうとする気力がなくなる。

郷愁は、思い出の中にあるからこそ輝くもの。
できることならば、永遠の思い出として、現実には二度と現れないで欲しい。
そして私はなんらかの方法で必ずそうするであろう。

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02/11

Thu

2010

軽度から重度まで、同じ「うつ病」なので、たとえばmixiなどで「うつ病」に関するニュースがあり、その関連記事が出てくると反応も様々である。

「甘え」と書いている人や、「理解してあげて欲しい」とか。
正直、他人の主観がぶつかり合っては解決すらもしないし、そして本人の神経の問題なので他人が理解することは難しい。

その中で薬のことをどうにも悪く言っている人がいた。
私もネット上の日記や実際の知り合いなどから「薬の過剰摂取」と、「医者の怠慢とも言える処方」の情報が入り込んだりする。

薬を急にやめて克服した人も中にはいる。稀と言えば稀だ。
自分の体験から「薬じゃなくて愛情が大事」と言う人もいる。
実際「愛情」は大事で、これがないと回復は難しい。

現在医者が「インフォームドコンセント」が不十分なことによって訴訟を起こされるケースがあるが…つまり説明不足のまま、患者の理解が得られないまま手術したり投薬したりして事故が起きたりすることによって訴訟が起きる、というケースが起きているが、精神科医もこの例外ではなくなるだろう。

投薬を急に中止したことによって自殺したり、加害者になったり、また投薬のパターン、薬の種類を変えたがためにそうなるケースもあり、明らかに医者の知識不足により、このケースが起きたと立証されれば判例が積み重ねられていくことは間違いないだろう。

これから精神医療は科学の進歩によって生理学と密接に関ってくる。
その場合、投薬も従来の「カウンセリング」とは別のケース、つまり脳波、いやもっと神経回路に直接根ざしたパターンなどからされる場合も出てくるだろう。
私が関った身近な人は脳波にまったく異常が見当たらず、何度か調べていたし、ペーパーテストもオールグリーンだった。あちらが不思議がっていたくらいだ。
書類上ではまったく異常が見当たらない人間が、明らかに接している人間からすればおかしくなる時があった。記憶も飛んでいた。
入院し、投薬をして、ほんの数年で治ったという幸運なケースだ。
当然良くも悪くも教科書どおりにいかないこともある。
だが、薬で間違えて事故を起こした場合、精神科医も投薬における臨床実験のパターンや実際の投薬例を熟知しておかないと確実に訴えられる時代になる。

他人の日記を見ていて思うことがある。
うつには軽度も重度もひっくるめて「うつ病」となる。
体が弱く風邪を引きやすい人間に対して「外で走って体を鍛えればそんなちょっとした風邪も治る」と言うのと、
風邪を引いてだいぶ進行して肺炎を起こしている人に言うのとでは、同じ言葉でも後者には罪がある。
うつ病、というキーワードだけで過剰反応し、ケースバイケースも考えずすべてを一緒にするのはバカにもほどがある。
やめてほしいと思う。
水は生きていくには必須だが、人間は水の中では生きてはいけない。
同じ水でもこれだけ違う。
何を思うのも書くのも勝手だが、特に非難は差し控えて欲しいと願わずにはいられない。
どうせ、言ったからって何もしないのだろうし、最低限学ぼうともしないのだから。
そういう行為は下劣すぎる。
少なくとも、どうなっているのかということを少しでも調べて欲しいと思う。

この日本には随分と精神病に対する偏見が根強く残っている。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」なのだろうか。

ひとつ教えておくが、この発言を残したとされる快川紹喜は、火の中で死んでいったことを覚えておいて欲しい。
精神論は自分にのみ応用すべきで他者を強制的に道連れにするべきではない。
焼け死ぬだけだ。

もし、身近な人にうつ病の人がいて、力になれるのなら、その人の話には耳を傾けないといけない。
特に「主観に満ち溢れて偏っていた」としても、その人の感じていることは「真実」であるから、それを否定してはいけない。

助ける人も、無理はしないように。
お互い、体も心も大事にしなくてはいけない。

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02/04

Thu

2010

電子データにしたほうがかさばらないし、すっきりする。
生涯の親友が何人もできないように、生涯付き合っていきたい書と出会うのもまた少ない。
だから、これから「物質として存在する本」が空間的にも量的にも重量的にもマイナスに働く。
本が好きな人は図書館に通い、いらない本はすぐに古本屋に売り渡し、次々と読み続けるかもしれない。

私は本を読むスピードがとても遅い。
だから年間数百冊を読むなんて夢のまた夢に近い。
生涯で読める本の数も決まってくるだろう。
速読できるような人でもない限り、普通は私と一緒だろう。

だからこそ選別しないといけない。
良書を作らないといけない。残さないといけない。

「良書とは、期待を持って開き、利益を修得して閉じる書物である。」 (オルコット)

時代がこうなっていきますと分析されたからなんだというのだろう。
分析官が多くても軍師がいなければどうにもならないし、軍師のいる組織にやられっぱなし。
ましてや時代を切り開こうとするのではなく、その流れに従うだなんて。

ひらめくこと光の如し。
立ち向かうこと水の如し。
前進すること風の如し。
希望を持つこと火の如し。
大志を持つこと津波の如し。
人となすこと和を持って中庸を目指すべし。


起こってしまったことを嘆くよりも、起こっても揺らがない確固たるものを作ろう。
本当に職人なら、常にいいものを作りたいと思うはず。

現実を見たら何も起こってはいない。
だから未来に希望を抱かないといけない。
希望を持ち続けるだけの絶え間ない努力が必要なんだ。

人は死ぬだろ。
いつ死ぬかわからない。
最後の瞬間人は何を残す?
自分だってどんなに偉そうなことを言ったって骨しか残らない。

希望ってなんだろう。
今は見えもしないものを具現化する努力なんじゃないのか?
時代の考察に鋭くなるよりも、時代に台頭する力が欲しい。

希望は必要だよ。たとえ小さな希望でも。
だって生きているうちから「過去しか見てない人生」なんて寂しいだろ。
そんな死んだような人生過ごしていて何が楽しい。

誰かの笑顔を見たいでしょう。
誰かに「あなたと出会えて幸せ」と言われたいでしょう。

私がお話を書くのは、もう「誰かがそのうちするだろう」と年数を過ごしていくのが嫌だからだよ。
迷ったって時間は過ぎる。
疲れて立ち止まることはあるけれど、待ってたって誰もやりゃあしない。

人類にロマンチストが大事なのは、熱狂的なロマンチシズムが本当にそれをやろうと試みてしまうからだよ。
「星が綺麗。あの星に手が届いたらいいのに」
「金は儲かるから、なんとか他の金属から金を作れないだろうか」
そんな子供みたいな発想が何百年と積み重なってきて、人類は進歩してきたんじゃないのか?
次の世代に残すものは大人が常に決めている。

ゲーム、映像、漫画、エンターテイメントに変えることのできない小説はその価値を失っていくだろう。
電子の波の中で「過去に何が存在したか」すらも忘れ去られるだろう。

こう考えると、現実は劇場よりも不確かなもので、事実は作為的な幻に満ちている。
これからの小説家の役割は大衆を一個の人格とみなしてシナリオを書くことだね。
劇場に生きる大衆の意識が常に流されていくものならば、その流れを制御する意識体になればいい。

なぜか今猛烈に悲しい。


追記:
口論すると、いつも悲しい。
無駄な時間だけ過ぎて、互いに歩み寄りがなくて、不毛とも言えるやりとりを繰り返す。

親と子供は、永遠に親と子供。
どこでもかしこでも同じことで悩んでいるらしい。
昨日門限のことで他人の親に相談されました。
親は死ぬまで親の気持ち。
これは感涙に溢れる想いがある。
親の気持ち、子は知らず、子供は親不孝をして一人前になるものなのかもしれない。
子供は親の保護を受けているけれど、だからといって一個人の人生は自分自身で決めていくべきだ。
常識やモラルというものがあって、それらがよりよい公平感からくる倫理でもって判断すべきを、いつの間にか個人的な感情と多数論に摩り替えられたりしても、親は親、子供は子供。



デジタルデータの利便性は、端末によって加速される。
物という形にこだわらなくても、「データ」という形を徹底すれば、私たちの生活は驚くほど変化するだろう。
スーパーも百貨店も地域情報もニュースも図書館も。
スーパーの安売り、犯罪の情報、百貨店での物産展のイチオシ、書店・図書館でのデータ配信、食物の生産者・おすすめレシピ、IDキー、端末をかざすだけで欲しいものが手に入る。
そういう時代になる。

それと同時に、反比例して加速するものがある。
「人との心のつながり」
これも「利便化」される。
間違いなく。

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02/03

Wed

2010

※今日はいつも以上に妄想を炸裂させてみます。

電子出版事情は「電子出版」のみならず、「出版事情」そのものに関ってくることなのですが、アップルコンピューターやアマゾンが次々と電子デバイスを発表し、デジタルデータで書籍を読めるようにしています。
ipadとかキンドルとか、携帯できるものですね。

実際携帯電話では長い文章を読むには大変疲れ、大画面でないと目が疲れるどころではなく、痛くなるくらい苦痛になります。
読めるのは主に「若い人」だけになってしまうために、携帯電話での読み物の需要は絞られてくるように思います(携帯電話を使っている世代が繰り上がってくることもありますが)。
ですからどうしても大画面でなければ、長文の文字量には対応できなくなります。
そこで、デジタルコンテンツを展開しやすい画面のデバイスができると、今まで沈黙していた分野が目を覚ましてくる可能性があるのですが、私は小説などを書いているので、今回は出版に関してのことを考えてみたいと思います。

人間というのは、たとえば二つのものを提示されるとどちらかを取りがちですが、あまりにも選択肢が多いと何も選ばない傾向があるそうです。
今の本の事情も、あまりにも数が多すぎて何がなんだかわからないという印象のほうが強いように思います。特に本に馴染みのない人は余計にとっつきにくい。
ですから、この「選択の時間を節約」するためにランキングが多用されるという悪循環になり、時間に耐えうることのできる「良書」が余計に力を持たなくなります。
そのような状態を懸念している作者というのは(私の勘ですが)意外に多いと思います。

今までは出版社の支配下にあった作者ですが、ツイッターや原作者のブログなどのツールによって、徐々に内部事情が暴露され、ひどい体質のところから作者も読者も離れていくという現象が起こっています。
また、デジタルコンテンツが整備されていくにつれ、作者自身がコンテンツを作り宣伝もできるようになると、特に出版社という組織に頼らず、自らが組織化をしてしまうという流れも起きます。

原作者というのは、職人であり「出版する」という立場から物事を見ません。
あくまで「作品を通して何を語らうか」を感じているはずです。
リンゴを売るのに、いくら儲かってもリンゴの品質を落とすような売り方では作り手も酷く傷つきます。
あくまで「作ったままの想い」と「品質」をリンゴを食べる人、それを感じてくれる人へと届けたいわけですね。
じゃあ手荒な真似をする中間業者がコスト的にも品質的にもリンゴの悪化を招いているとわかっていて、なおかつ中間業者に頼らなくてもよいような流通ルートと方法ができると、「自分でやってみようかな」という気持ちが起こるのは当然です。
最初は不満を持つ各個人が自己展開する形が多くなりますが、そのうちこのバラバラの個々を取りまとめようとする大手の出版社ではない組織(これは原作者協会に近い団体)が現れ、ネットワークを作り、整備しようとするはずです。

「腕が上がると独立しようとする。しかし自分でやって残るのは2割にも満たない。つまり技術と経営とはまったく別だということに気がついていない」

特に大手の出版社は経営と流通のノウハウを持っていることに大きな強みを持っていますし、この点に過信があり「原作者が独立を志そうと、痛い目を見てまた戻ってくるに違いない」と踏んでいるはずです。

しかし在庫があまりすぎている出版社事情に反して、原作者の「作品本来の力を取り戻そう」という動きは、皮肉ながらデジタル化によって徐々に活発になり「作品力の強いものは装丁にこだわり、デザインの面からも本来の本の魅力を取り戻そう」となるのではないかと思います。
これは当然在庫があまるのを極度に恐れますから、生産量を抑制し書籍が投機の対象とならないためにも消費者の発注を受けてから生産をする「オンデマンド形式」が主流になり、店頭流通は「カフェ形式」での「店頭で紅茶でも飲みながら読む」形が流行りそうな予感がします。
カフェが月ごとにテーマを絞って店頭に置く書籍を変えるのも面白いかもしれませんね。
各書店は各分野に特化した店作りをしないと生き残れないし、大型書店はデジタル化によって現物としての本の力を徐々に失うわけですから、漫画本とかゲーム攻略本とか雑誌販売が主になり、小説などの本は一部の作者を除いて減らざるをえないのではと思うわけです。

作品本来の力を取り戻すには組織そのものが「ブランド化」する必要があります。
これはよりよいものを選別し、その経緯を透明化させ、組織が読者と親身に語らい強固なネットワーク化を図ることによって得られると思います。
…簡単に言うと、会社の中で話し合うんじゃなくて読者と話そうよってことね。
うち、こうやってて、これがいい本だと思うんだよねー…っていうことを言う。
従来の中小出版社は現在出版不況の波に駆逐されていますが、新たなデジタルにおける手法によって各地で立ち上げられ、新しい出版社同士のネットワークもできあがるでしょう。
問い合わせたら「ああ、その本はこっちの出版者のほうがいいよ」ってことになりそうです。
その出版社ネットワークに読者も複雑に絡み合うというシステムを構築できるのが「ツイッター」のようなツールであると思います。

どうにも日本における巨大な組織というのは、「白い巨塔」のように古くわずらわしいしがらみ(上の人間や組織が幅を利かす)があるようで、出版業界も同じのようではありますが、幕府に従っていてはどうにもならんという出版維新もようやく日本で起こりそうな気がしています。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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