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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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07/13

Mon

2009

「地球は待ってくれないさ。黙ってたって回る。時間は進んでいくんだ。でもそれを許していないのはお前自身で、受け入れてないのもお前自身で、ただ焦ってわめいてどうしようもなくなっているだけだ。…面白いか?それでよ」

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07/11

Sat

2009

無知な作家として

何か豊富な知識があるわけでもない。
自慢できる長所があるわけではない。

勘だけを頼りに、科学的な証拠を探していく。
共通点を集めて、人物像を作り上げていく。

完全オリジナルで作品を作れる作家とは、どれくらいいるのだろう。
誰しも何かから影響を受けたり、模倣を繰り返しながら自分の技術を模索していく。

模倣をしないで大物になる芸術家は皆無だ。
例えば絵画でもデッサンにデッサンを重ねて技法を会得していく。
やがてその中から自分のオリジナリティーが出てくる。

これだけたくさんの人間がいて情報を流しているのに、的確な指摘ができる人物は稀で貴重だ。
振り回されやすく、大きな虚像に飲み込まれ、どうしようもなく覆せない時もある。
人間の心理は、いったん自分の中で合理的な結論を見つけると、なかなかそこからシフトすることができないので、しょうがないことかもしれない。

間違った理屈でも、それらしければまかり通ってしまったり、あたかも正しそうな理屈でも現場では無力なことがある。
論理が正しければ、すべてが正しいわけでもないし、円滑に物事が動いていくわけではない。

芸術家に求められるのは「観察眼」だ。
「売れるものを的確に出していく」というのも、言わば観察眼のなせるわざなのかもしれない。
上記の一文には、いまだ自分でしっくりとこない部分がある。

売れるものと売れないものの差は何か。

「売れなきゃどうしようもない」

そう口々に言われる。

自分の才能を疑う時がある。
歌とか音楽とか、他者の作品に対するコメントなど触れるにあたり、他者は自分の気に入ったものに価値を与えるのは当然のことだが、「価値」とはなんだろうとか、「大事」にしてもらえる「作品」とは何かとか、「魅力」が無いから伸びないのではないかとか、様々なキーワードが浮かんでは消える。

他者の評価を気にすることほど、何かに媚びていることはない。
創作者として下劣な行為であることは確かだけれど、創作者は発信をしたいから創るわけであり、創ったものに触れてもらって、感じてもらいたいからこそ創るわけであって、自己満足のためではない。
何かを外部から感じて創作物として昇華しているのに、誰にも伝えたくないとなれば、自然礼賛・崇拝者か俗物かのどちらかだ。

「まだまだ世界観が狭すぎる」

そう指摘されたこともある。

広い世界観とはなんだろう。
豊かな表現や心理描写、貧しさの中でも様々なものを感じ取り芸術として増幅させるような、たくましい精神。

人々の生活の中には本来芸術となるべきものがすでに密着しているはずなのに、知識を得ることでそこにとらわれて無知に拍車をかけることは愚かしいことではある。

しかし人は自分の愚かさに心底気がつくことは少ない。

音楽のように素直に伝わって、素直に感動してもらって、何の疑問も持たずに周囲に伝えて喜びを共有できるような物を創っていきたい。
それにあえて反しなければいけない時もあるだろう。

いつの間にか傲慢になり、他者を見下すような理屈をこねくりまわすようになったら、もうダメだろう。

自分は今どこにいるのかもわからない。
いや、わかっていないふりをしているのかもしれない。

ねたみ、ひがみ、卑下、鎖は思ったよりも分厚く、何重にもまかれていて、相当負の感情を出すことが癖になっている。

これを断ち切らなければいけないのはわかっているのだが。

世に出るまで、どれほどの時間を費やさないといけないのだろう。
もどかしい日々は続く。

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07/06

Mon

2009

芸術は破壊だと思っている。

しかし、個人的な自由が行き過ぎると無法になるように、破壊活動も行き過ぎると、それは単なる侮辱でしかない。

中庸、バランスを考えるといつも悩む。

最初からくくりを作ると何も生まれない。

色々な情報が簡単に手に入る時代になった。

自分で「やりすぎだろ」と思っていたようなことも、何十倍の威力でぶっ飛んでやっている人間たちがいることを知れば、「まだ自分のほうがかわいげがあって、子供じみた考えだ」ということがわかる。

秩序とは、他者を見据えたものだと思っている。
破壊とは、独善でかまわない。

とてつもなく隔たっていると感じているものに出会うと、どうしても自分の中でバランスを取りたくなって、もっと多くの人と出会い、話を聞きたいと思う。
どうしても自分は、自分だけで突出できないタイプらしく、色々と気を使ったりしているようだ。

しかし、少なくとも書き手に必要なのは、ある程度の「公の感覚」であって、それを基準にして、意図的にハメをはずしたり、がちがちに規約を守ったりということを脳内でしないと、作品そのものが壊れてしまう。

情報化社会の中に生き、これだけの掴みきれない情報の中で、本当に「個性」なるものは存在するのだろうかと思う。
模倣の中から新しい物が生まれてくるのは歴史の常だけれども、「個性」とはいったい何のことを指すのかわからなくなる。
結局人間の脳も、与えられた情報で思考回路が成り立っている。
ほとんどの場合、ある程度知っていけば、思考のパターンがわかってくる。
なぜだろう。
個性がないからなのではないか?とふと思ってしまう。
意味の無い不安や、勝手な推測、思想だけの暴走、妄想の伽藍が横行し、現実を見据えたものが薄れてきている。
これは芸術が目指すべきところなのだろうか。

現体制が不安定なのではない。
現実を見失ってきているのではないか。
「人それぞれ」ではない。
人々の中にもその核となるものは存在するはず。

これだけ情報が溢れていながら、思想だけが暴走し、現実はなおざりにされている。
多様性を否定しているわけではなく、一言で言うならば「心の豊かさ」なのだが、やはり難しい言い方をすれば「多くの人間が他者との関りの中で、もっと溢れた想像力や創造力を発揮できる環境」がなくなってきているのではと感じるのだ。

その根底にあるのは人間としての核となるものであり、そして他者と共有できるものに他ならない。
自分だけの「核」ではない。
他者と共有できなければ意味が無い。

つまり、それが芸術としての秩序だと思うのだ。

模索中の思考で、文章そのものが支離滅裂だが、これはこれでメモ程度に置いておく。

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07/06

Mon

2009

「上位に入らないと、4位以下は皆同じ扱い。そんなもんだって」

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06/28

Sun

2009

 自分の中高生の頃には考えられなかった、いや、もしかしたら耳に入らないだけだったかもしれない。

 ここ数年で、ネットで知り合った何名かの現役女学生(中高生)から「学校で(同級生などに)レイプされた」という告白を受けた。
 いじめも最近は悪質化し、相当手が込んでいる。
 理科室にある薬品を(実験中に少量盗んで)給食に入れる、階段からいきなり突き落とす、リコーダーなどの持ち物をトイレの水につけて元に戻しておく、学校に来るなという内容での恐喝、細かなものをあげればきりがない。レイプされ、バスケットボールなどを入れる金属のかごに入れられてそのまま階段から突き落とされた、というのが一番新しい告白。
 三十路前後か、なる前の若い先生方の生徒へのあからさまな差別もあるそうだ。若輩浅学という問題以前の、高校生が先生になるような感じだろう。わかるような気がする。
 被害の総数は数パーセントの数値でしかないかもしれないが、現実に悪質な被害にあいながらも、誰にも話せず泣き寝入りしている子供たちがいることを知った。
 親も高圧的でひどい場合がある。特に親に名目がある場合、親が子供にとって暴力にも近い高圧的態度や行動に出ることが多々あり、エスカレートすることもある。その筆頭が「勉強」だ。広い範囲のくくりになるが、暴力を振るわれるきっかけになるのが「親の言うことを子供がきかない」ということ。
 勉強をしないことで暴力を振るう。特にそういう「半虐待」を受けている家庭は「対話」がない。一方的で押し付けがましい言葉が投げられ、子供の言い分は大人の圧力で叩き潰される。
 当然理不尽さを感じながらも子供は黙り込むか、ストレスを発散させるために突発的な行動に出るしかなくなる。
 非行に走り、夜の街に出入りするようになれば、セックスやドラッグは目の前にある。
 信じられないかもしれないが、夜の街に出歩くよくない人々と知り合いになれば、簡単に手に入るようになる。

 性だけではなく、様々な違法性を持つ薬物や行動などが低年齢化している。出会い系サイトにアクセスする中高生や、下手をすれば小学生も。
 出会い系じゃなくても、ネット環境があり、コミュニティー機能があるすべてのサイト、ゲームを含むプログラムには「出会い系」の機能が備わっていると考えていい。
 ネットをやっている人なら、当たり前だと思うだろうが、知らない人は本当にとんちんかんなことばかり言う。

 規制の動きが早まっている。
 本当に規制が大事なのかな?
 国会での答弁が浮世離れしすぎていて、生の声を知らないということがすぐわかる。
 利用する人がいて、犯罪が起こるから規制するというのは、少し発想として貧困だし、問題を隠蔽したいようにも見える。

 道具があっても、それを利用しない、犯罪行為にまで至ろうとしない、そういう気持ちがあったら、規制なんて必要ないのでは?
 なぜ事実をありのままに伝えようとしない?
 そして、そこまでに至りたくないという気持ちを作るには大人はどうすればいい?
 規制規制というのは、高圧的で対話のない大人のやることなのではないのか。

 若者は正しく時代を反映する。本田宗一郎もそう本に書いた。
 私もそう思っている。
 子供は大人の鏡だ。
 もし子供を非難するような声があるのなら、それは大人が腐っているからに他ならない。
 大人がガキだから、子供はそれ以下になる。

 少なくとも社会を構成する大人、すなわち社会が悪いと言われて、そこに対する考察も反省もなく、ただ激しい反論をくわえるのは、馬鹿の極みなのでは?
 そう思えないから平気で悪化していくのでは?

 我々はどういう社会を作りたいのだろう。
 個々人は自由ということはよく聞くことはできるが、この先どういう社会になればいいかということはあまり聞かない。
 傲慢の上に成り立った社会や国家は長い歴史の中で崩壊している。
 子供の心が平気で劣悪化していく心の貧困化した社会を作って、経済大国を自負して、やがて徐々に内部から国家を滅ぼすつもりだろうか。

 他人の子供だから関係ない?
 本当に他人事なのだろうか。
 育った子供に将来被害にあわされても他人事だろうか。
 育った子供たちが徐々に地域を劣悪化させて、犯罪を多発させるようになっても他人事だろうか。
 この発想は極端でもなんでもなく、長い目を見れば何世代かを通じて確実になっていること。
 誰もが20年40年後の未来に生きて、「生きづらい時代になったね」とぼやき、自分は関っていないと思うのならば、その人間は大罪を背負っている。

 我々はどういう未来を創造したいのだろう。
 その未来を、子供に聞かせられる大人はこの国家にいかほどいるのだろう。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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