本気で自分のために泣いてくれる存在がいるというのは、心の底から幸せだと思う。
自己のための悲しみではなく、本当に私のために泣いてくれている人がいるのだと、正直言って驚いた。
ことあるごとに私は父や一部の人に軽んじられる。
なぜかそういうことが積み重なると、肯定的なことも受け入れられなくなる。
自分で勝手に卑下し、軽んじる人々の意見を肯定的に受け入れる。
褒められても、肯定されても、「嘘だろ」「おせじだろ」と、勝手に邪推して自分の首を絞める。
心に後ろ向きなクセがつくというのは、その人の人生にとって、恐ろしいほどの不幸だと私は思う。
でもこれは、相当な訓練や成功体験を積み重ねないと、なかなか治らないくらいしつこい。
しかも、慢性的にぶり返す可能性もある。
そういうものを私は抱えていて、目の前で本気で泣いてくれる人を見て、その人にとって自分はどれだけ大事な存在かを知った。
自分を軽んじることは、その人を傷つけることなのだと体感した。
自分の存在があいまいで、自分の立場すらも、感覚すらも、生命観すらも希薄な人間は、まず自分を大事にしないので、他人を大事にする余裕すらない。
だから平気で自分を傷つけて、他人を傷つける。
人間一人は万人を守ることはできない。
だからこそ、選択があるのだ。
私は人と接するとき、「なるべくよい思い出をひとつでも作りたい」と思って接する。
自分がアメリカにいたときも、国内を旅したときも思ったけれど、たったひとつの思い出が、自分の人生の拠り所になることが多々ある。
そのことを思い出して、勇気を持って生きていけることが多々ある。
だからこそ、先に絶対ある「別れ」を意識しても無意味なことだと考える。
皆、生命である限りは死ぬ。
死ぬ限り、「別れ」はいつ訪れてもおかしくはない。
私はなるべく繋がった限りは、いつまでも何かの形でお互いの人生を報告しあいたいと思っている。
でも、思想や方向性の違いで、著しく対立し、離れる人も少なくはない。
自分が耐えられなくなって離れる場合もある。
思い出とは不思議なもので、意図してないときに思い出す。
どれだけたくさんのものを残せるのだろう。
どれだけたくさんの思い出を作れるだろう。
泣いてくれた人へ、私と接している多くの人へ、思いを懸命に込めたい。
自分勝手だけれど、思いがないほど薄情ではない。
たとえ冷徹に見えたとしても。
追記:親愛なるMへ。心からのありがとうをここに記す。
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