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03/03

Fri

2017

「流」 第153回直木賞受賞作品




とある人から「知り合いが直木賞を受賞したから読んでみてくれ」とあり、購入した。
「ちょっと前はぶらぶらしててさ」とか、「ペンネームも山東省からきているんだよ」と言っていたのでどんなものかと読んでみると、久しぶりに泥くさいような小説だと感じた。
若さの力というか暴力の力というか、随所に出てくる爆発的な力が主人公を突き動かしていて、中上健次の小説のような一触即発のピリピリした雰囲気が漂うが、文章は所々ユーモアや恋愛があったりして、最初の方で殺された祖父から「ミステリー小説なのかな」と身構えた気持ちが、すっと融解していった。
小説は実体験を元にしていて随分と変わった人生を歩んでいるなとも感じたけれど、結局はルーツを探す人生であり、「血」というものへの抗いがたい強き引力であり、自分は何者なのだという誰もが人生では一度は考えるような疑問を突き詰めたものだ。
ただ「血に関わる因縁」が人の深い罪や業に関わってくるとなると誰しも躊躇するようなものだけれど、運命なのか、見知らぬ力に導かれているのか、色んなことがすっと最後の瞬間に繋がってくる。
持って生まれた因縁が不幸を作ったり、意図しなかった道を作ったり、自分もよく感じることだけど、まるでバラバラで何も繋がらないかのようなことが、すっと一まとめになって目の前のイベントを作り上げていることを感じることがある。
受賞直後に購入して読み終わってはいたのだけど、ずっと感想を書くのを止めていた。
何か小説から突き上がってくる圧倒的な感情や暴力性に心が引きずられているのがよくわかったからだった。
いわば、読者の心を揺り動かす力が物凄く強い。
台湾、中国本土、日本と行き来するわけだけど、この舞台が日本だったら、もっと違った、陰気臭いような小説になったのかもしれないけど、そこは中国の広さというか、主人公の突き抜けた直情さと人間らしい生身の感情が色んなものと純粋にぶつかって昔のスポーツマンガのような爽快な感じさえ漂うところが、読んだ後も残り続けた。
蒋介石が亡くなった直後に祖父が殺されているため、当時の台湾の事情なども書かれていて、余計に泥と血が香っているけれど、私小説っぽい要素もあるため純文学としても読めるけれど、展開が破天荒なのでエンターテイメント感溢れる直木賞受賞は納得の一冊になっておりますよ。

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03/02

Thu

2017

飲食店のあるある

バックヤードに来ると、あまり飲食店には行けなくなるというのがありますが(思い込みが解けるという意味で)、私はだいたいぼっちなので一人居酒屋とか寂しくてできないし、「ご新規一名様ご案内しまーす!」とか威勢のいい声で言われて一人でたらふく食べて、沢山お金払って誰とも話さず「ありがとうございましたー!」とか言われてお店出るの物凄く寂しいし、まるでキャバクラに行って新人の子に何故かこちらが盛り上げるためにメッチャ頑張ってトークで盛り上げて帰るみたいな、げんなりした感じとも似ていますが、おうちで自分で美味しいものが作れるから外で食べるメリットがあまりなく、特にぼっちなので、話せる友達少ないので、ぼっちすぎるので、だいたいバーに行き、優しいマスターに色々と愚痴りながら日々の鬱憤を何とかやり過ごしている私なのです。
なんか前置きが物凄く長くなりましたが、飲食店では激安競争が激化しておりますが、その弊害なのかクレームを避けるあまり、食材の味を抜いたり安物の食材を使う飲食店がほとんどです。
実際に自分で料理するグルメの方などは、チェーン店がどのようなことをしているのか食べただけでわかるでしょうが、その通りなのです。
チェーン店は基本的にクレームを避けるために味のぶれない化学調味料を使ったり、過剰な調理をしたりしますが、例えば特にクレームが出るのが肉。
牛肉はレアでも「そういうもんだ」っていう認識が広がっているから「赤み」があっても好みの問題になる。
しかし豚肉鶏肉となると途端に増える。
スーパーで売っている肉を基準にして焼いて中が白く赤みが残らないのがちゃんと火が通っている証だとだいたいの人が判断する。
例えそれがいい肉で火が通っているけれど肉質の問題で赤みがあったとしても「火が通ってないんじゃないの?」という疑いを持たれなかなか晴れない。
挙句の果てには食べログに書かれて店の評価が下げられたりと酷い目に合う。
以前本格モヒートを出すお店で「ミントが多すぎ」と書かれてぶち切れてたオーナーがいたし、肉も本格派なのに「赤いから火を通して」と言われガチガチのものを出して「おいしい」と言われてもんもんとしていた人もいた。
このように、多くのお客を相手にして受け入れられなければいけないような飲食店は、まず味を抜く、食材の癖を抜くことを徹底してやります。
ちょっと脱線しますが湯の花が浮いていることは温泉成分濃い証拠なのに薄めて消した温泉あったりします。例え話としてはそういうことなのです。
話は戻りますが、大根は苦い、玉ねぎは辛い、キャベツパサパサ、全部水入れて味抜いたりみずみずしくしたりしてます。
調理人は美味しいところだけを出す。
料理人は食材の美味しいを出す。
と言っていた和食の料理人がおりましたが、この定義を借りるならばチェーン店は調理されたものを出され、ちゃんとした高いお店は料理したものを出されると言えるでしょう。
例えば違いの例を出すと「普段は捨てる皮さえもきちんと使う」のが料理だと言えばわかりやすくなるのではないでしょうか。最初苦味のあるものでも旨みだったりするので、利用するということですね。
クレームを避けて調理したものを出す、となると、当然どうなるかわかりますね?
最低ラインに合わせてものが出されるってことなんですよ。クレームを出されないように作るということは、極端に言えば一番の味音痴に合わせて出されると言ったほうがいいです。
さあ個人でやっている人、クレームを出す人には「二度と来るな」と言ったほうがいい。
じゃないと自分の技術がいかんなく発揮されないでしょう。店の個性も出ない。
うるさく品のない客を追い出すのもお店作りには大事なんです。
賢い人はいつも声を出さない。
そっと出て行って不満があるなら二度と来ないし、気に入ったら二度目がある。
その「二度目」は偶然じゃない。
「来たくて来た二度目」なんだから、相当重いです。
でも大量のお客を相手にしなければいけないお店は個別に対応できる限界があるし、大量に品を出さなければいけないので、いかに簡略化するかを徹底します。
自分の財布などのことを考えて単価の安いところへ行く位なら自炊を少しでもしてお金をためて高級店に行くことをお勧めしますが、所詮バイトの作ったもの、最低限のレベル保障しかできません。
美味しいと思える味の内容は「添加物」であって、本来の味ではないです。
コンビニ弁当やカップラーメンを食べているのと大差がないわけです。
最も安く料理を食べられる方法は自炊です。
外食がどれだけ高くつくかは家計簿をつけている方ならば一瞬にして気がつきますが、男性とかは特にそういうことを怠るため気がつきません。
「安くていいもの」
は食べ物に関しては絶対ないのです。
自分で野菜を栽培するとか、直接生産者と取引するとか、そういうことが出来る人だけ相場よりも安いものを手に入れられるし、やはりそこからの調理は自分の手でしなければいけません。
そうして激安戦争が続く飲食業界、だいたいスタッフ、鬼の形相になってきます。
薄利多売だからです。
わかりますね。
普段の何倍も働かないと利益が出なくなる。
給料さえも出ない恐れが出てくる。
自分は嫌がるのに外食の時はなぜかそれを強いているわけなのです。
中のスタッフの様子を見ると安いものを極度に求めるというお客の姿勢も暴力として働いていることがよくわかります。
悪いものをどれだけ誤魔化して出すのか、食材のロスも出てくる。飲食って食材ロスもコストになるので結構響いてくる。
結果何を食べさせられているのか想像していただければ、と思っております。
同じ料理でも手間隙かけて、きちんと化学調味料使わなければ、それなりに時間はかかるし多売は出来なくなるってことですよ。

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02/26

Sun

2017

国語辞典における「恋」と「愛」から表現の世界を考える

特に「恋」の説明の「満たされない気持ち」ってところが、とても腑に落ちました。
そして「恋」に執着すると「恋着」になるというんですね。
恋着=[名](スル)深く恋い慕うこと。また、物事に深く執着すること。「金銭に恋着する」(デジタル大辞泉)

なんだ辞典に書いてあったじゃないか、と今長年思っていたことが解決されたような気がします。
恋は勝手に始めて勝手に押し付けるもの。
永遠に満たされることはないし、満たされないことで恨みに思うことだってある。
じゃあなんで愛が憎しみに変わるのか。
愛には恋と同じようにエゴが付きまとい、恋とは違って愛はエゴとの戦いにもなりそうです。
恋は一種の執着心のようなものであり、勝手に捉われてしまうようなものであり。
自分もこの「恋」というやつには散々苦しめられてきましたよ。
それで恋することを自分の感情の中から一切排除しようと決意したわけなのですが。
恋という感情に似た執着心に関しては様々なところで応用して見るようになりました。
特に表現の世界では承認欲求が満たされない人間が、何かの拍子に反射的に人を逆恨みしているのがどれだけいるのか。
「愛」がないから、そういうことになるんだと考えていました。
じゃあ例えば「お前の作品には愛がない」なんて言われたら物凄く抽象的に感じるし、15年前に言われたら確実に逆恨みしていたタイプの人間でしたから、「愛」を知るには相当苦労しないといけないのだなと今常々感じているところです。
苦労を感じる時点で愛じゃない、なんて言われそうですが、「愛は楽に知ることができない」というのが現時点での持論ですから、この先変わるかもしれません。
少なくとも人間ですから腹の立つこともあれば嫌になることもあるし文句を並べ立て酒でもなければ我慢できないなんて事態も出てくるでしょう。
それでも向き合い続ける。誰よりも懸命に。
少なくとも、ずっといい気分で向き合えるなんてこと絶対ないと思ってるので「愛は忍耐だし苦労だし覚悟でもある」って考えているわけです。
その過程がどれだけ大変なことかは、通った人しかわからないし、通った人同士でしか分かち合えない。
「恋」は「落ちる」って表現があるけれど、「愛」には「落ちる」という表現がない。
表現の世界に入っていくのは、多分最初「恋」に似た感情ですよね。非常に多い。
憧れのものがあって、ああいう風になりたい。自分を認めて欲しい。
夢を見るように影響されてストンとやりたい動機が生まれたりする。
でもだいたいは「こんなに苦労するとは思わなかった」とか「苦労の物理的・年齢的限界」を感じて出て行くわけです。
なんせお金なんて、よほどの天才(もしくはマーケティングの天才)じゃないと最初は手に入らないのですから。
修行でもないけど長く続けていくには基礎力が必要になるし、やっぱり多少なりとも好きの源泉を自分が携わっている対象の中に見出していかないと表現など絶対マンネリ化して誰にも相手にされないものになってしまう。
時間は流れ時代は変わっているのに自分だけが未熟なままなんだから。
愛情って言われるものは、やっぱり相手のこと、対象のことをいつも考えているし、どうすればいいのか心が壊れそうなほど考えている状態になって、やってみて、ようやく人が気がついてくれるというレベルなのだと思っております。
「恋」はエゴがあっても邪魔にはならないけれど、「愛」を貫くにはエゴは邪魔になる。
ただ「表現世界の愛」なんて他者から見れば究極のエゴイズムだろうし、サイコパスの気がないとやりきれないところもある気がします。
人間に万人を愛することは不可能だからこそ、表現の世界に身を殉ずることを選ぶといったところでしょうか。
その愛はとても歪で狂ったものにしか見えない。
他人が不快に思うような愛など存在しないって思う人もいるかもしれませんが、私はよく悪役を愛する女性が出てくるお話などがありまして、それを見て「愛って色々あるものだな」と学んだ記憶があります。
そういう観点では愛って、何が最もそれを華々しく咲かせることができるのかを行動し続けること、なのかもしれませんね。

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02/22

Wed

2017

わかさぎ釣り

時折行っている居酒屋の店主と親しくなり、わかさぎ釣りに誘われたものですから、行ってまいりました。
わかさぎ釣りも初めてですが、私、釣りそのものをしたことがなく釣り初体験でもありました。
遠くまで出るのかなと思ったら意外に近場にわかさぎを釣るスポットがありまして、茨戸川なのですが、札幌中心部から一時間も経たずに行けるので遠征せずとも手軽に行けるのはびっくりしました。
メンバーは居酒屋の店主と居酒屋常連3人と私で5名。
ドキッ! 男だらけのワカサギ釣り大会!
ってことで気温マイナス10度、急に100m先さえも見えなくなる雪に見舞われながら、8時半ごろ到着。
業者さんが河の上にテントを張っていて、そこを予約して中に入って釣るという形なんですね。
道具は「釣りバカ」と言われる常連さんの1人が5人分全て用意してくれていて、餌も釣り針も竿も撒餌も網もたまに氷の淵に針が引っかかった時に外す専用の長い棒も全部あって、初心者講習を受けながらわかさぎ釣りをするという絶好の条件でした。
外は猛吹雪でビニールテントが激しくバタバタを音を立てておりましたが、結構頑丈で風も入ってこないし、外から中に入ったら眼鏡が曇るくらいあたたかく、普通にダウンで黙って座ってても平気。
天上についた水蒸気が凍って風で揺れるたびに雪のように降ってくる状況の中、釣り糸をたらして釣り上げておりました。
最初針が服に引っかかったり、餌の蛆虫のことを「サシ」っていうみたいなんですけど、サシをハサミで半分にして5つついている針につけていくのを「かわいそう」と思ったりしましたが、少しずつ慣れてきて、情けなど一切なくなっていく気持ちの変化を体験しましたよ。
中にはチーズ(味?)なんてのがあったりして、確かにチーズの匂いがしました。
釣竿を垂らして定期的に上へ引っ張るようにして揺らすといいらしく、恐らく餌が生きているように魚に見せかけるためにするのでしょうが、この揺らす行為が上手くできないと魚の食いつきが悪くなったりして、名人の見よう見まねで頑張りました。
午前中は勢いよく連れたのですが、午後になると途端に渋くなり、ほとんど釣れなくなりました。
と言っても、午前中には結構沢山釣っており、最終的には1kg以上は獲っていたと思います。
棒の間に引っかけてバケツに落とすのですが針ごと落ちるのに注意して皆入れました。
「ほんと、釣れない時はあれだけ頑張っても20匹とかありますからね」
と言っていたので、釣れた方なのでは、と思っております。
午後2時ごろにはお店について、その場で天ぷらに。
その他、なす、行者にんにく、まいたけ、常連が持ち寄ったものなどをいただきました。
野郎が集まって釣ってきた魚をつまみに昼から酒を飲み明かす。
何か妙な高揚感がありました。
特に自分で釣った魚をその場で調理して食べるという最高の贅沢が、いつにも増していい気分にさせたのだと思います。
テレビを見て言いたい放題の中高年の姿を見て、「ザ・居酒屋」といいますか、世の中のサラリーマンの姿を見ながら、ふとネット言論と重なったりして。
閉鎖的な空間だから言いたい放題できるけれど、普段はそんな変なこと言わない人たち。
こういう場所で息抜きしながら働いているんだろうなぁと感じると同時に、なにせ今回は一緒に沢山のわかさぎを釣り合った同士のようなものですから、遠めで見るのとは少し違った感覚になり、
「大事なのは本人が知っているものが真実であるかよりも、本人が大事に思っていることを見つめるべきなのだ」
と感じたのでした。
そりゃあ人間ですから多少苦痛に感じるような言い草もあったりするのですが、小説家ってもっと人間を可能な限り平坦な目で見つめることをしないと、本来の人間の姿を書くには程遠くなるなとその時痛感したものです。
それと同時に本音の飛び交う空間の中にいて、人の言うことなんて「居酒屋談議」と同じなのだから、それほど真に受ける必要はないし必要なものがあるのなら取り入れればいいだけの話なんだとも思いました。
人間、皆偏見の塊。
むしろそれが人間。
その偏見の中にこそ人生があったり・・・というか、ほとんど話の合うことなんてテレビのことなので、マスメディア情報が中心になるのですが。
そんな虚実と自分の人生という実があいまって個性を作り上げている。
接待とかよくしてたって人は酔ってても気配りが細かかったし、青森出身の人は口は悪いんだけど方言という以上にウィットがあって全然嫌な感じはしなかったですし、釣り名人は人当たりがよく純粋に釣りが好きで釣りが好きな人も好きみたいな感じでしたから楽しかった。
特によく感じたのは、皆大人になると若者だときつく言ってしまいそうなものを、よくユーモアを織り交ぜて喋るということ。
一歩言葉の使い方を間違えればひんしゅくものの内容も、ユーモアのある言葉の選び方で切り抜け話し合うという空間には自分のレベルの低さをひしひしと感じたものでした。
それって相当色んな差し迫った場を経験してないと、角を丸くしていくことは難しい。
一日中充実した時間でした。
ちなみにお店の中は少し肌寒く、ぐいぐいとお酒を飲んでも酔っ払わなかったのが家に帰るとあったかかったので一気に血管が開き酔いが洪水のように攻めてくるのを体験しました。
気温差には注意ですね。
わかさぎ臭みもなく大変美味しかったのですが、これが沼だと臭みが出るそう。
面白いものです。
流れの中にいたほうが臭みが出ないのは人間も一緒だなと。

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02/09

Thu

2017

地金と取り繕いのギャップ

人間関係には「距離感」というやつが必要だけれど、長い時間一緒に居ると当然地金が出てくる。
それはどんな関係だろうと同じだろうけど「え?」となりがちなのは、当然素が見えてきた時で、疲れてきた時や油断してしまった時などは特に取り繕えないため日常のちょっとした癖が出てくる。
それはある日友達を案内していた時色々案内し歩き疲れ、食べ物もたらふく食べて遅い電車でようやく帰ろうか、といった時待合室のベンチで休んだ。
高校生らしき女の子から、おばさんおじさん、あんちゃんまで六人ほどいた。
足も棒になっており痺れが来ているため電車の時刻になり立ち上がった時、いつも悪ふざけで言っていた言葉が出た。
「よっこらセックス」
友達もハッと気がつき「お、お前・・・やっちまったな」という顔をしている。
しんと静まり返った待合室に響く違和感のある言葉。
全員携帯を覗いていたけれど間違いなく、狭い部屋の隅々まで聞こえたはずだ。
私としては、もう知らぬ、と気にせず出たが、その時
「何故躾や日常の仕草やマナーが誰も見ていない所で大事であるか」
を痛感した一瞬だった。
出るんだよ。
もう体も脳も疲れ切った時、ふっと出てしまうのが日常の行為なのだよ。
そして一人では出ないはずであろう「よっこらセックス」が、ついそいつと一緒に居たことで出てしまったのだよ。
怖いものですね。
日常の仕草って。

地金と取り繕いはギャップがない方がいい。
家の中でも常々意識して自らの行為を正していくと、いざという時見た目も美しくなる。
例えば先日宝くじ売り場でスクラッチくじを買っていたおじいさんが居て、何度も高額当選をしたと言っていた。
そして当たったお金はすぐ孫のためやらなにやらで使ってしまうのがいいのだという。
常にニコニコしていて「お金は天下の回りものだから」とケロッとして言う。
当たるコツは「いつも来たって当たるもんじゃない。この日だっていう直感的に当たりそうな日に来ると当たりやすいんだ」ということらしい。
確かに運がありそうなので自分も追加で買ってみると普段当たらないような確立でくじが当たった。
運のある人の近くに居ると運が巡ってくると聞いたことがあるけれど、その通りなのかなと実感した瞬間だった。
それよりも、そのおじいさんを見ていてハッキリとわかったことがある。
私には、そのおじいさんの中に「お金を受け入れる器があるのだ」と思った。
それはお金に対してなんらマイナスの感情(恨み憎しみ偏見など)を持っておらず、常に幸せなものであり、かつ自分にも流れてくるものなのだと信じきっている垢抜けた気持ちがあるということ。
その垢抜けたお金への感覚が地金なんだなと感じたのだった。
色々な人を見ていてお金が集まりそうな人は笑顔がとても素敵だった。
人間多少裏表はあるけれど、少なくともお金に対して負の感情を少しでも抱く人にはお金とは縁がなくなる。
それは最良の友に対して不審の念を抱いたり、欠点ありきとは言えど長所は見ずに失態ばかり見つめて離れられるという人間に似ているかもしれない。
つまりは裏で友の文句を言うような輩には本当の友などできないのだ。

だからね、取り繕ってようやく幅広く対人が成り立つとか何かが成り立つ程度なら、結局全てを失う運命にあるんだよ。
年取っていけば尚更顕著になる。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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