今までの自分にとって「夢」や「目標」というのがいかに曖昧であったのか、というお話。
「~をしたい」とか「幾ら稼ぐ」なんていうのは全て願望の類で、今道筋がパッと見えてきて色々な事を調べだしておりますが、今まで考えていたことに決定的に足りなかったのは「具体案」だったのだなと痛感しました。
どうして具体案が浮かばなかったかというと、やりたいことはあったけれど、そこへの道筋が曖昧で具体的じゃなかった。
「具体的」って意味もわかっていたようでわかってなかった。
いわば自分にとっては「超具体的」な感じです。
例えば今「起業する」という観点で物事を組み立てていくようにしておりますが、そうすると何が足りないのか炙り出てくる。
全部こと細かくスケジュールと予算と見込み売り上げ、絶対かかる費用など、その他諸々のことを計算して無理のないプランを立てていくってこと。
あと、途方もない目標ばかりで途中をどうすればいいのかをずっと悩んでおりましたが、その途中ってやつが、わりとあっさりと手の届く範囲にあると知り、ついに中間地点を埋める算段もできてくると、あとは達成するための情報集めなど、とにかくやるべきことが具体的で、かつ時間と労力を積み重ねればできるということで、やる気が湧いてきたわけなのです。
僕の思考は常にネガティブで「どうせ理解されない」みたいな考え方がどこかにあるし、それが植えつけられたのもあったし、今までの経験から裏付けられている。
その「どうせ」が腐る方に向かうのではなくて「どうせ誰も理解してくれないなら自分でやるしかない」と思うようになった。
「誰に期待しても自分が望んだものは出来上がらない。だったら自分で作るしかない」
これも「どうせ」っていう考え方の表れなんです。
どうせ、命一つ。
どうせ、いつか死ぬ。
どうせ、サラリーマンやろうとしても、偏屈すぎて上手くやれない。
どうせ、他人が期待したことに上手く応えることができない。
どうせ、スピードを要求されてもどんくさい。
どうせ、一般社会には馴染めない。
どうせ、誰も自分の望んだものを作りはしない。
じゃあ、普通にして滅びるしかない人間が生き残ろうとするなら自分でやるしかないじゃないか。
そういうネガティブが一周しきったような考えなんです。
もう、いいじゃないですか。
いい年だし、戦国時代なら隠居のことも考えなきゃいけない年だし。
体力も自信ないし勉強も上手くできない。
本当にマイペースでしか進めない。
どこかの部品で生きるには欠陥品過ぎる。
じゃあ何かしていくしかない。
自分の国を作るしかない。
小説書いていても今の主流の流れとは物凄い違和感を感じる。
実際賞に送ったって落ちる。
もう、自前で全部揃えるしかないじゃないですか。
そのことは考えていたのに、具体案がないばかりにね、ここまで伸びてしまいましたね。
たぶん皆「具体的」の本当の意味を僕のように漠然と理解していないのだと思ってる。
今までの自分は作品を積み上げればいいんだ的な考えがあったのだけれど、具体的というのは、A作品を書きました、この作品の読者層とターゲット・作品の中心となるテーマはどの年齢とどの考え方の人に訴えかけ、その人たちに作品をマッチングさせるためにβのような方法を取り宣伝し、宣伝機関と宣伝方法は以下のような方法で、宣伝期間は公開までのこれまでの期間で予算はいくらかかり、宣伝を受け取った何パーセントが実際に作品を読んでくれるまでの見込みがあり、その上で売り上げは最低これくらいは確保できるであろう、その上でトータルで差し引きこの程度の見込みがある、という見立てが具体的ってことなんですよね。
もうこれを理解するまでに10年以上かかった。
というか理解するまでってよりも、ここまで考えが到らなかったという表現が正しい。
それだったらねぇ、やりますよ。
気がついたのですもの。
今年は「具体的に」ね。
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