「まいったな」と松谷はぼやいた。
指先が溶けているなと手を光りにかざしていたら、どうやら先に溶けていたのは心の方だった。
チョコレートが溶けたように指先が垂れ、それは途中で水蒸気のように消えていくのだが、問題は体の肝臓の辺りから心臓にかけてまでヘドロのような色で煙を放っていることだった。
「いつからだ。これ」
気がついた時には、相当抉られていた。それも仕事を辞め、ようやく自分のことを落ち着いて考えられるようになってからだった。
背中まで貫通してないが、前半分くらいは腐り落ちたかのように、ない。
絶望や衝撃を受けるよりも、「どうなっちまうんだ。俺死ぬのか。まだこんなになっても生きられるのか」と望み薄く自らの状態を捉えていた。
痛みがない。だが、死んでいっているのが、よくわかる。
酒の飲みすぎだろうか。それとも日頃のストレスや睡眠不足や疲れのせいなのか。
仕事のしすぎが原因だろうとは思った。
「こんな死に方もあんのか」
何せ、当たり前だが一度も死んだことがない。
友達が交通事故で死んだことはあったし、祖父母の葬式も二回出たが、どうにも自分が死ぬとなると「死の感覚」というやつが、さっぱりわからない。
大げさに考えているだけかもしれないし、むしろ楽観的過ぎるのかもしれないが、その基準さえわからない。
医者に見せたらハッキリと診断され、余命とか、あと何年後に生き残るとか治るなどの確立やらを言ってくれて、それで自分の中で命の長さを測れるのかもしれないが、そもそも若くして同級生の葬式にさえ出たのだから、命を測る定規などすべてまやかしであるのを理解していた。
人は寿命通りにはいかないのだ。
むしろ「寿命」という考え方でさえ怪しいものだ。死んだ時が「寿命」なはずなのに。
「せめて苦しまずに死ねればいいのだが」
思い通りにはいかないことがわかっていながら、眠るように死ぬことを皆夢見ていることは、年老いた人たちの話を聞いてわかっていたし、今松谷もその気持ちがようやく深く理解できた。
何も考えずに、ゆっくりと死を迎えるためにはどうすればいいのか。
今まで言われたまま、奴隷のように仕事をしてきたが、いざ解放され、体が完全ではないことがわかると、前のように一日中仕事をしていたい気分になってくる。
自分のことを深く考えなくてもいいように。
――ヒラ、ヒラ、ヒラ、ヒラ……
何かが松谷の目の前を舞い落ちた。
落ちた場所を見ると何もない。
だが地面を探していると、落ちていくものが途中で溶けて消えているのがわかった。
その落ちてくるものが何なのかは理解できなかったが、手をかざすと指先から溶けていっているものとも似ている気がした。つまりは、自分以外の誰かの溶けた何かなのかもしれないと松谷は感じた。
膝を突いたまま上を見上げる。
枯れ落ちたものが美しい秋色を放って松谷の元へと全て落ちていっているかのような感覚に陥った。
――俺もまた、いつかは自然へと返って行くのだ。
松谷の心の中に浮かび流れた言葉だった。
だが、無意識から戻ってくると、もう一つの考えが浮かんだ。
――俺はこのまま死ぬことを望んでいるのだろうか。
馬鹿な考えだと思った。
楽に死ねられればいいと思う反面、苦しむくらいなら少し足掻いた方がいいかもしれないとも思った。
それもこれも、欠けてしまった体をどうやって修復していいのか、まったくわからないからに他ならなかった。
――俺以外にも、体の治し方を知らないやつがいるのかもしれないな。
もう一度指先を見てみた。
小指の第二関節と薬指の第一関節くらいまでは左右ともハッキリ欠けている。
その右手で胸の辺りをさすると、ぬるっとした感触がしているが、手を見るとすぐに黒い染みは蒸発している。
本当にここだけなのだろうか。下っ腹の辺りも少しぬめっている。
ここも?
もしや!
一度疑念が浮かぶと、もう心が崩れていく。
――俺の顔はどうなっているのか。
触った感じは崩れていない。だが、鏡がない。自分が見えない。確認できるものが何もないと、全てが疑心暗鬼になる。積乱雲のように暗い感情が盛り上がってくる。
――どうしたらいい。どうしたらいい。どうなっていくんだ。どうすればいい。
生きたいとも死にたいともわからない、どちらつかずの混乱した思考に陥る。
先ほどまで落ち着いていたはずの松谷が、顔の崩れ具合を考えただけで一気におかしくなっていく。
命に比べれば顔のことなどどうでもいいではないかとすら他者は考えるかもしれないが、松谷にとって今の状況は「自分が何者であるかの証拠がこの世から消える」ことへの絶望感だった。
――足がなくなろうと、手がなくなろうと、まだ自分でいられる。だが、顔がなくなったら自らと外を結びつけるものが何一つなくなるではないか!
狂ったように松谷は叫んだ。
「俺の顔はどうなってる! ちゃんとしているのか! 誰か! 俺の声が聞こえるなら答えてくれ! 誰かいないのか! 俺の顔は! 俺の顔はちゃんと人の形をしているのか!」
もはや胸の欠損など松谷にとってはどうでもよかった。
叫びのかいがあってか、舞い落ち消えていくものの中から声がした。
それこそ、消えるように聞こえてくる声だった。
「心配いらないよ。みんなと一緒だよ」
――みんなと一緒。
――みんなと一緒。
松谷は安堵と共に深い息を吐いた。
「大丈夫。俺は大丈夫なんだ。はっ、ハハハハハハハ……」
胸の奥から笑った松谷は、安堵したのか涙すら流していた。
自分が始めに何を考えていたのかすら思い出せないほどに笑っていた。他者への思いやりすらも、安堵で消え去ったほどだ。その声が誰のものなのか考える心は既に抉り取られていた。
依然、黒い煙を放って胸は欠けていっているが、松谷は自分の意志で何かを考えようとして何もわからないまま人生を生きるよりも、何かに従った方が生や死を理解できると考え、媚びてでも、もう一度奴隷のような人生に戻ることを選択したのだった。治す術も見つけられずに。
自由の選択肢は松谷にとって失うことと同意義だったのだ。
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