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あさかぜさんは見た

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11/23

Sat

2024

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07/20

Wed

2016

ぐうたらの自分へ

目先のことに飲まれて、チャンスを逃し続けているというのは、今の自分に充分当てはまること。
でも、チャンスというのは実力があって初めて見えてくるもので、何も持たない人間にはまったく、そのチャンスとやらが目の前を駆け巡っていることには気がつかない。
昔はわからなかった。
今はうっすら見えている。
馬鹿だった。
本当に。

昔は何も持たない人間だった。
今何を持っているのかと言ったら、具体的に言い表すのは難しいけど、やってきたことが少しずつ積み重なってきたといったところだろうか。
もうそろそろ充分だ。
自らの運命上10年は空白を持つのはしょうがなかったのだけれど、でももう充分。
いける。いこう。
ここから先何も成さないのは怠惰だ。

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07/20

Wed

2016

AIに仕事を奪われていく

様々な仕事が将来AIに取って代わられるという。
それも自分たちが生きている間の近い将来にだ。
富というのは、この点からも平等に分配されるわけがなく、特殊な技能のないものから職を奪われていき、その人たちはどのようにすればいいのかは政治的なことや、もしくは市民団体の強力なサポートなどがないと二度と職にありつけないような事態が生まれるわけだけど、ちょうど今の二十歳前後の人たち、今からちゃんと政治と未来とを考えないといけないと思うんだけどな。
ああ、その未来に対して示唆を与えるのも小説家の仕事なのかな。
仕事がなくなると何が起こるかっていうと、犯罪が増えていく。家にも住むことができなくなるのだからスラム街のようなものができる。そのスラム街を拠点にして外国のマフィアが暗躍し始める。
ようは、これ小説の世界だけど容易に想像可能な未来として待っている。
未来を想像するためには、その他大勢の人間と同じようではいけない。持続可能な社会がこの先、いや、結局戦争経済に徐々に移行していくグローバル化や、社会のAI化の中で、どうすればいいのか。
全てが八方塞になる前に誰かが未来を的確に予想して立ち上がらなければいけないのだけど、皆が他力本願で、自分もまた政治家の才能はないし、結構泥まみれなので、一瞬にして下ろされるだろうし、才能の出現を待つしかないのが実情。
ただ、不思議なのは僕は地域で政治家を育てるという運動が起きてもいいんじゃないかと思ってる。
優秀な人材に村で金を出し合って育てる活動をしていくとか、このことに関しては「勝手に育ってくる」のを皆待っている。
時代の流れは止められないから、機械が悪い政治家が悪いなんて言う人も出てくると思うけど、それは見当違いだし、自分たちが民主主義の世できちんと将来を理解できなかったのが悪いのだから、誰も責められない。
例えば誰かを育てるというのも一人当たり一ヶ月千円とか五百円とかでもだいぶ違ってくる。
教育に割くお金。本だってみんなの共有財産として扱っていけばいいし、人間が知恵をつけない限り、生きていくことそのものに希望を見出せなくなる。
AIは学習していく。物凄いスピードで。
だから気がついた時には職がなくなっている事態は充分起こりうる。
目に見えた時には、もう遅いんだ。

うん。そうだね。
このことは書かないといけないのかな。
小説の世界として。

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07/09

Sat

2016

老害って言葉

三つ子の魂百まで、ということわざがあるのだけれど、わりとこれって当たってて、ネットでも現実でもそうなのだけど、道理をわきまえてなくて不愉快な人ほど出しゃばってくるっていう性質がある。
だからまるで年上のほとんどが若者に害をなすような感覚、もしくは若者の成長を阻害するような存在として見てしまいがちだけれど、まだ何十という数ではないけれど、何人か見ていて、さらに生い立ちなどを知っていくにつれ、どうにも昔からその手の性質はあったのではないかと確信できるようになってきた。
また、年齢が行くにつれて子供じみてくるのもあるかもしれない。
なんというか、自分なりに楽に動ける方法を長年の人生で確立しているので、癖は上塗りされ、考え方は固定され、行為は冒険を忘れ、体力は衰えるわりには頭はしっかりしていたりするので口が先に出たり、じれったくなって苛立ったり。
特に何がいけないかって、知っているものが多くなればなるほど、それをベースにして物事をみるから、とにかく見下しがちになる。
自分だって今あるくらいだから恐ろしいことだ。
「こいつはまだ何も知らない」
という目で見るし発言する。
自分でも何故なんだろうと思いながらも、だいたいこのパターンだなっていう範疇から人が外れなかったりするから、ぱっと言ってしまったりするけど、この手の姿勢をもっと疑った方がいいのではないかと思っている。
もっと怖いのは年を取って態度が硬化するのか、軟化するのか、どうしたらもっと色んな人たちと寄り添えるのだろうと考えたり。
人は無意識の中で今まで自分が生きてきた、行動してきたパターンを是とする性質があって、それが固まってしまうと目の前の人間を上手く観察できなくなる。
つまり相手のことを無視してでも我を通すようなことを平気でやりのけるし、それが年長者の特権と言うか親切心だと思い込んでいる人も多々いる。自分は間違っていないと自信満々なのだ。

自分が知っている素敵な大人っていうのは、本当に腰が据わっていて、安易なことでは否定的な言葉を吐かない。
そこに誰がいても真摯に向き合うし、相手の可能性や、物事の可能性をじっくりと共に探っていく。
幸運だったのは、自分がその手の大人に出会い、一緒の時間を少しでも過ごせたということだ。
で、かく言う自分はというと、情けない限りだ。
それでもなんとかして自分が活躍して団体が育っていくといいな、なんて思ってるけど、まだまだすぎる。
努力が足りない。

還暦過ぎるとだんだん子供になっていくと言われている。
だから性格が変わるなんてことはまずないと思ったほうがいい。
老害なんて言われている人たち。
その人たちに安易に老害、老害と使う人たちが、老害と言っている人と同い年になったら、あらまあ不思議。
その人たちは立派な老害になっている。
当たり前でしょ。それが今生きている自分の基本的な他者への姿勢なんだから。
だったら年取って変わると思います?
今度は若者に対して誹謗中傷の類の言葉が向けられるに決まってるんです。
そういうお友達は若ければ注意するといいし、年取ってたら友達づきあいは遠慮した方がいいと思いますね。ええ。

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06/29

Wed

2016

ロベール・ルパージュ「887」と知り合いの演劇。



~行く前~
前回東京に行った時池袋をふらふらと探索ついでに歩いていたら、綺麗な建物だなと入った場所が東京芸術劇場。
そこで見たCMに釘付けになった。
一生の糧になるかもしれないという妙な直感。
金銭面でいけるかどうかわからなかったけど、ぎりぎり帰ってこれる計算。
ロベール・ルパージュ「887」を見に行く。
その話をとある場所でしたら、「え? ハバナじゃん。お店の電話番号も887入ってるし」とマスター。
マスターがやっているお店の一つが「HABANA」という名前。
「え? ああっ! ハバナですね! 奇遇ですね。びっくりした」
意図してないところで、こういう繋がりって出てくる。ちなみに舞台のほうは小さい頃に本人が住んでいたアパートの名前なのだそうだ。
マスターの店に立ち寄ったのもちょっとした偶然。
日曜だったし他のお店が閉まっていたので、開いているそこへ。
「最近閉め気味だったし、ちょうど今日開けてたんだよ」
日曜時々閉まっていることもあるから、入って飲めたのも何かの縁。
ついでに東京では友達も舞台をやるみたいなので、ちょうどよく日程が合うので同時に鑑賞。それも池袋。
すーっと何かが面白いように繋がる瞬間ってある。
何を得て帰ってくるのか、今までとは違った道が見えてきそう。

~行った後~
ロベール・ルパージュ「887」と知り合いの演劇。
舞台で「見たい」なんて思うことは、人生の中でまずなかったのだけど、これだけは直感的に「見なきゃ!」と不思議と思ったのだった。
さて、見てよかったかって言うと、本当によかったなと、わざわざ東京まで行ったかいがあったと、充実感を抱いている。
例えば金さえ使えばもっといい演出が出来るとか、もっと面白いものができるとか、そういう幻想を打ち砕いてくれる。
最低限のもので、最大限の演出をする。まるで手品を見ているようだった。
そこにアイディアがあり想像力があり創造性がある。
英語とフランス語の両方でやるというのも面白くて、その差異から生まれてくるアイデンティティもハッキリある。
ミニチュアのようなセットに映像を駆使して全て一人でやる。
ミニチュアを手持ちのカメラ(スマホのようなもの)で映し出して、後ろのスクリーンに自分と一緒に映したり細かに作りこまれたミニチュアの世界を一つの映像世界に落とし込んだり、光の使い方、絶妙だった。アパートを開いたら自室になるとか。
半生を本人が一人で演じていくという舞台。
記憶をテーマにしていたけれど、むしろその記憶の曖昧さから生まれてくる一個人としての立ち位置や可笑しさ曖昧さ、誰かと自分の関係性などが浮かび上がってくる。
それを東京でやるという面白さもあった。同じ言語圏だと差異があったとしても、それを一つの自らへのテーマとして受け取ることは難しい。でも言葉の違いの中で受け取ると、たちまちテーマとして受け取ることが出来る。
東京の人たちの危うさと言ったら、微妙な差異の中で生まれてくる様々なテーマを無関心さと不干渉さで流し込み、守るべきであろうものたちを犯さないという曖昧な共通意識で成り立っている。でもそれって何なのか、自分たちで問い詰めたことは一切ないだろう。
とにかく札幌から行くと東京はどこもかしこも狭い。ビル高い。緑ない。碁盤の目で成り立っている札幌から行くと道曲がりすぎ。迷う。まるで迷路。気が滅入ってくる。宝探しのような楽しみはあるかもしれないし「逆に僕、道の形とかで覚えちゃうから札幌みたいなきちんとした場所迷うんですよね。特徴ないでしょ」なんて言っていた人もいた。こういうのも一つの個性だと感じる。
記憶の旅はくねくねと曲がり捻られたような道を歩いて行くに等しい。
「小さな頃に住んでいた家の電話番号は覚えているが初恋の人の名前は忘れている」
なんて舞台では言っていたけど、そういや初恋、幼稚園の頃かな?
近所に住んでいた「さなえ」ちゃんだったような。
でもその次の小学六年生の頃が曖昧。
「りえ」だった気がするけど、ぼやけている。
なんでだろう。その子はとても好きだったのに。
こうして様々な自分に対してのことは曖昧になっていく。
曖昧になっていった上で、今自分はどのようにして成り立っているのか、自分自身とは何か、年をとってから考え始める人は少ない。
だから外部の物を借りてきて、まるで自分のアイデンティティのようにしている。
その中で染み付いているものがある。言語が違おうと思想が違おうと何が正しかろうと間違っていようと、ちゃんと染み付いているものがある。
そのことをちゃんと感じられるか、ということも大事なのだけど、その感性が残っていれば、いくらでも立ち上がることはできるのだと感じさせてくれた舞台でもあった。
とにかく二時間みっちり、素敵な世界にいた。
ほんの少しの光の加減で、光の当て方で、舞台の世界は大きく変化していく。
このことは自分が今見ている現実世界にも応用できることだった。

さて、知り合いの演劇。
こいつはいただけなかった。
自分と同じように狭い世界観で一つの空間を演出する。
それはいいんだ。
でも、最もいけないのは、作品の中で役者が否定した物事を、今自分たちがそっくりそのまま演じてしまい、その矛盾を通してしまうということが、シナリオの構成としてぶち壊れていた。
ようはシナリオ発表の段階で、誰も突っ込む人がいなかった、ということを証明してしまったということは、その劇団そのものに自浄作用がないことを意味している。
狭い狭い体育会系の縦世界だけど、その構図がシナリオへの意見すら阻んでいるのだとしたら、腐っているって言える。もしくは下の人たちの勉強不足。
でも逆に「あれ? これ自分でもお金取れるじゃん」という気持ちすら思い起こさせてくれた。
少人数でやる小さな舞台っていうのも面白いかもしれない。
ちょっとだけ視野に入り始めている。
自分にとっての大きなテーマは、これから失われていく五感と第六感の感覚機能をどのようにして保存していけばいいのだろう、というのがある。
三十か四十年後には、人間じゃない人間が育ってくる。その人たちに最終的に何を伝えないといけないのか、どんな感覚なのかを今から想像して残していかないといけない。なんせ、現在の技術では電気信号だけで塩分感じるってほどなんだから、手の施しようがないかもしれないし、自分だっておかしくなるかもしれない。
まだ自分にとって幸せなのは、生涯かけてやるべきことが見つかっているってことだ。
その幸福を自分なりに追い求めていければ、死ぬ間際あたりに何かを伝えることができるかもしれないと思っている。

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06/28

Tue

2016

ノイズだらけの人間社会

人は都合よく今必要なものを与えてくれないのは当たり前なのだけれど、さも自分が知っている正解が相手にそのまま当てはまれば君もちゃんとした人間になれると言わんとばかりの言いよう。
自分ももっと反省しなければいけないと思うのは、いつも自分の考えを言う前に人の話を聞かなければいけないということ。
でもそれはとても難しい。
まず自分から語るけれど、それが相手の口を封じることもある。
基本は自分の心を裸にするのが私のやり方なのだけど、そのやり方が期待しているのとは逆の反応を示すことだってある。
人によってペースは違う。口を開くにも時間がかかる人もいる。
一日二日じっと待ってなきゃいけない人だっている。
人は人にかまってやれる時間が惜しく、やることがあればあるほどかまえない。
自分がやるべきことは自分が一番わかっているのにもかかわらず他人が気になる。
ちょっとやれば相手は勝手に動いていくものだとたかをくくって、望む方向にいかない相手を叱責する。
あっちでもこっちでも人は人を馬鹿にし合っているのは何故だろう。
それともネットが酷いのか、それともそれが日本人の性根なのか、世界共通なのか。
「菊と刀」という本が読めなかった。
読んでいる途中動悸がして、苛立ちが最高値に達し、文字が入ってこなかった。
全部ページはめくったけれど、それは読んでいるということにはならない。
あそこには自分が味わった日本人の嫌な部分が書かれている。
色々と過去のことが一気に噴出してきて、自分が制御できなくなった。
「言っていることは正しいが、やっていることは間違っている」
そんなセリフが先日見てきた舞台であった。
人間は正論を振りかざす時、論理性の密度を高めれば高めるほど己を軽視する。
例えば相手への叱責、罵倒、嘲笑、卑下、蔑み、などなど、これらの行動は全て著しい欠如を意味する。
それは人間性のみならず、知性の欠如も意味する。
人は心によって、年齢によって、知識によって言葉の意味を変えていく。
例えば若い者は馬鹿だと言った時点で未来から隔絶される。もうどこへも行けず停滞する。だって、そのような人間は子供と真剣にお話したことがない人なのだもの。
世の中には様々な思惑がある。知識がないために大損をすることは多々ある。
他者が人の心に添うことはとても難しい。
だけれど可能な限り寄り添おうとすることは努力次第でできる。
学びを人に押し付けようとすれば拒絶されるのは当たり前。
学びを諭そうとするには、よほど相手の心に寄り添ってないと不可能。
他者へ対し、特に赤の他人に対し労力が必要な事は、だいたい今の人たちは放棄しているか、心折れている。
難しいことだから。
皆口々に勝手なことを言い、そこに矛盾が生じている場合、さてどう動く?
立ち止まるか、右往左往するか。どちらも自分がない。
私も心が辛くて何も出来ないことは多々あるけれど、一つだけ言えるとしたら、もうちょっとやりたいこと本気でやればいいんじゃないかな? ってことぐらいだ。
正しいことは、芳醇な経験の先にこそあるもので、それは最も弱いものに対し、どれだけ力を与えられるかだと思っている。
私自身守ろうとしていることは「持っていないものに対してこそ、持っているものが与えていくべきだ」ということ。
そのことは目標にもなっている。
そのために巨大な力を手に入れたい。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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