※長いですよ。面倒な人は読み飛ばして。
スーパーをうろつくのがすっかり癖になってしまった。
職場で働いているみんなに食事を作るのが趣味になってしまったところがあり、趣味とはいえ実費なので六人前をどうやって節約して作ろうか、と常々考えながら食品を買う。
損をしているのに金も取らず実費で作り続ける理由の一つに「作ったことのない料理」や「上手くできない料理」の「練習の成果」として味見をしてもらおうというのがある。
ただ、食えないものを出すわけではなく、味付けはちゃんと自分の舌を信じて出している。
これは一つの実験でもあった。
つまり「自分が美味しいと思うものが他人も美味しいと思うのか」ということだ。
僕は料理を通して文章を見つめていた。
大きく違うのは文章の場合、他人が美味しいと思うものは既に誰かがやっていて、それは絶対二番三番煎じとなっていて、時間には耐えられない。
時が経てば腐ったナマモノのように捨てられてしまうということだ。
共通点はある。
旨みのエッセンスというのは料理にも文章にもあって、これを上手く掴むセンスさえあれば、味わう人は喜んでくれる。
料理の場合、もはやほとんどの「美味しいもの」は出尽くしている。
だから僕はそれを真似るだけでいい。
そこにちょっとした自分なりのアレンジを一つ二つ入れれば完全オリジナルとなる。
一流の調理人になるつもりは毛頭なく、包丁技術のきめ細やかさや、一瞬の素材の旨みを逃さぬ火のタイミングなどどうでもいい。
僕は料理の味や腕に関してはファミレスやコンビニエンスストアをはるかに凌駕して、それよりは美味しいから、このくらいのお金なら充分、の味くらいでいい。
後はそれをやってしまえば、いちいち食べに行かなくても自宅で美味しいものが食べられるという利点ができるし、交友関係が広がればパーティーもできるということも考えている。
そのくらいのささやかさでいいのだ。
ささやか、とは言いながらも、文章に関しては、いや、技術ごとに関して言うならば、最もお客に優しいのは最も自分に厳しくあることだと思っている。
チームでやるなら厳しすぎるのは問題だけれど、個人でやっている限り文章は自分に厳しくなければ、創造主としては若くとも老い出す。
料理に関しては完全に真似から入ったほうがいい。
だけど文章に関しては疑問に思うところがある。言葉は時代によって変わるので、時代に敏感なセンスが問われるからだ。
読みやすい文章と言うのは共通しているし、料理に関しても美味しさのベースとなるものはかなり共通しているところがあって、料理に関して言うならば人類はかなりやり尽くした感が強く、その先を行くのが先端科学による調理法になってくる。
スペインで食の学会があるらしいが、液体窒素による調理法はいまや、ちょこちょこ世界中でやられるようになってきた。
今度は宇宙での調理法だろうか。それともプラズマか何かを利用して……。想像は尽きない。
ちょっと脱線したが、料理について言えば、少しだけ味わい深さを引くコツがある。
それは出汁となるものを意識して、それを入れるということだ。
和食だと昆布や鰹が有名だし、他だと鶏がら、牛骨、豚骨、ブイヨン、ハーブ、家庭ですぐ使えるコンソメなど、メインの食材となるものの下に、うっすらと敷く「絶対メインの食材を美味くする隠し味」が存在する。
最近は時間短縮、手間省きなどの理由で最初から出来上がっている粉末状のものや缶のものが多いから手っ取り早くそれを使えばいいけれど、安さも購入の理由になってくる場合が多い。
例えて言うならばデミグラスソースは本格的に作ろうと思えば四時間以上は絶対にかかってくる。
正直そんな手間をかけてはいられない。
材料費も考えるならば缶を買うよりも一桁違ってくる。
そんな馬鹿らしいことは、まずほとんどの人は嫌がる。
回転率を考える飲食店でさえ嫌がる。
お客は、自分のお財布と料理の味が釣りあうかで考えるからだ。
文章はどうだろう。
僕は、売るための文章をあまり考えなくなった。
色々自信を持って送ってはみたが、なしのつぶて。
今見たら酷いものを書いていたと理解できる実力はついたけれど、鼻っ柱が折れすぎて誰かに気に入られようという気持ちはなくなった。
だけれど、誰かの記憶に強烈に残りたいという気持ちだけは残っているから自分なりに技術を高めている。当然読みやすい文章を意識するのも大事だ。
文章には答えはないとか、もっと広い範囲で芸術には答えはないのだろうかとか、それはNOだ。
絶対にNOなのだ。
その理由はただ一つ。
答えが見えないのは無知だから。
僕は職場で実費で料理を作ってみんなに食べさせている。
スーパーをうろつき、動画で見たシェフの味付けが「絶対に美味しい。作ってみたい」と思って一部を真似したかったが、ポークジンジャーだったから、ポークステーキにどうしてもお金がかかって安く仕入れることができず四度ほど豚肉の前を往復していたら、端に手羽先が半額で売られているのを見つけ、安さだけの理由で五本入りのを三パックしいれた。
正直買ってからの帰り道、手羽先なんて扱ったことはないし、どうするんだ、手羽先なんて。
と、思っていた。
軽いはずの手羽先十五本がふわっとどっかに飛んでいきそうでもあり、最悪出汁のみということも考えてはいた。
扱ったものではないものでも、今は便利だ。時代は情報化社会なのだ。
ネットで懸命に調べだす。
手羽先のレシピは何かないだろうか。
調べると手羽先餃子というものがあったのだ。
太いところの骨二本を抜いて、中に肉を詰めるというものだった。
これだったら豚肉を詰めてジンジャーソースに合うんじゃないかと考えた。
次の日フルーティー系のジンジャーソース。
りんご、たまねぎ、レモン、バター少々など。
このレモンの部分は僕は柑橘系の果物でもいいと考えていたが予算をケチってレモンにし、生姜を摩り下ろした中にシナモンを一振りだけ入れた。
ベースはしょうゆ、酒、みりんでアルコールを飛ばすために煮詰めると塩辛くなったので、抜いた手場先の骨で鶏がらスープを作り、これを煮詰まって塩辛くなったところに入れて薄めた。
このソースで手羽先餃子を煮込んでマッシュポテトに添えて出してみると大好評だった。
手がなくなると、きっと誰でも思い悩む。
それは他の策を考えるにあたって、一体何があるのかを見失うからに他ならない。
僕が料理において学んでいることは、自分の中で味の想像ができているか、ということと、自分の想像通りに味が組み立てられ、そして相手もその味を感じているかということなのだ。
それは、ことごとく文章に直結することが多い。
つまり、相手が美味しいを追求するのではなく、自分の中でちゃんと「美味いものへの感覚を見失っていないか」の勝負でもある。何もわからないかもしれないという未体験への挑戦を常に続けているかも大事だ。
この考え方は「自分の文章がちゃんと誰かの心を射抜くものか否か」にも直結している。
味で言えば北に行けば塩辛くなり、巻き卵でも関東は甘くなり関西は出汁になり、味付けでいえば、名古屋は赤味噌の文化なので甘辛くなりと、誰かの感覚に合わせようとすれば千差万別、古今東西存在しまくって、それは絶対に精神崩壊の引き金となるから、そうじゃなくて、誰かに気に入られようとするのではなくて、あくまで「自分が美味いと思うものが他人にも通じるか」の繰り返しの挑戦なのだと考えている。
文章も、芸事でもなんでもいい。
まずは自分の軸を作るのが大事で、身銭を切ってでも美味いものを知り、自分がまだやっていけると思い、本当にいいものを作りたいという熱意が消えないのなら、出せばいい。
それを褒めあいの堕落した場所に出すのではなく、見知らぬ人に常に出していく。
その見知らぬ人たちの集合体の中に、見えてくるものがある。
それこそ真実の道なのだと考えている。
手羽先のジンジャー煮込みとなってしまったものは味こそよかったものの、実際お金を取るには手間がかかりすぎて商品にはならないな、と思った。
お金が絡んでくるからには、どうしても手間に見合ったもの、を商品として出すしかない。
お客が安いものを望むからには、安くて美味しいもの、となってくる。
そこには数多くの化学調味料や、手間を省かれた既製品の組み合わせのオンパレード、安すぎる場合にはクズの寄せ集めの何か、になってくる。
こういう料理の現状を見て、いいものを作り続けることは身銭を切らぬ限りは見えてこない現状があるのだと理解できるようになる。
後日、僕はふらふらとすすきのへとさ迷っていって数ヶ月前に言った飲み屋に立ち寄った。
二度目だったが、顔は覚えていてくれていた。
たまたまいたお客が保険屋で話し方物凄く穏やかで、まるで人格者のような人が居て、僕の隣にいた女性もたいそう気に入っていたようだったけれど、僕は物凄く気にかかって落ち着かない仕草があった。
灰皿には何本かあったけれど、タバコを吸う時一本抜いて、それを箱にタンタンと何度も打ち付ける。それもかなりの大振りで打ちつけるものだから、彼がタバコを吸うたびに貧乏ゆすりを見せ付けられているようで僕の心はとても落ち着かなかった。
僕は野田元首相にも作ったことがあるという料理人のタバコの吸い方を見たことがあるけれど、その人は吸い方は絶対に一定だった。怖いほど全ての吸殻が均等に揃っている。自分のリズムを絶対に崩さない人なのだと思った。
そんなことを思いながら、お通しで出た味噌ホルモンの臭みが口の中に残ってウィスキーもワインもあったものじゃなく、いつまでも残る口の中の違和感が余計に僕をいら立たせていた。
保険屋の癖は、いつついたものなのか。
僕は若い頃だと思っている。
つい最近ついたものじゃない。
若い頃に本当に酷い目にあってきて、その苛立ちが癖となって白髪となった現在でも残っているのだと僕の中で勝手に解釈した。
つまり、保険屋の本質は、そのタバコの扱い方の癖にあると僕はつい直感した。
僕は食べ物は捨てたくない方なので必ず食べる。調理していると、食べさせる・食べる側の命、食材そのものの命、作り上げる命、様々な意味での命を意識するから、余すのは勿体無いという思いが出てくる。
だからホルモンも酒がまずくなることを知って食べたし、早く帰りたくなったけれど話が盛り上がったから、ひとまずは話を聞いていた。
文章を書いていることはマスターには伝えていたので、そのことをふられたのでちょっとしゃべってみた。
貧乏生活のことをネタにして一つ書こうと思っている、と。
僕が昔貧乏生活をしていて知ったことは、文化もへったくれもないし、他人を恨みがましく思うようになってくる、たかだか千円の世界でぎくしゃくするようになる、と話すと、保険屋は「少ない収入でも頑張って生きている家庭はあるから、そういうのを書けばいい」と言ってきた。
彼から見れば僕は若造かもしれないけれど、僕も一応は年季の入っている文章家だ。
ハッキリ言いたくなった。
「あなたのような方が居るから、僕のような存在が必要なんです」と。
まるで正しいことを言っていたとしても、憎しみを抱く人間がいる。その時僕が懸命に生きてこなかったとでも言いたいのですかね? と皮肉を言いたくなったものだし、その言葉を発した時点で話が通じない人なのだと諦めてもいた。
正しさや成功への確かな道筋を優しく説いたとしても、憎悪を抱く人間がこの世に存在するのだ、と。
僕は僕の過去を否定するには年を取りすぎた。
もはや僕の存在はニッチでいい。
誰かが書くようなことは、僕の仕事ではない。
誰もが注目して書きたがるようなことは、誰かに任せておけばいいじゃないか。
僕は売るために文章を書かなくていい。僕が本当に納得できるものを突き詰めていく。僕自身の旨みを出さなきゃいけない。
確かにある間違いのないものを完璧に貫いていれば、僕の書いたものは、たとえ多くの人に批判されようと正しいのだ。
やりたきゃてめぇがやれ。さもなければ金を用意して僕に依頼すればいいんだ。
なんてね。
人は勝手なのだ。
料理でもそう。
文章でもそう。
自分が美味いと思ったものを勧めてくる。
料理の場合、時間が短くて済む。だから技術によって合わせられる。
早くて一時間以内で美味しい不味いがわかるのに対し、文章はほとんど人生の結晶のようなものになってくる。
安易に人の美味しいまずいを受け入れたら、自分の味がおかしくなるっていうのは、この時間的な間隔でも説明できる。
そうそう。
手羽先餃子の煮込み、一番先の部分を残す人と、骨までしゃぶる人がいた。
食べる部分が少ないから、肉の詰まっているところだけが食べる部分だと思う人と、骨にまとわりついている肉にも旨さがあると思って食べる人の二手に分かれた。
僕は、あえて抜いた骨を捨てずにスープ用に取っておき、塩辛くなったジンジャーソースを薄めるためにも使った。
食べ方は人それぞれだから文句は言わない。
食べるほうは美味しいと思ってくれればいいけれど、僕は作り手、創造する側として、旨みのあるところは絶対に逃さない。
その感覚こそ作品の奥深さとなるはずなんだと料理を通じても確信しているんだから。
文章の旨みは何かって、そりゃあ、人生の旨みを知っていくってことなんじゃないですかね。
食べ残すような手羽先の一番先の骨も旨みだと知らない人は作り手にはなれないんだなと料理からも文章のことを学んでいるわけです。
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