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あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

11/23

Sat

2024

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04/23

Sat

2016

奇遇で成り立つ縁

ふとサイトで流れてきた広告。
Webを通じて地域を活性化したい!というコンセプトでセミナーをやるという。
その講演の中に「京都」というワードがあり、ふと行ってみたくなる。
どんなことをやってるんだ、と興味が湧いた。
ほとんど飛び込み参加。
よくわからないまま話だけ聞く。
その中に引っかかるものが四つのうち一つあり、立食の時間も設けられていたので、なんだかぼっち感満載でうろうろとしてみる。
名札を書けと手渡された紙には「作家 光野朝風」と書く。
もちろん会場にもペンネームで応募して入りましたよ。
米原という滋賀県に住んでいる方、風呂敷を広めたいという講演をしていて、私は紹介していた風呂敷の文様に心を奪われた。
こりゃーデジタル技術使えばいくらでもやりようがあるぞ。
そう思ったので、さっそく本人に立食の際に具体的な事を話す。
物凄い感動され、SNSのアカウントを交換。
その他にも、ちらっと話した隣に座った人、小さな広告企画会社の社長さん。
実は自分の家から遠くないところに会社を持っていて、その周辺地域の情報サイトを作っているという。
「え? そこ毎日のように通ってますよ!」という話をすると、奇遇ですね、と。
会社近くにある店の文章も書いたことがあるんです、と見せると、「いいですね!」と返事。
それで文章書かないかって話が舞い込んできている。
今まで何だったんだろうってくらい、次々とお話が舞い込んできていて、嬉しい悲鳴。
うーん。
ようやくここから出られそうな雰囲気というか、いきなり複数の仕事抱え込むことになり、なんということでしょう! っていうビフォーアフター。
色々やること増えてきて、追いつかないっていうね、とってもいいことだと思います。
5年以内に芥川賞取るって指きりげんまんした写真を既にSNSで拡散されているので、札幌から追い出されないように頑張らせていただきます。
しかし、こう見てみると今までの人生の出来事、全部繋がってるなーって怖いほど感じてる。

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04/20

Wed

2016

守るものがない人ほど自暴自棄になる

自分の経験上、過去の自分を考えても、それを考慮して他人を見ても、やはり何かを守ろうとするとか大事なものがない人というのは踏ん張ろうとしないし、すぐに自暴自棄になったりする。
ストレス耐性っていうのは努力でしか養えないし、いまだに何かあれば夜の街にふらふら出て酒びたりになる自分にとって、全部捨てるまでにはいかないけれど、やはり昔はすぐに諦めていたり、何かを捨てていたり。
今は抱えきれない分は捨てようと身の回りはシンプルでありたいなと考え出してきている。
あまり力がないから、やはり影響を及ぼせる範囲も決まっているのだ。

さて、守るものって何だろう。
普通の人は「面体」のようなものだろうか。
社会で生きていくために恥ずかしくないように、とか、会社を首にならないように、とかだろうか。
自分はもう恥も外聞もなくなってきているので、守るものといったら、作品の質、だろうか。
それを高めようとするということ。
最近は中国の友達も多くなってきたので、今まで生まれたことはなかった、日本語をきちんと学習しないと間違ったことを教えることになるんだよなーなどと考え出すようになってきた。
ロシアに旅行に行こうと持ち出されてもいるので、ロシア語を少しずつやりつつ、ロシア人から日本とは何かなんて聞かれた時、自分はどう答えるんだろう、とか。

大切なものがないってことは、それは自分すらも大事ではないってことだ。
結構極端ではなく例えば自分を傷つけているようで、他人を傷つけていることに気がつかないのだから、他人は自分とは関係ない、自分は自分だけのものだ、と確かにその通りなのだけど、よく考えてみたら、好きでいてくれる人も自分を傷つけることによって傷つけているという事実にも対し投げやりになってしまうのだから、そりゃあ自暴自棄になりやすくもなる。
守るって事は自分の足で立たなきゃいけない。
誰かが守ってくれるはずだとか、こうなるはずだとか、そういう淡い期待の中に人生を置いているうちは、どこかに依存的な考えが生まれてくる。
そうじゃなくて、こうしてやろう、という強い意志であり、意志に対する精神力であり、忍耐と闘争のたまものとして、ようやく「守ってやれる」ということができる。
人はそんなに多くのものを守れない。
だから分際を知らない者も必ず破滅する。
そして自分の能力の問題においては、何処にも他人はいない。自分一人しかいない。
自分一人守れて、ようやく次の人が守れるようになるんだ。
自暴自棄になりやすい人は、他人が好きでいてくれても疑いの目を向ける。
嘘なんじゃないかとか、裏切るんじゃないかとか、不安に苛まされている。
それは他人の言葉でどうにかなるもんじゃない。
どんな言葉をかけようと、その場しのぎの気休めにしかならない。
これは私の長年の経験からも言えるし、他人を必至に言葉で何とかしようと思ってもやはり駄目だった。
だから自分で何とかするしかないんだ。
強くなって、自分で自分に勝っていくしかない。
そうやって他人から与えられるのを待つ人間になるのではなく、自分から色々なものを与えられるような強い人間になっていくんだ。
期待は自己陶酔的なところがあって、希望は常に現実の先にある。
自己陶酔は身の破滅を導きやすいし、努力のない希望は絶望を導く。

守るものはどうやって探すか。
今までずっと内向きだったものを外に向けてみる。
自分から与えていこうと試みていくことで、発想が自分から他者に向かう。
この他者感覚こそ私にとっては解決へのヒントを与えてくれた。
大事な事は常に現実と自らの心の内との対話にこそ生まれてくる。

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04/19

Tue

2016

色々あったことを箇条書き

10年前に行ったゴールデン街のバーボンバー。
まだ同じマスターがいて話に花が咲いた。
棚が足りなくなってきていて、酒を何処に置こうか、という話を10年前もしていて、地下にあるひっそりとしたバーのカウンターは今回酒のグラスを置くぐらいの幅しか残っていなかった。
当時より二瓶ほどせり出してきていた。

東京。
10年前、人の怖い自分にとって違和感しかない街だったし、今でも東京の人たちの妙な冷たさ、それが例え優しさの裏返しだとしても、どうにもなぁと思うが、人の心との距離がわかった今では落とし所が見えやすくなってきている。
ただこの街に数年居なければいけないと痛感したことは、優れた芸術作品が東京止まりで終わってしまうことがあまりに多すぎる。
札幌まで来ない。それが痛い。
後学のためにも、特に海外の優れたアーティストや東京止まりの優れた美術品は片っ端から見ておかなければいけないと痛感させられた。
これからの東京に可能性はない。
何故なら、あそこも田舎者の感性が強く幅を利かせている街で、例え最先端と言ってもそれは流されやすい人たちが作り上げた一抹の泡に過ぎないということ。物凄いものがあるのに、それは数日で終わり、日本人のものがロングランになる。それは日本人の感性そのものが隔たっているからに他ならない。いや、まだ日本に来るだけ可能性はあるのかもしれない。
人が集まるから安心感が強いのだろう。安心感の中に閉塞していく芸術性。根本から勘違いしている。
その連帯感こそ、地獄への切符。

結城市。
ここには織物がある。
ホテルに滞在し、市内を見回る時間がなく、袋田の滝など茨城県内をあっちへいったりこっちへいったりしていたものだから今度ゆっくり見て回りたい。
都市圏のように電車が走っているかと言ったら11時過ぎで終電。
タクシーを使ってしまったことは痛い。
宇都宮線のみ、遅くまでやっている。
電光掲示板を見て故障しているのかと錯覚したくらい。

今回東京に行くのに成田に降りた。
成田には海外に行くときにしか利用しなかったから地元観光。
AKIRAの金田のバイクの成田山のステッカー、ようやくこの年で現地見て「ああー」って思った。
境内の中、急な階段を上った先に巨大な香炉。
いっぱい線香を入れてやったら帰り際、白人が煙で燻されていた。お気の毒に。ごめんなさい。私のせいです。
お堂の中。ひんやりしている。
京都に居た、公家の血を持ったあの子によく似た、肩下少しまで伸びた、少しカールがかった髪の女性。
食い入るように後姿を見つめてしまった。
当時も信心深かったはずだから、もしかしたらって思うほどだったけど、恨まれているから、ごめん、と謝りながら。
関係してきた人の中で唯一、何一つ悪くないのに傷つけてしまった人。
この人にだけは、生涯心の中で謝り続けなければいけない。

水戸の人は運転が荒く、プレッシャーをかけられることもあり。
運転マナー、北海道と本州では違うところあり。
割り込みハザード感謝など、しないと感じ悪い。

麺堂稲葉。
B’zの稲葉ファンなのは理解できるが、親まで愛しているっぽいのは愛情か。
愛情はラーメンへも。手抜きは稲葉さんに失礼、くらいに考えているのだろう。
美味しかったです。
どことなく店主も稲葉さんっぽい。

昔絡んでいた版元さんから文章を書かないかと10年ぶりの依頼。
今年中には出版が決まりそう。
大口叩きまくってきたから札幌市から追い出されないように頑張らないと。

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03/12

Sat

2016

人は汚泥の中でもがくのだろうか、と神村は思っていた。
 今時珍しくペンと原稿用紙で小説を書き、昔なら三文銭と言えるようなわずかな収入を得ながら生き延びていた。もはや風貌は浮浪者とさして変わりはない。
 神村清語というペンネームだが、これは本名の村上清志をもじったもので、清き言葉が神より降りる場所、という意味も込めていた。
 たいそうな名前だが作品は売れず、売れないからと言って面白くないわけではないが、特に読者を選び、人生経験を重ねた年配にようやく理解できるようなことを書いているため、とっつきにくいという欠点があった。
 元々彼は祖父に懐き、そのことが原因で両親から妬みを受け、さらに祖父に懐いていくという悪循環を繰り返していた思春期を過ごしたものだから、祖父の話から多くのことを得た。
 どこか四十手前にしても頭は硬く、古い時代の思想を、そのまま人生訓として映し出していた。
 会社経営をしていた祖父の取り巻きは良くも悪くも人間の業をよく示していた。金目当てに来る者がほとんどで、祖父の真の友達はというと、貧乏時代に一緒に過ごした不遇の芸術家ただ一人だった。
 その芸術家は絵を描いていたが、ほとんど誰にも見せず、祖父にさえ見せたことは記憶のあるうちでは二度しかなく、その時買い取った二枚だけが家に飾ってあった。
 芸術家は祖父よりも早く死に、数多くの遺作があったが、祖父が死に気がついた時には住んでいる場所は片付けられていて身寄りのなかった芸術家のすべてのものはゴミとして処理され、祖父が悔し涙を流していたのを我が事のように神村は覚えていた。
 あの芸術家は、実力があったのだろうか。
 家出する時に持ち出した一枚の絵を今でも時折押入れの中から出しては眺める。
 湖畔に浮かぶ月の絵だが、何処か歪んでいる。その歪み具合が水面に映し出された月に吸い込まれるように描かれているのだと、泥酔した時にようやく気がついたが、このことに気がつくのに絵を最初に見た時から数えて実に二十年近くもかかった。ただの絵が動いて見えるのだった。
 気がついてからというもの、才能の深さに畏怖したが、芸術家の死から十年近くも経っていたから存命中は不遇とは言うが、食うのにも困るほどの有様だったのだった。
 そして神村も今、同じような貧乏生活をしている。
 何故、作家を目指したのか。
 理由はただ一つだった。
 何をしても役に立たないから。
 出来ないことはなかった。ただ習得に時間がかかり、自分のペースを守っているため、周囲の速さについていけないのだ。
 そのような人間は利益活動をする会社という組織においてはお荷物になる。
 だから、会社では生きられない。会社で生きられなければ社会で生きられない。綺麗ごとを言っても図式はこうなっているのだから、神村自身の力ではどうにも抗いようがなかったのだ。
 弾き出され弾き出されて辿り着いたところが、ここだけだった、という話だった。
 ただ、一つだけ恵まれていたのは祖父の影響もあって芸術方面への興味はあった、ということだった。レコードはクラシックのみであったし、絵画にいたっては日本画も西洋画も両方古今東西、写真集も当時は揃っていたし、今は有名となっている写真家の写真もあったり、勲章までもらっている陶芸家の作品もあったりで、恵まれすぎているほどの環境はあった。
 しかし神村には才能がなかった。
 つまりは自分の知識や経験にこだわるあまり、今起こっていることや、見えていることを真正面から捉えず、過去と対比するばかりで進歩がない。
 当然回顧主義と思われるような作品が多く、かつその多くに「喪失」的な観念が強く出ていたため、作風はじめじめと女々しいような印象を受けた。
 それでも神がこの男を見捨てなかったのは、時折「才気」と思われるような作品を発表した。
 社会経験も乏しく落ちこぼれの神村が感情のありのままに叩き出した作品数品。百を超える作品を書いてはいるが、打率としては一割以下だろう。だが、凄みがあった。等身大の人間の偽らぬ生々しさがあり、かつ文章も簡潔であった。
 その時の環境は決まっていた。ほろ酔いで、部屋は薄暗く、手元のスタンドランプのみで、六時間以上外には出ておらず、誰ともパソコンや携帯電話を通じて会話をしていない時だった。その数品の作品のみ原稿用紙の升目から文字が大胆にはみ出ているというのも特徴だった。
 酔いすぎてもいけない。そこで何か食べたくなるが何も食べない方がよく、明るいばかりに様々な物が目に入ってくるのもいけない。外の影響を受けない集中できる環境であることも重要である、ということだ。条件が揃った時のみ結晶のような作品ができた。
 神村自身はそのことには気がついておらず、バカらしくも生真面目に毎日文章を書いている。
 何がどう受けているのか、神村自身に見分ける才はなかった。
 作品のいくつかをネットで発表していた。誰もがやっているブログや自作小説発表サイトで出してはいたが、自分で印刷所に持っていって、紙の本にしたものを決まったお客に買ってもらうのが神村の収入源ではあったが、ある日ネットで作品発表ごとにコメントをくれる存在に気がついた。
 あまり機械関係の扱いは得意ではなかったが、コメントをしてくれる人の存在があることによって覚えることも多くなっていった。
 返信と、それへの返信。繰り返すうちに親しくなり、直接やり取りするようになるまで半年もかからなかった。
 神村の古臭い思想にも同調してくれ、神村自身の作品にも大変思い入れがあるようで、自身が忘れ去った作品にまで熱く語ってくれるため、嬉しさよりも逆に申し訳なさの方が大きくなるほどだった。
 これほどまでに傾倒してくれる人間が現れようとは思ってもいなかったため、神村の熱弁はより熱くなってくるが、相手はそれでも熱心に食いついてきた。
 人の心とは妙なもので、いつの間にか心の中に大いに受け入れた存在を好きになってしまうものなのだろう。
 両者が胸の高鳴りを告白したのは自然の成り行きだった。
 聞くと相手は人妻だと言う。
 特殊な思想を持ち、社会からはみ出した神村にとって、ほとんど親しく付き合う異性は、その人妻が始めてであった。
 会いたいという思いは積み重なっていったが、神村には金がない。
 近場ならよかったが、これもネットの特性。案の定遠方の人間だった。
 自分がいかなる人間か、人妻にはことあるごとに告白し、後で嫌われるくらいなら今すぐにでも正直に告白した方がいいだろう、という思いで包み隠さず言ったが、それでも好いてくれたことに驚きを隠せないでいた。
 ふと、芸術家のことが頭に浮かぶ。
 このまま親しくなったところでどうするというのだ。不遇のまま死んだ芸術家のことを考えると自分はもっと酷いではないか。それなのに何故、この人と男女の気持ちを覚え惹かれていくのだ。それよりも以前に、俺には何一つ責任を取ることができない。
 両親から未だに嫌われ、愛を知らなかっただけに人妻の想いには一つ一つ打たれ染みていくようだった。
 母性に飢えていたのかもしれない。
 結局人妻の支援を受けて会いに行くことになった。会いに来たとしても人妻の金を使うことにはなったが、神村にとっては初めての女となった。
 かといって女に溺れるようなことはなかったのだが、神村自身の持論をぶつける場が人妻になったので、増長するばかりとなっていき、長年抱いていた両親への鬱憤も人妻にぶつけることになっていった。
 生まれて初めて自分勝手にできるように感じた神村だったが、それでも真剣に人妻は話を聞いていた。
 当然持論を固めてしまえば未来を見ることはない。未来を見ている錯覚を抱いているのみで今を無視していく。
 その癖は人妻との関係にも影を落とした。
 関係がばれることがなかったのは、人妻の旦那との関係があまりよくなく、離婚も秒読みであったことだった。
 恐らく今から思えば彼女は自分との結婚を望んでいたのであろう、と神村はしみじみ思い出す。
 破綻の原因となったのは神村が説教がましく指示が強くなっていったことと、理想が大きくなれば現実での苦労を無視して正論じみたことだけ押し付ける。そしてもう一つは神村自身が増長の果てに自らの能力を高く見積もりすぎ、浮ついた人間の関係性や金銭関係を取り扱ったことによった。
 二年ほど関係は続いたが、崩れる間も半年と待たずおかしくなっていった。
 最後には恨み節を吐き掛け、互いにののしるまでにはいかないまでも、きつい言葉を投げかけあっていた。
 何がいけなかったのか。神村自身は未だに気がつくことがない。
 ただ、人妻も神村の「過去の一部」となったため、根強く心の中に息づいているということだけだった。書く理由が神村自身にたった一つ強く生まれたため、そのたった一つにしがみ続けている。生きる理由だと言わんとばかりに。
 神村の作品は売れない。その理由は彼が常に過去に生きているからに他ならなかった。
 その作品群が将来日の目を見るかは神村自身も知るよしもない。
 芸術家の絵を時折出すが、一分くらい見た後に目を閉じると瞳の奥底で渦を巻くようになった。
 芸術家の絵の真の姿が、目を瞑った時によく見えるのは皮肉なことだと思い、残り少ない大きなペットボトルに入った安酒に神村は手を伸ばした。
 コップ半分も体の中に入ったところで、神村はいつも通り泥に埋もれていく。

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03/08

Tue

2016

手羽先の旨み

※長いですよ。面倒な人は読み飛ばして。

スーパーをうろつくのがすっかり癖になってしまった。
職場で働いているみんなに食事を作るのが趣味になってしまったところがあり、趣味とはいえ実費なので六人前をどうやって節約して作ろうか、と常々考えながら食品を買う。
損をしているのに金も取らず実費で作り続ける理由の一つに「作ったことのない料理」や「上手くできない料理」の「練習の成果」として味見をしてもらおうというのがある。
ただ、食えないものを出すわけではなく、味付けはちゃんと自分の舌を信じて出している。
これは一つの実験でもあった。
つまり「自分が美味しいと思うものが他人も美味しいと思うのか」ということだ。
僕は料理を通して文章を見つめていた。
大きく違うのは文章の場合、他人が美味しいと思うものは既に誰かがやっていて、それは絶対二番三番煎じとなっていて、時間には耐えられない。
時が経てば腐ったナマモノのように捨てられてしまうということだ。
共通点はある。
旨みのエッセンスというのは料理にも文章にもあって、これを上手く掴むセンスさえあれば、味わう人は喜んでくれる。
料理の場合、もはやほとんどの「美味しいもの」は出尽くしている。
だから僕はそれを真似るだけでいい。
そこにちょっとした自分なりのアレンジを一つ二つ入れれば完全オリジナルとなる。
一流の調理人になるつもりは毛頭なく、包丁技術のきめ細やかさや、一瞬の素材の旨みを逃さぬ火のタイミングなどどうでもいい。
僕は料理の味や腕に関してはファミレスやコンビニエンスストアをはるかに凌駕して、それよりは美味しいから、このくらいのお金なら充分、の味くらいでいい。
後はそれをやってしまえば、いちいち食べに行かなくても自宅で美味しいものが食べられるという利点ができるし、交友関係が広がればパーティーもできるということも考えている。
そのくらいのささやかさでいいのだ。
ささやか、とは言いながらも、文章に関しては、いや、技術ごとに関して言うならば、最もお客に優しいのは最も自分に厳しくあることだと思っている。
チームでやるなら厳しすぎるのは問題だけれど、個人でやっている限り文章は自分に厳しくなければ、創造主としては若くとも老い出す。
料理に関しては完全に真似から入ったほうがいい。
だけど文章に関しては疑問に思うところがある。言葉は時代によって変わるので、時代に敏感なセンスが問われるからだ。
読みやすい文章と言うのは共通しているし、料理に関しても美味しさのベースとなるものはかなり共通しているところがあって、料理に関して言うならば人類はかなりやり尽くした感が強く、その先を行くのが先端科学による調理法になってくる。
スペインで食の学会があるらしいが、液体窒素による調理法はいまや、ちょこちょこ世界中でやられるようになってきた。
今度は宇宙での調理法だろうか。それともプラズマか何かを利用して……。想像は尽きない。
ちょっと脱線したが、料理について言えば、少しだけ味わい深さを引くコツがある。
それは出汁となるものを意識して、それを入れるということだ。
和食だと昆布や鰹が有名だし、他だと鶏がら、牛骨、豚骨、ブイヨン、ハーブ、家庭ですぐ使えるコンソメなど、メインの食材となるものの下に、うっすらと敷く「絶対メインの食材を美味くする隠し味」が存在する。
最近は時間短縮、手間省きなどの理由で最初から出来上がっている粉末状のものや缶のものが多いから手っ取り早くそれを使えばいいけれど、安さも購入の理由になってくる場合が多い。
例えて言うならばデミグラスソースは本格的に作ろうと思えば四時間以上は絶対にかかってくる。
正直そんな手間をかけてはいられない。
材料費も考えるならば缶を買うよりも一桁違ってくる。
そんな馬鹿らしいことは、まずほとんどの人は嫌がる。
回転率を考える飲食店でさえ嫌がる。
お客は、自分のお財布と料理の味が釣りあうかで考えるからだ。
文章はどうだろう。
僕は、売るための文章をあまり考えなくなった。
色々自信を持って送ってはみたが、なしのつぶて。
今見たら酷いものを書いていたと理解できる実力はついたけれど、鼻っ柱が折れすぎて誰かに気に入られようという気持ちはなくなった。
だけれど、誰かの記憶に強烈に残りたいという気持ちだけは残っているから自分なりに技術を高めている。当然読みやすい文章を意識するのも大事だ。
文章には答えはないとか、もっと広い範囲で芸術には答えはないのだろうかとか、それはNOだ。
絶対にNOなのだ。
その理由はただ一つ。
答えが見えないのは無知だから。
僕は職場で実費で料理を作ってみんなに食べさせている。
スーパーをうろつき、動画で見たシェフの味付けが「絶対に美味しい。作ってみたい」と思って一部を真似したかったが、ポークジンジャーだったから、ポークステーキにどうしてもお金がかかって安く仕入れることができず四度ほど豚肉の前を往復していたら、端に手羽先が半額で売られているのを見つけ、安さだけの理由で五本入りのを三パックしいれた。
正直買ってからの帰り道、手羽先なんて扱ったことはないし、どうするんだ、手羽先なんて。
と、思っていた。
軽いはずの手羽先十五本がふわっとどっかに飛んでいきそうでもあり、最悪出汁のみということも考えてはいた。
扱ったものではないものでも、今は便利だ。時代は情報化社会なのだ。
ネットで懸命に調べだす。
手羽先のレシピは何かないだろうか。
調べると手羽先餃子というものがあったのだ。
太いところの骨二本を抜いて、中に肉を詰めるというものだった。
これだったら豚肉を詰めてジンジャーソースに合うんじゃないかと考えた。
次の日フルーティー系のジンジャーソース。
りんご、たまねぎ、レモン、バター少々など。
このレモンの部分は僕は柑橘系の果物でもいいと考えていたが予算をケチってレモンにし、生姜を摩り下ろした中にシナモンを一振りだけ入れた。
ベースはしょうゆ、酒、みりんでアルコールを飛ばすために煮詰めると塩辛くなったので、抜いた手場先の骨で鶏がらスープを作り、これを煮詰まって塩辛くなったところに入れて薄めた。
このソースで手羽先餃子を煮込んでマッシュポテトに添えて出してみると大好評だった。
手がなくなると、きっと誰でも思い悩む。
それは他の策を考えるにあたって、一体何があるのかを見失うからに他ならない。
僕が料理において学んでいることは、自分の中で味の想像ができているか、ということと、自分の想像通りに味が組み立てられ、そして相手もその味を感じているかということなのだ。
それは、ことごとく文章に直結することが多い。
つまり、相手が美味しいを追求するのではなく、自分の中でちゃんと「美味いものへの感覚を見失っていないか」の勝負でもある。何もわからないかもしれないという未体験への挑戦を常に続けているかも大事だ。
この考え方は「自分の文章がちゃんと誰かの心を射抜くものか否か」にも直結している。
味で言えば北に行けば塩辛くなり、巻き卵でも関東は甘くなり関西は出汁になり、味付けでいえば、名古屋は赤味噌の文化なので甘辛くなりと、誰かの感覚に合わせようとすれば千差万別、古今東西存在しまくって、それは絶対に精神崩壊の引き金となるから、そうじゃなくて、誰かに気に入られようとするのではなくて、あくまで「自分が美味いと思うものが他人にも通じるか」の繰り返しの挑戦なのだと考えている。
文章も、芸事でもなんでもいい。
まずは自分の軸を作るのが大事で、身銭を切ってでも美味いものを知り、自分がまだやっていけると思い、本当にいいものを作りたいという熱意が消えないのなら、出せばいい。
それを褒めあいの堕落した場所に出すのではなく、見知らぬ人に常に出していく。
その見知らぬ人たちの集合体の中に、見えてくるものがある。
それこそ真実の道なのだと考えている。
手羽先のジンジャー煮込みとなってしまったものは味こそよかったものの、実際お金を取るには手間がかかりすぎて商品にはならないな、と思った。
お金が絡んでくるからには、どうしても手間に見合ったもの、を商品として出すしかない。
お客が安いものを望むからには、安くて美味しいもの、となってくる。
そこには数多くの化学調味料や、手間を省かれた既製品の組み合わせのオンパレード、安すぎる場合にはクズの寄せ集めの何か、になってくる。
こういう料理の現状を見て、いいものを作り続けることは身銭を切らぬ限りは見えてこない現状があるのだと理解できるようになる。
後日、僕はふらふらとすすきのへとさ迷っていって数ヶ月前に言った飲み屋に立ち寄った。
二度目だったが、顔は覚えていてくれていた。
たまたまいたお客が保険屋で話し方物凄く穏やかで、まるで人格者のような人が居て、僕の隣にいた女性もたいそう気に入っていたようだったけれど、僕は物凄く気にかかって落ち着かない仕草があった。
灰皿には何本かあったけれど、タバコを吸う時一本抜いて、それを箱にタンタンと何度も打ち付ける。それもかなりの大振りで打ちつけるものだから、彼がタバコを吸うたびに貧乏ゆすりを見せ付けられているようで僕の心はとても落ち着かなかった。
僕は野田元首相にも作ったことがあるという料理人のタバコの吸い方を見たことがあるけれど、その人は吸い方は絶対に一定だった。怖いほど全ての吸殻が均等に揃っている。自分のリズムを絶対に崩さない人なのだと思った。
そんなことを思いながら、お通しで出た味噌ホルモンの臭みが口の中に残ってウィスキーもワインもあったものじゃなく、いつまでも残る口の中の違和感が余計に僕をいら立たせていた。
保険屋の癖は、いつついたものなのか。
僕は若い頃だと思っている。
つい最近ついたものじゃない。
若い頃に本当に酷い目にあってきて、その苛立ちが癖となって白髪となった現在でも残っているのだと僕の中で勝手に解釈した。
つまり、保険屋の本質は、そのタバコの扱い方の癖にあると僕はつい直感した。
僕は食べ物は捨てたくない方なので必ず食べる。調理していると、食べさせる・食べる側の命、食材そのものの命、作り上げる命、様々な意味での命を意識するから、余すのは勿体無いという思いが出てくる。
だからホルモンも酒がまずくなることを知って食べたし、早く帰りたくなったけれど話が盛り上がったから、ひとまずは話を聞いていた。
文章を書いていることはマスターには伝えていたので、そのことをふられたのでちょっとしゃべってみた。
貧乏生活のことをネタにして一つ書こうと思っている、と。
僕が昔貧乏生活をしていて知ったことは、文化もへったくれもないし、他人を恨みがましく思うようになってくる、たかだか千円の世界でぎくしゃくするようになる、と話すと、保険屋は「少ない収入でも頑張って生きている家庭はあるから、そういうのを書けばいい」と言ってきた。
彼から見れば僕は若造かもしれないけれど、僕も一応は年季の入っている文章家だ。
ハッキリ言いたくなった。
「あなたのような方が居るから、僕のような存在が必要なんです」と。
まるで正しいことを言っていたとしても、憎しみを抱く人間がいる。その時僕が懸命に生きてこなかったとでも言いたいのですかね? と皮肉を言いたくなったものだし、その言葉を発した時点で話が通じない人なのだと諦めてもいた。
正しさや成功への確かな道筋を優しく説いたとしても、憎悪を抱く人間がこの世に存在するのだ、と。
僕は僕の過去を否定するには年を取りすぎた。
もはや僕の存在はニッチでいい。
誰かが書くようなことは、僕の仕事ではない。
誰もが注目して書きたがるようなことは、誰かに任せておけばいいじゃないか。
僕は売るために文章を書かなくていい。僕が本当に納得できるものを突き詰めていく。僕自身の旨みを出さなきゃいけない。
確かにある間違いのないものを完璧に貫いていれば、僕の書いたものは、たとえ多くの人に批判されようと正しいのだ。
やりたきゃてめぇがやれ。さもなければ金を用意して僕に依頼すればいいんだ。
なんてね。
人は勝手なのだ。
料理でもそう。
文章でもそう。
自分が美味いと思ったものを勧めてくる。
料理の場合、時間が短くて済む。だから技術によって合わせられる。
早くて一時間以内で美味しい不味いがわかるのに対し、文章はほとんど人生の結晶のようなものになってくる。
安易に人の美味しいまずいを受け入れたら、自分の味がおかしくなるっていうのは、この時間的な間隔でも説明できる。
そうそう。
手羽先餃子の煮込み、一番先の部分を残す人と、骨までしゃぶる人がいた。
食べる部分が少ないから、肉の詰まっているところだけが食べる部分だと思う人と、骨にまとわりついている肉にも旨さがあると思って食べる人の二手に分かれた。
僕は、あえて抜いた骨を捨てずにスープ用に取っておき、塩辛くなったジンジャーソースを薄めるためにも使った。
食べ方は人それぞれだから文句は言わない。
食べるほうは美味しいと思ってくれればいいけれど、僕は作り手、創造する側として、旨みのあるところは絶対に逃さない。
その感覚こそ作品の奥深さとなるはずなんだと料理を通じても確信しているんだから。
文章の旨みは何かって、そりゃあ、人生の旨みを知っていくってことなんじゃないですかね。
食べ残すような手羽先の一番先の骨も旨みだと知らない人は作り手にはなれないんだなと料理からも文章のことを学んでいるわけです。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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