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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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10/26

Mon

2015

筋肉と心って結構一緒

どうにも面倒くさがりのようで、とにかくさぼりたがる。
苦労するのが本当に嫌だし、ずっとゲームでもしていたい気分だがそうもいかず、今年三月に折った足のリハビリを今もやっている。
と、言っても歩く分には何も問題なく、走ると少し折れた部分の筋肉がおかしくなる。捻挫のような症状が出てくるので、休み休み負荷をかけながら走っていた。
最初は歩いているおばあちゃんと同じくらいの速度で走っていたけれど少しずつ足に負荷をかけて走れるようになってきている。
筋肉というのは、当たり前だが動かさなければどこまでも衰える。
心も同じように思える。
勇気を出して負荷をかけていかないと筋肉も心も衰える。
気持ちというのは最初からできるものじゃない。
だから作っていくものだと、つくづく思う。
何せ10年ぐらいはネット生活していたんだから、わりと心は弱っていた。
やはり心にも筋肉にも鍛える順序がある。
もちろん筋肉は小さなところから。それは休み休みでもいい。筋肉ができるまではすぐにばてるし、すぐ筋肉痛になって動けなくなる。
心の場合、小さな成功体験が必要になる。
他人から見たらバカらしい目標設定でもいいのだ。
例えば10m走れた。
昨日できていないところができていれば充分だ。
その小さな積み重ねの連続の先に大きな目標がある。
そうやって「出来た」という気持ちを作っていく。
もしどうしても大きな目標から減点方式で「出来ない」と思ってしまうのなら、よほど欲があるか何かに脅迫されているかなので、一旦誰の声も聞かずに記録でもつけていけばいい。
純粋に記録から自分の成長具合を観察していくしかない。
心が弱っていると聞こえないはずの否定的な言葉が聞こえてくる。
自分も未だに聞こえることがある。そして苛立ち、どうしようもなくなって、じっとするか酒をあおるかする。
心は鍛えるしかない。そして自分のいいところは自分で見つけるしかない。
そうやっていいところを見つける目を養えれば、他人を馬鹿にする心も消えてくる。
正直自分の心がギスギスしている時は他人のことを無意識に馬鹿にしている。
心が豊かではないから、他人を貶めて自分の存在価値を高めようとする。
心が卑しい存在が集まると、クリエイティブな発想、何かを創り上げていこうということにはならず、だいたいは破壊し合う。
こうなってしまってはいけない。
走っているが、次の日足を引きずるほどおかしくなることが多々あったが今は安定している。
自分に対して負荷をかける。同じところをぐるぐる回るのは嫌だからコースを変える。
少しずつ負荷を強くする。自分で自分をいじめるのだ。そうして強くしていく。
自分の道は自分で切り開くしかない。
大人になったら誰も何もしてくれない。ただ人は人の心意気に打たれる。
そうやって進んでいった先に、結構な仲間が出来たりする。
人を馬鹿にする癖がついていると、自分を貶める癖も同時につく。
自分の存在を無視して他人を語ることは、自らを偽っているし、自己欺瞞がないと思い込んでいるのは自分だけになるから、ちゃんとした人はだんだん相手にしなくなる。
筋肉はすぐ弱る。
本当に、ほんの2・3日さぼっただけじゃないか、と思っても、すぐに弱っているのが感触でわかる。
続けていかなきゃいけない。
継続は力なり、とはよく言うけれど、本当に自らの力で継続している人間をあまり見たことがない。
最近職人さんや企業家・社長の人たちと繋がってきているので、ようやくその手の人たちの言葉を少しずつ聞くことができているけれど、例えば批判されたとしても創意工夫をすることができずに、ただ「批判された」で終わるのが普通の人。
その中から戦うためのヒントを得るのが前へ進んでいる人。
いつも文句を言っている人は発想を変えることがないし、多分その必要性がないのだろう。だから、ある意味なんやかんやいっても安定的な生活をしているのだと思う。例えば底辺のままであるのなら、それもまた安定と言えるからだ。
進んでいけば見えるものもある。
千里の道も一歩からなのだが、あまり短期間で物事を達成しようとすると弱った心や体には相当悪い。
なのでゆっくり歩くといいのだ。
必ず何か見えてくる。

※追記
走っていていつも無意識でも浮き上がってくる感覚がある。
下を向いて走ると本当に辛い。だから姿勢を正して、前を向いてしっかり走らないと体が非常に辛くばてていく。
だから辛い時は顔を上げないといけない。前を向かないと地面に倒れる。
その感覚を走るたびに教えてくれる。
だからこそ少しずつでもしっかりやる。
その中に美しさが出てくる。

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10/23

Fri

2015

ゲームのように繰り返す

多くのお店ではバイトを雇っている。
正社員で埋め尽くすと、まず赤字になるからだ。
だけれどバイトは「責任感がない」とよく言われる。
だからすぐやめるのだ、と。
バイトでいるほうも、正社員ほど拘束されないし、責任という名の重い仕事を割り振られることが少ない分精神的に気楽でいられる。
だが雇うほうとしてはバイトが入るたびに教え込まなければいけないため、段々仕事に慣れてくると自分の感覚で「どうしてこんなことも覚えないんだ。一度教えたことは覚えろよ」くらいの感覚がムクムクと湧き出てくる。
ようは個人を個人として見るのではなく、段々と組織の部品として見出しているからそうなってくるのだ。
この時点で精神は既に荒んでいる。
だが雇っている側はどれだけ自分の精神が荒み個人を無視し始めているのか気がつかない。

とある店の店長が言った。
「バイトがすぐやめるんだよ。せっかく教えたのにさ、これじゃあ払ったコストに見合わないよ。責任感がないから今の若い子はすぐやめる。社会に出たら、あれじゃあやっていけないよ。まるでゲームやってるみたいだよ。人やめました。ゲームオーバー。また最初から。コンティニューはなし」
もはや八つ当たりである。
正しそうに見えるこの言葉が何故「八つ当たり」なのか。
「何故職場に人が残らないのか」は全て「トップの組織作り」の中に含まれるからで、一見「責任感がない」ような人間だって、色々考えていることはある。
その心情を知ることもなく、一方的に「責任感がない」は、「職務放棄」に他ならないし、もはや画一的に人をくくり、物事を断定しているのなら「思考が麻痺」してきているのと同じになる。

だが、ちょっと引いて見てみよう。
これらの発言をする人間は恐らく「自分の中での正解」があるから他人にそれを押し付けるのだろう。
その道から少しでも外れると間違いであるとなる思考に「ゲーム性」を見るのだ。
僕はその店長の言葉がとても気になっていた。
「まるでゲームみたい」
最初からやり直し。
また最初からやり直し。
この思考回路の中に酷く束縛感を覚えるし、つまり自分の中である種のルールを見つけることによって、あたかもそれが正しいかのように情報を集めだす「確証バイアス」が働き出す決定打でもあるし、もっと言うならば個人には個人のルールがあって、そのルールの統一性のようなものを経験によって得られると、個人は他人を断罪し始めるという不思議な心理が生まれるということに、ある種の恐怖を覚えるのだ。
それはある種の間違いを犯しながら人類というものを前進させてきた。

「人間が歴史を学んで分かることは、人間は歴史から何も学ばないということだけだ」
というヘーゲルの言葉は、人類の情報はあまりにも膨大で、そして人類の情報から学んでも、今の職場にはまったく役に立たないという諦観から来るのではないか、という気持ちさえ感じる。
この気持ちの根っこは「金が稼げないだろ」に集約される。
責任感がないというのも、結局はそれじゃあ社会人になっても職を失って生活が出来なくなる、生活が出来ないということは金が稼げない、ということになるし、ほとんどすべての心配事は「それでどうやって生活していくの?」という基本事項に沿って物事が肉付けられていくということだ。
もしこの発想で人間というものを捉えているのならば、それこそ思考が束縛されている。
人間は必ずしも思った通りにはなっていないし、思った通りになっていない、ちょっと社会上から外れているような輩に対し嫌悪感を抱くのは「人は自分と同じように苦労して欲しい」という呪いの投射でしかない。

人は同じことを繰り返す。
特に自身で解決できなかった過ちは、過ちを過ちと思っていないものは、何度でも繰り返す。
反省の気持ちはあったとしても、やはり以前のようなやり方が少しでもうまくいくと、「これは上手くいくのではないか」というギャンブルにはまるジャンキーのようになっていく。
ここでの過ちの定義は「創造の破壊」とする。
新しいものを何一つ生み出さず、他人への攻撃に力を置いているような事象だ。
多くの人は何か起こった時に何かを責め出す。
それはいつも自分以外の何かだ。
自分には罪がないと、何故か他のものを責めている時は思い込むのだ。

これら書いてきたことは、まるで個人で設定したゲームのように繰り返されている。
自分の中で法則性を見つける。
それを無意識にも実行しだす。
上手くいかないのはやり方が間違っているからだ、とどこかで思う。
やり方を変えて同じ道を進んでみる。
やはり失敗する。
少しでも上手くいくと、自分が失敗してきたのは他人が悪かったからだ、と思い込む。
自分が正しいと思っていることを実行できる人間がいるじゃないか。
だったら実行できない人間は、明らかにおかしい。
そんな考えに至ってしまう、このゲーム性。
そのほとんどの人間が「道そのものを変える選択」をしないのだ。

人類はゲームをしているのか。
それとも、ゲームを仕掛けているやつが常に存在するから、その下にいるものはルールはこれしかないと思い込んでしまうのだろうか。
さあ、何が正しい。
少なくとも「制約を与えるもの」ではないことは確かだ。

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10/21

Wed

2015

SNSは完全に社会実験場

フェースブックには「いいね」というボタンがある。
その「いいね」がいかに無力かがよくわかった。
例えば「仕事を探しています。~という条件です」に対し、「いいね」は100件近く。
具体的な話は何一つなし。
私は実際に知人に問い合わせてみて、完全合致は難しいがこのような求人があると持ってきたのに対し、他そのような具体的内容は0件。
なんだそれ。
あまりにも虚しすぎる。
あまりにもどうでもよすぎる。
何もかも薄っぺらい。
私はネット上に10年近く、ほぼ朝から晩までいる時期があったけど、SNSの誕生とその利便さは、この「どうでもいい感じでありながらも、薄っぺらなやりとり」を助長させている元凶となっている。
友達らしき存在。
知人のような親しくもない他人。
いつ会ったかも覚えてないくらい「友達」が増えて、日々増える「友達の行動」は興味のない「記号」のようになっていく。
皆忙しいのですよね。
予定は仕事で埋まっていて、他の事をやる余裕もないくらい毎日を懸命に生きていらっしゃるから、せめて「助けてあげたいんだけどできないから、気持ちだけでも伝えたい」というための「いいね」なんですよね。
想いが安易な手段に頼りがちだから、何もかもが薄っぺらく見えてしまうのか。
それは自分の心が荒んでいるせいなのか、それとも本当に周囲は安易なのか。
目の前にボタンがあったらぽちっと押してしまいたくなるタイプなのか。
善意っていうのは、重いですよ。その押しつけも、やり遂げるのも。

まあ、それよりも、いかに「民衆」というものが動くのか、話題に対しての行動する人間のパーセンテージはしっかりと算出されているはず。
そろそろああいうSNSサイトも長いので、仕掛けられたプログラムで様々なデータを得ているだろうし、自分がああいうサイトのオーナーだったら今度は国相手に商売しだす。
つまりはロシアのようなラプラスの魔のようなプログラムを多数仕掛けて、ある一定の条件で起こりうる可能性を全てデータ化して売る。
これだけでも年間100兆近いビジネスになるんじゃないのかなと思ってる。
全世界の国を相手に商売すればいいんだから。

さて、そのように「データ」に支配される人種というのは、つまりは社会というものが民衆というものが完全コントロール下にあるということを実証することになる。
頭でっかちの、何も実体験で学んでいない、知識だけはあるような高学歴の輩。
ここらへんを先導役として、しっかりと社会に対しシビリアンコントロールの情報を流していく。
自分で調べたつもりが誰かの受け売り、誰かの価値観の二番煎じ、それ以下の真相すらも人間すらも無視した知ったような「学び」すらも入っていない、どうでもいい情報を掴まされながらの「意見」「考え」となっていく。

あまりにも虚しいではないか。
どうなっていくのだろう。
いや、思った通りになっていく。
社会は絶望的ではないにしろ、人間らしさを根本からすっぱ抜いた、枯れていくばかりの知識の集まりとして、常に何者かに栄養を与えられながら自力では生きられぬ状態へと傾いていくのだろう。
ここから新しい幸せは出来上がるのだろうか。
未来の幸せや繋がりはどうなっていくのか。
もう観察する前に色々自分でやってしまうだろうけどさ。

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10/20

Tue

2015

人の美しさ

私は小学生のころ映画で「AKIRA」を見て衝撃を受け、そしてコミックを読み人生が変わった。あの作品に出会ってから「人間の本質は暴力である」という定義を未だに変えていない。
この暴力の使い方こそ、その人間の本質、その人間の命そのものを表わしているのだという見方をしている。
つまり暴力という、少しでも力の使い方を間違えれば、いくらでも虚無に返っていく人間そのものの力は、常に使い方を考えなければいけないのです。
ただこの力を垂れ流しにし、その力が何を指し示すのかも考えないような輩は、あまり語っても楽しくないのです。
人と接し、人を愛し、自分の脆さを知っている人間ほど、別にこのことを意識せずとも自然と恐れが身についていて行動している。
その姿が美しいと思うし、その振舞いの中には必ず笑顔がある。
つまり「素的」なんです。
言葉で書くととても野暮ったく見える。
素的の語源も曖昧だ。
だから私は、その人間が使う言葉で人を見る。
「粋」なのか、どうか。
自らの暴力性を巧みに操っている人間かどうか、だ。
その試行錯誤の片鱗が垣間見える時、生き方の美しさを知ることになる。

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10/19

Mon

2015

正しそうなこと

どうでもいいことをのたまっているうちは、まだ殺されない。
本当にばらして欲しくないことを伝道し続けると殺される。
社会はいつもそのようにできている。
そしてそうやって社会を維持してきた。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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