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あさかぜさんは見た

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06/09

Tue

2015

幼稚園児用伝言ゲーム

需要は少ないとは思いますが、検索エンジンで幼稚園とフレーズがありましたので、探している方もいらっしゃるのかなとは思いましたが、なにぶん小学生でさえ現在の国語能力が把握できておらず、ほぼ適当だったので幼稚園児に対しての伝言ゲームの例題は自信がないことを前もって書き記しておきます。
言葉は理解できるでしょうが、なるべく知っていそうな、イメージしやすい単語で作りたいと思います。
何かございましたら、コメント欄に書き込みよろしくお願いします。


1、うまとぶたがきょうそうしました。うまはへびをふみそうになり、とまってしまいました。ぶたはみずたまりを、うまくとびこえてゴールしました。ゴールでぶたをよろこんでくれたのはいぬでした。

2、せんせいはごはんをたべるとき、はしをみぎてに、すぷーんをひだりてにもちます。せろりがあるとき、はなでにおいをかぎ、ひだりてのふぉーくと、みぎてのすぷーんでまぜて、さらだをつくります。

3、くろいうさぎは、しろいからすをみつけました。しろいからすは、ちゃいろいいぬをみつけました。きいろいねこはからすをみながらあくびをしました。うさぎはのどがかわいて、いぬはくしゃみをしました。

4、ふらんすからかえってきたともだちが、ふらだんすをおどっていたので、いえにかえって、たんすのなかをみてみたら、いぎりすのおみやげがはいっていて、そとではきりぎりすがないていた。

5、わしがそらでたわしをもってとんでいた。やぎはやりをくわえてはしっていた。ぞうがぞうすいをたべていた。いるかはかんけりができず、くじゃくはわいしゃつのしわのばしができない。

6、しかくいすいかをしかがたべて、さんかくのりんごをさるがたべて、ながいいちごをごりらがたべていましたが、ごりらはすいかがすきで、しかはりんごがきらいで、さるはくいしんぼうでぜんぶすきでした。

7、たんぽぽのわたげがてつぼうのうえにのっていて、よつばのくろーばーがすべりだいからすべってきて、ぶらんこにはあきかんがのっていました。

8、じゅーすのからびんは、がらすのこっぷにはいったしょうゆといっしょに、かれんだーのしたにおいてありました。

9、きのうのばんごはんは、ぶたのしょうがやきと、ほうれんそうと、れんこんのにものと、やきうどんがありました。

10、あんぱんをたべていたおにいさんは、かれーぱんをともだちにあげ、かつさんどをたべていたおねえさんは、おべんとうののこりをいもうとにあげました。

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05/31

Sun

2015

滲み汚れた湿気とシーツ

春の陽気は押し出され、熱気交じりのべたつきが肌を覆うようになってきていた。
 深夜に雨が降ったのか、アスファルトはまだ水溜りが多く残り、部屋は蒸してカビ臭い空気が鼻の奥をくすぐる。
 古臭いアパートの一室は気分が悪くなりそうなほど過去の何かの臭いが充満している。汗にべとついても節約のためにシャワーは一日一回、その他は濡れタオルで体を拭くくらいしかできないし、ましてや貧乏生活では、屋根と壁があるだけマシだと思わなければやっていけない、とユウジは思った。
 小さな卓上時計を見れば針は早朝五時を示している。その傍にある布団を見れば見知らぬ女が転がっている。
 名前も知らぬ、誰か。互いに酔っ払いすぎていて聞いた名前も、もう忘れていた。
 みか、みさと、みゆき、み、み、み、みえ、み、み、み、み、みちこ。
 まだ酒が残っていてユウジの頭は粗悪な鐘を鳴らしたように不協和音を響かせている。
 顔すらもよく覚えていない女を覗き込むと、マスカラは落ちてパンダのようになっているし、チークは落ちて精気のない色を晒していた。正直見れたものじゃないと顔を背けかけ、シーツについた化粧の汚れに不快感を覚え、怒りすらも湧き上がりかけた時、ふと完全に化粧の落ちている頬の美しさが目に入った。
 もしかしたら化粧を落としたら案外綺麗な肌をしているのかもしれないと、塗装のように厚く塗られた顔の奥を想像していた。
 部屋を見れば昨日自暴自棄になり投げ出した楽譜が散らばっていた。汗か涙かわからない雫でインクが濁って音符がぼやけている。
 投げ出したのに、捨てきれず、破ることもできず、心臓に無数の掻き傷を作りたいくらいなのに、まだどこか大事に思う未完の作品。
 抱いた女の、汗に冷えた肌がへばりつく妙な感触だけが体に残っている。それなのに熱い湿気が起きたばかりのユウジの発汗を促す。
 自らに対し怒り、焦り、関係のない記憶まで呼び起こして泥沼に自ずと堕ちていく。出口が消えて闇に飲まれる。創ることはユウジにとって苦しみなのに、これしかできない不器用さを憎んでしまう。
 譜面を踏み、足裏にへばりつく。剥がして見ると最後のページだった。
 ピアノ曲。「ミ」で終わって、その先がない。
 み、み、ミ、ミ、ミ。
 起きたら女の名前をきちんと聞こうと決心し、部屋に散らばった楽譜をユウジは集めだす。
 今日は真夏日になると昨日の天気予報が告げていたのを思い出した。

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05/20

Wed

2015

文章を書くということ

いいかい? 君たち。
難しく考える必要はないんだ。
上手い文章を書こうとか、人を感動させようとか、ちゃんと評価されようとか、とにかくまずは人のことなんて気にするんじゃない。
今目の前に映っているものは何か。
今見つめようとしているものは何か。
観察して、見えてくるものがある。
それが単語でもいい。
並べられるだけ並べてみなさい。
じゃあ、視点を動かさずに見えるものは、書いたものだけなのか。
色は? 匂いは? それは自分の持ち物? 他人のもの? 誰かが作ったもの?
どうしてそれはそこにある?
どうして自分はそこにいる?
何故それを見つめようとしたんだ?
その全てが世界への切り口となるんだ。
そして集め、集めたもので組み立てたものが、君の世界だ。
君の世界観だ。
君の人生の一時を彩るものだ。
これは別のものでも組み立てることができる。
君は君自身が集めてきたもので、いかようにも世界を組み立てることが出来る。
つまり、君の世界観は視点を変え、見つめるもの、集めてくるものがちょっと違えば、自分の中で組み立てるものも違ってくる。
自分の中で組み立てるものが違えば、自分の中の価値が変わってくる。世界が変わる。
同じものを集めたとしても組み立て方でまた違ってくる。
同じものを集めても、人が違えば組み立ての仕方が違ってくるから別物ができる。
だから各々は別々の世界を持って、そして集まれば別々の世界を持ち寄っている。
別々の世界を持ち寄っていながら、どこか僕らは共通の何かを見出そうとして、そして等価交換をしたがるのだ。
同じ価値のもので繋がりあえば、僕らはきっと安定するのだろうと、どこかで幻想を抱いている。
しかしそれは、ただの幻想であって、結局は本当の自分を隠しながら、妥協できる部分で演技を上手くして生きるということだ。
こうすれば非難はされずに済む文章を書ける、という、どこか脅迫めいた、監視でもされているかのような目に見えぬ圧力によって、心までも歪まされて矯正されていく。
これは本来の文章活動からはおおいにかけ離れるものだ。
何故なら、最初に訴えた通り、君自身の目に映ったものが君の世界を彩るからだ。
君がそこに立っている限り、君と同じ景色を見られるものはいない。
わかるかい? 立ち位置が既に他の人と違うし、たとえ君と同じ位置に立っても身長が違ったら見える高さが違う。
体重が違ったら感覚だって違うだろう。
君が立って感じたように、同じ風は吹いているのかい?
君が見たのと同じように、次の人は記憶を同じに出来る?
答えはNOだ。
君がいる分だけ誰かは他の感覚を得る。
君がそこにいる分だけ、誰かは君一人分の感覚を得る。
それが素直な言葉になっていくんだ。
だから誰かに受けようとか、よく見せようとか、そういうことを考えては本当の文章は書けないんだ。
君はどう頑張っても他人の感覚そっくりそのままにはなれないんだ。
だから無理に合わせようとすると、自分に対しても他人に対しても嘘ばかりつくようになって、本当の自分がわからなくなってしまう。
だからその前に自分で見えたもの感じたものを単語でもいいから書き並べる。
そこから本当の文章への第一歩が始まるんだ。
まずは何も考えずに、憧れも価値も捨てて、自分の体で得たものを書いてみるんだ。
どうなったって大丈夫。
君は死ぬことはない。
何も怖くはないさ。
君一人がそこに居るという時点で、言葉は、世界は、作られていっている。

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05/19

Tue

2015

身についているフリ

私の周囲の人は実際に行動を起こしている人ばかりだから、実体験と情報とを分ける。
つまりどこかで読んで聞いて知ったような内容は情報で、実践の内で学び得たものを体験とし、どちらも情報だけれど明確な線引きをする。
情報にはあまり興味を示さず、体験にのみ興味を示す人がほとんどだ。
ちょっとかじった程度で語りたがるような次元であれば、もう馬鹿にされてしょうがない。
黙れ、というレベルで嘲笑される。
当然私も少しはやっている方なので、やっていない人が語る言葉とやっていない人が語る言葉の区別はできるようになった。
この差がわからず、知ったつもり身についているつもりでしゃべっている人は、たぶん指摘されても何を指摘されているのかわからないだろうし、自分よりも程度の低い人を相手にするしか持っているものをひけらかせないので、だんだんと低いところへと走り、時には上の人には陰口しか叩くしか手段がなくなる。
そのようなことをやっていて高潔な精神が身につくはずもなく、かといって含蓄のある経験則が積みあがることもない。
つまり何年経っても成長しない。
不思議と環境に囲まれて人生そのものを諦める方がちらほらいる。
中にいるうちは気がつかないのだが、実は自分で毎日「そうであるべきだ」という内容の暗示をかけている。
かく言う自分もそうだった。
自分で強烈な現状肯定の暗示をかけていて、抜け出せることはまずない。
私の場合どこでちょっと意識を変えられたかっていうと、運よく愛してくれる人が現れたってことだった。
誰かを好きになるくらいでは、やっぱりあまり変わらない。
愛情を持つというのは、好きになることよりも、もっとエネルギーを使うし、しかも自然にエネルギーを使う。
世の中には愛だとか恋だとかの定義がバラバラすぎて、感情的な言葉は全て自分基準で語られるけれど、私を愛してくれた人は少なくとも家庭は犠牲にしてたし、中途半端な犠牲は捧げなかった。みんなそうだった。
それと、何でも気に入ることをしてあげることを愛情だと勘違いしている人もいるが、これも違う。
ダメなものをダメだと言える勇気がなければ、ただの馴れ合いだし、好いてもらうために媚びていることにもなるし、もしくは自分の欠点を指摘されたくないための倒錯した自己愛の投射であったりする。
私の場合愛してくれる人がいて、そしてようやく少しずつ這い上がってきたようにも思える。
色々なところで手を差し伸べてくれたし、喜んでくれた。時には厳しくしてくれた。馴れ合いはそこにはなかった。
環境に囲まれている人は無意識に自己暗示をかけている時が多い。
「~しなければならない」といった内容で毎日のように自己暗示をかけている。
頭でっかちの人や、考えているようで実体験の乏しい人は、何かを得てきても己の咀嚼力や懐疑的な客観性に乏しいため、自分で薄っぺらい結論を導き出してよしとする。
実際に目で見て感じられて、それが日常レベルで体に残っていなければ、まず意味を成さない情報となってくる。
なぜならば環境下の暗示が、一度や二度の情報で覆されるはずがない。
暗示のほうを肯定するために、様々な情報を集めてきて、「そらやっぱりみたことか」という行為を繰り返しているのだから当たり前のことなのだ。
じゃあどうすればいいのかっていうと、行動している人の傍にずっといるか、もしくは自分で習慣を作るしかない。
世の中には「頭で覚えていること=わかっていること=身についていること」とする人が多すぎて話の次元が合わない時が多々ある。
当然やっている人からも相手にされなくなる。
気がついたら自分より馬鹿な人間を相手にしてふんぞり返ったり、何一つディティールがわからないくせに別領域の人間や行動を知ったようなフリをして嘲笑したりと、ほぼ程度の低いところへと落ち着き、最後は腐り果てる。
そこまで行く人はなかなかおらず、なんらかの歯止めを自然とかけていく。
もしこの過程を辿りそうなら、愛するものを探したほうがいい。そう簡単ではないのは当たり前の話なのだ。もしかしたら今抱えている環境は全て捨てなければならないこともあるのだから。
勇気がもてないのなら、愛するものも持てないだろう。
それは自己愛とは程遠いのだから。


ってことで、自分「人を幸せにしたぶんだけ成功する」って言葉があまり身にしみてなく、落ちるだけ落ちていたので、また身にしみつけていこうと思っております。

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05/12

Tue

2015

オムレツはフライパンの技術、いわば火の扱い方を見るには一番いい料理なんだと彼が言っていた。
 火を入れすぎると食べる頃には卵がカチカチになっているし、かといって固まらぬ頃には巻けない。
 巻き方も人それぞれあるが、基本はフライパンを奥側へと傾けて奥の淵のところを利用し弱い力加減でフライパンを返して巻いていくか、和食の料理人は出汁巻き卵を手前に返しながら箸で巻く要領でやるが、いずれも速さと的確さが求められる。
 彼は技術者で料理人ではなかったが、何かを作っている時はいつも真剣で、自分で批評を繰り返していた。
 私は形が悪くても食べられれば文句は言わない。
 だけど彼は私の料理にこそ文句は言わないまでも、自分の作るものに関しては全ていまいちだと言っていた。
「そんなことないよ。綺麗だし、おいしいよ」と本心から言っても、彼は納得せず料理を通して別の何かを見ているようだった。
 正直彼の悩みの正体がわからず、言葉のかけ方もわからなくなっていた。
 彼との間に子供はいない。私は子供が好きだから彼との間に何人か欲しかったけれど、彼は「子供を見ると自分が体験したことや不完全さを押し付けてしまいそうで怖い」と言って、いつも消極的な姿勢を見せた。
 彼は私より五歳年上で、私は三十代後半に今年なる。
 一子もいない状況に妊娠率のデータを見るに焦りを感じ始めていた。かといって彼に子供を作ろうとしないことで責めるわけにはいかない。
 以前に軽く「そんなに悩むことないよ。気楽にすればいいじゃない」と言ったら「じゃあ気楽になれば道は開けるのか。僕はこの道でどうにかしたいんだ」と逆に怒られたことがあった。
 仕事のことはあまり聞けないし、聞いたところで何もできないから聞けない。だから詳しくは知らない。
 それでもオムライスのように何か包めるものは考えられないのだろうか。火加減や塩梅なんて言葉があるくらいだから、なんだってバランスが必要なのに私たちは理解しあえないところでギクシャクしあう。
 オムレツの最高の状態は開いた時に半熟状態でふわっとしているのがいい。
 でも美味しいよね、よかったよね、と笑いあえる方が最高の状態じゃなくても幸せだ。
 私にとっては彼がいるだけで最高の旨味調味料を加えられたのと同じだ。
 だから、今度から無視されても伝え続けようと思っている。
 形が悪くても栄養として摂取できるし、それで生きていける、と。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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