忍者ブログ

あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

11/24

Sun

2024

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

06/24

Mon

2013

ジョン・マクホーター 「テキスト・メッセージが言語を殺す (なんてね!)」

ネットをよく使いチャットなどに親しみのある人なら「w」は「(笑)」の意味であることは知っている人は多いだろう。
英語では「lol」と表現する。
日本語のチャット空間でも語尾に「wwwwww」と無駄につけたりし、芝生のようでもあることから「草をやたら生やす」と揶揄する人もいる。
実際何も可笑しくはないのに「w」を使う人はたくさんいるが、英語圏でも似たような使い方をされているらしい。
映像の中で説明されているように「可笑しい」の意味ではなく「好意を持っている」というようなニュアンスで使われている場合も発生してきている。
日本語でもワンクッション置くというか、シリアスすぎる雰囲気を出さないようにわざと「w」を文意の強い意味を和らげる効果を狙ってつけることが多々ある。
または同じように「好意」のニュアンスで使われることがある。

例えば、小説の場合でも過去の文体を褒め称え、現代の文体や用語の使い方を酷く嘆く人がいるが、長い年月で見れば言語もまた生き物なのだということが説明からもわかってくる。
小説の場合でいうならば、一つの命題が生まれる。
「読まれない作品は名作として残るか。読み捨てられる作品は残りうるか」
いきなり「昔の文章はよかった」などと考え堅苦しい文体で書きすぎた文章など、あんまり今の時代読まれないし、なんやかんや若者に受けるような消費型の軽いものも一年経てば立派な中古品として扱われるという現状がある。
ジョン・マクホーターさんは「2033年の16歳が書いた文章を見たい」と言っていたが、言語が生き物であるのなら私も興味がある。
未来ではどんな話し方をしているのか。
文章はどうなっているのか。
事故さえなければ私も生きている年齢だ。

私は言語は「着物」だと思っている。
つまり内面を表わす服装も同じだ。
醜くければそう見られるし、美しければ限界はあるが多少評価は上がる。
他者の評価はそうなるのだが、問題は個人の心の問題だ。
私は個人が使っている言語によって心の作られ方も違ってくると考えている。
そうなるといわゆる「大人が思ってもみない行動を若者が取り出す」ということになり、そして「最近の若者は」という嘆き節か何かに変わっていく。
純粋に興味を注ぐならば同じ言語ニュアンスやそれによって作られた思想によって出来た集団が何を作り出すのかというのは、邪念を取っ払うならば本当は何か知ったつもりの一個人が口出しすべきではないのかもしれない。
お前はそれだからダメなんだとか、こうするとダメになるとか、あまり言うべきじゃないのかもしれない。
言葉は一種の「楔」であり、「願望」でもある。
私たちが覚えておかねばならぬのは、自分が他者に放つ言葉は一種の「願望にも似た圧力」にもなっているということだ。
それを「社会」とか「常識」とかで包んでいる場合は多々ある。

どこかで読んだ気がするのだが、司馬遼太郎さんは二十一世紀に対応するための簡略化した言語が出来上がってこなければいけないというような内容を覚えている。
それは「伝達」という領域において、より時代にあったものが出てくるだろう、そうしなければ対応できなくなる、というような内容だったと思う。
ここらへんはどこに書いてあったか失念したので間違っていたら申し訳ない。
しかしあまりにも簡略化されると詩文調になってしまい、個々のニュアンスで言語の使い方がバラバラになり伝達された側の解釈時間が大幅に増え、「伝達の簡略化」どころではなくなる。
言語というのはある程度共通の理解があって、ようやく成り立つものなのだから。
どこで落ち着くのやら。

よく考えてみれば今の時代は「個人の時代」になってきている。
言論空間はご存知の通り、私をはじめ、皆好き勝手に言いたい放題、自分の価値観で物を言っている。
その慣れの果てが結局「共感」という部分にあるのなら、私たちは単に自分の望む情報を掻き集めているに過ぎなくなる。
そうして生物界のように滅びたり生き残ったりしながら言語もまた進化していくのだろう。
今のSFでも時折出てくるように、直接脳内のイメージをやり取りできるようになったら、今度は言語どころじゃなくなるだろうという疑問も出てくるけれど、私が生きている間にそれが可能になるかどうか、わからない。
今から心配することではないが、そうなった場合、小説などという古びたツールは生き残るのか。
それともマニアのような人間が、言語空間から想像できる自由な想像性を小説の中にあるような独自の言語表現に求めるのか。

テキスト空間と対話空間と文章空間は、まったく別の様相を呈している。
文章空間はあらゆるものを取り込みながら死滅を数多く残し、生き残ったもので進化をしようともがいている。
それは個人の願望にも似た強い意志で残ろうとしている。
それがテキスト空間に変わると「いや、ほんと、俺金ないしwまじ欲しいよねw誰か100万ぐらいくれねぇかなw」となるところが、
文章空間だと「誰もが渇望するだろう。100万ほど目の前に置いて願望成就の布石にせよと告げる人間が現れるのを」なんて気取った表現になる。

もしかしたら、今笑っているようなものが将来の常識になるかもしれない。
恐ろしいことだがw ホントw まったく考えていなかったものが生まれるのは固定概念に捉われている人間にとって受け入れがたいものかもしれないよねwww

拍手[0回]

PR

06/19

Wed

2013

成りたい自分になっている

最近「idea」という言葉を考えている。
英語の意味を日本語に直すと様々な意味があるけれど、人はこの「idea」により自らの行動を決定付けている。

キース・チェン:言語が貯蓄能力に与える影響(TED)

キム・ヨンハ: アーティストになろう、今すぐに!(TED)

この二つは実は「今」ということに着目している。
上のほうは経済学者が「言語」の観点から貯蓄率への関連性を述べたものだが、未来系のない言語圏の方が貯蓄率は高く、今を楽しみ将来苦しむ「喫煙」という名の行動は低かった。
それに比べ未来系のある言語圏では逆の数値が出たという。

私たちはいつの間にか「未来」を、一つの目標として捉えているのではなく、どこかしら「今とは切り離された世界」と認識してしまう部分がある。
だからこそ、どこかしら否定的なものが心の中にあれば、達成する前に挫折してしまう。
そして「今」という「結果」から、「未来の結果」までイコールとしてしまう人間がほとんどだ。
これは創造性も何もない行為で、しかも今現在から未来が決定されるのならば、恐らくその人間も創造性を一切発揮していない。
(このことは私自身も猛烈に反省しなければいけない部分です)

成りたい自分になるには「今」と「未来」を心の中で常にイコールとしていなければいけない部分がある。
つまり言語に直すと、「成りたい自分になる」でも「成りたい自分になりたい」でもない。
「今私は成りたい自分になっていっている」という「今」を捉えた表現を常に心の中に留めておく必要がある。
現在進行形の先に、未来は存在するのだ、という認識であると同時に「今」を無視しないための言霊でもある。

私たちのすべてのマイナスの経験などは、ある視点を加えることによって突拍子もない輝きに変わる。
そして私たちは想像性というものを創造性に転化させるには、自他共に抑圧しているものをある程度取り除いていかなければいけない。
言語によってある程度精神の活発性が形作られるのであれば、意外にも歌なども関係してくると最近思っている。
というのは、歌詞があって、どうしても受け入れられない、好きになれないものがある一方、その歌詞が物凄く好きな人たちがいる。
やはり共感できる何かを心の中に持っているから好きなのだろう。
それが悪いわけではない。
それが好きな自分を意識できるかで、今現在の自分がよくわかってくる。
よく使う言葉は何か。
無意識に発している言葉の中に執着心があって、その執着心を探ると、わりと捉われている自分がいたりする。
自己抑圧はいかにして作られたかを考えることも大事かもしれないが、今回のことは「今」に着目している。
「Just Do It」
色々ごちゃごちゃと考えてきたが、実際この言葉が一番大事なのかもしれない。
創造性は一心不乱の中から生まれてくる。
その「一心不乱」の中で抑圧を解放していけばいい。
行動の瞬間からまさに「成りたい自分になっていっている」のだ。
いつか喜びが得られるのではなく、「今喜びを得ていっている」のだ。

そしてもう一つのコツは、「分かち合える喜び」であること、だ。
どんな不幸も無駄になることはない。
後戻りさえしなければ。
だからこそ、前向きな行動の中で自分を壊していけばいい。
今まさに「望んだ自分になっていっている」のだから。

拍手[0回]

06/13

Thu

2013

ろくでもない息子でしたが

母親は我慢を続けた。
父親は感情に勝てずに当り散らした。
息子は優柔不断で何も決められず言い訳ばかりで鬱になった。
やがて三者は各々の背負ったものをあふれ出させる形となった。
母親は壊れ、父親は狼狽し、息子は停滞し、やがてその形が上手い具合に収束へと向かった。
母親が安定し、父親は考え直し、息子は最後の思春期の鬱憤を晴らした。
息子はまだろくでもないが、父は病気で自分の体と命とを考え価値観を改め、母親は頑張って琴の練習を続けながら祖母の介護を続けている。
ろくでもない息子だということはここにずっと書いているし、実は父親はこのブログの存在を知っている。
ちょっとしたトリックはあるけれど、わりと本音のようなものに近いものを垣間見れるのは私たちの間ではここしかない。

先日、変なブログを書いたというか、なんだか文面では死にそうな勢いだからちょっと心配してくれたようだった。
言葉にこそ出さないが素振りで出る。
こんな自分でも、心配してくれるのだなと深く感謝したい。
私たち家族は、これも何回か書いたが、運よく今いい形でまとまっている。
あれだけぎくしゃくしていたのが、横目でもきちんとお互いのことを心配するような仲になっている。
長い時間がかかったけれど、運という言葉を書いたけれど、父は状況の改善に努力した。
母もとても強い精神力を示した。
残るは自分だけだ。

親も老いていく。
昔のような若い時の覇気は柔和になり、人が丸くなっていく人がほとんどだ。
年を取ると中年に思っていた「死」とは違う形で現実味を増す。
だから、残りの人生を真剣に考えたりする。
たまには嫌味を増し、後悔や鬱憤ばかりでどんどん嫌になる人もいるけれど。
でもね、親は親。
自分を作った人。
この親いなければ自分はなしと思える部分が良くも悪くもたくさんある。
もう自分の中で「これは親のせいだから」なんて思う部分は、もう何もない。
もう30過ぎた人間がそんな見苦しいことを言うのは、ただの阿呆なんです。
30過ぎて思春期やっているなんて酷いにもほどがあるしね。

本当に子供のことどうでもいいとか思っていたら無視しているだろうし、潰れるほど攻撃的なものを向けてくるもの。
血が繋がっているって、色々な映画にもあるけれど、どんな酷い家族であっても、妙なところで変な気分が浮かんでくるものなんです。
人は感情の生き物で、思考の生き物だから、わからんもんはわからん。
どんなに言葉で説明してもすっと入ってこずに何もかもはねつけてしまうことはある。
でも伝え合いの先に、ぶつかり合いの先に、傷ついてボロボロになった先に、何かふっと見えてくるものもある。
自分には責任はない。お前のせいだ。
そう考えてしまう時期だってあるでしょう。
でも人間どこかで丸くなるものなのです。
苦労していれば、ね。

私はろくでもない息子ですが、しかし誰も救ってくれないほどろくでなしではありません。
ろくでもない生き方をしていますが、しかし変化がないわけではありません。
長い年月をかけて、また少しずつ変わっていくのでしょう。
そんな悠長な暇などないのかもしれませんが、人物的な小物臭を払拭していきたい。
しかし騙ることはあるでしょう。
なぜなら語りをやっているのですから。
何かとご心配おかけいたしますが、私は死なないはず。
上手く生きていけるはずです。

道は変な風に外れてしまいましたが、笑いかけてくれる人はいます。
ありがとうございます。
何かと気にかけてくださって、本当にありがとうございます。
未来を潰さぬよう、頑張っていきます。

拍手[0回]

06/12

Wed

2013

死にたくなるようなほどの泥

吐き気でぐるぐる世界は回ってやがる。
罪人は罪人。
前科者は前科者。
レッテルを貼られて貼って貼り返されて、憎しみは収まることなくやり取りされる。
ぼんやりと天井を見上げれば胃酸がぐいっと上がってきやがる。
まるで嘔吐物にまみれて泳いでいる。
自分と、他人と、会ったこともない知らない誰かの吐瀉物を、体に受けて泳いでる。
これは当然なのか、そうではないのか、与えたものが返って来た証拠でもある。
身分相応の憎しみを受けて、身分相応の場所に落ち込んで。

過ちは自分の中にこそある。
望むものが都合よく手に入ることなどない。
自分が弱いからこそ他人の人生や精神を傷つけることを行った。
結果、それだけだよ。
他のすべての言葉は言い訳でしか過ぎなかった。
そうでしかなかった。




追記:
そもそも異常なのは年下の連中に向かってわめきたてているってことだ。
イカレテル。
出来るものなら、償いはする。

拍手[0回]

06/03

Mon

2013

コトノハ ツラツラ

・何かに挑戦しているんだったら、ボロボロになるんじゃないの? 無様な姿になって、それでも立ち上がってさ、そういう風になって、挑戦してるっていうんじゃない? だって、挑戦ってリスキーなもんじゃん。これ守りに入ったら結構いかんってわかったよ。途端につまんなくなるもんね。じっとしてなきゃいけない時もあるけど、そりゃちょっと守りとは違うなぁ。期を見るってやつだろうね。

・どうしても自分の中の世界だけでは生きていけないわけですよ。子供の世界観の崩壊っていうのが、大人になったら必ず訪れる。いつまでもそこにしがみついていたら、目も当てられない大人になっちゃうっていう。年取ったら年取ったなりに普通に子供と話が合わなくなるのは当然だよね。それをですね、まだ自分は若いとか精神年齢幼いと同年齢の人とだんだん釣り合いが取れなくなったりして、やたら年下に走るとかね、成熟してきたら成熟したなりの仲間内ができるのが年を取るってことですよ。時間が経てば状況は変わってくる。特に家庭を持ったり子供が出来たり、未成年の頃には想像だにしなかったことが周囲の変化として確実に見えてくる。だからこそわかる未来っていうのもあるし、当然そういうものを含めて大人として扱ってあげるのが付き合いってやつだと私は思うけれどね。

・大人になってそれなりに身についてくるものがあったら、守りたくなるものが出てくるのも当然なんですよ。で、だいたいその守りたいものって、結構必死になって守りたがるよ。だって自分の人生に直接関わっていて、それを失うことによって未来は大きく変化すると痛いほど実感している。だから必死になるの。のらりくらりと守りたいですなんなのって、いつまで経っても動けないのは、それは割と真剣じゃないんですよ。願望とか期待の類でね、結構遠くから見ている。身近なものとして感じていないから、本人はやっていると思っていても、周囲からはやってるつもりなんだろ、とか、酷い時にはやってないとか、そういう手酷い評価になる。これって努力と似たようなものだよね。他人にとって見えないものや感じないものは評価に値しない。こんな風にシビアに考えたほうが自分の素直な姿が客観的に見れるよ。

・人が離れるには理由があるし、人が集まってくるにも理由があるんですよ。特に注意して考えなきゃいけないのは、人が離れていく理由なんですよ。だいたいそれは自分に大きな欠点がある場合がほとんどです。人が集まってくるっていうのは、ちょっとやっかいでね、必ずしも好意的な理由で集まってくるとは限らないからね。よくない感情を持って集まる人だっているからね。自分に合う人を探すよりも、尊敬できる部分を持っている人と接しながら、その人の良い所をよく観察するのがいい。万人に対して万能に接するっていうのは理想だけど、それが出来ている人って、だいたい凄い人だよね。特に自分に対してよくない感情を持っている人って人を責めやすいですよ。何か憎しみや後悔が沈んでいるんでしょうね。こういう負の感情に気をつけていかないと、無意識にぽろっと出ますからね。凡人はこういうとこ注意すればいいんじゃないですかね。

・楽に生きる方法はないかもしれないけれど、幸福に生きる手段はたくさん存在しますよ。だから苦労も心に積み重ねる必要がなくなってくる。報いっていう言葉あるけど、これいいことじゃなくて悪いことも含むんですよ。そういう意味で人間って絶対報われますよ。

・相手に悪いところがあったとして、それを指摘できない親友がいたとしたら、そいつは君の事あまり真剣に考えていないか、痛い目に合うまで黙っていたほうがいいかの、だいたいどっちかだと思うけど。でもそういうのって親友とは呼ばないわ。特にさ、自分も救われたいとか甘やかされたいとか、どこかでそういう気持ちあったら、絶対指摘なんてできなくなるよね。あとね、よくいるのがね、自分もそうなんだけど自分が思っている理想を押し付けてくる人。この「理想」の言葉と「経験上の言葉」って結構混ざってくるから頭使って聞かないと、選別難しいよ。リング上の選手に向かってやたらとわかったふりして言う人もいるよね。もし君の周囲によいアドバイスをしてくる友人が一人でもいるのなら、その人は絶対大事にしたほうがいいよ。そういう人こそ人生の宝になるんだもん。

・それしか手段がない、とか考えると、本当にそれしかなくなってくるんですよ。もしそれでドツボにはまってきたと思ったか、悪くなってるとか、状況が改善しないとか思うんだったら、一旦その考えから即座に離れることだね。そしてなるべくアイディアに目を向ける。これは意見のことじゃなくて、発想とか、発明とか、一見関係なさそうな物事に目を向けたりするのがいい。執着すればするほど、離れられなくなる。思考が捉われると思考の不自由さがそのまま人生の不自由さになる。

・君は不幸なわけじゃないんです。折り合いがつけられず生かす手段を身に着けていないだけなんです。人間一生未熟ですけどね。どうやら人間って一生恥ずかしいところ歩いていくみたいですよ。それでも笑えるようになったら明るい人生なんじゃないですか?

拍手[0回]

フリーエリア

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]